『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

文字の大きさ
17 / 48

5.夢のかけら(1)

しおりを挟む
 僕はもう粉々になってしまった。粉々になった僕が、空っぽの僕の中に詰め込まれている。
 だから、母さんがどれだけ何を話そうとも、もう何も入らない。なのに、母さんはまったく気づかずに、どんどん話し続けている。
 学校が休みで、土曜日家にぼんやりいた僕がまずかったのかもしれないけど。
「もう、高校生なんでしょう? ちょっとはあれこれ、家の事情というものを考えられるんじゃないの? 学校は休みでも家の仕事ってものがあるのよ。お父さんもお仕事があって忙しいんだから、こういうときにこそ、和樹が手伝ってくれないと」
 今日もいい天気だ。日差しが明るい。そんなことを考えていた僕をじろりと母さんがにらんで、ふっと我に返る。
 何を言われてたんだっけ?
「何をって」
 あきれたように母さんが言って、僕は瞬きした。返事したつもりはなかったのに。
「だから、自分で手伝えることを考えなさいって言ってるの。部屋の掃除とか、買い物をしてきてくれるとか、家の中の仕事でも、手伝えることは一杯あるでしょう?」
 母さんは付け加えて、唇の端をひくひくと動かした。自分では気づいていないけれど、母さんの考えていることを他の誰かが察してくれないと、必ず出て来る癖。
「部屋の掃除ね、わかった、他にすること、ある? 今日は暇だから何でもするけど」
 僕は目一杯明るく言った。
 万事OK、そんな感じで母さんがほほ笑む。
「ありがとう、今はないわ」
「都おばあちゃんにも用事はないかって聞いてみようか?」
 ひく。
「そんなこと、言ってないでしょう?」
 母さんは唇と目を同時にひきつらせた。
「そんなにお母さんを『できの悪い主婦』にしたいの」
 険のある声で問い詰める。
「そんな…つもり…」
「余計な気を回してないで、自分のことをきちんとやりなさい」
 母さんは話は終わったと言わんばかりにくるりと背中を向けた。そのまま流しに立って、朝食の洗い物を始める。その後ろ姿が、あっと言う間に、はるか彼方の崖の上に離れていったように小さく遠く見えた。
 余計な気を回してないで、自分のことをきちんとやりなさい?
 母さんの考えること、望んでること、願っていることを察しないと、まるでできそこないのように扱うくせに?
 僕は答えようがなくて、コーヒーカップの温くなった中身を口に含んだ。
 何も入らないんだよ、母さん。
 僕の中には、もう何も入らない。
 僕の中は一杯なんだ、僕のくずだらけで。
「片岡さんのところの、実くん、知ってるでしょ」
 急に母さんが話し出した。自分の話すことは僕が必ず聞いていると確信してる声。聞いていないと世界が終わってしまったように騒ぐ声。
「うん」
 機械的に声を返す。不快そうじゃなく、いかにもああ、聞きたかったんです、それ、みたいな声を。
「繁華街でうろうろしていて、補導されたんだって」
 僕は実の顔を思い出した。
 青白い生気のない顔で、いつもどこか弱々しい笑みを浮かべていた。こぼれ落ちそうな大きな目をしていて、いじめられるとその目がどんどん大きく広がったけど、決して泣かなかった。
 実がどこまでやったら泣くか、なんて賭けは当たり前のことだった。けれどもきっと、実が泣いても終わりにはならなかっただろう。どこまでやったら悲鳴を上げてやめてくれと頼んでくるか。どこまでやったら泣かなくなるか。次の賭けはそうなったに違いない。
「小学校のときはおとなしくていい子だったのに。礼儀正しくて、道で会ってもきちんと挨拶してくれたわよ。親のしつけが行き届いているって感じだったのに」
 母さんは洗い上げた皿を一枚ずつ、大きさをそろえて丁寧にかごに並べながら続けた。
「中学に入ってから悪くなったわね。友達のかげんかしらね。朱に交われば赤くなるって、ほんとだわね」
「何か…やったの」
 どんどん実が悪者にされていきそうで、僕は思わず口を挟んだ。
「うろうろしてただけらしいけど……でも、万引きや何かぐらい、したのかもしれないわね、そこまでは知らないけど」
 そこまでは知らない。
 僕は母さんのことばを胸の中で繰り返した。
 そう、そこまでは知らない。
 なのに、母さんは、実をとんでもないできそこないのように扱っても平気なんだ。
 実が小学校に入ってすぐからいじめにあっていたことや、六年間いじめ続けた奴が中学でも同じクラスになったことも、知らない。そのいじめてた奴っていうのが、近所で評判の『礼儀正しいしっかりした大人びた』朗だということにも気づいていない。
 実は確かに見かけは弱々しくて脆そうだったけど、六年間一度も学校を休もうとしなかったし、朗のいいなりになって万引き仲間にも入らなかった。
 ずっと前、ほんとは親に話したこともあるんだけど、と笑った実の顔を、僕は今も思い出す。「まさかね」と笑われたんだそうだ。「あんたの考えすぎよ、実、あの朗くんがそんなこと」と。
