『密約』

segakiyui

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 俺は溝の中を、南大路製紙に向かって再び移動し始めた。
 やがて、単に水の情報からだけではなく、俺の体としても、問題の場所に近づいているという感じが強くなった。
 何か、特殊な臭いのするもの、それまでの町中に流れていたものとは全く違うものが、この溝を流されたことがある。今は流れていないが、溝の壁についたわずかな水滴が、俺の体に情報を伝えてくれた。
 南大路製紙は間違いなく不正な行為を繰り返している。
 そして、秋野さんはその証拠をしっかりと握ってしまった。
 南大路製紙が、彼女を無事に返すとはとても思えない。今度こそ、本当に秋野さんを失ってしまうかもしれない。
 ひやっとした感覚が体の隅々にまで衝撃になって走った。
(そんなことには絶対させない)
 できるかぎり速度をあげ、特殊な臭いのする液体の感覚を頼りに流れていく。
 気がつくと、もう、すぐ近くに南大路製紙工場の排水口の一つがあった。
(つっ)
 そのあたりはひどい状態だった。
 これまでとは比較にならない、ちりちりと体を蝕み傷めつけてくるものが含まれた水が排水口の周囲と溝に向かって流れた水の跡に残っている。その場にじっと止まって、この先に秋野さんのいる場所があるのかどうか探っていると数秒おきに体の位置を変えなくてはならないほど、痛みを伴った感覚だった。
 それでなくても、障害物が多く水の少ない溝を急いで移動してきたせいで、俺の体はずいぶんと減ってつながりを失い、おまけに脆く弱くなってしまっている。
 かといって、この周囲の水を体に取り込めば、それこそ水に含まれた毒素に内側から侵され、じわじわ体の細胞一つ一つが壊されていくだろう。
 時計は見られないけど、タイムリミットまでそう時間が残されていないはずだ。
 覚悟を決めて伸び上がり、特殊な液体に濡れた壁面を這い上り、排水口から逆に工場内へ侵入していく。
 とがった刺の上を移動するような痛みが全身に広がった。液体が流れた壁面に触れているだけで、これほど苦痛を感じるなら、夜中で例の液体が流されているときにここへ飛び込んでいたら、きっと無事にはすまなかったはずだ。
 少し先の方で、水路は細いパイプと太くて大きな管に分かれていた。
 周囲の情報からでは、どちらも南大路製紙工場に続いているはずだが、同じ場所につながっているかはわからない。少しでも秋野さんに近い場所の水路へ向かおうとして、俺は体を細く延ばし、まず細いパイプの方から探りにかかった。
(っ!)
 次の瞬間、体が無理やり引きちぎられた気がして意識が弾け飛び、目の前が白銀から暗転した。体中の細胞が内側に引き縮まって身動きできなくなる。
(何、だ?)
 よく焼けた鉄板にむりやり指先を押しつけられたような感じ、といった方がいいかもしれない。じゅう、という音さえ聞こえたような気がする。しかもそこから動けない。
 そのまま数秒、感覚が戻って来ると、激痛も触手の端から走り上がってきて、無意識に体が震えた。
 そろそろと、延ばした触手を引っ込めようとしたが、先端がこわばって曲がってもくれない。痛み以外の感覚は鈍く干からびていて、自分の体だという感じさえない。引きずるように手繰り寄せるのも一苦労だった。
 細胞がかなり死んでしまったのだろう。体を擦りつけていった壁に、表皮がかさかさした青色の筋になって剥がれて張りついているのを、俺は凍りつくような思いで見つめた。
 きっと、この細いパイプから特殊な廃液が流され、太い管からは普通の水が出されて、液の濃度を下げているのだ。そうして薄められた液体だけが排水口から出されて溝を伝い、川に流されていくから、目立った被害を起こさないというわけだろう。
 けれども、その薄められているはずの排水でさえ、あらゆる命を奪うものだということは、ほかならぬ俺自身の体でわかる。濃度の高い廃液の方を探った体は完全に感覚を失っているし、じっとしていると、その侵されて死んでしまっているはずの触手の部分から、じわじわとどす黒い澱みのような汚染が広がってくるのが感じられる。
 俺は急いで大きな管の方へ入り込んだ。
