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ふる、と微かな寒さに震えて、我に返った。
「ヴラン! ヴラン!」
埃の筋が隙間から入った陽射しに光っている。
小さな声が切羽詰まった響きを宿して繰り返し俺の名前を呼んでいる。
夢でしか呼ばれない名前を。
失ってしまった故郷の名前を。
なのに、その名前は悪夢を呼び起こさなかった。
その名前が呼び起こしたのは、秋野さんがいる世界の美しさ、秋野さんが生きていてくれるこの世界に、俺が居られる場所すべての光景だった。
「ヴラン!」
「秋野さん…?」
声を返すと、秋野さんが軽く息を呑んだ。
「…近江! 近江だよね?」
いつの間にか俺は秋野さんの掌に抱き上げられ、息が触れるほど近くで名前を呼ばれている。
「よかった、何にも答えなくなったから」
秋野さんの声は滲んでいた。
「死んじゃったのかと思ったよ」
大きな目が零れ落ちそうなほど潤んでいた。俺を支えている手も小刻みに震えている。
「ヴラン、て、呼んだ?」
俺はそっと尋ねた。夢のような気がした。夢の出来事であるはずのような気がした。大きな声を出してしまうと、一気に崩れ去りそうな気がした。
けれど、それは崩れなかった。
「うん、呼んだ、何度も」
秋野さんが頷いた。
「どう、して?」
「それが」
秋野さんは、ほんの少し悲しそうに笑った。
「あんたのほんとの名前だから。でも、あたしが知ってるのは、近江、だから。ヴランて呼んでても心配だったよ。このまま、もう、近江はどこにもいなくなっちゃうんじゃないかって。そんなの、いやだって」
また少し、ことばを切ってほほ笑んだ。細めた秋野さんの目から、いきなりぽろぽろっと、涙が溢れた。
温かな柔らかな感触の水が俺の上に落ちてくる。その液体は、キスと同じぐらい、甘やかで豊かなエネルギーをたたえている。一滴落ちれば一滴分、二滴落ちれば二滴分、体に力が満たされてくるのがわかった。
「あった、かいや」
「え?」
「秋野さんの、涙」
「ばか」
つぶやいた後、唇をへの字に曲げて、秋野さんは俺を胸元に抱き寄せ、そっと指で撫でてくれた。
「近江、助けに来てくれたんだ」
「うん」
指が触れる部分から流れ込んでくる力にうっとりした。
「こんなに、汚れて、こんなに、小さくなって」
「秋野さんは…」
大切な人だから。
とっておきの告白は、秋野さんの次の動きにどこかへ吹っ飛んでしまった。
「冷たいね」
小さな声でつぶやいた秋野さんは、ぐい、と片方の手で目元を擦った後、俺を抱え上げて、すばやくキスしてくれた。
「わ」
「待ってて。絶対助けてあげるから。しっかりするんだよ、近江」
秋野さんは目をきらきらさせながら言い放った。
「今、外へ連れ出してあげるから。家へ連れ帰ってあげるから」
(これは、現実?)
信じられなくて固まった。
(それとも、悪夢に変わるまでの、都合のいい夢?)
