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第5章
5.過去からのトロフィ(8)
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「…」
気が付いたのは真夜中だった。
「……美並?」
いなくなってしまったかと呼んでみれば、静かな寝息が届いた。起こした自分の体は丁寧に拭かれていて、伊吹はベッドの端に眠っている。
「……こっちへおいで」
声をかけて手を伸ばし、腕を差し入れて抱き込みながら引き寄せると、眠そうに何かふにゃふにゃ言いながら胸の中へ戻って来た。
「迷惑かけちゃった…」
寄り添う体を、そうっと包み込む。
「ケダモノ、みたいだった…」
白い海ではなかった、マグマみたいな、荒れ狂う熱い怒りのような、そう言うものに内側も外側も焼き尽くされて、恵子に中途半端に煽られて放置された疼きが消えていた。
「…嫌われたかなあ…」
腕の中の美並は熟睡している。疲れ切っている。きっと無茶をさせたのだ。
寂しくなって、もうちょっと強く抱き締める。寄り添ってくれる温かさにほっとして、髪に顔を埋める。
「甘えさせてくれたんだ…」
少し前なら分からなかった感覚が、今はよくわかる。
こんな細くて小さい体で、荒れた京介を受け止めてくれて、今もまだここに居てくれて。
「わ…」
視界を潤ませた涙に驚く。
「…大事にしなきゃ」
瞬きして溢れてしまったものが照れ臭くて、伊吹を濡らしてしまうのが嫌で、枕に擦り付ける。
「うんと大事にしなきゃ、伊吹さん」
もちろん、今までも大事にしてきたし守ってきたつもりだけれど、体の一部が少し離れてるみたいな、この頼りなさと切なさは何だろう。抱き締めてもまだ遠い、けれど泣きたくなるほど大切だと感じる感覚は。
「…どうしよう…伊吹さん、いなくなったら…」
そんなことは今まで何度も考えてきた。
伊吹は京介にはふさわしくない、だから身を引こう、伊吹のいない京介には意味がないから死んでしまおう、そんなことは何度も何度も考えたのに、あそこにあった悔しさがこれっぽっちもなくて、ただただ、この腕の中の存在がある日突然消えてしまったら、と思うだけで切り刻まれるように胸が痛い。
「…なんだろう…これ……」
今まで味わったことがない、そう思った瞬間、震えが腕を走った。
いや、京介は、知っている。
「…ぼけ……?」
『綺麗なところですね』
静かな声が耳に蘇る。月下の山、京介の掌から離れた伊吹の手、羽化した白い蝶のような。
『そんなにこいつが大事か』
大輔に掴まれた小さな白い子猫。
『ぜったいふくじゅうってのは、そうやるんだ、くつなめろ』
響く嘲笑。一瞬だけ我慢すればいい、そう思ったのに口に押し込まれた運動靴に驚いて身を引いて。
『あ、手すべっちゃった』
悲鳴とともに川に投げ捨てられた体は濡れて固まって見つかった。
『ちゃんとなめないからだろ!』
僕がもう少し我慢すればよかったんだ。
あんなことぐらい何でもないのに。
こんなことになるぐらいなら。
「…そっか……ぼけ…か…」
涙が次々頬を伝う。
ぼけを殺したのは自分だと思っていた。
京介はぼけより強くて耐えられたはずだから、大輔の蹂躙など堪えないと思っていた。
多く抱かれれば、その間は孝を守れると思っていた。
暴くことで両親を失うかもしれない大輔の子ども達を無視できなかった。
自分が死ぬことで誰かが救われるのなら、それでもいいと思っていた。攻撃の矢面に心身晒して壊れようが砕かれようが、どうでもいい。ましてや、大好きな、愛しい女性が生き延びるなら、自分の体なんて屑でいい。大輔が弄んで捨て去るようなおもちゃでも、伊吹は綺麗なものをくれると言ったのだから。
けれど。
伊吹は、いとしんでくれた。
京介が無事でないと困ると言った。
こんなどうでもいい体でも、抱えて受け止めて守ってくれた。
「…助け…たかった…なあ……」
涙が止まらない。
「…ぼけ……寒かった…だろうなあ……怖かっただろうなあ……」
京介を求めたはずだ。
