『DRAGON NET』

segakiyui

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1.『利き腕を傷つけるなかれ』(1)

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 夜の闇は『塔京』では深く重い。『斎京』とは違った生々しい人の気配の濃厚さを、ログ・オウライカは楽しんでそぞろ歩く。
「そろそろ戻られませんか」
「そうだな」
「……かなり時間がたっております」
「だろうな」
「……オウライカさま」
「わかっている」
 常に寄り添う心配性の配下、ブライアン・テッドの溜め息に苦笑したとたん、
「…!」
 背後で喧噪の気配が広がり、微かな悲鳴が響いた。
 足を止めてコートを翻し、闇の中から通りを透かし見る。
 数人の男が縺れ合う中、一人の男が目を惹いた。
 明るい茶色の髪、整った目鼻立ち。しっかりした骨格の割には奇妙な不安定さが滲む身体つき。歳の頃は25、6か。
「うぜえんだよっ!」
 響いた声は見かけより若くて高い。絡む相手を振り切るように男が腕を引いたとたん、軌跡を描いて紅が飛び散る。
「っ!」
 激痛に蹲りかけたのを堪えて、きっと見上げる瞳の琥珀、街の煌めきに勝るとも劣らないそれを見てとって強く魅かれるのと同時に、違和感にふうん、と唸った。
 男が怪我をしたことで騒ぎを恐れて引くかと思った周囲は逆に興奮したようだ。さすがリフト・カークが支配する魔都『塔京』だけある、と苦笑する。
 猥雑で、破滅的だ。
「やっちまえっ!」
「そうだ、やっちまえよ、カザルなんかっ!」
 囲んだ男達が口々に叫びながらいきり立ち、新たにナイフを取り出したのもいる。
「オウライカさま」
「今いく」
 また妙なことに首を突っ込む気じゃないでしょうね、そういう懸念を満たされた声で呼ばれて、それでもしばらくオウライカは男を見ていた。
 イルミネーションを背景に舞うように跳ねる、都会に棲む一匹の獣。右腕に傷を負って、流れる血もそのままに男達を蹴り倒していく。乱れる髪の下の溌溂とした笑顔は、乱闘ではなくスポーツを楽しんでいるようだ。散る鮮血さえ、翻る姿を彩るためのものに見える。
「痛くはないのかな」
「え?」
 ブライアンがオウライカの視線を追って、汗を散らせながら相手を蹴り上げる男を見やる。
「ただの喧嘩です」
「怪我をしてるんだが……楽しそうに見えないか」
「……見えますが……それが何か」
「いや」
 くすり、とオウライカは笑って、跳ね回る男達に背中を向けた。
「ああいうのが側にいると退屈しないだろうな」
 呟いてみせる。
「冗談じゃありません」
 再び歩き始めると、険しい顔でブライアンが詰った。
「我々が何のためにあなたを警護しているのかわからなくなる、あんなチンピラを近付けるなんて」
「チンピラ」
 少し立ち止まってオウライカは思考をまとめながら視線を上げた。
「そう、見えるか」
「それ以外の何に見えます」
「………刺客」
「……は?」
「一流の殺し屋に見えないか?」
「殺し屋? ならば」
 ぎろりとブライアンは目を剥いた。太い眉がいかめしく寄せられる。
「一層近付けるわけにはいかない。何を考えてるんです。あなたの肩には『斎京』全域の安全がかかってるんですよ」
「だからこそ、面白いかなと」
「また、そんなことを」
「たっ、助けてっ!」
 悪ふざけに、温厚なブライアンがさすがに眉を逆立てかけた矢先、うろたえた声が追いかけてきた。
「っ」
 ぎょっとした顔でブライアンが背後に立ち塞がる。おそらくは、周囲に散らばっている配下達も一気に緊張を高めているだろう。見えないが、接近者にあっという間に狙いを定めるスコープの気配がわかる。
 やれやれ、退屈だな、と溜め息をついた。
 絶対の安全圏に居るのも楽じゃない。しかもそれが、未来を保証する贄の立場にあるならなおさらだ。ふとした瞬間、運命を変えるためだけに我が身を死地に追い込みたくなる。
「…そうも、いくまいが」
 低く呟いて振り向いたオウライカは、ガードするブライアンの幅広い背中の後ろから顔を出し、駆け寄ってくる相手ににっこり笑った。
「待て、待てっ、貴様、待てっ、こらっ!」
 ブライアンが体を張って接近を食い止めようとする。
「助けてよっ、俺っ、変なのに絡まれてさっ、ねっ、ほらっ、怪我してるし!」
 そのブライアンにすがりつかんばかりに訴えているのは、カザルと呼ばれたさっきの男だ。右腕を血まみれにして、あの後また何度か切られたのか、傷が増えて、羽織っているくたびれた上着がぐしょぐしょになっている。
 おそらくは『塔京』下層の住民の身なり、だが本当にその出身ならば、オウライカ達のような上物のスーツにコート姿の、明らかに階層が違うものに飛びついてはこないだろう。
 それと気づかないのは、与えられた事前情報のせいか。
 面白い。
 思わず声をかける。
「また派手にやられたな」
「え? あ、ああああっ!」
 カザルはオウライカを不審そうに見た後、大声を上げて指差した。
「あんたっ、ログ・オウライカっ! 『斎京』のトップじゃんっ! なんでこんなとこにいんの!」
「ほう」
「こ、こらっ、近寄るなっ」
 一層距離を詰めるのに慌てるブライアン、本当に突っ込むべきはそこじゃないんだがな、と薄笑いをしてしまったのを、オウライカはするりと引っ込めた。
 生真面目に尋ねてみる。
「私を知ってるのか、カザル」
「そりゃ、有名でしょ、『斎京』のログ・オウライカと『塔京』のリフト・カークって言えば……って、待ってよ、何であんた、俺の名前知ってんの!」
「さっき、そう呼ばれてたろ、始めに右腕切られた時に」
 微笑みながら気になっていたことを確認した。
「君は左ききなのか?」
 いきなり辺りの気温が零下に落ちたような沈黙の中、ぎくりとしたブライアンが口を噤んでオウライカを振り返る。利き腕を隠すのは暗殺者の常道、視線が問うている、この男は敵ですか、と。
 その問いに応えず、オウライカは相手を凝視し続ける。
 カザルは口を開き、目を細め、やがてうっすらと笑った。
「いや……右きき………なんで、そんなこと聞くの?」
 ぽた、ぽた、と右腕から血が滴って地面に広がる。血の臭いにつられたのか、視界の端で獰猛なネズミがうろうろし始める。転がっている半死半生の人間にも食いつくという『塔京』の始末屋だ。
 だが、当のカザルはそれを気にした様子もなく、食い入るようにこちらを見つめている。助けてほしいと言ったわりにふてぶてしい姿は挑戦的だ。乱れた茶色の髪の下の、きらきらと光を放つ油断のない瞳に、オウライカは笑みを深めた。
「そっか、右ききか」
 頷いて、ブライアンを見上げた。
「連れて帰ろう」
「いえ、でもそれは」
 ブライアンの顔色が見る見る悪くなった。
「退屈しのぎになる」
「オウライカさま!」
 嘆きの悲鳴に目を細める。
「彼は連れ帰って欲しそうだ」
 薄笑みを浮かべて見遣ると、カザルはむっとしたように険しい表情になった。
「…………たいした……自信だね」
「ただじゃない」
 オウライカはにんまりと笑った。
「君は男に抱かれた経験はあるか?」
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