『密約』

segakiyui

文字の大きさ
23 / 24

23

しおりを挟む
 突然、妙な声が響いた。
 秋野さんが通り抜けて行く、表玄関に向かう通路に交わっている廊下で、二人の男が棒を突き刺された人形みたいにぽかんとした顔で立ち竦んでいる。
 一人は石崎、一人は氷川。
 石崎はあっけにとられた顔から見る見る顔を赤らめて憤怒の形相になった。
「氷川ぁ、てめえぇ」
 押さえた声で怒鳴りつけ始める。
 だが、氷川は、聞いていなかったに違いない。
 氷川は笑っていた。秋野さんが堂々と、平気な顔で、自分達の前を通り抜けて行くのを見ながら、石崎に怒鳴りつけられながらこづかれながら、なんだか妙にふんわりとした顔で笑っていた。
 何が秋野さんに聞こえたのだろう。
 それはきっと、石崎の怒鳴り声ではなかったはずだ、秋野さんは呼ばれたみたいに、まっすぐに氷川の方を向いたから。
 不思議で奇妙な一瞬が通り過ぎた。
 石崎の声も周囲のざわめきも、ふいにどこかへ消え去った、時が止まった瞬間。
 秋野さんが氷川に笑いかけた。にっこりと、鮮やかに。
 正義を誇るわけでも、自分の強さを見せつけるふうでもなく、ただ、当たり前の結果を手にいれただけのように。
 その笑みを、氷川が受け止めた。
 まるで、一つの芝居があって、舞台の上で約束された出会いのように。
 氷川はゆっくりと秋野さんに頭を下げた。それから、怒鳴り続けている石崎にもバカ丁寧なお辞儀をしてくるりと向きを変え、石崎を残して一人、廊下を静かに歩み去って行った。
 氷川の中で何かが起こって、何かが永久に変わったのだ。 
 きっと、もう、ここへは帰らないだろう。
 そんな気がした。
『この命はあなたに生かされています』
 その氷川と秋野さんに重なるように、はるか昔に聞いた懐かしい声が、俺の体の中一杯に響いた。
『この命はあなたに生かされています。だから、決してあなたの命を奪うことに使うことはありません。あなたの命を守るために、支えるために、育むために、そして、あなたの命につながるために、わたしはこれから生きていきます』
 それは約束のことばだ。
 遠い故郷の星でさえ、もうおとぎばなしになってしまった、『密約』を交わすときに互いに誓い合うことば。『密約』を交わす相手に、そして、相手と自分を支える命すべてに誓うことば。
 小さかった俺が覚えているはずもなかった、約束。
 氷川もまた、何かの約束を思い出したのだろうか。
 あるいは、命の底に流れている、聖なる約束のことばを。
(大丈夫、もう大丈夫)
 秋野さんはささやく。
 スライムの俺に。
 あるいはまた、水に還ってしまって、地球の中を漂う俺に。
 秋野さんはいつも俺を見つけ、囁いてくれる。
 あなたがそこにいることを知っている。
 あなたがそこで私を守っていてくれることを知っている。
 あなたがどれほど私を愛してくれているかを知っている。
 だから、私はいつもあなたを見つけ、あなたに笑いかけ、あなたを呼ぶ。
(大丈夫、もう大丈夫)
 ここが俺の居場所。
 秋野さんは、氷川が去って行ったのも気にしなかった。歩き続け、受付のおばさんの不審そうな顔にしたたかな笑顔まで返して、南大路製紙の大きなガラスの自動ドアを出た。
 すれ違うサラリーマンや作業服の業者の間を擦り抜け、表の正門を出たとたん、
「走るからねっ、近江!」
 秋野さんはダッシュした。
「落ちたりしないでよっ!」
 ぎゅっ、と強く抱き締められながら、どんどん跳ね上がる秋野さんの心臓の音を、俺は初めて何の不安もなく味わい続けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

悪役令嬢は手加減無しに復讐する

田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。 理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。 婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...