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3.武士と僧侶(1)
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暗闇の中を走っている。
荒く猛々しい息を必死に太い喉から吐き出しながら。
何とかして助けを求めなければならない。そう、夜明けが来る前に、何としてでも。
海沿いの崖を這うような道だった。
細く頼りなげに草の中に沈みかけた古い道だ。
ごろごろと小石が転がり、でこぼことした表面、ともすれば、それらに足を取られて、何度も躓きそうになっている。
それでも、一瞬も速度を緩めることもなく、前のめりに、両手を突き出し身体を泳がせるように走っているのは、迫ってくる追っ手から逃れるためだ。激しく息を喘がせながら、汗が入って痛んだ目をこすり、ちらりと後ろを振り返った。
背後、道のはるか向こうに分岐点がある。一方は海に突き出た岬に、もう一方は『よしの』を残してきた、風の吹き込む冷えてわびしい、すき間だらけの掘っ建て小屋に続いている。
『よしの』は僕の妻だ。
そう『思い出した』とたんに、胸の中に絞られるような切ない愛しさと、我を失うような苛立ちが満ちた。
田島の手からよしのをさらった時には、櫛けずらなくてもこの指をさらさらと滑り落ちるほどつややかだった黒髪も、長患いのためにそそけだつようにばさばさになっていた。痩せこけ衰えた細い体を、湿気と汚れでべったりとした板のようになった床の中に横たえて二年。
手下共が少しずつ散り散りになってしまったというのも、結局は『俺』のせいなのだ。
この地方を治める田島は巨大な集団の長、よしのはその一人娘だった。
北より土地を追われ流れてきた荒くれ者の俺を、田島は過分にもてなしてくれた。おまえの剣の腕と、手下共を一声で動かす統率力を買ったのだ、そう言って、豪気に笑う田島の隣で、よしのは可憐な花のようにほほ笑んでいた。
俺とよしのが互いに心を結び、身体をつなげるまでに時は不要だった。
俺達は一緒になりたかった。だが、田島はそれを許さなかった。裏切り者、恩知らず、そう罵倒して、俺を手酷く痛めつけ、放り出した。
俺は怒った。
手下を集め、奇襲をかけ、田島を討ち、よしのをさらった。よしのもそれを望んでいると思っていた。が、それは、所詮、己一人の欲望だったとわかったのは、そのすぐ後だ。
よしのは床についた。
笑わず、ものも食べなくなった。
俺は必死に看病した。田島側からの追っ手をかわし、時には戦って、よしのを守って何とかここまで逃げてきた。それでも、よしのは日に日に弱っていく。手下共は女一人にうろたえる俺を見限って離れていき、今ではこじろうとまごのたった二人になった。
俺はこの地に古くからいるという僧を訪ねた。田島をとりなし、あるいはよしのを癒して欲しかった。
僧はじっと俺の話を聞き、しばし考え込んだ後、ぽつりと言った。
『討たれておいで』
『何と!』
俺は驚き呆れた。
『そんなことを聞きにきたのではないぞ』
『そなたが災いをつくった。妻と手下を救いたいのなら、そなたが田島に討たれておいで。それで万事が丸くおさまる』
『くそ坊主! おまえに何がわかる!』
俺は叫んで飛び出して、その後今日まで、僧を訪ねたことはない。
だが、今はもう事情が違う。こじろうも殺され、まごも行方が知れなくなった。家には俺とよしのしかいない。そこへ田島は、これまでにない大掛かりな追っ手をかけてきた。何としてでも救ってもらわねばならない。
俺は前方に続く土の階段を見上げた。
駆け上がる、駆け上がる。足が震えて一歩ごとに体がのめる。
背中から、薄く鋭い朝の気配が迫ってきている。夜が明ければ、追っ手は一気に家を囲むだろう。
『あなた、もう、よろしいのです』
ぽつりとつぶやいて瞑目した、よしのの白い顔が胸を裂く。
よしの、よしの、待っていてくれ。
階段を駆け上がったところに、幾本かの木をとりあえず組み合わせただけのような、崩れそうな山門が見えた。田島の意に添わぬことをしたとかで、何度か焼き打ちにあって消失したという代物、それでも僧はこの地に残り、怯むことなく教えを説いた。田島もいつしか、僧とだけは争わなくなったと聞く。
だからこそ、俺はあの時もここへやってきたのだ。そして今、身動き取れぬ次第になって、田島と唯一話し合える僧の助けを借りに、恥を忍んで再び来た。
「おお!」
駆け上がりながら、俺は思わず声を上げた。
山門の真下に、何と、その僧が立っている。汚れすすけて、元の色が灰色なのか黒なのかわからぬ衣を、海からの風にはためかせて、僧は仁王立ちで俺を待っている、と見えた。
「和尚! 和尚!」
俺はどなった。
息が切れて、喉が破けそうだった。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
僧の足元に転がるように身を投げ出し、突っ伏して頭を下げた。
「よしのが危ない! これ、この通り! これまでの非礼は詑びる!」
荒い息を吐き、焼けつく胸の痛みに耐えながら、それでもどこかでほっとしていた。
これで何とかなるだろう。田島の怒りはすぐに解けなくとも、俺はよしのと再びどこかで暮らせるだろう。そうしているうちに、よしのも多少は体も心も回復し、いつかの花のような笑顔を俺に向けてくれるに違いない。
だが、僧のことばは静かで冷たかった。
「危ない? 危ないのは、よしのだけだな」
「何?」
