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2.襲ってくる白雪姫(3)
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僕はいそいそと本を受け取った。
瞬間、何か、本から軽い電気のようなものが走った気がして取り落としそうになった。リカの目の前でそんなことはできないから、慌ててしっかり捕まえ直す。
捕まえる? そうだ、一瞬、本がするりと逃げ出してしまいそうな気になったから。
それとも、僕が放り出してしまいそうになったのかな。
「じゃね」
手を振るリカに我に返って腰を浮かせる。
「帰るなら、一緒に…」
「今日は、ごめん」
リカはふいと硬い表情を戻した。
「友達の用事、忘れてたから」
「…うん」
リカは嘘をついている。目が泳ぎ、表情が薄っぺらになり、声が淡くなったから。
僕はそれでもうなずいた。
リカの髪が背中に乱れて、空気に溶け込むようにふわりふわりと揺れる。その髪が、明るい茶色の波のように図書室の出口からゆっくりと消えて行くのを、最後の一本の軌跡まで見送ってから、腰を落とす。
リカはなぜ嘘をついたんだろう。
「つ…」
そう思ったとたん、何だろう、また、頭が痛くなった。
別に一緒に帰りたくなかったのなら、そう言ってくれればよかったんだけど。友達の用事なんて言わなくても、僕はリカが嫌がるのなら無理に一緒に帰らなくていいし。
あの嘘は僕にとっては意味がなくて、リカにとっては意味がある何かなんだろうけど。それが何だろうとついつい思ってしまって。
こんなこと、考えるのがおかしいのかな。
眉をしかめて、右のこめかみがズキズキするのを、親指で強く押さえながら、残った手で教科書とノートを鞄にほうり込む。それから、リカが渡してくれた本を改めて見た。
真っ青な本だ。表も裏も、中表紙も、そしてページの隅々までさまざまな青色が埋めている。
タイトルは『グラン・ブルー』。白抜きのカタカナ。外国の写真家のものらしく、解説に『グラン・ブルー』とはとても深い海の色だと書かれている。
海が持っている青を一冊にすべておさめようとでもしたのか、めくってもめくっても、場所を示す小さな文字の囲みのほかは青色が紙面を埋めている。
始めのうちはとてもきれいな光景だと思って見ていたのに、だんだん何だか息苦しくなり、最後には吐きそうな気がして本を閉じた。
本を閉じると、吐き気も息苦しさもすぐに消える。なのに、少しでも開こうとすると、またすぐにむかむかするような血の気が引くような気持ちになる。
僕は固く本を閉じた。
何だ、これは。
普通の本じゃないのかな。何か特殊な本なんだろうか。
それとも、僕が……変なのかな。
不安になったけど、リカがせっかく勧めてくれたんだから、と本を手に図書室の貸し出しカウンターの前に立つ。
「この本を、借り直したいんだけど」
「他人のカードは困るんだけど」
僕のことばをそっくりなぞるようなリズムで、カウンターの中から柔らかな声が応じた。聞き覚えがある。中に立っている図書委員の顔をのぞき込んで確かめる。
左よりで分けた真っ黒な長めの前髪を広い額に数房垂らして、それをうっとうしがるふうでもなく、落ち着いた表情でクラスメートの春日伊織が『グラン・ブルー』をめくっていた。良家の一人息子が勉強の合間の息抜きに、ぱらぱら手近の本をくっている、そんな何げなさそうな仕草に、悪意は感じられない。
けど、続いた春日のことばはひどくそっけなく、厳しいものだった。
「それに、この本はまずいよ」
「え?」
一瞬、春日が何を言ったのかわからなくて、僕は瞬きした。
まずい?
何が?
誰に?
まるで その声が聞こえていたみたいに、春日がことばを継いだ。
「君にはよくない」
ふ、っとこちらを見上げた目が一瞬極彩色に光を放った。瞳孔も虹彩も、混じりあった万華鏡のように色が揺れて何色とも定めがたいような瞳。
驚いて瞬きすると、すぐに元の薄い茶色の目に戻った。底の方にぼんやりと緑のような色が透けて見えている、少し不思議な色だ。じっとこちらを見る、なのに、視線はどこか曖昧で、目の前にいる僕を見ているというより、僕の後ろにいる誰かを見ているような印象。
すうっと筆で弧を描いたような眉と通った鼻筋、江戸時代にいた勉学好きの少年を思わせるような端正な容貌。穏やかな性格。成績もいいし、体育系も無難にこなす。
クラスの女子だけではなく、学内でも結構人気があるのに、これといった親友がいないのは、春日と話していると妙な居心地の悪さを感じるからだと言われている。
僕も今それを味わっていた。
不安定な、まるで自分がこの世界から取り出されたような、孤立感? 景色がふいに見知らぬ世界とすり替えられたような、思わず周囲を見回して自分の居場所を確かめなくてはいられないような落ち着かなさ。
春日の視線に、僕の身体の奥底にある知らない記憶が引きずり出されていくような。
「何のことだかわかんないけど」
僕は目を逸らせた。自分の声がこわばり、体が微かに震えているのを感じた。
「かたいこと、言うなよ。みんな、やってるだろ」
図書カードを取り出して、相手を見ないままカウンターに載せる。
何だろう、この気持ち。今まであんまり味わったことのない……恐怖?
