『DRAGON NET』

segakiyui

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83.『回帰』(2)

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 我が道を開けよ。
 進みながら、体が咆哮しているように感じる。巨大な顎門を開き、地の底を震わせる竜の猛り、少なくともエバンスを踏みにじったのは間違いだったと知らしめるべきだろう、そういう冷たい怒りが体の中に渦巻き始めている。
 この場所を汚したのは誰か。
 この道を崩したのは誰か。
 違う、とどこからか微かな、けれど身の裡が竦むような声が響き渡った。
「っ」
 ライヤーは立ち止まる。
 このひんやりとぬめるような声の感触、ハイトのものではないけれど、この中央庁をぐるぐると巻き縛るような飢えた命の気配に、静かに周囲を見回す。
「…そういうこと…」
 腑に落ちて頷いた。
 階段を挟んで伸び上がるような中央庁、これそのものがハイトの分身だ。そそり立つ一物のような造形、と遥か昔に噂した者は居たけれど、真実だとは思いもしなかっただろう。
「あなたの紋章はこれ……いや、紋章が貴方をはみ出して現れたのが中央庁なのか」
 欲望とそれを煽り続ける情熱の二本柱。それは二人の人柱を意味している。独りはテール・カーク、もう独りはリフト・カーク。
 おそらくは最初からダグラス・ハイトはテールを利用するつもりだったのだ。『塔京』地下に眠る白竜を見せてテールの恐怖と孤独を煽り、自分に助けを求めさせて、まずは一体仮の贄として白竜に与えた。そして、自分に溺れたテールに、今度は自分がテールを望んだだけではなく、息子リフトも望んでいることを知らせたのだ。
 始めは窮地から救ってくれたはずのハイトが、白竜にじわじわと中身を喰い尽くされていく自分から興味を失っていく。赤の他人ならまだしも、その視線の先にあるのはリフト、しかも成熟し数々の男達を呑み込んで妖しく輝きを放ち始めた息子だったことは、テールを狂気に追いやったに違いない。その一方で、きっとハイトは囁き続けただろう、リフトを求めるのは、白竜が餓え続けているからだ、と。
 テールが全てを喰い尽くされてしまう前に、リフトをもう一人白竜に喰わせれば、テールは我が身を保ち、白竜は満たされ、リフトはその輝きを失うだろう。
 そうハイトに唆されて、テールはどれほど堪えられただろう。
 既に白竜に精神も心も喰われつつある。克己に耐えうる精神力も、情報を整理し分析し直す思考力も、日に日に崩れ落ちていき、残ったのはハイトに貪られる躯と白竜に呑み込まれていく精神だけ。
「…哀れだと思ってはいけないんだろうけど」
 廊下に立ち尽くしたまま、ライヤーは呟く。
 リフトがやってくれば自分はほんの少しの自我を保てる。だがしかし、リフトがやってくればハイトはテールを道具の一つとして扱うだろう。それを理解する自我などあっても、苦しいだけではないか。
「わかる気がするよ」
 ライヤーは黒竜に呑まれたことを思い出す。我と我が身が粉々になり、存在しなくなり、なのに竜の身の裡にあって破滅の道具となる自分を見つめ続ける苦行。
 それから離れ、それを制御し、自分の支配下に置くためには、二つの関門を潜る必要があった。一つは犠牲。自分の命を惜しまぬこと。もう一つは希望。望む未来を描き切って進むこと。自分の命を惜しみ、誰かが与えてくれる世界を待ち望むだけの魂では、竜を制御できはしない。
「あなたの抜け殻がここに吊るされているんだね」
 ライヤーは中央庁の中ほどで頂点を遠く仰ぎ見る。
 香気溢れる栄光の都『塔京』に、艶やかに君臨していた幻の王、テール・カーク。都市の保持に費やされた精神は、今新たな贄を得て盤石の基盤を取り戻そうとしている。呑み込まれたのはリフト・カークだ。ならば、もう独りの人柱は?
「なるほど、僕のために席を空けてくれたと言うわけ」
 どこまでもどこまでも支払いを拒む狭量な心だね、ダグラス。
 テールと組み合わせて中央庁の礎とした体を、ひょっとしたら捨てにかかっているのではないか。だからここはこんなにも狂おしく、もう一つの魂を求めて欲望に喘ぐ存在を貪りにかかっているのではないか。
 そうしてハイトはどこへ向かう気なのだろう。
「…掌で踊るのは好きじゃないけど」
 ライヤー。
 耳元で弾けた甘い声に思わず震えた。
「あなたには、どんな抵抗もできない…助けて欲しいのは僕だ」
 熱を帯びた吐息を零して、歩き始めた矢先、目の前のエレベーターが開いて、蒼白な顔色の男が降りてきた。
「…ライヤー…」
 呆然として呟く相手に微笑みかける。
「ただいま戻りました、ブルームさん」
 僕の愛しい人はどこに?
「何をいまさら…っ」
 血の赤を昇らせて吐いた相手の隣を擦り抜け、エレベーターに乗って命じる。
「今更逃げるのはなしですよ」
「っ」
「あなたもカークさんの餌だったんだ」
 簡単に逃げられるとは思わない方がいい。
 冷ややかに告げると駆け出そうとしていた肩がこわばった。背中が固まり、脚が止まる。ゆっくり立ち止まって振り向く。
「戻って下さい」「俺は」
「……あなたの紋章は小高い丘」
「!」
 指摘するとブルームは真っ青になった。
「穏やかな風が吹き、優しい笑顔の女性が座る」「待て」
「緑の鮮やかな草、ピクニックバスケットに入った昼食」「ライヤー」
「眩い陽射し、爽やかな薫り、笑い声」「待て!」
「今までは」
「ラ、イヤー…っ!」
 悲鳴がブルームの口を突いた。崩れ落ち,頭を抱え踞る。
「突然崩れた崖の味は?」
「う…っ」
「叫びながら血に塗れて落ちた女性の声は?」
「…くう…っ」
「燃え上がったバスケットと羽虫に覆われた土」
「やめ…て…く…」
「ブルームさん?」
 エレベーターの解放ボタンを押えたままにっこりと笑いかける。
「僕に教えて下さい、カークさんに辿り着く道を」
 なぜなら。
「あなたでしょう?」
 静かに指摘する。
「この中央庁にハイトが潜むことができるよう、建物のセキュリティそのものに彼の精神構造を組み込んだのは」
 だから、ここに入った誰もが一つの目的に我が身を酷使する、際限なき欲望の追及に。
「さあ」
 もう片方の掌を差し出す。
「僕に返して」
 『塔京』の本来の支配者に。
「……助けて…くれ…」
 ふらふらと立ち上がったブルームは見えない手に引きずられるようにエレベーターに戻ってくる。わかっているはずだ、ここに共に乗り込んだが最後、ブルームはライヤーに貪り尽くされる、骨の髄まで、心の襞まで。
「助け…」
 閉まり始めた扉に懇願しながらブルームは崩れた。見下ろしながらライヤーが笑みを深める。
「もちろん……僕は優しい男ですから」
「…、あ…あ…ああ…ああああああ!!!」
 惑いを含み喘ぎの混じった悲鳴が扉で断ち切られる。
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