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78.『竜夢』(1)
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ふと意識が戻ってきた。
暑い部屋だ。単に温度が高いというだけではなく、立ちのぼって離れない湿度とむせ返るような淫猥な臭いで体が包まれて、通常の呼吸は愚か、皮膚の、いや細胞の呼吸さえできないような感覚がある。
カークはゆっくりと瞬きする。
「目が覚めたのかい?」
静かに微笑む白い顔があった。
「ずいぶんといい夢を見ていたのだろうね、笑っていたよ」
穏やかな口調は生前のまま、いや生前よりも幼い気配で、今はまるでカークの方が父親のようにさえ感じる。
「いい、夢…」
呟いてまた目を閉じた。
薄赤い瞼の中で消え失せた何かを追い求めようとし、眉をひそめる。
そうだ、確かにとてもいい夢を見ていた気がする。
まるで世界が全て救われたような。まるで奇跡が立て続けに起こったような。そして人類最後の叡智が開かれたような。
「リフ」
だが、呼びかける声で眼を開き、それらが幻であるとわかった。
目の前に覗き込む父の顔は白くて美しい。しかしそれは、あり得ない角度でカークの真正面から彼を凝視して微笑んでいる。
「あなたは…」
叫び続けて掠れた声で問いかける。
「なぜ…生きて…いるんです」
「え?」
父は、いや、テール・カークの顔を張りつけた首は、無邪気に訝しげに傾いた。
「おかしなことを聞く」
くすり、と少女のような笑い声を立てた。
「私はとっくの昔に、そう五十年ほど前に、白竜に喰われているはずだとでも? それなら応えは簡単だ、カーク」
首はまた少し近寄ってきた。
「ハイトだよ」
囁くように甘い声。
「ハイトが私を呼び戻してくれたんだ」
もっとも、完全に、とはいかなかったが、と続いた。
いや、五十年も前の話ではないだろう、とカークはぼんやり考える。
テール・カークが『塔京』の繁栄のために白竜の贄となったのは、少なくともカークが産まれた後のこと、たかだか二十数年前のはずだ。
それまで『塔京』のダグラス・ハイトの懐刀として、その怜悧で繊細な風貌で、テール・カークは耳目を集めていた。カークはその父の稚拙な写し絵だと言われたことさえある。鋭く隙のない頭脳は、容赦ない決断と指示を飛ばすハイトを見事に補佐していた。『塔京』は二人の手腕の元に永遠に繁栄するのではないかと思われていたほどだ。
だが、白竜が覚醒の兆候を見せ、都市は揺れ動いた。地底に変動がないのに地響きをたてて『塔京』のあちらこちらで裂け目が生まれ、多くの人と建物を暗闇の中に呑み込んだ。
バランスなのだと聞いていた。都市の地下深くには竜が眠り、竜の中に滾るエネルギーが都市を繁栄させている。都市が竜を圧迫し過ぎれば、竜は目覚め、内側のエネルギーを解き放って都市を焼き尽くし、解放されて眠りにつく。
それを防ぐための贄、目覚めかけた竜の鎮静剤としての人身御供、そうやって人は竜と共存してきたと。そして、確かにテールはその人身御供に相応しく、『塔京』の人々の上に輝かしく君臨してきた。
「呼び……戻した……」
「白竜に喰われるのは、どんな状態かわかるか?」
テールは詠うように首をゆらゆらと揺らせながら笑った。
「それまで『塔京』の人々が見上げる高みに座っていたのに、ただ一人、地下の洞窟へ降りて行く、守りもなく支えもなく、自分の小さな足音が岩場を抉った階段を辿る、やがて目の前に白く巨大な何かが横たわっているのが見える、近づくにつれてそれが波打つ生命体だと知る、体は知っている、それが途轍もなく大きな闇だと気づいているから、肌が粟立ち神経が逆立つ、近づくことを命が拒否する、なのにひたすらに引き込まれ引き寄せられる、酔うように堕ちるように、だが次の瞬間、風が襲ってきて」
