9 / 48
3.武士と僧侶(2)
しおりを挟む
「何を言う…」
かっとして相手の顔を睨みつけたとたん、冴え冴えと深い瞳に捕らわれる。
「そなたは力でもってよしのを攫った。では、それを貫くしかあるまい。貫くなら、同じく力をもって、よしのを守るがよい」
「守った! 守ってきたのだ!」
俺はあまりな言い草に激怒した。よしのを守り、看病しながら逃げ回った日々、手下共から次々と見捨てられ孤独になっていく日々が一度に頭を過ぎ去った。
「俺は守った! 全てを犠牲にして守ってきたのだ!」
自分の喜びも楽しみも全て捨てて、よしのを背負い連れ歩いた。花が咲けば美しいと言うか、水の側なら気持ちがよいとつぶやくかと、うろうろと歩き回ったこともある。
だが、よしのは、一緒になってから、ついにただの一度も笑ってくれなかったのだ。
いつも静かに目を閉じて、『あなた、もう、よろしいのです』というばかり、側で手を握る俺の目の中一つ覗き込んではくれなかった。たとえ肌を重ねていても。
目頭が熱くなり、頬をだらだらと涙が流れた。
「犠牲になぞ、なってはおらぬよ」
僧はたじろぐこともなく応じた。冷水を浴びせるような声だった。
声の冷たさの奥に、これまで僧のことばの中には含まれていなかった、俺の激情に勝るとも劣らぬ怒りを感じて、思わずことばを呑んだ。
僧は青々と剃りあげた頭を動かしもせず、俺を冷ややかに見下ろしている。
「犠牲になったのは、よしのや手下達のみ。そなたはそなた自身の欲に駆られてよしのを攫った。今、その代わりを払っておるだけのこと。よしのや手下のために死ぬことも拒んだのだからな、仕方あるまい」
「俺が死んだら、どうなる!」
何かにぐいぐいと呑みこまれそうな気がして喚いた。
「よしのは誰が守る!」
「そなたが死ねば、よしのは田島の一人娘だ、大事にもう一度迎えられたことだろう」
「おっ、俺は…」
「第一、ほれ、ここにこうして、そなた一人逃げのびたのは、如何なる理由のためか、言うてみい」
僧は薄く笑った。整った顔立ちが酷薄に見える笑みだった。
「俺は助けを求めに!」
「見るがよい」
僧は目を逸らせ、すいと手を上げ彼方を指した。
「夜明けじゃ」
海の果てから、血に濡れたような朝日がとろとろと溶けながら昇りつつあった。海面に黄金の波が弾けて広がっていく。
「そなたほどの男が、家からここまでの往復、夜明け前までに手勢を連れて戻れると思うたなんぞとは、信じられぬ」
そうだ。
ふいにわかった。
俺は知っていた。
ここまでの距離を往復するためには、もっと早くに家を出なくてはならなかった。手勢を連れて戻り、家で一戦交えても、果たして勝てたかどうか。それよりは、よしのを背負って家を出た方が、より二人で生きられる道となっただろう。
しかし、それでは、追いつかれる心配があったのだ。
『あなた、もう、よろしいのです』
三度、よしのの声が耳の奥で響き、激しい震えが体を襲った。
よしのも気づいていたのだ。
僧に頼んで手勢を連れ、必ずおまえの元に戻ってくる、そう言って家を出た時に。
もう俺はここへは帰ってこないのだと。
それを知って。
それを、知って。
「くそ…坊主!」
俺は吐き捨てた。
まぶたのよしのの顔がにじむ。忘れまいと必死に胸の中に守ってきた、よしのの笑顔が砕け散る。加熱し乱れていく頭の中を、もはや止めようとは思わなかった。
「てめえのせいで、よしのは死んだ! てめえのせいで、よしのが死んだ!」
俺は僧を睨みつけた。溢れ出る涙を拭くこともなく、ぎろぎろと目を剥いた。
「俺はよしのを助けようと、死に物狂いで走ってきたんだ! それをてめえがゴタゴタと! てめえが危ない目に会いたくねえばっかりに! それでも僧か!」
「策は授けた」
相手は水面に葉が落ちたほどもうろたえなかった。
「討たれてこい、と言った」
「そんなことができるかよ!」
「なぜ、できん」
「俺が死んだらよしのが悲しむ!」
「では、命かけて守ってこい」
「もう、遅いんだ!」
「よしのは生きておるかもしれん」
「死んでる!」
俺は激しく頭を振った。その可能性を考えまいとしたのかもしれない。
