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4.虹の向こうの雨(4)
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汗で体が濡れている。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
教室の中は夕方の青に染め上げられて、冷えて寒々としていた。目の前の席で腕を組んで考え込んでいたはずの春日の姿もなくなっている。
「春日?」
僕は慌てて立ち上がった。その拍子に、机の上に置かれていたらしい紙がひらりと床に落ちた。拾い上げて文面を追う。
『よく眠っていて、声をかけても起きなかった。見回りの先生が来るまでには起きるだろうと思ったので、先に帰る。よければ、明日でも来いよ。 春日』
端正な字が書かれている。春日のものらしい住所と電話番号もメモされていた。
読み返しながらだんだん腹が立ってきた。
結局、春日も同じなのだ。ややこしいことには関わりたくなくて、僕はまた捨てられたのだ。
「行かないぞ、行くもんか」
つぶやいて、紙をくしゃくしゃに丸めて捨てようとしたのに、手は勝手にメモを鞄にていねいにしまい込んでいて、何だか急に情けなくなった。固く凍えたような体をぎくしゃく動かして、教室の外へ出る。
外はみるみる明るさを失いつつあった。正門を抜けて帰途につくころには、あちこちでネオンや街灯がつき始めていた。
「また、あれこれ言われるんだろうなあ」
部活にも入っていないのにどうしてこんなに遅かったのか、何か学校で問題を起こしたのか、それとも家に帰ってきたくなかったのか、などと。
聞いてくれてもわかってくれない、わかってくれても何もしてくれないのに。
「何のために聞くんだろう」
夜へ向かう街に、ゆっくり人間達が集まってくる。
吸血鬼のようだ。
昼間は狭く息苦しいコンクリートの中にはめ込まれて、夜になるとうろつき始める怪物達。昼とはまったく違う顔を、コインロッカーから取り出してつけかえて。僕だけじゃない、誰もみんなをごまかしている。そしてきっと、自分さえも。
春日と一緒に居た時間の、あの不思議な感覚の後では、夜の街が一層疲れて化け物じみて見えた。
見せかけだけの華やかさ、見せかけだけのにぎやかさ。中身のない、形のない、愛だの恋だの友情だのを着飾って投げ散らかしていくように。
のろのろとたどり着いた駅の構内にも、にぎやかな声が満ちつつあった。一仕事終えたらしいサラリーマン、これから繁華街に繰り出そうとする男女の群れ。厚ぼったい化粧と、一点の染みなく整ったファッションの入り交じったカタログ。
それらをぼんやりと見ていた僕は、次の一瞬、体が竦んだ。
リカだ。
リカがいる。
胸がとくんと甘く打った。だれきっていた体に風が吹き込んだみたいに気力が戻った。
なんてラッキーなんだろう。春日に付き合ったのも、こんな時間まで学校にいたのも、この出会いを満たすための神様の粋な計らいだったんじゃないのか。
舞い上がった僕は、声をかけようとして口を閉じた。
神様の計らいどころじゃない、実は神様ってのは純然たる悪意なのかもしれない。
そう思うのに時間はかからなかった。
リカは一人じゃなかったのだ。
輝くような赤と金ボタンのワンピースにヒール、唇には目を射るほど鮮やかな紅色を塗って、リカは男と歩いていた。焦げ茶色の、一目見て高級だとわかる仕立てのスーツにクリーム色のシャツ、これも高そうな品のいいネクタイにきらきら光る本物の宝石のようなタイピン、かなり年上の男だ。
右腕に絡みつくようなリカをうっとうしがるでもなく、だからといって振り回されているふうでもなく、どちらかというと、リカも腕にはめた金時計と同じように扱っている。ずっと前からそこにあった、持ち歩き慣れたアクセサリーの一つのように。
リカは笑っていた。男が何か唇を妙にゆがませてささやくと、くすくすと笑って体をくねらせ、はっきりと胸を男の腕に擦り寄せさえした。
僕はそうっと柱の陰に身を潜めた。すぐ側を二人が通り過ぎて行く。僕にまったく気づかないリカと、僕のことなんかまったく知らない男が。
「どこがいい?」
男が優しくささやいて、僕は柱にもたれるように背中を向けた。
「んー、今日は記念の日だからあ」
リカが聞いたことのない甘い声で応じる。
「食事してえ、プレゼントもらってえ」
「プレゼント? 今度は何だ?」
「ふふっ」
リカはくすぐったそうに笑った。
「ベビーGの、いいのが出たんだ」
「時計ね、きりがないな。この間のは?」
「もう、さっこに上げたの、飽きたから」
「やれやれ」
「それからあ」
「まだあるのか?」
リカはまた笑って、ささやくように、駅から少し離れたホテルの名前を言った。僕は思わず振り返った。
「お礼はしなくちゃ、ね? 部屋取ってもいいよ」
リカの顔は幸せそうに上気している。
「よくわかってるよ、リカは」
男が笑い返してリカの肩を抱き寄せ、リカはよろけてはしゃいで笑った。そのまま二人、互いの体をもっと楽しむようにくっつきあって、夜の中へ消えていく。
「扉の、中か」
