『DRAGON NET』

segakiyui

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80.『遺骸』(2)

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「諦めなさい、黒竜、あなたにはもう何の力もない」
 トゥオンは言い聞かせるように、子守歌のように語りかける。巨大な目がゆっくりとトゥオンを眺め、空を見つめ、またトゥオンに戻る。眠たげに瞬きをする。
「あなたの存在は人を殺すの。世界を滅ぼし、破滅を呼ぶの」
 トゥオンの声は優しく、けれども容赦がない。四阿の中から水中へ、何か特別な方法なのだろう、人一人の声にしては驚くほどよく通る。それとも、それほどこの世界から音が死に絶えてしまっているのか。
「あなたが甦ることで多くの命が危険に晒される。失われる」
 黒竜がゆっくりと目を閉じる。
 苦しげだと感じた。
 黒竜は哀しんでいる。
 その悲しみを、ライヤーは自分の胸の中に感じた。
 お前の存在は世界を破滅させる。
 兵器のような、無差別に破壊をもたらす力。
「わかってくれるでしょう?」
 トゥオンは小さく笑い声を立てる。
 人よ滅べ。
 そう願う巫女の声は、優しく温かく黒竜を追い詰める。
「知っているわ、あなたがどれほど人を愛しているのか」
 ライヤーもまた目を閉じる。
「あなたがどれほど人を求めているか」
 そうだ、だからこそ、カークの傷みが堪え難い。
 そうだ、だからこそ、『桜樹』を見捨てられなかった。
 そうだ、だからこそ、たった一人、命を繋ぎに降りてきた、砂漠の砂のただ一粒となろうとも、この地に撒かれる分子の一つになろうとも、この存在を分け与えてしまおうと。
『シーン』、あなたが俺にしてくれたように。
 命は、存在しようとする意志によって結びつけられ紡がれる、たとえそこが『ラズ・ルーン(枯れた泉)』であったとしても。
 再びその水を溢れさせるために何をするべきか、ライヤーほどよく知っている者はいない。
「だから、ここで諦めて眠り続けなさい、黒竜」
「そうはいかないよ、トゥオン」
「っ!」
 遠く彼方の四阿でトゥオンがぎょっとしたように振り返ったのをはっきりと感じた。
「ライヤー…っ」
「遅い」
 薄く笑って、ライヤーは体を崖の外へ強く押し出し、滑り落ちた。

「だめ……っっ…!」
 悲鳴のような叫び、さきほどまでの柔らかく慈愛に満ちて残酷な、自信たっぷりの声音とは比べもできない掠れた声がトゥオンから響いた。だが、その声はライヤーを搦めとる前にざぶうんと大きく鳴った水音に封じられる。
 いきなり体を押し包む,圧倒的な質量。
 一瞬ひやりと体温を奪ったそれは、次には見る間に表皮と融合してくるように温度を馴染ませる。
 飛び込んだ瞬間に閉じた目を見開くと、ぼやけ滲んだ視界の奥、ほぼ真正面に黒竜の巨大な瞳が見開かれていた。
 銀の虹彩が金の煌めきを走らせている。瞳孔は真っ白で視力を失っているかのようだ。けれどわかる、その瞳が歓喜に細められるのが。
 水流はライヤーを包み一気に黒竜の元へと運ぶ。
 自分から目に見えぬ何かが零れ出していくような気がした。水面の彼方上で、トゥオンが恐れ怒り嘆いているのが手に取るようにわかり、ライヤーはくすくす笑う。
 そうだろう、君には理解出来ないだろう。カークを助けたいなら、今ここで湖に身を投じてはいけない。人である身は溺れ死ぬよりないのだから。だからこそ、黒竜は地底深くに水の底に、人が近づけぬ物理的な結界を持って封じられた。
 ここを越えるのは人の命を諦めたもののみ、たとえばライヤーがカークの救出を諦め自らの運命を諦めた時に初めて通り抜けられる結界。
 だがしかし、ライヤーは一度黒竜に呑まれた。呑まれたことで人の体を越え、意識を越え、存在を踏み外した。だからこそ、この結界はもう意味を為さない。
 湖深くに吸い込まれて行きながら、唇から容赦なく空気を奪われていきながら、あるいは四肢からあっという間に体温を奪われていきながら、ライヤーの視界には黒竜もまた解け出すのが見えている。巨大な都市に縫い止められていたはずの黒竜が、その穿たれた点からじりじりとぼろぼろと、見よ無数の点となって水中に霧散雲照していく。
 来い。
 ライヤーは命じる。
 広がり砕けていった黒竜の体が、ふいにその向きを変えてライヤーの元に集まってくる。煌めく胸びれ、閃く尾びれ、うねりくねる滑らかな銀の鱗を輝かせてぐるぐる回りつつ寄り集まるのは無数の小魚、黒竜の体は今や湖全てを覆うほどの小魚の群れとなって、縛めから解き放たれ、水中深くに呑み込まれているライヤーの元に集まってくる。
 突かれ守られ抱えられ、ライヤーは見る見る水面へと押し上げられた。幾多の小魚が互いの体を這い登りながら繰り返し跳ね上がり跳ね落ちる、その天辺に、ラヤーは玉座に座る王の如く支え上げられる。
「いやああ……っっ」
 四阿の中でトゥオンは真っ青になりながら座り込んで悲鳴を上げていた。
 濡れた髪を掻きあげ、奪われた吐息をゆっくりと吸い込み、吐き出し、ライヤーは『天舞う巫女』を眼下に見下ろす。
 既に湖の中に黒竜の姿はなかった。
 湖底に虚しく突き立つ都市群より遥か上空に座する自分を、ライヤーは奢ることなく感じ取る。
 これは我が躯、我が意志。
 ならばこの意志が為すべきことはただ一つ。
「行こう」
 ざわめく無数の細胞達に呼びかける。
「人を、救いに」
 カークさん、今行きます。
 優しい声は移動を始めた水流の中から静かに響いた。
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