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昼時の食堂はいやというほど混み合っていた。
温かな濃いみそ汁の匂い、炊き上がったご飯や幾種類ものおかずの香りは、人間にとっては幸福の象徴かもしれない。
けれど、たこ焼き一つが食べられなくなっている俺には、それらが荒れ狂う嵐のような感覚の刺激となって襲いかかってきた。
めまいと吐き気をこらえて、宮内を探しにかかる。
ここへ来る前に寄った学生課で顔写真は覚えてきていた。『密約』後の鋭い感覚をうまく使えば、人間達のあふれる大学内からでも見つけることができるはずだ。
だが、それは同時に、ただでさえ消耗している体に、絶えまなく負担をかけること、残ったわずかなエネルギーを激しい勢いで消耗していくことに他ならなかった。
それでも、動かなくては時間がない。
人間は、自分達と姿形の異なる生物にはとても攻撃的だ。ましてや、目鼻も何もない生物、いくら人間と同等の知性や感情があると主張しても、海辺にのたくっているナメクジ風の生物には優しくしてくれないだろう。
ただ一人、秋野さんをのぞいては。
大きな目で柔らかく笑う顔を思い出して、頭の奥に封じ込めるように目を閉じた。
本当に、秋野さんは、もう帰って来ないつもりかもしれない。俺の側を離れて、宇宙人のエネルギー源なんかではなく、当たり前の学生として、普通の女性として、別の誰かと暮らしたくなったのかも知れない。
俺がこうやって捜し回ることすら、本当は迷惑なのかも知れない。
もしそうならば、俺は数時間もしないうちに原型に戻り、次にはその形さえ保てなくなって、ぬらぬらと光る粘りのある水になって、どこかの下水に流されていくのだ。やがては海にたどりつき、地球の半分以上を覆っていた、あの青い世界に飲み込まれていく。
もう、それでもいいのかも知れない。
本当は五年前にそうなっているはずだったんだから、それがたまたま遅れただけなのかもしれない。
疲労感と諦めとが力を奪っていく。感覚が見る見る鈍っていく気がして、自販機コーナーの隅の壁にもたれた。眼を閉じ、不安定に乱れる呼吸を整える。ひんやりとした冷たい汗が額ににじむのを、そっと拭う。
それでも。
それでも。
ぼんやり目を開くと、世界は眩しいほどの光に満たされていた。
未練がましい声がひっそりと、胸の内側で呟いている。あの秋野さんが俺にそんな酷いことをするはずがない、と。
少し前なら、もっと簡単に諦められたかも知れない。けれど今は……秋野さんが俺に十分優しくしてくれた今は、どうしても諦められない。
頬に当てられた温かい手を思い出す。泣き出した俺に唇を合わせて慰めてくれたことも。
秋野さんが裏切るはずがない。
なのに、そう思ったまた次の瞬間には、振り回されて疲れた心が首を振って思い出させた。
秋野さんは『密約』がやり直せないのかって訊いたじゃないか。
そう、だから、俺は本当は秋野さんを見つけたくないのかも知れない。
それが真実の答えのような気がして思わず深い溜め息が出た。
そうだ。
俺は、秋野さんの裏切りを知りたくない。秋野さんの笑顔を信じていたい。
もしできるなら、こうして捜し続けたまま、時間がきて溶けてしまいたいのかもしれない。
気持ちを振り切るように、壁を押して歩き出す。
「う…」
食堂を二周してから、吐き気がこらえきれずに、俺は外へ出た。
宮内の姿はどこにも見当たらない。
体が細かく震えているのは、エネルギーを失っていくからだろうか、それとも秋野さんをみつけても、全てはやっぱり終わるのだという予感のせいだろうか。
緑色に鮮やかな芝生の上に座り込むと、我を失って叫び出したくなる。どこを探せばいいのかわからない。探すことが正しいのかさえわからない。
俺は秋野さんのことを何にも知らない。
秋野さんは何も話してくれなかったから。言い訳して、すぐに嘘だと気づく。
違う。
そうじゃない。
俺も何も聞かなかった。秋野さんがいつどこへ出掛けようと、キス以外の秋野さんを俺は知ろうとしなかった。今度のことがなければ、きっとこれからだってそうした。きっと、心のどこかで、いつか秋野さんを失うんだと思っていたからだ。
