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8.逆転劇(3)
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「すみません……バカなことして」
周一郎は、ほの赤く頬を染めて謝った。
久しぶりの俺の部屋、高野が置いて行ってくれたコーヒーの匂いが漂っている。
俺は机の前の椅子に座り、周一郎は猫がお気に入りの場所に丸くなるように、ソファに身を沈み込ませていた。
こいつにしてみれば、さっきの行動はかなり不本意だったのだろう、30分ほど沈黙し続けた後の第一声がそれだった。
「いいよ。だけど、おっかしいな、ルトの奴は知ってたんだぜ?」
「ルトが?」
「ああ。……待てよ…」
あの時のルトの『笑い方』を思い出す。
そうか、ひょっとしたら、ルトの奴、わざと周一郎に知らせなかったのかもしれない、ちょっとした悪戯心で。とすると、この話が、どこまで周一郎に伝わっているのかわからない。
「そうだな…こいつは全部話した方がいいな」
俺は、事件のあらましを周一郎に話して聞かせた。興味深いという表情で聞いていた周一郎は、話が終わるときらりと目を光らせた。
「なるほど…では、マイクロフィルムの行方が問題なんですね?」
「ああ。それが未だにわからない」
「滝さん、本当に何も受け取っていないんですか?」
「全然」
「本当に? 春日井あつしから渡された物は何もないんですか?」
「渡された…というなら少しはあるぞ」
「何を?」
「大学生協の食券だろ、コーラ代、それに、これはあいつから渡されたと言っていいのかわからんが、貸した本がある」
「本?」
「そうさ。だけど、これも元は俺が貸したんだから、あいつから渡されたには違いないが、あいつの物じゃない」
「どの本ですか?」
「ほら、お前に貸した本だよ。『遥かなる声』っていう……でも、あれはお前の所にもないんだろう? それじゃお手上げ……おい、どこへ行くんだ?」
話の途中で部屋を出て行こうとする周一郎に声をかける。相手はちらりと俺を見やって、
「お由宇さんに連絡を。僕としては不本意ですが」
「マイクロフィルムの在処がわかったのか?!」
「恐らくは」
しばらくして戻ってきた周一郎は、しっかり俺の『遥かなる声』を持っていた。
「おい、それ!」
「ええ」
「持ってないって言ったじゃないか!」
「僕は」
照れ臭そうに本を広げながら、周一郎はむっつりした声で続けた。
「あなたの形見分けを要求できる資格は……なかったので…」
「つーと、何か? 俺の形見にしようってんで、借りてないなんて嘘をついたのか?」
「………」
無言で眉を寄せ、周一郎は俺の視線を避けて手にしたものを光に透かした。頬が血の色を帯びている。俺は思わず笑ってしまい、かなり冷たい視線を浴びた。
「…悪い。けど、お前も結構バカなところがあるんだな」
「あなたほどじゃありません」
味も素っ気もなく応じると、周一郎はくるりとこちらに向き直り、ネガフィルムを加工したような『しおり』を差し出した。
「多分これですよ、マイクロフィルム」
外は本格的な冬のために冷え込んできていた。湖の表面には細かなさざ波が立ち、せっかく映った青空をひび割れさせている。だが、その青空も雲行きが怪しくなっていきつつあった。
産業スパイ事件の決着がついたのは、昨日のことだった。
周一郎の見つけたマイクロフィルムはすぐに調べられ、画像が春日井側と鴨田側の会合およびゼコムの組成、贋ゼコムの組成をそれぞれ示すことが明らかになり、バタバタ芋蔓式にカタがついてしまった。
ただ一つ、意外な事実が明らかになった。春日井側に椎我だけでなく、春日井製薬社長その人がいたのだ。
椎我の自供に拠れば、彼は世間の目を欺くために表舞台に立ち、表面上は如何にも彼が大恩ある社長を裏切ったように振舞っていたが、実はそれは人気集めのためだった。たとえ椎我が捕まっても、莫大な保釈金と引き換えに隠し通すことになっており、全ては春日井社長が仕組んだことであるとのことだった。無論、あつしの死も。
あつしは実子ではないという噂が一般的になっていたらしい。そのためだろう、社長の決断にためらいはなかった、椎我はそう話している。
模造品(イミテーション)。
お由宇のことばが別の意味を持つ。
犯人の模造品(イミテーション)。贋物の父親。
それならあつしの行動も何となくわかってくる。
あつしはフィルムを公表することによって、或いは公表すると言うことによって、春日井社長が乗り出し始めていた贋ゼコムの売り捌きを止めさせたかったのかも知れない。それも、出来ることなら万里子が贋ゼコムなどに気づく前に。父が万里子をも裏切っていると父自身から知らせる前に、あつしが暴き、第三者的なものとして万里子に届くようにしたかったのかもしれない。
