『俺の死んだ日』〜『猫たちの時間』8〜

segakiyui

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1.大事故(3)

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 あの時はこんなことになるなんて思ってもいなかった。
 ただ、話題の主があまりにもイメージと違っていて、どこか虚ろなアルカイック・スマイルが印象に残ったぐらいだった。
 それから春日井はよく俺に話しかけて来るようになった。
 初めは納屋教授のレポートや講義内容、他愛ないスポーツの勝ち負けの話題だった。学食や講義前の数分間、休講になった時の数十分間、とりとめのない話をするだけで、春日井はいつも満足そうな口調で告げた。
「じゃ、また」
 交友が始まって一週間を過ぎた頃、春日井はようやくぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
 家族のこと、友人のこと、趣味のこと………そうしてそれが、あの産業スパイ事件後、どんな風に崩れていったのか、どんな風にそれを受け入れていったのか。
「僕は、近くに住んでいた1つ年上の子どもの父親と、父が張り合っていたせいでね、普通よりも1年早く教育を受けたんです」
 春日井は例の穏やかな笑みを貼り付けたまま言った。見栄っ張りの父親は、春日井の出生年月日を少々細工して、1年上のクラスに入れたのだと言う。
「おかげで、元々歳が離れている妹と、ますます歳が離れてしまった」
 秋の落ちゆく日差しにも似た春日井の存在感は、新聞が春日井製薬の事を書き連ね暴き立てる度にどんどん薄くなって行った。大学も休みがちとなり、久しぶりに春日井に会ったのが3日前、その数日前に出された納屋教授のレポートを出しておいてほしいと頼まれた日だった。
 その日、春日井は珍しくいつものアルカイック・スマイルを浮かべていなかった。どこか思い詰めたような青ざめた顔をしていた。俺に納屋教授のレポートを託け、他に何か用はあるかと尋ねた俺に、少しためらった後切り出した。
「…滝くん。少し預かって欲しいものがあるんだけど」
 春日井はそれを家に忘れてきたと言った。ついては、道路が混んでいない夜に家の方まで取りに行くから、一緒に来て欲しいとも頼み込んできた。その目の妙な熱っぽさと険しい表情が気になったものの、あまりの真剣さについ頷くと、春日井はひどくほっとした顔になった。
 だが、実を言うと、俺はその約束を守れなかった。
 時間に間に合うように朝倉家を出たものの、駅の階段で転げ落ち、いくら落ち慣れているとは言っても、さすがに今回は意識を失い、気が付いた時には既にこのマンションにいた。
 春日井あつしの事故死を知ったのは、その翌日のことだった。

 ピンポーン。
 軽いチャイムの音が響き、濡らした手を拭き慌てて出ようとして、寸前サングラスに気が付いた。急いで掛けてドアへ向かう。相手の姿をドアスコープで確かめてから開くと、珍しくサーモンピンクの華やかなワンピースを着たお由宇が立っていた。
「お久しぶり」
「お由宇…」
 にっこり笑った相手は、するりと器用にドアの隙間から入ってきた。自分の家のように案内も請わず部屋に入り、机の上に茶色の紙袋を置く。
「何だ?」
「食料。もうないでしょ」
「ああ助かったよ。ところで」
 窓の側に立つお由宇に目を向ける。
「俺はいつまでここに居なくちゃならないんだ? それに、大体どうして、ここに居なくちゃならない?」
「死にたいなら」
 しゃっと鋭い音を立てて、モスグリーンのカーテンを閉めながら、お由宇は続ける。
「明日にでも朝倉家にへ帰ることね。周一郎が相当ショックを受けているから」
「死にたいならって……え? 周一郎がショックを受けてる?」
「そう」
 モデルのようにワンピースの裾を綺麗に広がらせて、お由宇はくるりと俺に向き直った。
「それも、かなりの、ね」
「よせよ」
 俺は引き攣った。
「あいつが、か? それほどのショック受けてて、こう言うことが言えるか?」
 新聞を叩いて見せると、お由宇は頷いた。
「外見はね。そうでなくちゃ、朝倉周一郎じゃないもの。でも、あれ、どうかしらね」
 ソファに座った俺に目を据える。
「まともに食事を摂ってるようには見えないけど」
「え」
「眠れているのかも怪しいと思うわ」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
 困惑して叫ぶ。
「俺が『行方不明』になったぐらいで、どうして周一郎が『そう』なる?」
「あなたの『死』が周一郎の『せい』だからよ」
「は…あ……?」
 俺の頭は久方ぶりのマーボードーフになった。
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