『密約』

segakiyui

文字の大きさ
16 / 24

16

しおりを挟む
(あつつっ)
 壁を伝い降り地面にたどり着いて、なおもゆっくり移動していきながら、思わず呻いた。
 考えていた以上に不快な感触だった。
 肌に直接砂利だの石だのを擦りつけられる。雨のせいで多少は楽なのかも知れないが、過敏になっている感覚をおろし金みたいなささくれたもので擦りおろしていくようだ。できるだけ人目につかないように薄く平たい状態になって、物陰から物陰へと流れて行こうとするせいかもしれなかった。
 大学を出て、道が雨に濡れているのを幸いに速度を上げ、裏道へと入っていく。
 と、いきなり野良犬に吠えられて驚いた。
 ぐ、うわん、うわん、と、首の辺りの毛を逆立て、野良犬は全身を硬直させて怯えて吠えている。目は血走って俺を凝視し、今にも飛びかかってきそうだ。
(何がそんなに怖いんだ?)
 襲われそうな気配に動くこともできなくなって、俺は混乱して考えた。
 野良犬の体は震えている。できればここから逃げ出したい、そんな感覚が濡れた地面を伝わってきた。
 同じことを考えている。俺を見て、恐怖に脅えているのだ。
 野良犬の眼をじっと見返していて、ようやく俺は気がついた。
 あまり擦りつけられる感覚が痛かったから、つい体をかばったのだろう。俺はいつの間にか、体の下にあるさまざまなものを巻き込むように膨れ上がり、ゴミ用ポリバケツ一杯分もありそうな、うごめく青黒い巨大スライムになりつつあったのだ。
 慌てて意識を散らし、巻き込んだものを体の外へ押し出しながら、のたのたその場から逃げ去る。
 野良犬はもう近づくのさえ恐ろしかったのだろう、吠えるだけで追っては来なかった。
 人間に出くわしていたら事だった。いくら雨が降っていて視界がかすんでいるとはいえ、子どもぐらいのねとねとした青い塊が、なめくじのような光る筋を残しながら移動して行くのを目にしては、今の野良犬どころじゃない、もっと派手な騒ぎになっていただろう。
 不要物を押し出しながら、同時に体のいくらかも失い、ようよう道路の端の溝に雨水と一緒に流れ込んだ。
 ひどい臭い、ひどい場所だった。
 ずいぶんと長く滞っていたのだろう、水の流れ自体がねっとりと半分腐っているようだ。まとわりつくようなぬるぬるした感触、むかつくような特殊な溶剤を思わせる酸味の強い臭いが満ちている。
 流れ込んで来る雨水に僅かに動きを取り戻した水は、俺をのろのろと先へ押して行く。溝のあちこちにたまっていたガムの包み紙や泥、べったりした金属臭の強い油のような塊が俺に押し寄せ、体の中に入り込んでこようとする。
 不愉快な臭いと得体の知れない腐敗物に、感覚も体も侵されて飲み込まれていきそうだ。
(くそ)
 俺は必死に感覚と体を周囲のものから切り離そうとした。不快な刺激から自分を守ろうと体の密度を上げ、粘度を高めて丸くなる。だが、そうすると、より固体に近くなって、雨水程度のゆるやかな流れでは溝の中を移動できなくなるのがわかった。
 溝はところどころ蓋が外れていて、地上の道から中が見える。もし、晴れていたら、この辺りをうろうろしている子ども達に見つかって、棒みたいなものでつつき回され、死ぬまでおもちゃにされたかも知れない。
 なんだかふと、『浦島太郎』の話を思い出してしまった。あれも意外と亀そのものが宇宙人だったのかもしれない。
 もう一つ、周囲から自分を遮断してしまうと困ったことがあるのがわかった。
 回りの不快な刺激から感覚を切り離すに従って、それまでどこへいけばいいか何となく感じていたもの、例の直感のようなものが薄れていくのがわかったのだ。
 急いで再び周囲の汚濁の中に自分の体と感覚をさらしながら、その新しい感覚がどこから生まれているのか理解した。
 水だ。
 この『地球』では、水は何ものにも勝る巨大で豊かな情報源なのだ。
 水の中には、自然に起こっている現象はもちろん、人間達がどのような生活を営んできたか、営みつつあるのかが全て記録されていた。地球上にある全ての物質の記録、それだけじゃない、その物質がどのような経過をたどって現在まできたのかの記録、水に触れていたものや命の蓄えていた感情や感覚まで含まれている。
 それは、『地球』の過去から未来を含む時間そのものといってもよかった。
 俺は本体になって雨に打たれながら、いつの間にか、自分の感覚をこの『水の記憶』に共振させて情報を受け取り、秋野さんを追い始めていたのだ。
 気づいた俺は、改めて、もう一度、流れ込んで来る雨を媒体に、溝の中を通り過ぎたものから、南大路製紙工場とその近辺についての情報を意識的に検索し始めた。
 南大路製紙の所在地。そこに工場が建設された経過と稼働し始めてからの歴史。現在の状況。出入りしている物や人の動きと流れ。それらにくっついているおおざっぱな感情と思考。それらを丁寧に追いかけていく。
 あった。
 その中に、一週間に二回、南大路製紙工場の裏、排水口近くのどぶ川べりで、真夜中二時から三時まで、カメラを手にじっと潜んでいた秋野さんの情報も含まれていた。
(秋野さん)
 俺は秋野さんに意識を集めた。暗い夜の川の側で、体を緊張させてうずくまっている秋野さんの姿が、ゆっくりと見えてくる。

 秋野さんは焦っていた。
 宮内に頼まれている仕事に必要な、十分な写真が撮れなかったからだ。いらいらとして川べりの草を引き抜き、小石を落としたりしている。ゆるゆると流れている川の水は、彼女が放っている不安といらだちを感じ取り記憶していた。
 そんな夜が何日も続き、昨夜初めて、秋野さんは、南大路製紙工場の排水口から流された不気味な臭いと色の液体を、カメラにおさめることができた。
 けれど、そうやって何週間も粘っていた秋野さんは目立ち過ぎた。意気揚々と帰ろうとしたところを、いつの間にか工場から出てきた作業服を着た男と、背広姿の険しい顔の男に呼び止められたのだ。
『こんな夜に、こんなとこで何をしてるんだ。ここは、うちの会社の敷地内だぞ』
『知らなかったのよ。夜中にしか動かない特殊な昆虫の研究をしてるの。その昆虫が、この辺りじゃ、ここにしかいないのよ。その虫の生態を記録してるってわけ』
『虫だけじゃないんじゃないか、そのカメラに写ってるのは』
 男達は秋野さんの話に納得しなかった。
『詳しい話を聞きたいんだ。警察に届けてもいいんだぞ、不法侵入で。だが、まず話を聞こう、こっちへ来い』
 両腕を二人の男に掴まれて、秋野さんはうなだれた。青くなってかすかに震えてもいた。
 その縮み上がっていくような恐怖を、俺も感覚を通じて感じ取った。
 そのまま秋野さんは工場の中へ連れ込まれてしまった。そして、その後秋野さんは外へは出ていない。
 まだ工場のどこかにいるのだ。
 秋野さんの死亡を伝える情報がないだけが救いだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

後宮薬師は名を持たない

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。 帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。 救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。 後宮が燃え、名を失ってもなお―― 彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。 強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。 お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。 表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。 第6回キャラ文芸大賞応募作品です。

火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~

秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。 五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。 都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。 見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――! 久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――? 謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。 ※カクヨムにも先行で投稿しています

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...