『俺の死んだ日』〜『猫たちの時間』8〜

segakiyui

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7.万里子(3)

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「…ろ、答えろ!」
「…」
「答えろっ!」
 ぱんっ、と鋭い平手打ちの音が響いて、ひやりとした。階段を上がるのを止め、そうっと顔だけを覗かせる。両手を後ろ手に括られ、足も縛られたまま座らされている万里子と、その前に両足を開き、傲慢な様子で立っている椎我の姿があった。側に1人、どうやらこれは、『自由業』の方とお見受けするお兄さんが、転がったドラム罐に腰を下ろしている。
「…人殺し…」
 頬を叩かれ、顔を背けた万里子が低く呟いた。
「人殺し……お兄ちゃんを返してよ…」
 ぎらりときつい目で椎我を射抜き、
「返してよ……お兄ちゃんを返してよ! 返して! 返して!!」
「ほう…」
 万里子の糾弾に堪えた様子もなく、椎我は少し肩を竦めて見せた。ちらりとドラム罐の男に目で合図を送り、再び万里子を見つめる。
「やっぱりあんたを連れてきたのは正解だったな。そこまでわかっているとは思ってなかったんだが」
「じゃ…」
 一瞬、万里子は絶句した。知ってはいたが、認めたくないことを突きつけられたような頼りない表情になったが、すぐに歯を食い縛り、
「…やっぱり、そうだったのね…」
「残念ながら、あつし君には我々の計画に賛同してもらえなかったのでね。折角、ゼコムが売れ行きを伸ばしているというのに、こんなところで、鴨田研究所との繋がりを公表してもらっては、我が社は甚大な被害を受ける」
「鴨田のおじさまもグルだったって訳ね。かわいそうな……お父さん……」
「かわいそう?」
 ふいと椎我は皮肉るような笑い方をした。が、思い直したように、
「グルとは人聞きが悪いな、お嬢さん。協力、あるいは提携と言ってもらいたいものだ」
「言い方を変えても同じことじゃない! そのせいで、お母さんは入院して……お父さんは仕事に追われて、お兄ちゃんは…」
 万里子はことばを切った。苦痛を滲ませる唇から、無理やりことばを押し出す。
「死んだわ…」
「お気の毒ですな。が、そんなことはどうでもいい」
 椎我は、万里子の苦悩を露ほども感じていないらしかった。ひょいと近くの小箱の上から、人魚姫の人形を取り、空いた手でパチンと飛び出しナイフを開く。
「何を…」
「いや、何ね。あんたと、あの間抜けな男の話は面白かった。あんまり面白かったんで、確かめてみようって気になったまでだ」
 椎我は左手に掴んだ人形の腕にナイフの刃を差し込んだ。万里子がびくっと身を震わせて、怯えたような声を出す。
「何をするの…?」
「何、それほど大したことじゃない。ただ、あつし君がこの中に隠した物を探そうと、ね」
「止めて!」
 ピッ、とナイフが動いて人魚姫の腕を両断するのに、万里子は悲鳴を上げた。
「それはお兄ちゃんがくれたのよ! 形見なのよ!!」
 身悶えして叫ぶ万里子に、椎我は平然と応じた。
「そう。だからこそ、問題なんだよ」
 ピッ、ピッ、とその間も椎我のナイフは、容赦なく人形を切り裂いてゆく。白いスポンジがもあっと膨らみ、汚れたコンクリートの床の上に色鮮やかな布の切れ端と共に零れ落ちるのを、万里子は呆然と見つめていた。が。
「…ないな」
(え?)
 物陰で聞いていた俺もぎょっとして、椎我の手の中を見た。そこにはかつての愛らしい人形の姿はなく、もろもろになった布とスポンジの塊があるだけだ。
(ない? マイクロフィルムが?)
 椎我はしばらく塊を指の間でこねくり回していたが、ふん、と鼻を鳴らし、手を振ってそれらを落とした。
「マイクロフィルムは無し、か」
「マイクロフィルム?」
「そう……バカな新聞記者(ブンヤ)がいてね、我々と鴨田側の人間が会っているところをフィルムに納めたはいいが、それをネタに一儲けしようと接触してきた。勿論、それなりの手を打ってフィルムのネガを取り返し、あつし君に始末を頼んだんだが、これが何を思ったか、フィルムを公表すると言い出した。まあ幸い、こっちが動くほうが早くて、事前にあつし君には消えて頂けたが、肝心のマイクロフィルムの行方がわからないと言う訳なんだ」
「お…兄ちゃんが……知ってたの? あなたの……お父さんに対する裏切りを…」
 万里子が虚ろな声で呟く。
「知ってたよ、勿論」
「だって…そんな…信じられない……だって……お兄ちゃん……そんなこと一言も…」
 そうだよな。
 物陰に身を潜め、階段の片側の壁に凭れながら、俺も考えた。
 俺が引っ掛かっているのも、そこだ。
 あつしと言う人間を知れば知るほど、あいつの取った行動がわからなくなってくる。春日井製薬と鴨田薬物研究所の繋がりを知って、なお周囲を、そしておそらくは最愛の妹を欺き続けていたと考えるには、あつしの態度は静か過ぎた。たとえ椎我の言うことが正しかったとしても、あつしをマイクロフィルム公表と言う激しい行動に駆り立てたものが何かわからない。あのどこか虚ろな、お坊ちゃんじみた顔に浮かんでいたアルカイック・スマイルと、正義の使者として俺にマイクロフィルムを渡すべく、夜道を車でひた走るあつしの姿が、どうにも重ならないのだ。
(それに、マイクロフィルムだ)
 人魚姫の腕に気付いた時は間違いないと思ったのに、そこにないならマイクロフィルムは一体どこにあるんだろう。俺にはあつしから特に渡された物などない。お由宇の言うような、マイクロフィルム捜しの手掛かりらしいものも思い当たらない。
 一体、どこに……?
「何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「っっっ!!」
 ぽん、と肩に手が置かれると同時に、ドスの利いた声が響いて、俺は飛び上がった。
「え? カッコつけのアンちゃん?」
「え…いや……何も別に……」
 いつの間に側に来ていたのか、例の柄の悪そうな男が俺を覗き込んでいた。引き攣り笑いを返したが、相手の片手に黒っぽく光る金属物に気付いて、慌てて笑いを引っ込めた。これから寒くなろうってのに、今更風穴など開けられたくはない。
「だろうな」
 にんまりと必要以上に相好を崩した相手は、次の瞬間、じろりと険のある目つきで俺を睨んだ。「来い! いつの間に抜けてやがったんだ、こいつ!」
「あつっ」
 片腕を捻られ、不承不承階段を上がる。
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