振り飛ばされて叩きつけられて水に呑まれて、それでもきっと、京介が抱き上げたことを覚えていてくれたはずだ。
「助けたかった…よ…」
引き戻される、小さな頃に。
「たすけ…たかった……よう…」
離せと叫べばよかった。
放り込まれても川に飛び込めばよかった。
冷たい体を抱えたまま、大輔に突っ込んで行けばよかった。
けれど、何もしなかった。
京介は『綺麗なもの』を自分で大輔に売り渡した、安全を引き換えに。
闘わなくてははならない場所に気づかなかった。
伊吹と一緒に行った山で泣き続けたのは、助けたかったのに助けられなかった幼い自分が受け止められなかったからだ。
伊吹が、闘う場所を教えてくれた。
『綺麗なもの』を取り戻してくれた。
「ふ…」
しばらく泣き続けていて、ようやく止まり始めた涙に息をついて、腕の中の伊吹を見下ろした。
くすぐったくて甘くて切なくて、そうっとそうっと壊さないように覗き込む。
伊吹は見たことのない表情をしていた。
緩んだ眉とふんわり閉じられた目、小さく開いたあどけない感じの口元。
いつもいつも鋭くて強くて、その意志に心を貫かれてばかりだったけれど。
「…美並……安心してくれてる……?」
求めるばっかりの京介に貪られながら、ひょっとして伊吹もまた、何か手放したものがあるのだろうか。抱え切れなくて背負い切れないものを、京介に明け渡してくれたりしたのだろうか。
今京介が、過去の記憶の伊吹から『綺麗なもの』を受け取ったように、伊吹もまた、京介との関わりから何かを受け取ってくれることがあるだろうか。
「…僕に…甘えて……くれてる…?」
じんわりと何かが湧き上がってくる。
これこそ今まで味わったことのない、背筋を震えるような痺れ。
「僕を……頼りにしてくれてる……?」
ここは譲れない場所だ。
胸の深くから声が届く。
伊吹が疲れて眠りに落ちる、この場所こそは京介が守り抜かなくてはならない場所だ。
「…うん……そうだ……ここは……誰にも…譲らない…」
微笑んだ。鼻声の自分がみっともないが、それでも囁いて抱きかかえる。
「…おやすみ…美並」
僕の、美並。
寝息にゆっくり目を閉じた。
気が付いたのは真夜中だった。
「……美並?」
いなくなってしまったかと呼んでみれば、静かな寝息が届いた。起こした自分の体は丁寧に拭かれていて、伊吹はベッドの端に眠っている。
「……こっちへおいで」
声をかけて手を伸ばし、腕を差し入れて抱き込みながら引き寄せると、眠そうに何かふにゃふにゃ言いながら胸の中へ戻って来た。
「迷惑かけちゃった…」
寄り添う体を、そうっと包み込む。
「ケダモノ、みたいだった…」
白い海ではなかった、マグマみたいな、荒れ狂う熱い怒りのような、そう言うものに内側も外側も焼き尽くされて、恵子に中途半端に煽られて放置された疼きが消えていた。
「…嫌われたかなあ…」
腕の中の美並は熟睡している。疲れ切っている。きっと無茶をさせたのだ。
寂しくなって、もうちょっと強く抱き締める。寄り添ってくれる温かさにほっとして、髪に顔を埋める。
「甘えさせてくれたんだ…」
少し前なら分からなかった感覚が、今はよくわかる。
こんな細くて小さい体で、荒れた京介を受け止めてくれて、今もまだここに居てくれて。
「わ…」
視界を潤ませた涙に驚く。
「…大事にしなきゃ」
瞬きして溢れてしまったものが照れ臭くて、伊吹を濡らしてしまうのが嫌で、枕に擦り付ける。
「うんと大事にしなきゃ、伊吹さん」
もちろん、今までも大事にしてきたし守ってきたつもりだけれど、体の一部が少し離れてるみたいな、この頼りなさと切なさは何だろう。抱き締めてもまだ遠い、けれど泣きたくなるほど大切だと感じる感覚は。
「…どうしよう…伊吹さん、いなくなったら…」
そんなことは今まで何度も考えてきた。
伊吹は京介にはふさわしくない、だから身を引こう、伊吹のいない京介には意味がないから死んでしまおう、そんなことは何度も何度も考えたのに、あそこにあった悔しさがこれっぽっちもなくて、ただただ、この腕の中の存在がある日突然消えてしまったら、と思うだけで切り刻まれるように胸が痛い。
「…なんだろう…これ……」