僕はつぶやいた。
土曜日の映画がなぜ無理になったのか、よくわかった。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
教室の中は夕方の青に染め上げられて、冷えて寒々としていた。目の前の席で腕を組んで考え込んでいたはずの春日の姿もなくなっている。
「春日?」
僕は慌てて立ち上がった。その拍子に、机の上に置かれていたらしい紙がひらりと床に落ちた。拾い上げて文面を追う。
『よく眠っていて、声をかけても起きなかった。見回りの先生が来るまでには起きるだろうと思ったので、先に帰る。よければ、明日でも来いよ。 春日』
端正な字が書かれている。春日のものらしい住所と電話番号もメモされていた。
読み返しながらだんだん腹が立ってきた。
結局、春日も同じなのだ。ややこしいことには関わりたくなくて、僕はまた捨てられたのだ。
「行かないぞ、行くもんか」
つぶやいて、紙をくしゃくしゃに丸めて捨てようとしたのに、手は勝手にメモを鞄にていねいにしまい込んでいて、何だか急に情けなくなった。固く凍えたような体をぎくしゃく動かして、教室の外へ出る。
外はみるみる明るさを失いつつあった。正門を抜けて帰途につくころには、あちこちでネオンや街灯がつき始めていた。
「また、あれこれ言われるんだろうなあ」
部活にも入っていないのにどうしてこんなに遅かったのか、何か学校で問題を起こしたのか、それとも家に帰ってきたくなかったのか、などと。
聞いてくれてもわかってくれない、わかってくれても何もしてくれないのに。
「何のために聞くんだろう」
夜へ向かう街に、ゆっくり人間達が集まってくる。
吸血鬼のようだ。
昼間は狭く息苦しいコンクリートの中にはめ込まれて、夜になるとうろつき始める怪物達。昼とはまったく違う顔を、コインロッカーから取り出してつけかえて。僕だけじゃない、誰もみんなをごまかしている。そしてきっと、自分さえも。
春日と一緒に居た時間の、あの不思議な感覚の後では、夜の街が一層疲れて化け物じみて見えた。
見せかけだけの華やかさ、見せかけだけのにぎやかさ。中身のない、形のない、愛だの恋だの友情だのを着飾って投げ散らかしていくように。
のろのろとたどり着いた駅の構内にも、にぎやかな声が満ちつつあった。一仕事終えたらしいサラリーマン、これから繁華街に繰り出そうとする男女の群れ。厚ぼったい化粧と、一点の染みなく整ったファッションの入り交じったカタログ。
それらをぼんやりと見ていた僕は、次の一瞬、体が竦んだ。
リカだ。
リカがいる。
胸がとくんと甘く打った。だれきっていた体に風が吹き込んだみたいに気力が戻った。
なんてラッキーなんだろう。春日に付き合ったのも、こんな時間まで学校にいたのも、この出会いを満たすための神様の粋な計らいだったんじゃないのか。
舞い上がった僕は、声をかけようとして口を閉じた。
神様の計らいどころじゃない、実は神様ってのは純然たる悪意なのかもしれない。
そう思うのに時間はかからなかった。
リカは一人じゃなかったのだ。
輝くような赤と金ボタンのワンピースにヒール、唇には目を射るほど鮮やかな紅色を塗って、リカは男と歩いていた。焦げ茶色の、一目見て高級だとわかる仕立てのスーツにクリーム色のシャツ、これも高そうな品のいいネクタイにきらきら光る本物の宝石のようなタイピン、かなり年上の男だ。
右腕に絡みつくようなリカをうっとうしがるでもなく、だからといって振り回されているふうでもなく、どちらかというと、リカも腕にはめた金時計と同じように扱っている。ずっと前からそこにあった、持ち歩き慣れたアクセサリーの一つのように。
リカは笑っていた。男が何か唇を妙にゆがませてささやくと、くすくすと笑って体をくねらせ、はっきりと胸を男の腕に擦り寄せさえした。
僕はそうっと柱の陰に身を潜めた。すぐ側を二人が通り過ぎて行く。僕にまったく気づかないリカと、僕のことなんかまったく知らない男が。
「どこがいい?」
男が優しくささやいて、僕は柱にもたれるように背中を向けた。
「んー、今日は記念の日だからあ」
リカが聞いたことのない甘い声で応じる。
「食事してえ、プレゼントもらってえ」
「プレゼント? 今度は何だ?」
「ふふっ」
リカはくすぐったそうに笑った。
「ベビーGの、いいのが出たんだ」
「時計ね、きりがないな。この間のは?」
「もう、さっこに上げたの、飽きたから」
「やれやれ」
「それからあ」
「まだあるのか?」
リカはまた笑って、ささやくように、駅から少し離れたホテルの名前を言った。僕は思わず振り返った。
「お礼はしなくちゃ、ね? 部屋取ってもいいよ」
リカの顔は幸せそうに上気している。
「よくわかってるよ、リカは」
男が笑い返してリカの肩を抱き寄せ、リカはよろけてはしゃいで笑った。そのまま二人、互いの体をもっと楽しむようにくっつきあって、夜の中へ消えていく。
「扉の、中か」
僕はつぶやいた。
土曜日の映画がなぜ無理になったのか、よくわかった。
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