ひょっとしてたら、あつしが望んだのは、マイクロフィルムを公表すると言うことによって、父が裏の世界から手を引くことだったのかもしれない。そうすれば、万里子も傷つかず、春日井の名にもこれ以上泥を塗ることはない。自分が悪者になるだけで一番いい方向に進む。フィルムはどうでもよかった。だから、そんなことに興味を持ちそうにない、いつか忘れて捨ててしまうような俺に、しおり代わりのように加工して借りた本に挟んで寄越した………それが、あの、人の良さそうな、どこか虚ろなアルカイック・スマイルにふさわしい謎解きな気がする。
「滝さん……ここだったんですか」
「ああ」
いつの間にか、側に周一郎がきていた。
「どうしたんです?」
「いや…切ないなあと思ってさ」
「え?」
「結局、万里子は死んだ方がよかったのかも知れないだろ? 実の父親が兄貴を殺すように命令を出したなんて知るよりは」
そんなことは駄目だ。うまく言えないけど、誰かが死んでた方が色々上手くいって平和になったなんてことは成り立たせちゃいけない気がする。なのに。
「そういうことが言えるかも知れないってのが…」
溜め息をつく。
「…やりきれねえな」
「でも…」
周一郎は問いかけるような目を向けた。
「そんなこともあるだろうけど…滝さんは…」
「ん?」
後を続けず、周一郎はしばらく思い迷うように突っ立っていたが、やがてそうっとすぐ側に腰を下ろした。ぎょっとする俺に構わず、膝を立てて肘を乗せる。
「周一郎?」
「もう…嫌ですからね」
ポツリと呟いた。風がうそ寒い音を立てて吹き抜ける。合間を縫って小さな声が続く。
「こんな……バカなことで………心配するのは」
「周一郎…」
心配、と口にする。距離を縮めて、俺に気持ちを伝えてくる。以前なら熱が出たのか、『直樹』が戻ったのかと危ぶむところだが、今はその声が胸の奥まで届いてくるから、千切れかけた絆に不安になったと気がつく。
そうだ、誰だって、いつどこで、どんな風に別れて行くのかわからない。
曇り始めていた空から、ついに耐えかねたように白いものが舞い始めた。
「初雪…か…」
あの世とやらで、あつしと万里子は巡り会えているかも知れない。
水面に落ちて吸い込まれる淡い雪に、訳もなく俺はそう思った。
終わり
周一郎は、ほの赤く頬を染めて謝った。
久しぶりの俺の部屋、高野が置いて行ってくれたコーヒーの匂いが漂っている。
俺は机の前の椅子に座り、周一郎は猫がお気に入りの場所に丸くなるように、ソファに身を沈み込ませていた。
こいつにしてみれば、さっきの行動はかなり不本意だったのだろう、30分ほど沈黙し続けた後の第一声がそれだった。
「いいよ。だけど、おっかしいな、ルトの奴は知ってたんだぜ?」
「ルトが?」
「ああ。……待てよ…」
あの時のルトの『笑い方』を思い出す。
そうか、ひょっとしたら、ルトの奴、わざと周一郎に知らせなかったのかもしれない、ちょっとした悪戯心で。とすると、この話が、どこまで周一郎に伝わっているのかわからない。
「そうだな…こいつは全部話した方がいいな」
俺は、事件のあらましを周一郎に話して聞かせた。興味深いという表情で聞いていた周一郎は、話が終わるときらりと目を光らせた。
「なるほど…では、マイクロフィルムの行方が問題なんですね?」
「ああ。それが未だにわからない」
「滝さん、本当に何も受け取っていないんですか?」
「全然」
「本当に? 春日井あつしから渡された物は何もないんですか?」
「渡された…というなら少しはあるぞ」
「何を?」
「大学生協の食券だろ、コーラ代、それに、これはあいつから渡されたと言っていいのかわからんが、貸した本がある」
「本?」
「そうさ。だけど、これも元は俺が貸したんだから、あいつから渡されたには違いないが、あいつの物じゃない」
「どの本ですか?」
「ほら、お前に貸した本だよ。『遥かなる声』っていう……でも、あれはお前の所にもないんだろう? それじゃお手上げ……おい、どこへ行くんだ?」
話の途中で部屋を出て行こうとする周一郎に声をかける。相手はちらりと俺を見やって、
「お由宇さんに連絡を。僕としては不本意ですが」
「マイクロフィルムの在処がわかったのか?!」
「恐らくは」
しばらくして戻ってきた周一郎は、しっかり俺の『遥かなる声』を持っていた。
「おい、それ!」
「ええ」
「持ってないって言ったじゃないか!」
「僕は」
照れ臭そうに本を広げながら、周一郎はむっつりした声で続けた。
「あなたの形見分けを要求できる資格は……なかったので…」