夢じゃない。
見る見る活力の戻ってくる体が教えてくれる。
(秋野さんが、俺を連れ帰ってくれる……家に)
もう一度、秋野さんが約束するように、俺に顔を寄せてくれた。温かな吐息が触れて、もっと温かな唇が触れる。無防備にさらしていた感覚すべてに衝撃が走って、体が蕩けそうに緩んだ。そして、その後は、もっと感覚が広がって、もっと気力が甦ってきた。
「秋野さん」
元気を取り戻したと伝えたくて声を上げると、そっと指先で押えられた。
「黙ってて、あたしに任せて」
秋野さんは片目をつぶって見せて顔を上げた。俺の体を胸元にしっかり抱えながら、倉庫のドアへ向かう。
驚いたことに鍵はかかっていなかった。あれほど厳重に縛っていたし、秋野さんがひどく落ち込んでいたから、逃げるわけがないとでも思われていたのだろう。
「まっすぐ、外に出るよ。昼間だから、かえって手出しできない」
あれに関わってるの、ここの一部の人間なんだ。
「だから、全く知らない人も居る。その人達に知られるのは困るはずなんだ」
秋野さんはドアを出ると、きっとした顔で前を見据えて歩き始めた。廊下で石崎か氷川に出くわしたら事だったけど、秋野さんの足取りは怯まなかった。
途中、たくさんのパイプが壁際に取り付けてあるところがあって、あの細いパイプの中を通っていた液体の臭いがした。俺が強ばったのを感じたのか、秋野さんが尋ねる。
「どうしたの、近江?」
「ここの廃液、ひどいよ」
俺はつぶやいた。
「原液だと確実に細胞が死ぬほど。薄めてても、体が痛かった」
ぴくん、と秋野さんの指が緊張した。
「……そんなところを、通って、来てくれたんだ?」
秋野さんが小さく囁いた。
「それで、こんなに、なったんだ?」
もう一度、吐息が近づいて、さっきより長く、柔らかい唇が当たった。
「大丈夫だよ、もう大丈夫だからね」
(大丈夫、もう大丈夫)
ふと、そのことばをどこかで前に聞いたことがあるような気がした。
別棟の通路を抜け、てっきり裏口から出て行くのだと思っていたら、秋野さんはことさら人の多そうなところを選び、表側の施設に向かって進んでいく。次第に増えてくる、何も知らない顔の従業員は、汚れた秋野さんを妙な顔で眺めているけど、あえて声をかけて来る者はいない。
それをいいことに、秋野さんはずっと前からここにいたような、今ここに勤めているアルバイトのような顔で、どんどん表玄関へ向かって歩いていった。
(そうか、あの夢)
秋野さんに抱かれて運ばれながら、ふいにさっきの夢を思い出した。
(大丈夫、もう大丈夫、って)
噴水に笑いかけていた秋野さん。雨を受け止め温めてくれた秋野さん。海で泳いで体を波に任せていた秋野さん。
夢の秋野さんはいつもそう言っていたのだ、もう、大丈夫だよ、と。
あなたの居場所はここにあるでしょう、と。
「ヴラン! ヴラン!」
埃の筋が隙間から入った陽射しに光っている。
小さな声が切羽詰まった響きを宿して繰り返し俺の名前を呼んでいる。
夢でしか呼ばれない名前を。
失ってしまった故郷の名前を。
なのに、その名前は悪夢を呼び起こさなかった。
その名前が呼び起こしたのは、秋野さんがいる世界の美しさ、秋野さんが生きていてくれるこの世界に、俺が居られる場所すべての光景だった。
「ヴラン!」
「秋野さん…?」
声を返すと、秋野さんが軽く息を呑んだ。
「…近江! 近江だよね?」
いつの間にか俺は秋野さんの掌に抱き上げられ、息が触れるほど近くで名前を呼ばれている。
「よかった、何にも答えなくなったから」
秋野さんの声は滲んでいた。
「死んじゃったのかと思ったよ」
大きな目が零れ落ちそうなほど潤んでいた。俺を支えている手も小刻みに震えている。
「ヴラン、て、呼んだ?」
俺はそっと尋ねた。夢のような気がした。夢の出来事であるはずのような気がした。大きな声を出してしまうと、一気に崩れ去りそうな気がした。
けれど、それは崩れなかった。
「うん、呼んだ、何度も」
秋野さんが頷いた。
「どう、して?」
「それが」
秋野さんは、ほんの少し悲しそうに笑った。
「あんたのほんとの名前だから。でも、あたしが知ってるのは、近江、だから。ヴランて呼んでても心配だったよ。このまま、もう、近江はどこにもいなくなっちゃうんじゃないかって。そんなの、いやだって」
また少し、ことばを切ってほほ笑んだ。細めた秋野さんの目から、いきなりぽろぽろっと、涙が溢れた。
温かな柔らかな感触の水が俺の上に落ちてくる。その液体は、キスと同じぐらい、甘やかで豊かなエネルギーをたたえている。一滴落ちれば一滴分、二滴落ちれば二滴分、体に力が満たされてくるのがわかった。
「あった、かいや」
「え?」
「秋野さんの、涙」
「ばか」
つぶやいた後、唇をへの字に曲げて、秋野さんは俺を胸元に抱き寄せ、そっと指で撫でてくれた。
「近江、助けに来てくれたんだ」
「うん」
指が触れる部分から流れ込んでくる力にうっとりした。
「こんなに、汚れて、こんなに、小さくなって」
「秋野さんは…」
大切な人だから。
とっておきの告白は、秋野さんの次の動きにどこかへ吹っ飛んでしまった。
「冷たいね」
小さな声でつぶやいた秋野さんは、ぐい、と片方の手で目元を擦った後、俺を抱え上げて、すばやくキスしてくれた。
「わ」
「待ってて。絶対助けてあげるから。しっかりするんだよ、近江」
秋野さんは目をきらきらさせながら言い放った。
「今、外へ連れ出してあげるから。家へ連れ帰ってあげるから」
(これは、現実?)
