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86.『治癒』(1)
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わかっている。
ライヤーは眠りに落ちたカークの精神体から離れる。
顔を上げると、その愛おしい体の向こうに薄墨色に煙った一つのドアがあった。
確かにカークの言うとおり、ハイトとテールに追いつくためには、この扉を使うしかない。現実面で幾ら追いかけようと、『紋章』に逃げ込まれたりしたら捕まえ切れない。
ましてやライヤーは今、逃亡犯を処刑するにふさわしい砂漠ではなくなってしまった。カークの心に降りてカークに満たされたから、今自分の『紋章』がとんでもないことになっているのを感じ取っている。
黄金の海だ。
砕ける波頭が銀の飛沫を上げる。深みは銅色に沈んではいるものの、鮮やかに波打ちどこまでも続くこの海を、どう扱えばいいのか、まだよくわからない。
そしてカークの『紋章』と来たら。
「…っ」
容赦なく湧き上がる欲望に思わず歯を噛み締めた。
黄金の海に真紅の花びらが散っていた。血潮のように点々と。空を飛ぶ渡り鳥のように延々と。果てしない黄金の海は、今一面、艶やかでつややかな花びらに彩られている。
カークの躯に散る口づけの痕のようでもあった。抉った内側の紅蓮に染まった傷のようでもあった。そして、細胞一つ一つに配置された命を産み出す核のようでもあった。
ライヤーと一体化しながら、あくまで自由にあくまで鮮やかに漂い、けれどその海の底に黒竜に貫かれて沈んでいる白竜の躯を少しずつ満たして埋め、血肉を作っていく。
それは彼方の時空で、ついに産み出されることがなかった幼い子どものようでもあった。
この感情は何だろう。
薄墨色の扉に向かいつつ、ライヤーは考える。
いままでついぞ味わったことのない、願いが叶わず切ないと言うのでもない、望みが全て満たされどこか気怠い退屈というのでもない。
手触りは柔らかいのに、存在は確固としている。
ついぞ味わったことがないというのは、あのオウライカでさえ未だ得られていない境地なのだと気づいて、ぶるっと体が震えた。
黄金の海を覆う温気に似ているが違う。
刺し貫いている白竜の胎内、絡みつくように黒竜の切っ先を受け止めている肉の柔らかさともまた違う。
白く滑らかな木で作られた小箱のようだ。角は丸めてあるがラインは甘くない。きっちりと蓋をされたその中に入っているものを考えたとき、水底で貫かれている白竜が絶叫しつつ仰け反り果てた。
これは骨だ。
これは骨箱だ。
骨がそれだと言うのではなく、既に本体も命もなくなった抜け殻を、大事に器に納めて胸の前で抱え守る、そう振舞ってしまう、この思い。
またいつか。
低い声が囁き中空より降る。
またいつか、この腕の中に。
再会の約束。
同じ形ではないだろう。全く違う姿だろう。けれど確かにそれと見分けられるだろう、魂の色は一人として同じではない、その魂が肉に形を与えないはずがないのだから。
唯一無二のあなたを抱く。
脳裏に快感が弾けて、ライヤーは呼吸を乱し、薄墨色の扉に手をついた。
黒竜が崩れ落ちる。
貫いた体を包むように覆い被さり、白竜が小さく哭く。
扉が押されてゆっくりと開く。
「…ああ」
そこは蒼穹だった。
扉を開けた、その一線から外は上下左右どこも遮ることのない、雲を散らせた青空のただ中だ。足を踏み出した瞬間に落下が始まる。
周囲に千切れた雲が奔る。掴むことさえできない、そのくせ如何にも救いがありそうな優しさで広がるそれを、ライヤーは当てにしなかった。
この空がどこまで広いのか確かめたかった。落ちるところまで堕ちてやれ。
踏み出したつもりもなく、突然足が空気に沈み込んだ。
「あ」
上げた声は一瞬に虚空の彼方に置き去られる。
がつがつがつ。