テールの顔から表情が消えた。
「自分のはらわたが空中に撒き散らされるのを見る」
首の動きも止まった。
「痛みじゃない、痛みというより消失だよ」
声は古びた窓枠がカタカタと鳴るように続いた。
「転がったまま、巨大な眼が見下ろすのを見返す、呼吸はしていないのに、意識がある、あれは何だろうな? 心臓も止まっているのに、身動き一つできないのに、逃げなきゃいけないと、それだけを思って、もう一度開かれた真っ赤な口を目を見開いて見てる、その牙が胸の下に突き刺さるのを見てる」
そして、視界が真っ赤になる。
「体の内側から、血が吹き上がったんだ、千切れた肉塊なのに、その血が赤いと見えるんだ、あれは何だろうな? 呑み込まれたはずだったけれど、次の瞬間、とてもまずいものみたいに吐き出された、知ってるかい?」
テールは薄く笑った。
「ラゴル13-4を竜は好まない」
汚れて醜い人の欲望を満たすものだから。
「あの薬が満ちた躯を、竜は望まないんだ」
そして、あの薬は人の体から魂を引きはがす。
「大事で愛しいリフ」
テールはくきくきと首を左右に振って笑った。
「お前はもう贄にはなれない、汚れて醜くて遣いものにならない、『塔京』はハイトと私だけのものだ」
「まさ…か…」
カークは驚きに眼を見張った。
「あれを……使ったのは…あなたの…指示か……」
「ハイトは間違ったんだよ」
テールは無邪気に頷く。
「私以外を贄にするなんて、おかしな話だ、私は選ばれた存在、ハイトにも、白竜にも、選ばれて死を賜るべきなのに、どうしてこんな姿で? どうしてハイトの欲望を満たすためだけに、こんな姿で?」
微笑んでいたテールの眼からふいに赤黒い液体が流れ落ちて滴った。
「私は聖なる生贄なのに、なぜこんな姿で?」
お前がいたからだ。
目の前でいきなり、幾重にも並んだ金属の歯を満たした口ががばりと開く。
暑い部屋だ。単に温度が高いというだけではなく、立ちのぼって離れない湿度とむせ返るような淫猥な臭いで体が包まれて、通常の呼吸は愚か、皮膚の、いや細胞の呼吸さえできないような感覚がある。
カークはゆっくりと瞬きする。
「目が覚めたのかい?」
静かに微笑む白い顔があった。
「ずいぶんといい夢を見ていたのだろうね、笑っていたよ」
穏やかな口調は生前のまま、いや生前よりも幼い気配で、今はまるでカークの方が父親のようにさえ感じる。
「いい、夢…」
呟いてまた目を閉じた。
薄赤い瞼の中で消え失せた何かを追い求めようとし、眉をひそめる。
そうだ、確かにとてもいい夢を見ていた気がする。
まるで世界が全て救われたような。まるで奇跡が立て続けに起こったような。そして人類最後の叡智が開かれたような。
「リフ」
だが、呼びかける声で眼を開き、それらが幻であるとわかった。
目の前に覗き込む父の顔は白くて美しい。しかしそれは、あり得ない角度でカークの真正面から彼を凝視して微笑んでいる。
「あなたは…」
叫び続けて掠れた声で問いかける。
「なぜ…生きて…いるんです」
「え?」
父は、いや、テール・カークの顔を張りつけた首は、無邪気に訝しげに傾いた。
「おかしなことを聞く」
くすり、と少女のような笑い声を立てた。
「私はとっくの昔に、そう五十年ほど前に、白竜に喰われているはずだとでも? それなら応えは簡単だ、カーク」
首はまた少し近寄ってきた。
「ハイトだよ」
囁くように甘い声。
「ハイトが私を呼び戻してくれたんだ」
もっとも、完全に、とはいかなかったが、と続いた。
いや、五十年も前の話ではないだろう、とカークはぼんやり考える。
テール・カークが『塔京』の繁栄のために白竜の贄となったのは、少なくともカークが産まれた後のこと、たかだか二十数年前のはずだ。