信じられなくて固まった。
(それとも、悪夢に変わるまでの、都合のいい夢?)
夢じゃない。
見る見る活力の戻ってくる体が教えてくれる。
(秋野さんが、俺を連れ帰ってくれる……家に)
もう一度、秋野さんが約束するように、俺に顔を寄せてくれた。温かな吐息が触れて、もっと温かな唇が触れる。無防備にさらしていた感覚すべてに衝撃が走って、体が蕩けそうに緩んだ。そして、その後は、もっと感覚が広がって、もっと気力が甦ってきた。
「秋野さん」
元気を取り戻したと伝えたくて声を上げると、そっと指先で押えられた。
「黙ってて、あたしに任せて」
秋野さんは片目をつぶって見せて顔を上げた。俺の体を胸元にしっかり抱えながら、倉庫のドアへ向かう。
驚いたことに鍵はかかっていなかった。あれほど厳重に縛っていたし、秋野さんがひどく落ち込んでいたから、逃げるわけがないとでも思われていたのだろう。
「まっすぐ、外に出るよ。昼間だから、かえって手出しできない」
あれに関わってるの、ここの一部の人間なんだ。
「だから、全く知らない人も居る。その人達に知られるのは困るはずなんだ」
秋野さんはドアを出ると、きっとした顔で前を見据えて歩き始めた。廊下で石崎か氷川に出くわしたら事だったけど、秋野さんの足取りは怯まなかった。
途中、たくさんのパイプが壁際に取り付けてあるところがあって、あの細いパイプの中を通っていた液体の臭いがした。俺が強ばったのを感じたのか、秋野さんが尋ねる。
「どうしたの、近江?」
「ここの廃液、ひどいよ」
俺はつぶやいた。
「原液だと確実に細胞が死ぬほど。薄めてても、体が痛かった」
ぴくん、と秋野さんの指が緊張した。
「……そんなところを、通って、来てくれたんだ?」
秋野さんが小さく囁いた。
「それで、こんなに、なったんだ?」
もう一度、吐息が近づいて、さっきより長く、柔らかい唇が当たった。
「大丈夫だよ、もう大丈夫だからね」
(大丈夫、もう大丈夫)
ふと、そのことばをどこかで前に聞いたことがあるような気がした。
別棟の通路を抜け、てっきり裏口から出て行くのだと思っていたら、秋野さんはことさら人の多そうなところを選び、表側の施設に向かって進んでいく。次第に増えてくる、何も知らない顔の従業員は、汚れた秋野さんを妙な顔で眺めているけど、あえて声をかけて来る者はいない。
それをいいことに、秋野さんはずっと前からここにいたような、今ここに勤めているアルバイトのような顔で、どんどん表玄関へ向かって歩いていった。
(そうか、あの夢)
秋野さんに抱かれて運ばれながら、ふいにさっきの夢を思い出した。
(大丈夫、もう大丈夫、って)
噴水に笑いかけていた秋野さん。雨を受け止め温めてくれた秋野さん。海で泳いで体を波に任せていた秋野さん。
夢の秋野さんはいつもそう言っていたのだ、もう、大丈夫だよ、と。
あなたの居場所はここにあるでしょう、と。
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