「つーと、何か? 俺の形見にしようってんで、借りてないなんて嘘をついたのか?」
「………」
無言で眉を寄せ、周一郎は俺の視線を避けて手にしたものを光に透かした。頬が血の色を帯びている。俺は思わず笑ってしまい、かなり冷たい視線を浴びた。
「…悪い。けど、お前も結構バカなところがあるんだな」
「あなたほどじゃありません」
味も素っ気もなく応じると、周一郎はくるりとこちらに向き直り、ネガフィルムを加工したような『しおり』を差し出した。
「多分これですよ、マイクロフィルム」
外は本格的な冬のために冷え込んできていた。湖の表面には細かなさざ波が立ち、せっかく映った青空をひび割れさせている。だが、その青空も雲行きが怪しくなっていきつつあった。
産業スパイ事件の決着がついたのは、昨日のことだった。
周一郎の見つけたマイクロフィルムはすぐに調べられ、画像が春日井側と鴨田側の会合およびゼコムの組成、贋ゼコムの組成をそれぞれ示すことが明らかになり、バタバタ芋蔓式にカタがついてしまった。
ただ一つ、意外な事実が明らかになった。春日井側に椎我だけでなく、春日井製薬社長その人がいたのだ。
椎我の自供に拠れば、彼は世間の目を欺くために表舞台に立ち、表面上は如何にも彼が大恩ある社長を裏切ったように振舞っていたが、実はそれは人気集めのためだった。たとえ椎我が捕まっても、莫大な保釈金と引き換えに隠し通すことになっており、全ては春日井社長が仕組んだことであるとのことだった。無論、あつしの死も。
あつしは実子ではないという噂が一般的になっていたらしい。そのためだろう、社長の決断にためらいはなかった、椎我はそう話している。
模造品(イミテーション)。
お由宇のことばが別の意味を持つ。
犯人の模造品(イミテーション)。贋物の父親。
それならあつしの行動も何となくわかってくる。
あつしはフィルムを公表することによって、或いは公表すると言うことによって、春日井社長が乗り出し始めていた贋ゼコムの売り捌きを止めさせたかったのかも知れない。それも、出来ることなら万里子が贋ゼコムなどに気づく前に。父が万里子をも裏切っていると父自身から知らせる前に、あつしが暴き、第三者的なものとして万里子に届くようにしたかったのかもしれない。
ひょっとしてたら、あつしが望んだのは、マイクロフィルムを公表すると言うことによって、父が裏の世界から手を引くことだったのかもしれない。そうすれば、万里子も傷つかず、春日井の名にもこれ以上泥を塗ることはない。自分が悪者になるだけで一番いい方向に進む。フィルムはどうでもよかった。だから、そんなことに興味を持ちそうにない、いつか忘れて捨ててしまうような俺に、しおり代わりのように加工して借りた本に挟んで寄越した………それが、あの、人の良さそうな、どこか虚ろなアルカイック・スマイルにふさわしい謎解きな気がする。
「滝さん……ここだったんですか」
「ああ」
いつの間にか、側に周一郎がきていた。
「どうしたんです?」
「いや…切ないなあと思ってさ」
「え?」
「結局、万里子は死んだ方がよかったのかも知れないだろ? 実の父親が兄貴を殺すように命令を出したなんて知るよりは」
そんなことは駄目だ。うまく言えないけど、誰かが死んでた方が色々上手くいって平和になったなんてことは成り立たせちゃいけない気がする。なのに。
「そういうことが言えるかも知れないってのが…」
溜め息をつく。
「…やりきれねえな」
「でも…」
周一郎は問いかけるような目を向けた。
「そんなこともあるだろうけど…滝さんは…」
「ん?」
後を続けず、周一郎はしばらく思い迷うように突っ立っていたが、やがてそうっとすぐ側に腰を下ろした。ぎょっとする俺に構わず、膝を立てて肘を乗せる。
「周一郎?」
「もう…嫌ですからね」
ポツリと呟いた。風がうそ寒い音を立てて吹き抜ける。合間を縫って小さな声が続く。
「こんな……バカなことで………心配するのは」
「周一郎…」
心配、と口にする。距離を縮めて、俺に気持ちを伝えてくる。以前なら熱が出たのか、『直樹』が戻ったのかと危ぶむところだが、今はその声が胸の奥まで届いてくるから、千切れかけた絆に不安になったと気がつく。
そうだ、誰だって、いつどこで、どんな風に別れて行くのかわからない。
曇り始めていた空から、ついに耐えかねたように白いものが舞い始めた。
「初雪…か…」
あの世とやらで、あつしと万里子は巡り会えているかも知れない。
水面に落ちて吸い込まれる淡い雪に、訳もなく俺はそう思った。
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