秋野さんがずっと側に居てくれるなんて思っていなかった。俺にとっては大切な『密約』でも、秋野さんにとっては幻のようなつながりでしかないとわかっていた。秋野さんにとって、俺は恋人でも友人でもなく、単に厄介なお荷物でしかないことも。
けれど、それでもいいと思ってたわけじゃない。秋野さんのことを詮索しないことで、いつ秋野さんを失っても傷つかないようにしようとしていただけだ。
時計は容赦なく回っていく。貴重な時間をまた失った。
急に視界が暗くなった気がして空を仰いだ。確かにさっきよりは雲が増えてきているが、周囲が暗くなるほどじゃない。
今度は視力から失うんだろうか。
考えてぞっとした。萎えようとする気力を励まして、何とか立ち上がる。
動ける間に人目につかない場所に移動しておいた方がいいはずだ。人間達に踏みにじられて最後の時を過ごしたくないならば。
けれど、その最後の時が来る前に、俺は秋野さんに会いたいんだ。
唇を噛む。鋭い歯。
秋野さんの唇が欲しい。
「近江!」
立ち上がったとたん、覚えのあるがらがら声が俺を呼んだ。村西だ。
「おい、近江!」
何かわかったのか。振り返った矢先、いきなり視界が暗転した。頭に広がった巨大な闇に感覚を飲み尽くされて俺は意識を失った。
「ヴラン!」
暗黒の空間に悲鳴が響く。
「逃げて、ヴラン!」
ああ、また同じ夢だ。
楽しいはずの月旅行の果てに迎えた思いもしない結末。
宇宙船の爆発でちりぢりになって吹き飛ぶ父親と、唯一無二の『密約』の相手を失ってしまった母親の悲壮な微笑。
夢の中で何度も父親は細切れになり、母親は宇宙の彼方の船に置き去られる。俺は孤独と無力感に引き裂かれながら、青い地球に落ちていく。
いつまで苦しめばいいんだろう。どこまで傷つけば、この夢は終わりを告げるのか。
いや、もう永遠に終わることなどないのかもしれない。
秋野さんがいない。
そう、『密約』の相手は俺を捨てたんだ…。
温かな濃いみそ汁の匂い、炊き上がったご飯や幾種類ものおかずの香りは、人間にとっては幸福の象徴かもしれない。
けれど、たこ焼き一つが食べられなくなっている俺には、それらが荒れ狂う嵐のような感覚の刺激となって襲いかかってきた。
めまいと吐き気をこらえて、宮内を探しにかかる。
ここへ来る前に寄った学生課で顔写真は覚えてきていた。『密約』後の鋭い感覚をうまく使えば、人間達のあふれる大学内からでも見つけることができるはずだ。
だが、それは同時に、ただでさえ消耗している体に、絶えまなく負担をかけること、残ったわずかなエネルギーを激しい勢いで消耗していくことに他ならなかった。
それでも、動かなくては時間がない。
人間は、自分達と姿形の異なる生物にはとても攻撃的だ。ましてや、目鼻も何もない生物、いくら人間と同等の知性や感情があると主張しても、海辺にのたくっているナメクジ風の生物には優しくしてくれないだろう。
ただ一人、秋野さんをのぞいては。
大きな目で柔らかく笑う顔を思い出して、頭の奥に封じ込めるように目を閉じた。
本当に、秋野さんは、もう帰って来ないつもりかもしれない。俺の側を離れて、宇宙人のエネルギー源なんかではなく、当たり前の学生として、普通の女性として、別の誰かと暮らしたくなったのかも知れない。
俺がこうやって捜し回ることすら、本当は迷惑なのかも知れない。
もしそうならば、俺は数時間もしないうちに原型に戻り、次にはその形さえ保てなくなって、ぬらぬらと光る粘りのある水になって、どこかの下水に流されていくのだ。やがては海にたどりつき、地球の半分以上を覆っていた、あの青い世界に飲み込まれていく。
もう、それでもいいのかも知れない。
本当は五年前にそうなっているはずだったんだから、それがたまたま遅れただけなのかもしれない。
疲労感と諦めとが力を奪っていく。感覚が見る見る鈍っていく気がして、自販機コーナーの隅の壁にもたれた。眼を閉じ、不安定に乱れる呼吸を整える。ひんやりとした冷たい汗が額ににじむのを、そっと拭う。