思いもかけない突き放した僧の口調に、俺は顔を上げた。
「なぜ、そなた、一人でここへ参った」
荒く猛々しい息を必死に太い喉から吐き出しながら。
何とかして助けを求めなければならない。そう、夜明けが来る前に、何としてでも。
海沿いの崖を這うような道だった。
細く頼りなげに草の中に沈みかけた古い道だ。
ごろごろと小石が転がり、でこぼことした表面、ともすれば、それらに足を取られて、何度も躓きそうになっている。
それでも、一瞬も速度を緩めることもなく、前のめりに、両手を突き出し身体を泳がせるように走っているのは、迫ってくる追っ手から逃れるためだ。激しく息を喘がせながら、汗が入って痛んだ目をこすり、ちらりと後ろを振り返った。
背後、道のはるか向こうに分岐点がある。一方は海に突き出た岬に、もう一方は『よしの』を残してきた、風の吹き込む冷えてわびしい、すき間だらけの掘っ建て小屋に続いている。
『よしの』は僕の妻だ。
そう『思い出した』とたんに、胸の中に絞られるような切ない愛しさと、我を失うような苛立ちが満ちた。
田島の手からよしのをさらった時には、櫛けずらなくてもこの指をさらさらと滑り落ちるほどつややかだった黒髪も、長患いのためにそそけだつようにばさばさになっていた。痩せこけ衰えた細い体を、湿気と汚れでべったりとした板のようになった床の中に横たえて二年。
手下共が少しずつ散り散りになってしまったというのも、結局は『俺』のせいなのだ。
この地方を治める田島は巨大な集団の長、よしのはその一人娘だった。
北より土地を追われ流れてきた荒くれ者の俺を、田島は過分にもてなしてくれた。おまえの剣の腕と、手下共を一声で動かす統率力を買ったのだ、そう言って、豪気に笑う田島の隣で、よしのは可憐な花のようにほほ笑んでいた。
俺とよしのが互いに心を結び、身体をつなげるまでに時は不要だった。
俺達は一緒になりたかった。だが、田島はそれを許さなかった。裏切り者、恩知らず、そう罵倒して、俺を手酷く痛めつけ、放り出した。
俺は怒った。
手下を集め、奇襲をかけ、田島を討ち、よしのをさらった。よしのもそれを望んでいると思っていた。が、それは、所詮、己一人の欲望だったとわかったのは、そのすぐ後だ。
よしのは床についた。
笑わず、ものも食べなくなった。
俺は必死に看病した。田島側からの追っ手をかわし、時には戦って、よしのを守って何とかここまで逃げてきた。それでも、よしのは日に日に弱っていく。手下共は女一人にうろたえる俺を見限って離れていき、今ではこじろうとまごのたった二人になった。
俺はこの地に古くからいるという僧を訪ねた。田島をとりなし、あるいはよしのを癒して欲しかった。
僧はじっと俺の話を聞き、しばし考え込んだ後、ぽつりと言った。
『討たれておいで』
『何と!』
俺は驚き呆れた。
『そんなことを聞きにきたのではないぞ』
『そなたが災いをつくった。妻と手下を救いたいのなら、そなたが田島に討たれておいで。それで万事が丸くおさまる』
『くそ坊主! おまえに何がわかる!』
俺は叫んで飛び出して、その後今日まで、僧を訪ねたことはない。
だが、今はもう事情が違う。こじろうも殺され、まごも行方が知れなくなった。家には俺とよしのしかいない。そこへ田島は、これまでにない大掛かりな追っ手をかけてきた。何としてでも救ってもらわねばならない。
俺は前方に続く土の階段を見上げた。
駆け上がる、駆け上がる。足が震えて一歩ごとに体がのめる。
背中から、薄く鋭い朝の気配が迫ってきている。夜が明ければ、追っ手は一気に家を囲むだろう。
『あなた、もう、よろしいのです』
ぽつりとつぶやいて瞑目した、よしのの白い顔が胸を裂く。
よしの、よしの、待っていてくれ。
階段を駆け上がったところに、幾本かの木をとりあえず組み合わせただけのような、崩れそうな山門が見えた。田島の意に添わぬことをしたとかで、何度か焼き打ちにあって消失したという代物、それでも僧はこの地に残り、怯むことなく教えを説いた。田島もいつしか、僧とだけは争わなくなったと聞く。
だからこそ、俺はあの時もここへやってきたのだ。そして今、身動き取れぬ次第になって、田島と唯一話し合える僧の助けを借りに、恥を忍んで再び来た。
「おお!」
駆け上がりながら、俺は思わず声を上げた。
山門の真下に、何と、その僧が立っている。汚れすすけて、元の色が灰色なのか黒なのかわからぬ衣を、海からの風にはためかせて、僧は仁王立ちで俺を待っている、と見えた。
「和尚! 和尚!」
俺はどなった。
息が切れて、喉が破けそうだった。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
僧の足元に転がるように身を投げ出し、突っ伏して頭を下げた。
「よしのが危ない! これ、この通り! これまでの非礼は詑びる!」
荒い息を吐き、焼けつく胸の痛みに耐えながら、それでもどこかでほっとしていた。
これで何とかなるだろう。田島の怒りはすぐに解けなくとも、俺はよしのと再びどこかで暮らせるだろう。そうしているうちに、よしのも多少は体も心も回復し、いつかの花のような笑顔を俺に向けてくれるに違いない。
だが、僧のことばは静かで冷たかった。
「危ない? 危ないのは、よしのだけだな」
「何?」
思いもかけない突き放した僧の口調に、俺は顔を上げた。
「なぜ、そなた、一人でここへ参った」
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