 まさか、さすがに昼日中から危険な廃液を流すほど馬鹿じゃないとは思うが、万が一、それを全身に浴びるようなことになったら、確実に死ぬ。
 管にはわずかに水が流れている。その水を伝ってとりあえず工場内へ入り込んでいく。
 管は廃液を流しているパイプと平行して工場の奥へ奥へと走っていた。どうやら、表からは見えない、正規の建物とは別に建てられている独立した棟が一つあるようだ。そこでは、認可されていない特殊な溶剤か触媒を使っているようで、出入りしている人間の数も種類も限られている。
 奥へ入るに従って、太い管は分岐し始めた。どの管からもいろいろな気配の水が少しずつ流れてきている。
 俺は分岐のたびに止まって、水の流れに含まれている情報を読み取った。ほんのわずかなものでも見逃すまいと意識を散らせて触手を延ばすが、まだ秋野さんの居る場所の情報は入ってこない。
 さっきの衝撃で体がまだ竦んでいたし、あまり遠くまで体を延ばすと、水に流され散ってしまう可能性もあった。
(本当に、この方法で秋野さんを見つけられるんだろうか)
 秋野さんが追いかけてたのは、たぶん、この別棟からの廃液だろうから、それを頼りに行けばいいと思いながら焦りがつのってくる。
(もし、秋野さんに会えたとしても、人間形態に戻れるほど体が残ってるか?)
 分岐を越えるたびに、俺の体は確実に減っていった。意識を広げきれない部分が管のあちこちにわずかずつだが削り落とされていきつつあるのだ。
 ずき、ずき、とその度ごとに喪失を知らせる痛みの信号が駆け上がってくるのだが、その痛みにもだんだん慣れていきつつあって、それが一層体を失うのに拍車をかけていた。
 スライムだからわからないけど、もし、人間形態なら、満身創痍というところだ。
(今の俺のままでも、秋野さんはキス、してくれるだろうけど)
 スライムの俺は秋野さんを助けられるんだろうか。
 あちこちの溝や管を通ってどろどろに汚れた俺を、秋野さんは本当に拒まないだろうか。
 俺は想像上の頭を振った。
(そんなこと、今考えても仕方ない)
 助けるって決めたんだ、と自分に言い聞かせて、気力を奮い起こす。
 時間がない。
 俺にとってはもちろんだけど、たぶん、ここまで巧みに執拗に世間から隠してやっていることだから、工場側は秋野さんも明日まで生かしておいてはくれないだろう。夜になれば、秋野さんも処理をされて、あの排水口から流されてしまうかもしれない。
 考え込んでいた俺は、突然流れてきた水に驚いた。
 かなりの水量がいきなり管の中にあふれ、とっさに周囲の壁に張りついて何とか流されることを避けたものの、引き寄せ損なった体の一部をちぎられてもっていかれ、意識も引き裂かれたようにくらくらした。
(廃液を薄める以外にも、この管を水が流れることがあるんだ)
 無意識にその水の情報を探って、体が軽く跳ね上がった。
(秋野さん!)
 秋野さんの気配がある。ひどく遠いけど、まぎれもなく秋野さんの柔らかなエネルギーの波が感じられる。
 俺は、その管に体を滑り込ませた。
 管はこれまでのよりも細くなっている。うねうねとしたその水路を追いかけていくと、ふいにシャンプーや石鹸のにおいが強く漂う場所に出た。周囲を探って、そこが従業員用の風呂場だと知る。奥にある施設で働いた後、ここで体を洗って表に出て行くことになっているのだろう。今使われたばかりらしく、水色と白のタイルは濡れて、生温かな水が広がっている。
(なるほど)
 おそらく、こうした生活排水で有害な廃液を薄めて流しているのだ。いくら工場施設を隠しても、廃液を薄めるためには相当量の水を必要とするはず、それをどうしてごまかしているのだろうと思っていたが、このやり方ならば、分岐している管の先々にある施設の生活排水から集めた水を二次利用できる。
(ここからどうしよう)
 不安になった瞬間、体に触れていた水が触媒のように働いて、『秋野さん』の存在をキーワードに、さっきまで入浴していた男の情報を教えてくれた。
 その男こそ、秋野さんを掴まえて工場内へ連れ込んだ男の一人、作業服の男だった。
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