ひょっとしたら。
頭の中を、田島がやってきたときに、安心したように微笑むよしのの顔が過った。
そうだ、ひょっとしたら、田島が迎えに来たことによしのは安堵さえするかもしれない。もうこれ以上俺と逃げ続けなくてもよくなった、と。俺の思いは結局は独りよがりでしかなかったのだ、と今度こそ思い知らされるのかもしれない。
俺には決して見せなかった、想像の中の安らかなその笑みを振り払うように、声を張り上げる。
「よしのは殺されてる! てめえのせいだ! てめえ、それでも修行者か! 世の中の、悩み苦しみをなくすのが修行者だろうが!」
俺の叫びに僧が一瞬黙った。
俺も口をつぐんだ。乱れた髪が風に舞って、俺の視界をわさわさと遮る。
朝日はどんどん昇り続け、その色を次第にまばゆい白金に変えていく。金の光に照らされていた僧がゆっくりと言った。
「悩み、苦しみなど、世にはない」
凜として、そのくせ、心の奥底に染み入るような、憐れみを含んだ声だった。
「あるのは、そなたが行ったことと結果のみ。どう受け取るのも、そなたの好きようにするがいい」
奇妙に光を入り乱れさせている薄い色の瞳。
まるで、こちらの背中の傷までも、一瞬にして見通すような不思議な目。
「よしのは生きておるやもしれん」
「春日!」
僕は叫んで跳ね起きた。
とたんに、強い吐き気が襲ってきて、ベッドから飛び降り、トイレへ走った。
吐いた。
繰り返し吐いた。
体を二つに折って苦しい空えずきを続けながら、頭の後ろから見つめる、万華鏡のように不思議な色を跳ねる春日の目を感じていた。
「僕は……」
つぶやきかけてひんやりした頬に気がつく。
顔中が、水を浴びたように、汗と涙で濡れていた。
かっとして相手の顔を睨みつけたとたん、冴え冴えと深い瞳に捕らわれる。
「そなたは力でもってよしのを攫った。では、それを貫くしかあるまい。貫くなら、同じく力をもって、よしのを守るがよい」
「守った! 守ってきたのだ!」
俺はあまりな言い草に激怒した。よしのを守り、看病しながら逃げ回った日々、手下共から次々と見捨てられ孤独になっていく日々が一度に頭を過ぎ去った。
「俺は守った! 全てを犠牲にして守ってきたのだ!」
自分の喜びも楽しみも全て捨てて、よしのを背負い連れ歩いた。花が咲けば美しいと言うか、水の側なら気持ちがよいとつぶやくかと、うろうろと歩き回ったこともある。
だが、よしのは、一緒になってから、ついにただの一度も笑ってくれなかったのだ。
いつも静かに目を閉じて、『あなた、もう、よろしいのです』というばかり、側で手を握る俺の目の中一つ覗き込んではくれなかった。たとえ肌を重ねていても。
目頭が熱くなり、頬をだらだらと涙が流れた。
「犠牲になぞ、なってはおらぬよ」
僧はたじろぐこともなく応じた。冷水を浴びせるような声だった。
声の冷たさの奥に、これまで僧のことばの中には含まれていなかった、俺の激情に勝るとも劣らぬ怒りを感じて、思わずことばを呑んだ。
僧は青々と剃りあげた頭を動かしもせず、俺を冷ややかに見下ろしている。
「犠牲になったのは、よしのや手下達のみ。そなたはそなた自身の欲に駆られてよしのを攫った。今、その代わりを払っておるだけのこと。よしのや手下のために死ぬことも拒んだのだからな、仕方あるまい」
「俺が死んだら、どうなる!」
何かにぐいぐいと呑みこまれそうな気がして喚いた。
「よしのは誰が守る!」
「そなたが死ねば、よしのは田島の一人娘だ、大事にもう一度迎えられたことだろう」
「おっ、俺は…」
「第一、ほれ、ここにこうして、そなた一人逃げのびたのは、如何なる理由のためか、言うてみい」
僧は薄く笑った。整った顔立ちが酷薄に見える笑みだった。
「俺は助けを求めに!」
「見るがよい」
僧は目を逸らせ、すいと手を上げ彼方を指した。
「夜明けじゃ」
海の果てから、血に濡れたような朝日がとろとろと溶けながら昇りつつあった。海面に黄金の波が弾けて広がっていく。
「そなたほどの男が、家からここまでの往復、夜明け前までに手勢を連れて戻れると思うたなんぞとは、信じられぬ」