 快活で必ず近所のおばさん達の中心にいるような人気者で、朗とよく似た性格の実の母親は、息子が何でしょっちゅう『転んで』ケガをして帰って来るのか、全く考えなかったんだろうか。
 実がどれほどタフで必死だったか、大人は誰も知らない。たとえ後でそれをわかっても、こう言うんだろう。
 そこまでは知らなかった。
 そこまでは気づかなかった。
 じゃあ、どこまで知れば、助けてくれるんだ?
 ぶっ壊れても、仕方がないよね。
 僕は黙ったまま、飲み終わったコーヒーカップを流しに出した。
「今、洗い物、終わったのよ?」
 母さんはとても不思議なことに出くわしたように、僕を見た。
「あ、ごめん」
 それならもう一杯、コーヒーを飲もうか。
 僕はスプーンを取り出し、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。
「そのまま飲むの?」
「え?」
 母さんが止めた。
「汚れてるじゃない、カップ」
 振り返ると、母さんが不快そうに眉をしかめて手を出している。
「同じ…コーヒー、だけど」
 それに、僕が飲むんだし、僕が気にしなければいいこと、だよね?
「すっきりきれいなカップで飲んだ方が気持ちいいわよ」
 母さんは有無を言わせず、僕の手からカップを取り上げた。流しに戻り、洗剤を泡立てたスポンジでキュッキュッ、とCMみたいに音をたててこすって洗い、水で流して布巾で水分を拭き取った。ぴかぴかに光ったカップを僕の手に自慢そうに返してくれる。
 一連の動作と、さっきの洗い物は終わったのにどうしていまさら汚れたカップを出すのか、そういいたげだった母さんが重なって、僕は混乱した。
 今の動作は洗い物じゃなかったんだろうか。
 それとも、母さんが洗い物の追加を嫌がったと思った僕が、間違っていたんだろうか。
「さっき、汚れたカップを出すのと、今洗ったのと……どう違うの?」
 尋ねたとたんに後悔した。
 母さんの顔がゆっくりと朱色に染まった。
 ダン、とすごい音をたてて、母さんはカップを流しに叩きつけるように置いた。圧力に耐えかねたのか、ぴちっ、とカップのどこかで小さいけれど嫌な音がした。
「人の好意を何だと思ってるの!」
 母さんはいきりたったように叫んだ。
「人の気持ちを何だと思ってるの! きれいなカップで飲みたいだろうなと思っただけのことでしょう! だからわざわざ洗ったんじゃない! なのに、お礼一つも言わないで!」
 僕の混乱は増した。
 お礼?
 どうして?
 好意?
 母さんが、僕のカップを洗ったことが?
 でも、僕は別にカップを洗ってほしいなんて思わなかった。あのままのカップでよかったんだ。きれいなカップですっきり飲んでほしかったのは、僕じゃなくて、母さんの方じゃなかったの? 
 母さんが、母さんの気持ちをすっきりさせるために、僕のカップを洗ったんじゃなかったの?
 なのに、それに、僕はお礼を言わなくちゃならない? 望んでもいなかったことをしてもらったからと言って?
「何だって、そういちいち反抗するのよ! 何が不満なの! 言ってみなさい!」
 母さんはきりきりと声をとがらせた。
 反抗。僕が母さんに尋ねたことが、反抗なの?
 でも、僕は、ごちそうさま、とカップを流しに出して洗ってもらうのと、次のコーヒーを飲むときに洗い直すことの、どこに違いがあるのかわからなかっただけだ。
 不満? 僕が、僕の思っていることを口に出すことが?
 でも、僕は母さんじゃないから、母さんとは違うことを感じたり考えたり思ったりする。それを口に出すことは、母さんに対する不満になるの?
 考えれば考えるほど、母さんが何に怒っているのか、母さんは何を望んでいるのか、わからなくなってきた。
 『まずい』ことをしたらしい。いつものように、いつもの手順で。でも、何が『まずい』のか、わからない。ましてや、僕の中は粉々になっている断片だらけで、考えがうまくまとまらない。
「どうして……怒ってるの?」
 僕は困り切って尋ねた。
 母さんの顔がもっと赤くなった。
「誰が、お母さんを怒らせてるの!」
 その瞬間、がさりと心の中の僕の断片の一つが落ちた。ばらばらと音をたてて、どこか深く暗い場所へ崩れ落ちていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

白苑後宮の薬膳女官

絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。 ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。 薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。 静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...