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83.『回帰』(1)
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何だか古巣へ帰っていくようじゃないか。
ライヤーは喧噪溢れる街の中、人混みを擦り抜けながら薄く笑う。
ファローズは身動き出来なくなったところで車に置いてきた。心配はしていない、今頃唯一無二の守り手が怒りと苛立ちを必死に押し殺しながら近づいているだろう。運転席で汚れた状態のファローズを見つけ、すぐに何があったか悟るだろう。けれど、ライヤーを追いはしない、少なくとも自分では。
ただ警告はするはずだ、破滅を抱えた男が中央庁に舞い戻る、と。
警戒しろ、組織にも体にも心にも、取り返しのつかない致命傷を与えるはずだから、と。
その緊迫したサイレンに逸早く反応するのは誰か、それもまたわかる気がした。
オウライカに心酔し、自分の存在を最下層まで貶めても権力にしがみつく犬を演じ、その実、いつかオウライカが戻るその日まで、『塔京』の中央庁にオウライカが凱旋する門を保つと決めた男。
今の『塔京』がどれほど汚れていようと、どれほど救い難く崩壊した組織だろうと、それはオウライカの『もの』だ、そう固く心に決めている男。
マーク・エバンス。
だから、それを侵す気配のものを彼は許さない。
門番たる生き様にふさわしく、今度もまたライヤーの前に立ちふさがるはずだ。
「どこで待っていてくれるのかな」
既に中央庁の階段まで辿りついてしまった。
確かに町中で狙撃するような愚かなことは考えないが、『隊長』の警告を無視できるぐらいなら、ライヤーにその身を晒さなかったはずだ。
なのに今、着々と最上階への歩みを再び登り始めるライヤーの前に、エバンスは一向に姿を見せない。いや、その気配さえない。
「これって…」
ライヤーは思わず眉を潜めた。
建物に入り込んだ瞬間に感じる重圧感。体の隅々を探り回られるような不快感。そして、何よりも、隙を見ては内側を暴き、薄汚れた欲望に塗れた指で、心の深くに守っていたものを摘み上げ潰そうとする、この紋章。
集中する。だが、それは一瞬でかき消える、まるでそんな悪辣なものを見てしまうのは、こちらの思考が腐っているのだと言いたげな。
けれど、掴み切れぬその紋章が誰のものであるか、薄々はわかっている。
ダグラス・ハイト。
「不愉快だな」
いつの間にここはこれほど醜くどろどろとした熱に取り憑かれていたのだろう。それとも、ライヤーが別の存在を重ねてしまったからこそ感じるものなのだろうか。
中央庁には人の気配がなかった。
外にはあれほど人が溢れていたのに、そしてまだ真昼なのに、廊下を歩むライヤーは誰にも出くわさない。出くわさないのに濃密で息苦しいほどの熱に包まれ、これでは並の人間では耐え切れないだろう。
そして、エバンスは明らかに並の人間なのだ。
ライヤーは脚を速めてエバンスの部屋に向かう。
鍵などかかっていない扉を開け放って最初に見たのは、デスクの向こうに虚ろな瞳をして仰け反るように座っている姿だった。
「エバンスくん!」
叫んで駆け寄ってしまったのは、相手がオウライカの配下であることをなおも選び続けていると知ったからだ。門番であろうとし、『塔京』の形を保とうとし、だからこそ、こんなふうに精神をぐずぐずと崩されるような状態に落とされた。
「しっかりして」
シャツは汗で濡れそぼって張り付いていた。ひくひくと体を震わせながら、その度ごとに異臭を漂わせるスラックスの股間が、繰り返し汚れていくのが惨い。
「ら…い…」
「僕がわかるんだね?」
虚ろな視線が必死にライヤーを捉えようと足掻いている。口元から涎を零しながら、快楽に顔を歪めて堕ちていけばいいものを、寸前で堪え続けるから既に心は限界だ。矜持ということばがライヤーの胸に過った。
「…君を『斎京』に…オウライカさんのところに連れ帰ってあげる」
「…っ」
ふいに、ひどく透明な涙がエバンスの頬を流れ落ちた。見る見る数を増して滴り続ける雫を保つために、エバンスはどれほど心を削り落としたのか。のろのろと上がった手がライヤーの袖を一瞬掴み、すぐに力なく滑り落ちた。
安堵したように目を閉じる一瞬に、ライヤーはエバンスの紋章を探る。
門はなかった。
何者かに叩き壊され破壊の限りを尽くされた岩のかけらが点々と散っている。透明な扉は無数のガラス片となっていた。
「…」
もう元には戻らない。
ライヤーは微かに唇を噛む。湖底に張りつけられた黒竜同様、この紋章を回復させるには、それにふさわしい魂が必要なのに、エバンスは『塔京』で耐え忍ぶために,そういった繋がりを一切断ってきていた。
そしておそらくは、この崩壊の一因はライヤーにある。
カークに近づくためにエバンスの体を求めた時、ライヤーは透明な扉を力づくで破っている。だから、扉には『そういう力』を通してしまう道筋がついてしまったのだ。
ハイトはきっと中央庁を蹂躙するのにエバンスのエネルギーを利用した。門番であるが故に、扉を開かれた後は格好の通路になってしまった、その絶望はエバンスを深く蝕んだだろう。言わばこの状況は自罰に他ならない。
ライヤーはエバンスを椅子から抱え降ろした。ソファに休ませ、胎児のように手足を縮めて丸くなるエバンスに、上着を脱いで着せかけ、向きを変える。