それでも。
それでも。
ぼんやり目を開くと、世界は眩しいほどの光に満たされていた。
未練がましい声がひっそりと、胸の内側で呟いている。あの秋野さんが俺にそんな酷いことをするはずがない、と。
少し前なら、もっと簡単に諦められたかも知れない。けれど今は……秋野さんが俺に十分優しくしてくれた今は、どうしても諦められない。
頬に当てられた温かい手を思い出す。泣き出した俺に唇を合わせて慰めてくれたことも。
秋野さんが裏切るはずがない。
なのに、そう思ったまた次の瞬間には、振り回されて疲れた心が首を振って思い出させた。
秋野さんは『密約』がやり直せないのかって訊いたじゃないか。
そう、だから、俺は本当は秋野さんを見つけたくないのかも知れない。
それが真実の答えのような気がして思わず深い溜め息が出た。
そうだ。
俺は、秋野さんの裏切りを知りたくない。秋野さんの笑顔を信じていたい。
もしできるなら、こうして捜し続けたまま、時間がきて溶けてしまいたいのかもしれない。
気持ちを振り切るように、壁を押して歩き出す。
「う…」
食堂を二周してから、吐き気がこらえきれずに、俺は外へ出た。
宮内の姿はどこにも見当たらない。
体が細かく震えているのは、エネルギーを失っていくからだろうか、それとも秋野さんをみつけても、全てはやっぱり終わるのだという予感のせいだろうか。
緑色に鮮やかな芝生の上に座り込むと、我を失って叫び出したくなる。どこを探せばいいのかわからない。探すことが正しいのかさえわからない。
俺は秋野さんのことを何にも知らない。
秋野さんは何も話してくれなかったから。言い訳して、すぐに嘘だと気づく。
違う。
そうじゃない。
俺も何も聞かなかった。秋野さんがいつどこへ出掛けようと、キス以外の秋野さんを俺は知ろうとしなかった。今度のことがなければ、きっとこれからだってそうした。きっと、心のどこかで、いつか秋野さんを失うんだと思っていたからだ。
秋野さんがずっと側に居てくれるなんて思っていなかった。俺にとっては大切な『密約』でも、秋野さんにとっては幻のようなつながりでしかないとわかっていた。秋野さんにとって、俺は恋人でも友人でもなく、単に厄介なお荷物でしかないことも。
けれど、それでもいいと思ってたわけじゃない。秋野さんのことを詮索しないことで、いつ秋野さんを失っても傷つかないようにしようとしていただけだ。
時計は容赦なく回っていく。貴重な時間をまた失った。
急に視界が暗くなった気がして空を仰いだ。確かにさっきよりは雲が増えてきているが、周囲が暗くなるほどじゃない。
今度は視力から失うんだろうか。
考えてぞっとした。萎えようとする気力を励まして、何とか立ち上がる。
動ける間に人目につかない場所に移動しておいた方がいいはずだ。人間達に踏みにじられて最後の時を過ごしたくないならば。
けれど、その最後の時が来る前に、俺は秋野さんに会いたいんだ。
唇を噛む。鋭い歯。
秋野さんの唇が欲しい。
「近江!」
立ち上がったとたん、覚えのあるがらがら声が俺を呼んだ。村西だ。
「おい、近江!」
何かわかったのか。振り返った矢先、いきなり視界が暗転した。頭に広がった巨大な闇に感覚を飲み尽くされて俺は意識を失った。
「ヴラン!」
暗黒の空間に悲鳴が響く。
「逃げて、ヴラン!」
ああ、また同じ夢だ。
楽しいはずの月旅行の果てに迎えた思いもしない結末。
宇宙船の爆発でちりぢりになって吹き飛ぶ父親と、唯一無二の『密約』の相手を失ってしまった母親の悲壮な微笑。
夢の中で何度も父親は細切れになり、母親は宇宙の彼方の船に置き去られる。俺は孤独と無力感に引き裂かれながら、青い地球に落ちていく。
いつまで苦しめばいいんだろう。どこまで傷つけば、この夢は終わりを告げるのか。
いや、もう永遠に終わることなどないのかもしれない。
秋野さんがいない。
そう、『密約』の相手は俺を捨てたんだ…。
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