「内園のカードは預かるからさ」
それ以上自分の内側を感じ取らないようにして、言い放つ。
「…わかった」
春日は重ねては拒まなかった。目を伏せ、僕のカードを細い指先で受け取り、リカのカードの返却手続きを済ませる春日を視界の隅で見てみる。
確かに、居心地が悪い。言い争ったというのでもないけど、自分が大切な何かをごまかしているような気がする。
春日は僕の態度に不愉快になったふうもなく、無言でカードを返してよこした。
瞬間、何か、本から軽い電気のようなものが走った気がして取り落としそうになった。リカの目の前でそんなことはできないから、慌ててしっかり捕まえ直す。
捕まえる? そうだ、一瞬、本がするりと逃げ出してしまいそうな気になったから。
それとも、僕が放り出してしまいそうになったのかな。
「じゃね」
手を振るリカに我に返って腰を浮かせる。
「帰るなら、一緒に…」
「今日は、ごめん」
リカはふいと硬い表情を戻した。
「友達の用事、忘れてたから」
「…うん」
リカは嘘をついている。目が泳ぎ、表情が薄っぺらになり、声が淡くなったから。
僕はそれでもうなずいた。
リカの髪が背中に乱れて、空気に溶け込むようにふわりふわりと揺れる。その髪が、明るい茶色の波のように図書室の出口からゆっくりと消えて行くのを、最後の一本の軌跡まで見送ってから、腰を落とす。
リカはなぜ嘘をついたんだろう。
「つ…」
そう思ったとたん、何だろう、また、頭が痛くなった。
別に一緒に帰りたくなかったのなら、そう言ってくれればよかったんだけど。友達の用事なんて言わなくても、僕はリカが嫌がるのなら無理に一緒に帰らなくていいし。
あの嘘は僕にとっては意味がなくて、リカにとっては意味がある何かなんだろうけど。それが何だろうとついつい思ってしまって。
こんなこと、考えるのがおかしいのかな。
眉をしかめて、右のこめかみがズキズキするのを、親指で強く押さえながら、残った手で教科書とノートを鞄にほうり込む。それから、リカが渡してくれた本を改めて見た。
真っ青な本だ。表も裏も、中表紙も、そしてページの隅々までさまざまな青色が埋めている。
タイトルは『グラン・ブルー』。白抜きのカタカナ。外国の写真家のものらしく、解説に『グラン・ブルー』とはとても深い海の色だと書かれている。
海が持っている青を一冊にすべておさめようとでもしたのか、めくってもめくっても、場所を示す小さな文字の囲みのほかは青色が紙面を埋めている。
始めのうちはとてもきれいな光景だと思って見ていたのに、だんだん何だか息苦しくなり、最後には吐きそうな気がして本を閉じた。
本を閉じると、吐き気も息苦しさもすぐに消える。なのに、少しでも開こうとすると、またすぐにむかむかするような血の気が引くような気持ちになる。
僕は固く本を閉じた。
何だ、これは。
普通の本じゃないのかな。何か特殊な本なんだろうか。
それとも、僕が……変なのかな。
不安になったけど、リカがせっかく勧めてくれたんだから、と本を手に図書室の貸し出しカウンターの前に立つ。
「この本を、借り直したいんだけど」
「他人のカードは困るんだけど」
僕のことばをそっくりなぞるようなリズムで、カウンターの中から柔らかな声が応じた。聞き覚えがある。中に立っている図書委員の顔をのぞき込んで確かめる。
左よりで分けた真っ黒な長めの前髪を広い額に数房垂らして、それをうっとうしがるふうでもなく、落ち着いた表情でクラスメートの春日伊織が『グラン・ブルー』をめくっていた。良家の一人息子が勉強の合間の息抜きに、ぱらぱら手近の本をくっている、そんな何げなさそうな仕草に、悪意は感じられない。
けど、続いた春日のことばはひどくそっけなく、厳しいものだった。
「それに、この本はまずいよ」
「え?」
一瞬、春日が何を言ったのかわからなくて、僕は瞬きした。
まずい?
何が?
誰に?
まるで その声が聞こえていたみたいに、春日がことばを継いだ。
「君にはよくない」
ふ、っとこちらを見上げた目が一瞬極彩色に光を放った。瞳孔も虹彩も、混じりあった万華鏡のように色が揺れて何色とも定めがたいような瞳。
驚いて瞬きすると、すぐに元の薄い茶色の目に戻った。底の方にぼんやりと緑のような色が透けて見えている、少し不思議な色だ。じっとこちらを見る、なのに、視線はどこか曖昧で、目の前にいる僕を見ているというより、僕の後ろにいる誰かを見ているような印象。
すうっと筆で弧を描いたような眉と通った鼻筋、江戸時代にいた勉学好きの少年を思わせるような端正な容貌。穏やかな性格。成績もいいし、体育系も無難にこなす。
クラスの女子だけではなく、学内でも結構人気があるのに、これといった親友がいないのは、春日と話していると妙な居心地の悪さを感じるからだと言われている。
僕も今それを味わっていた。
不安定な、まるで自分がこの世界から取り出されたような、孤立感? 景色がふいに見知らぬ世界とすり替えられたような、思わず周囲を見回して自分の居場所を確かめなくてはいられないような落ち着かなさ。
春日の視線に、僕の身体の奥底にある知らない記憶が引きずり出されていくような。
「何のことだかわかんないけど」
僕は目を逸らせた。自分の声がこわばり、体が微かに震えているのを感じた。
「かたいこと、言うなよ。みんな、やってるだろ」
図書カードを取り出して、相手を見ないままカウンターに載せる。
何だろう、この気持ち。今まであんまり味わったことのない……恐怖?
「内園のカードは預かるからさ」
それ以上自分の内側を感じ取らないようにして、言い放つ。
「…わかった」
春日は重ねては拒まなかった。目を伏せ、僕のカードを細い指先で受け取り、リカのカードの返却手続きを済ませる春日を視界の隅で見てみる。
確かに、居心地が悪い。言い争ったというのでもないけど、自分が大切な何かをごまかしているような気がする。
春日は僕の態度に不愉快になったふうもなく、無言でカードを返してよこした。
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