今まで味わったことがない、そう思った瞬間、震えが腕を走った。
いや、京介は、知っている。
「…ぼけ……?」
『綺麗なところですね』
静かな声が耳に蘇る。月下の山、京介の掌から離れた伊吹の手、羽化した白い蝶のような。
『そんなにこいつが大事か』
大輔に掴まれた小さな白い子猫。
『ぜったいふくじゅうってのは、そうやるんだ、くつなめろ』
響く嘲笑。一瞬だけ我慢すればいい、そう思ったのに口に押し込まれた運動靴に驚いて身を引いて。
『あ、手すべっちゃった』
悲鳴とともに川に投げ捨てられた体は濡れて固まって見つかった。
『ちゃんとなめないからだろ!』
僕がもう少し我慢すればよかったんだ。
あんなことぐらい何でもないのに。
こんなことになるぐらいなら。
「…そっか……ぼけ…か…」
涙が次々頬を伝う。
ぼけを殺したのは自分だと思っていた。
京介はぼけより強くて耐えられたはずだから、大輔の蹂躙など堪えないと思っていた。
多く抱かれれば、その間は孝を守れると思っていた。
暴くことで両親を失うかもしれない大輔の子ども達を無視できなかった。
自分が死ぬことで誰かが救われるのなら、それでもいいと思っていた。攻撃の矢面に心身晒して壊れようが砕かれようが、どうでもいい。ましてや、大好きな、愛しい女性が生き延びるなら、自分の体なんて屑でいい。大輔が弄んで捨て去るようなおもちゃでも、伊吹は綺麗なものをくれると言ったのだから。
けれど。
伊吹は、いとしんでくれた。
京介が無事でないと困ると言った。
こんなどうでもいい体でも、抱えて受け止めて守ってくれた。
「…助け…たかった…なあ……」
涙が止まらない。
「…ぼけ……寒かった…だろうなあ……怖かっただろうなあ……」
京介を求めたはずだ。
振り飛ばされて叩きつけられて水に呑まれて、それでもきっと、京介が抱き上げたことを覚えていてくれたはずだ。
「助けたかった…よ…」
引き戻される、小さな頃に。
「たすけ…たかった……よう…」
離せと叫べばよかった。
放り込まれても川に飛び込めばよかった。
冷たい体を抱えたまま、大輔に突っ込んで行けばよかった。
けれど、何もしなかった。
京介は『綺麗なもの』を自分で大輔に売り渡した、安全を引き換えに。
闘わなくてははならない場所に気づかなかった。
伊吹と一緒に行った山で泣き続けたのは、助けたかったのに助けられなかった幼い自分が受け止められなかったからだ。
伊吹が、闘う場所を教えてくれた。
『綺麗なもの』を取り戻してくれた。
「ふ…」
しばらく泣き続けていて、ようやく止まり始めた涙に息をついて、腕の中の伊吹を見下ろした。
くすぐったくて甘くて切なくて、そうっとそうっと壊さないように覗き込む。
伊吹は見たことのない表情をしていた。
緩んだ眉とふんわり閉じられた目、小さく開いたあどけない感じの口元。
いつもいつも鋭くて強くて、その意志に心を貫かれてばかりだったけれど。
「…美並……安心してくれてる……?」
求めるばっかりの京介に貪られながら、ひょっとして伊吹もまた、何か手放したものがあるのだろうか。抱え切れなくて背負い切れないものを、京介に明け渡してくれたりしたのだろうか。
今京介が、過去の記憶の伊吹から『綺麗なもの』を受け取ったように、伊吹もまた、京介との関わりから何かを受け取ってくれることがあるだろうか。
「…僕に…甘えて……くれてる…?」
じんわりと何かが湧き上がってくる。
これこそ今まで味わったことのない、背筋を震えるような痺れ。
「僕を……頼りにしてくれてる……?」
ここは譲れない場所だ。
胸の深くから声が届く。
伊吹が疲れて眠りに落ちる、この場所こそは京介が守り抜かなくてはならない場所だ。
「…うん……そうだ……ここは……誰にも…譲らない…」
微笑んだ。鼻声の自分がみっともないが、それでも囁いて抱きかかえる。
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僕の、美並。
寝息にゆっくり目を閉じた。
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