飛び込んで見ると、奇妙な音が響いていた。
がつがつがつがつ。びしゃ。
「何だ…?」
ライヤーは眠りに落ちたカークの精神体から離れる。
顔を上げると、その愛おしい体の向こうに薄墨色に煙った一つのドアがあった。
確かにカークの言うとおり、ハイトとテールに追いつくためには、この扉を使うしかない。現実面で幾ら追いかけようと、『紋章』に逃げ込まれたりしたら捕まえ切れない。
ましてやライヤーは今、逃亡犯を処刑するにふさわしい砂漠ではなくなってしまった。カークの心に降りてカークに満たされたから、今自分の『紋章』がとんでもないことになっているのを感じ取っている。
黄金の海だ。
砕ける波頭が銀の飛沫を上げる。深みは銅色に沈んではいるものの、鮮やかに波打ちどこまでも続くこの海を、どう扱えばいいのか、まだよくわからない。
そしてカークの『紋章』と来たら。
「…っ」
容赦なく湧き上がる欲望に思わず歯を噛み締めた。
黄金の海に真紅の花びらが散っていた。血潮のように点々と。空を飛ぶ渡り鳥のように延々と。果てしない黄金の海は、今一面、艶やかでつややかな花びらに彩られている。
カークの躯に散る口づけの痕のようでもあった。抉った内側の紅蓮に染まった傷のようでもあった。そして、細胞一つ一つに配置された命を産み出す核のようでもあった。
ライヤーと一体化しながら、あくまで自由にあくまで鮮やかに漂い、けれどその海の底に黒竜に貫かれて沈んでいる白竜の躯を少しずつ満たして埋め、血肉を作っていく。
それは彼方の時空で、ついに産み出されることがなかった幼い子どものようでもあった。
この感情は何だろう。
薄墨色の扉に向かいつつ、ライヤーは考える。
いままでついぞ味わったことのない、願いが叶わず切ないと言うのでもない、望みが全て満たされどこか気怠い退屈というのでもない。
手触りは柔らかいのに、存在は確固としている。
ついぞ味わったことがないというのは、あのオウライカでさえ未だ得られていない境地なのだと気づいて、ぶるっと体が震えた。
黄金の海を覆う温気に似ているが違う。
刺し貫いている白竜の胎内、絡みつくように黒竜の切っ先を受け止めている肉の柔らかさともまた違う。
白く滑らかな木で作られた小箱のようだ。角は丸めてあるがラインは甘くない。きっちりと蓋をされたその中に入っているものを考えたとき、水底で貫かれている白竜が絶叫しつつ仰け反り果てた。
これは骨だ。
これは骨箱だ。
骨がそれだと言うのではなく、既に本体も命もなくなった抜け殻を、大事に器に納めて胸の前で抱え守る、そう振舞ってしまう、この思い。
またいつか。
低い声が囁き中空より降る。
またいつか、この腕の中に。
再会の約束。
同じ形ではないだろう。全く違う姿だろう。けれど確かにそれと見分けられるだろう、魂の色は一人として同じではない、その魂が肉に形を与えないはずがないのだから。
唯一無二のあなたを抱く。
脳裏に快感が弾けて、ライヤーは呼吸を乱し、薄墨色の扉に手をついた。
黒竜が崩れ落ちる。
貫いた体を包むように覆い被さり、白竜が小さく哭く。
扉が押されてゆっくりと開く。
「…ああ」
そこは蒼穹だった。
扉を開けた、その一線から外は上下左右どこも遮ることのない、雲を散らせた青空のただ中だ。足を踏み出した瞬間に落下が始まる。
周囲に千切れた雲が奔る。掴むことさえできない、そのくせ如何にも救いがありそうな優しさで広がるそれを、ライヤーは当てにしなかった。
この空がどこまで広いのか確かめたかった。落ちるところまで堕ちてやれ。
踏み出したつもりもなく、突然足が空気に沈み込んだ。
「あ」
上げた声は一瞬に虚空の彼方に置き去られる。
がつがつがつ。
飛び込んで見ると、奇妙な音が響いていた。
がつがつがつがつ。びしゃ。
「何だ…?」
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