『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

文字の大きさ
8 / 48

3.武士と僧侶(1)

しおりを挟む
 暗闇の中を走っている。
 荒く猛々しい息を必死に太い喉から吐き出しながら。
 何とかして助けを求めなければならない。そう、夜明けが来る前に、何としてでも。
 海沿いの崖を這うような道だった。
 細く頼りなげに草の中に沈みかけた古い道だ。
 ごろごろと小石が転がり、でこぼことした表面、ともすれば、それらに足を取られて、何度も躓きそうになっている。
 それでも、一瞬も速度を緩めることもなく、前のめりに、両手を突き出し身体を泳がせるように走っているのは、迫ってくる追っ手から逃れるためだ。激しく息を喘がせながら、汗が入って痛んだ目をこすり、ちらりと後ろを振り返った。
 背後、道のはるか向こうに分岐点がある。一方は海に突き出た岬に、もう一方は『よしの』を残してきた、風の吹き込む冷えてわびしい、すき間だらけの掘っ建て小屋に続いている。
 『よしの』は僕の妻だ。
 そう『思い出した』とたんに、胸の中に絞られるような切ない愛しさと、我を失うような苛立ちが満ちた。
 田島の手からよしのをさらった時には、櫛けずらなくてもこの指をさらさらと滑り落ちるほどつややかだった黒髪も、長患いのためにそそけだつようにばさばさになっていた。痩せこけ衰えた細い体を、湿気と汚れでべったりとした板のようになった床の中に横たえて二年。
 手下共が少しずつ散り散りになってしまったというのも、結局は『俺』のせいなのだ。
 この地方を治める田島は巨大な集団の長、よしのはその一人娘だった。
 北より土地を追われ流れてきた荒くれ者の俺を、田島は過分にもてなしてくれた。おまえの剣の腕と、手下共を一声で動かす統率力を買ったのだ、そう言って、豪気に笑う田島の隣で、よしのは可憐な花のようにほほ笑んでいた。
 俺とよしのが互いに心を結び、身体をつなげるまでに時は不要だった。
 俺達は一緒になりたかった。だが、田島はそれを許さなかった。裏切り者、恩知らず、そう罵倒して、俺を手酷く痛めつけ、放り出した。
 俺は怒った。
 手下を集め、奇襲をかけ、田島を討ち、よしのをさらった。よしのもそれを望んでいると思っていた。が、それは、所詮、己一人の欲望だったとわかったのは、そのすぐ後だ。
 よしのは床についた。
 笑わず、ものも食べなくなった。
 俺は必死に看病した。田島側からの追っ手をかわし、時には戦って、よしのを守って何とかここまで逃げてきた。それでも、よしのは日に日に弱っていく。手下共は女一人にうろたえる俺を見限って離れていき、今ではこじろうとまごのたった二人になった。
 俺はこの地に古くからいるという僧を訪ねた。田島をとりなし、あるいはよしのを癒して欲しかった。
 僧はじっと俺の話を聞き、しばし考え込んだ後、ぽつりと言った。
『討たれておいで』
『何と!』
 俺は驚き呆れた。
『そんなことを聞きにきたのではないぞ』
『そなたが災いをつくった。妻と手下を救いたいのなら、そなたが田島に討たれておいで。それで万事が丸くおさまる』
『くそ坊主! おまえに何がわかる!』
 俺は叫んで飛び出して、その後今日まで、僧を訪ねたことはない。
 だが、今はもう事情が違う。こじろうも殺され、まごも行方が知れなくなった。家には俺とよしのしかいない。そこへ田島は、これまでにない大掛かりな追っ手をかけてきた。何としてでも救ってもらわねばならない。
 俺は前方に続く土の階段を見上げた。
 駆け上がる、駆け上がる。足が震えて一歩ごとに体がのめる。
 背中から、薄く鋭い朝の気配が迫ってきている。夜が明ければ、追っ手は一気に家を囲むだろう。
『あなた、もう、よろしいのです』
 ぽつりとつぶやいて瞑目した、よしのの白い顔が胸を裂く。
 よしの、よしの、待っていてくれ。
 階段を駆け上がったところに、幾本かの木をとりあえず組み合わせただけのような、崩れそうな山門が見えた。田島の意に添わぬことをしたとかで、何度か焼き打ちにあって消失したという代物、それでも僧はこの地に残り、怯むことなく教えを説いた。田島もいつしか、僧とだけは争わなくなったと聞く。
 だからこそ、俺はあの時もここへやってきたのだ。そして今、身動き取れぬ次第になって、田島と唯一話し合える僧の助けを借りに、恥を忍んで再び来た。
「おお!」
 駆け上がりながら、俺は思わず声を上げた。
 山門の真下に、何と、その僧が立っている。汚れすすけて、元の色が灰色なのか黒なのかわからぬ衣を、海からの風にはためかせて、僧は仁王立ちで俺を待っている、と見えた。
「和尚! 和尚!」
 俺はどなった。
 息が切れて、喉が破けそうだった。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
 僧の足元に転がるように身を投げ出し、突っ伏して頭を下げた。
「よしのが危ない! これ、この通り! これまでの非礼は詑びる!」
 荒い息を吐き、焼けつく胸の痛みに耐えながら、それでもどこかでほっとしていた。
 これで何とかなるだろう。田島の怒りはすぐに解けなくとも、俺はよしのと再びどこかで暮らせるだろう。そうしているうちに、よしのも多少は体も心も回復し、いつかの花のような笑顔を俺に向けてくれるに違いない。
 だが、僧のことばは静かで冷たかった。
「危ない? 危ないのは、よしのだけだな」
「何?」
 思いもかけない突き放した僧の口調に、俺は顔を上げた。
「なぜ、そなた、一人でここへ参った」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...