それまで『塔京』のダグラス・ハイトの懐刀として、その怜悧で繊細な風貌で、テール・カークは耳目を集めていた。カークはその父の稚拙な写し絵だと言われたことさえある。鋭く隙のない頭脳は、容赦ない決断と指示を飛ばすハイトを見事に補佐していた。『塔京』は二人の手腕の元に永遠に繁栄するのではないかと思われていたほどだ。
だが、白竜が覚醒の兆候を見せ、都市は揺れ動いた。地底に変動がないのに地響きをたてて『塔京』のあちらこちらで裂け目が生まれ、多くの人と建物を暗闇の中に呑み込んだ。
バランスなのだと聞いていた。都市の地下深くには竜が眠り、竜の中に滾るエネルギーが都市を繁栄させている。都市が竜を圧迫し過ぎれば、竜は目覚め、内側のエネルギーを解き放って都市を焼き尽くし、解放されて眠りにつく。
それを防ぐための贄、目覚めかけた竜の鎮静剤としての人身御供、そうやって人は竜と共存してきたと。そして、確かにテールはその人身御供に相応しく、『塔京』の人々の上に輝かしく君臨してきた。
「呼び……戻した……」
「白竜に喰われるのは、どんな状態かわかるか?」
テールは詠うように首をゆらゆらと揺らせながら笑った。
「それまで『塔京』の人々が見上げる高みに座っていたのに、ただ一人、地下の洞窟へ降りて行く、守りもなく支えもなく、自分の小さな足音が岩場を抉った階段を辿る、やがて目の前に白く巨大な何かが横たわっているのが見える、近づくにつれてそれが波打つ生命体だと知る、体は知っている、それが途轍もなく大きな闇だと気づいているから、肌が粟立ち神経が逆立つ、近づくことを命が拒否する、なのにひたすらに引き込まれ引き寄せられる、酔うように堕ちるように、だが次の瞬間、風が襲ってきて」
テールの顔から表情が消えた。
「自分のはらわたが空中に撒き散らされるのを見る」
首の動きも止まった。
「痛みじゃない、痛みというより消失だよ」
声は古びた窓枠がカタカタと鳴るように続いた。
「転がったまま、巨大な眼が見下ろすのを見返す、呼吸はしていないのに、意識がある、あれは何だろうな? 心臓も止まっているのに、身動き一つできないのに、逃げなきゃいけないと、それだけを思って、もう一度開かれた真っ赤な口を目を見開いて見てる、その牙が胸の下に突き刺さるのを見てる」
そして、視界が真っ赤になる。
「体の内側から、血が吹き上がったんだ、千切れた肉塊なのに、その血が赤いと見えるんだ、あれは何だろうな? 呑み込まれたはずだったけれど、次の瞬間、とてもまずいものみたいに吐き出された、知ってるかい?」
テールは薄く笑った。
「ラゴル13-4を竜は好まない」
汚れて醜い人の欲望を満たすものだから。
「あの薬が満ちた躯を、竜は望まないんだ」
そして、あの薬は人の体から魂を引きはがす。
「大事で愛しいリフ」
テールはくきくきと首を左右に振って笑った。
「お前はもう贄にはなれない、汚れて醜くて遣いものにならない、『塔京』はハイトと私だけのものだ」
「まさ…か…」
カークは驚きに眼を見張った。
「あれを……使ったのは…あなたの…指示か……」
「ハイトは間違ったんだよ」
テールは無邪気に頷く。
「私以外を贄にするなんて、おかしな話だ、私は選ばれた存在、ハイトにも、白竜にも、選ばれて死を賜るべきなのに、どうしてこんな姿で? どうしてハイトの欲望を満たすためだけに、こんな姿で?」
微笑んでいたテールの眼からふいに赤黒い液体が流れ落ちて滴った。
「私は聖なる生贄なのに、なぜこんな姿で?」
お前がいたからだ。
目の前でいきなり、幾重にも並んだ金属の歯を満たした口ががばりと開く。
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