そうだ。
ふいにわかった。
俺は知っていた。
ここまでの距離を往復するためには、もっと早くに家を出なくてはならなかった。手勢を連れて戻り、家で一戦交えても、果たして勝てたかどうか。それよりは、よしのを背負って家を出た方が、より二人で生きられる道となっただろう。
しかし、それでは、追いつかれる心配があったのだ。
『あなた、もう、よろしいのです』
三度、よしのの声が耳の奥で響き、激しい震えが体を襲った。
よしのも気づいていたのだ。
僧に頼んで手勢を連れ、必ずおまえの元に戻ってくる、そう言って家を出た時に。
もう俺はここへは帰ってこないのだと。
それを知って。
それを、知って。
「くそ…坊主!」
俺は吐き捨てた。
まぶたのよしのの顔がにじむ。忘れまいと必死に胸の中に守ってきた、よしのの笑顔が砕け散る。加熱し乱れていく頭の中を、もはや止めようとは思わなかった。
「てめえのせいで、よしのは死んだ! てめえのせいで、よしのが死んだ!」
俺は僧を睨みつけた。溢れ出る涙を拭くこともなく、ぎろぎろと目を剥いた。
「俺はよしのを助けようと、死に物狂いで走ってきたんだ! それをてめえがゴタゴタと! てめえが危ない目に会いたくねえばっかりに! それでも僧か!」
「策は授けた」
相手は水面に葉が落ちたほどもうろたえなかった。
「討たれてこい、と言った」
「そんなことができるかよ!」
「なぜ、できん」
「俺が死んだらよしのが悲しむ!」
「では、命かけて守ってこい」
「もう、遅いんだ!」
「よしのは生きておるかもしれん」
「死んでる!」
俺は激しく頭を振った。その可能性を考えまいとしたのかもしれない。
ひょっとしたら。
頭の中を、田島がやってきたときに、安心したように微笑むよしのの顔が過った。
そうだ、ひょっとしたら、田島が迎えに来たことによしのは安堵さえするかもしれない。もうこれ以上俺と逃げ続けなくてもよくなった、と。俺の思いは結局は独りよがりでしかなかったのだ、と今度こそ思い知らされるのかもしれない。
俺には決して見せなかった、想像の中の安らかなその笑みを振り払うように、声を張り上げる。
「よしのは殺されてる! てめえのせいだ! てめえ、それでも修行者か! 世の中の、悩み苦しみをなくすのが修行者だろうが!」
俺の叫びに僧が一瞬黙った。
俺も口をつぐんだ。乱れた髪が風に舞って、俺の視界をわさわさと遮る。
朝日はどんどん昇り続け、その色を次第にまばゆい白金に変えていく。金の光に照らされていた僧がゆっくりと言った。
「悩み、苦しみなど、世にはない」
凜として、そのくせ、心の奥底に染み入るような、憐れみを含んだ声だった。
「あるのは、そなたが行ったことと結果のみ。どう受け取るのも、そなたの好きようにするがいい」
奇妙に光を入り乱れさせている薄い色の瞳。
まるで、こちらの背中の傷までも、一瞬にして見通すような不思議な目。
「よしのは生きておるやもしれん」
「春日!」
僕は叫んで跳ね起きた。
とたんに、強い吐き気が襲ってきて、ベッドから飛び降り、トイレへ走った。
吐いた。
繰り返し吐いた。
体を二つに折って苦しい空えずきを続けながら、頭の後ろから見つめる、万華鏡のように不思議な色を跳ねる春日の目を感じていた。
「僕は……」
つぶやきかけてひんやりした頬に気がつく。
顔中が、水を浴びたように、汗と涙で濡れていた。
0
あなたにおすすめの小説
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
白苑後宮の薬膳女官
絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。
ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。
薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。
静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる