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4.虹の向こうの雨(3)
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そのまま厳しく唇を引き締め、目を閉じた春日は腕を組んで椅子にもたれ、身動きしなくなった。長い前髪が顔にかかってうるさそうなのを、払いのけもしないでじっとしている。考え込んでいる、ようだ。
周囲で仲間が帰り始めた。まだ帰らないのか、とか、何やってんだ、とかの声に、春日は反応しない。仕方なしに僕が、もう少しな、とか、ああちょっと、とか答えて、やがて教室は僕と春日の二人を残して静まり返った。
春日はそれでも腕を解こうとしない、目を開かない。
僕はそろそろと、春日の前の席の椅子をまたいで腰掛けた。背もたれに腕を乗せ、考え続けている春日を見る。
確かに、いつかの僕と似たような感じで、春日の中の外に向かって開かれていた扉が、ぱたりとと閉まった気がした。けれど、いつかの僕とは違って、春日はその扉の奥に走って逃げ込んでいかないで、扉一枚隔てたすぐそこの場所で、じっとたたずみ考えている気がした。
そう、春日はそこにいる。
今朝の居心地悪い朝食の席みたいに誰もかれもがいなくなるんじゃなくて、春日はまだ、そこにいる。
そして、春日がそこにいるのは、まぎれもなく僕のことばに答えるためだ。その答えを僕に一番いい形で伝えようとして、春日は必死に考えてくれている。ひどく温かな気持ちが僕の中に広がった。
じゃあ、待てる。僕も待てる。
胸の中で声が応える。
そうだ、春日はいなくなったりしていないから。
前はできなかったけど。
静まり返った教室で、体の奥で響いたことばに、僕はそっと耳を傾けた。
そうだ、前はできなかった。けれど、今はできる、待っていられる。
どうしてだ、と声は尋ねた。
それはきっと、ぎりぎりだから、と僕は答えた。
もう僕には後がない。このまま進めば、僕はここで終わるしかないかもしれないから。
校舎の遠くでざわめきが聞こえる。運動場の部活連中の声も聞こえる。
けれど、それらの音すべてを吸い込んでいくように、春日と僕の回りは不思議な静けさに包まれていた。
春日はまだ眉をしかめて目を閉じている。きつく張られた糸が春日の中で鋭い音色で鳴っていて、それに聞き入っているようだ。
僕はなんだか、もう何も話さなくてもいいような気がした。春日が何も言ってくれなくても、春日が真剣に考えてくれている、それでもう十分な気がした。
黙ってじっと春日を見ている。乱れた前髪や、厳しい口元の陰や、白く光る頬の線をぼんやりと見ながら、このまま永遠にでも座っていられるような気がする。
『あのとき』も、こうして待てればよかったんだ。
胸の声は小さくささやいた。
『あのとき』って?
尋ね返すのには答えず、声は淡々と続いた。
そう、その通りだ。こうして春日と向き合って、ゆっくりと答えが熟してくるのを待っていられれば、あんな酷くて辛い思いをしなくても済んだんだ。
でも、仕方ないんだよな、と今度は僕が声に応じた。
結局ここまで追い詰められなけりゃ、変われないんだ、僕は。変われないんだ、人間ってのは。
ふう、と無意識に息をもらして、僕は体から力を抜いた。
疲れたよな、と声が応じた。
ああ、疲れたよ、ほんとうに。
辛かったよな、と声はいたわってくれた。
ああ、辛かった、ほんとうに。
けれど、今は僕の分を春日が背負ってくれているから、少しだけ休んでもいいだろうか。ほんの少し、自分のことを責めなくてもいいだろうか。
うん、いいかもしれない。
ほんの少しだけ、足を止めて考えていてもいいかもしれない。
それはずいぶん幸せなことのように思えた。
逃げ回って、疲れ切って、春日に会うまで走り続けて。こんな思いを、いつまで僕は繰り返すんだろう。
静かな春日の呼吸の音を聞いていると、まぶたが重く下がってくる。力を抜いた自分の体が温かくてふんわりしている。腕に顎をのせて、うとうとと閉じかけた目を瞬いて春日を見た。
春日はまだ考え続けている。眉はますます寄って、ひどく苦しそうで悲しそうだ。どうにもならない運命を、何とか切り開こうとしているようにも見える。どこにも見えない救いの道を、必死に捜し求めているようにも見える。
そうか、春日も苦しいのか。
僕はぼんやりと考えた。
僕一人が辛いんじゃなかったのか。
教室の中に射す、薄明るい夕日と温かくて柔らかな沈黙を続けている春日と深い穏やかな呼吸の音……。柔らかくくるまれて感覚が溶ける。
そこは小学校の運動会のようだった。
グラウンドに歓声が響き渡り、色鮮やかな風船がぐんぐん上っていく。花火が弾けて、白い煙とかすかな火花のきらめきを青空に散らせる。
空には虹がかかっていた。
見事に大きくてきれいな虹で、僕はわくわくしながら、その虹を見た。笑い声が満ちていて、世界はとても美しい、と思った。
けれど、ふと気づくと、いつの間にか、虹の向こうの空に、真っ黒な雲がむくむくとわきあがっていた。虹の七色の半円の中だけ、瞬く間に暗闇が塗りつぶしていく。
何だろう、あれは。
僕は不安になり、体を強ばらせた。よくないこと、『悪いこと』が起こる気がした。
それから逃げようと、夢の中で身を翻したとたん、はっとして目を覚ました。
周囲で仲間が帰り始めた。まだ帰らないのか、とか、何やってんだ、とかの声に、春日は反応しない。仕方なしに僕が、もう少しな、とか、ああちょっと、とか答えて、やがて教室は僕と春日の二人を残して静まり返った。
春日はそれでも腕を解こうとしない、目を開かない。
僕はそろそろと、春日の前の席の椅子をまたいで腰掛けた。背もたれに腕を乗せ、考え続けている春日を見る。
確かに、いつかの僕と似たような感じで、春日の中の外に向かって開かれていた扉が、ぱたりとと閉まった気がした。けれど、いつかの僕とは違って、春日はその扉の奥に走って逃げ込んでいかないで、扉一枚隔てたすぐそこの場所で、じっとたたずみ考えている気がした。
そう、春日はそこにいる。
今朝の居心地悪い朝食の席みたいに誰もかれもがいなくなるんじゃなくて、春日はまだ、そこにいる。
そして、春日がそこにいるのは、まぎれもなく僕のことばに答えるためだ。その答えを僕に一番いい形で伝えようとして、春日は必死に考えてくれている。ひどく温かな気持ちが僕の中に広がった。
じゃあ、待てる。僕も待てる。
胸の中で声が応える。
そうだ、春日はいなくなったりしていないから。
前はできなかったけど。
静まり返った教室で、体の奥で響いたことばに、僕はそっと耳を傾けた。
そうだ、前はできなかった。けれど、今はできる、待っていられる。
どうしてだ、と声は尋ねた。
それはきっと、ぎりぎりだから、と僕は答えた。
もう僕には後がない。このまま進めば、僕はここで終わるしかないかもしれないから。
校舎の遠くでざわめきが聞こえる。運動場の部活連中の声も聞こえる。
けれど、それらの音すべてを吸い込んでいくように、春日と僕の回りは不思議な静けさに包まれていた。
春日はまだ眉をしかめて目を閉じている。きつく張られた糸が春日の中で鋭い音色で鳴っていて、それに聞き入っているようだ。
僕はなんだか、もう何も話さなくてもいいような気がした。春日が何も言ってくれなくても、春日が真剣に考えてくれている、それでもう十分な気がした。
黙ってじっと春日を見ている。乱れた前髪や、厳しい口元の陰や、白く光る頬の線をぼんやりと見ながら、このまま永遠にでも座っていられるような気がする。
『あのとき』も、こうして待てればよかったんだ。
胸の声は小さくささやいた。
『あのとき』って?
尋ね返すのには答えず、声は淡々と続いた。
そう、その通りだ。こうして春日と向き合って、ゆっくりと答えが熟してくるのを待っていられれば、あんな酷くて辛い思いをしなくても済んだんだ。
でも、仕方ないんだよな、と今度は僕が声に応じた。
結局ここまで追い詰められなけりゃ、変われないんだ、僕は。変われないんだ、人間ってのは。
ふう、と無意識に息をもらして、僕は体から力を抜いた。
疲れたよな、と声が応じた。
ああ、疲れたよ、ほんとうに。
辛かったよな、と声はいたわってくれた。
ああ、辛かった、ほんとうに。
けれど、今は僕の分を春日が背負ってくれているから、少しだけ休んでもいいだろうか。ほんの少し、自分のことを責めなくてもいいだろうか。
うん、いいかもしれない。
ほんの少しだけ、足を止めて考えていてもいいかもしれない。
それはずいぶん幸せなことのように思えた。
逃げ回って、疲れ切って、春日に会うまで走り続けて。こんな思いを、いつまで僕は繰り返すんだろう。
静かな春日の呼吸の音を聞いていると、まぶたが重く下がってくる。力を抜いた自分の体が温かくてふんわりしている。腕に顎をのせて、うとうとと閉じかけた目を瞬いて春日を見た。
春日はまだ考え続けている。眉はますます寄って、ひどく苦しそうで悲しそうだ。どうにもならない運命を、何とか切り開こうとしているようにも見える。どこにも見えない救いの道を、必死に捜し求めているようにも見える。
そうか、春日も苦しいのか。
僕はぼんやりと考えた。
僕一人が辛いんじゃなかったのか。
教室の中に射す、薄明るい夕日と温かくて柔らかな沈黙を続けている春日と深い穏やかな呼吸の音……。柔らかくくるまれて感覚が溶ける。
そこは小学校の運動会のようだった。
グラウンドに歓声が響き渡り、色鮮やかな風船がぐんぐん上っていく。花火が弾けて、白い煙とかすかな火花のきらめきを青空に散らせる。
空には虹がかかっていた。
見事に大きくてきれいな虹で、僕はわくわくしながら、その虹を見た。笑い声が満ちていて、世界はとても美しい、と思った。
けれど、ふと気づくと、いつの間にか、虹の向こうの空に、真っ黒な雲がむくむくとわきあがっていた。虹の七色の半円の中だけ、瞬く間に暗闇が塗りつぶしていく。
何だろう、あれは。
僕は不安になり、体を強ばらせた。よくないこと、『悪いこと』が起こる気がした。
それから逃げようと、夢の中で身を翻したとたん、はっとして目を覚ました。
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