周囲の熱にネクタイを緩めながら、身を翻す。
目的地はまだ上だ。
ライヤーは喧噪溢れる街の中、人混みを擦り抜けながら薄く笑う。
ファローズは身動き出来なくなったところで車に置いてきた。心配はしていない、今頃唯一無二の守り手が怒りと苛立ちを必死に押し殺しながら近づいているだろう。運転席で汚れた状態のファローズを見つけ、すぐに何があったか悟るだろう。けれど、ライヤーを追いはしない、少なくとも自分では。
ただ警告はするはずだ、破滅を抱えた男が中央庁に舞い戻る、と。
警戒しろ、組織にも体にも心にも、取り返しのつかない致命傷を与えるはずだから、と。
その緊迫したサイレンに逸早く反応するのは誰か、それもまたわかる気がした。
オウライカに心酔し、自分の存在を最下層まで貶めても権力にしがみつく犬を演じ、その実、いつかオウライカが戻るその日まで、『塔京』の中央庁にオウライカが凱旋する門を保つと決めた男。
今の『塔京』がどれほど汚れていようと、どれほど救い難く崩壊した組織だろうと、それはオウライカの『もの』だ、そう固く心に決めている男。
マーク・エバンス。
だから、それを侵す気配のものを彼は許さない。
門番たる生き様にふさわしく、今度もまたライヤーの前に立ちふさがるはずだ。
「どこで待っていてくれるのかな」
既に中央庁の階段まで辿りついてしまった。
確かに町中で狙撃するような愚かなことは考えないが、『隊長』の警告を無視できるぐらいなら、ライヤーにその身を晒さなかったはずだ。
なのに今、着々と最上階への歩みを再び登り始めるライヤーの前に、エバンスは一向に姿を見せない。いや、その気配さえない。
「これって…」
ライヤーは思わず眉を潜めた。
建物に入り込んだ瞬間に感じる重圧感。体の隅々を探り回られるような不快感。そして、何よりも、隙を見ては内側を暴き、薄汚れた欲望に塗れた指で、心の深くに守っていたものを摘み上げ潰そうとする、この紋章。
集中する。だが、それは一瞬でかき消える、まるでそんな悪辣なものを見てしまうのは、こちらの思考が腐っているのだと言いたげな。
けれど、掴み切れぬその紋章が誰のものであるか、薄々はわかっている。
ダグラス・ハイト。
「不愉快だな」
いつの間にここはこれほど醜くどろどろとした熱に取り憑かれていたのだろう。それとも、ライヤーが別の存在を重ねてしまったからこそ感じるものなのだろうか。
中央庁には人の気配がなかった。
外にはあれほど人が溢れていたのに、そしてまだ真昼なのに、廊下を歩むライヤーは誰にも出くわさない。出くわさないのに濃密で息苦しいほどの熱に包まれ、これでは並の人間では耐え切れないだろう。
そして、エバンスは明らかに並の人間なのだ。
ライヤーは脚を速めてエバンスの部屋に向かう。
鍵などかかっていない扉を開け放って最初に見たのは、デスクの向こうに虚ろな瞳をして仰け反るように座っている姿だった。
「エバンスくん!」
叫んで駆け寄ってしまったのは、相手がオウライカの配下であることをなおも選び続けていると知ったからだ。門番であろうとし、『塔京』の形を保とうとし、だからこそ、こんなふうに精神をぐずぐずと崩されるような状態に落とされた。
「しっかりして」
シャツは汗で濡れそぼって張り付いていた。ひくひくと体を震わせながら、その度ごとに異臭を漂わせるスラックスの股間が、繰り返し汚れていくのが惨い。
「ら…い…」
「僕がわかるんだね?」
虚ろな視線が必死にライヤーを捉えようと足掻いている。口元から涎を零しながら、快楽に顔を歪めて堕ちていけばいいものを、寸前で堪え続けるから既に心は限界だ。矜持ということばがライヤーの胸に過った。
「…君を『斎京』に…オウライカさんのところに連れ帰ってあげる」
「…っ」
ふいに、ひどく透明な涙がエバンスの頬を流れ落ちた。見る見る数を増して滴り続ける雫を保つために、エバンスはどれほど心を削り落としたのか。のろのろと上がった手がライヤーの袖を一瞬掴み、すぐに力なく滑り落ちた。
安堵したように目を閉じる一瞬に、ライヤーはエバンスの紋章を探る。
門はなかった。
何者かに叩き壊され破壊の限りを尽くされた岩のかけらが点々と散っている。透明な扉は無数のガラス片となっていた。
「…」
もう元には戻らない。
ライヤーは微かに唇を噛む。湖底に張りつけられた黒竜同様、この紋章を回復させるには、それにふさわしい魂が必要なのに、エバンスは『塔京』で耐え忍ぶために,そういった繋がりを一切断ってきていた。
そしておそらくは、この崩壊の一因はライヤーにある。
カークに近づくためにエバンスの体を求めた時、ライヤーは透明な扉を力づくで破っている。だから、扉には『そういう力』を通してしまう道筋がついてしまったのだ。
ハイトはきっと中央庁を蹂躙するのにエバンスのエネルギーを利用した。門番であるが故に、扉を開かれた後は格好の通路になってしまった、その絶望はエバンスを深く蝕んだだろう。言わばこの状況は自罰に他ならない。
ライヤーはエバンスを椅子から抱え降ろした。ソファに休ませ、胎児のように手足を縮めて丸くなるエバンスに、上着を脱いで着せかけ、向きを変える。
周囲の熱にネクタイを緩めながら、身を翻す。
目的地はまだ上だ。
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