『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

2.闇から見る眼(6)

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 伊吹を連れていったのは近くのフレンチレストラン。
 一時期ほどの熱狂的なファンもいないが、通いだした常連は離れていかず客が途切れない店で、今日も直前に入れた電話では満席だと聞いたけれど、そこをちょっと、と押して京介は席を二つ手配した。
『珍しい』
「え?」
『真崎さんが無理を通すのは珍しいですよ』
「そう?」
 チーフシェフの村野が微かに笑って、京介は首を傾げる。
『いい人でもできましたか』
「……ねえ」
『はい』
「前の時はそう聞かなかったね」
 相子も連れていったことがある。一度食べに来て下さい、村野からそう言われてずっと行っていなかったのを思い出したからだ。
「なぜ?」
 ふふ、と村野は笑った。
『不安そうだから』
「え?」
『いつも自信たっぷりのくせして、今はひどく不安そうですよ?』
「そうかな」
『ワインリストなんか確認して』
「……飲まない人かも知れないし」
『あんまり個性の強いものはやめておきましょう。メニューはまかせてもらっていいですね』
「うん」
『肉と魚、どちらにします?』
 ふ、と視界の端を青い袋が掠めて、京介は薄く笑う。
「肉」
『即答ですね』
「彼女を、食べたい、とか思ったり?」
『………真崎さん』
 村野が僅かに声を改めた。
「はい」
『大切なら、試しちゃいけない』
「……そうだね」
 でも。
 もうたぶん、ぎりぎりなんだよ、僕。
 胸の中で響いた声を微笑んで封じた。
「気をつけるよ」

「……本当は話したくないんです」
 柔らかな声がぽつりと告げて意識を戻す。記憶に浸っていたことなど隠すのは雑作もない。
 伊吹は食事が気に入ったようだ。丁寧に綺麗に料理を片付けていくのを見ているのは気持ちよかった。
「見えるってこと?」
 さりげなく応えたけれど、課長と、と続けられて一瞬くら、と視界が揺れた。
「あれ……僕は伊吹さんと話したかったよ?」
 苦笑しながら不規則に打った心臓をなだめる。
 落ち着け。まだあんたなんか見たくないと言われたわけじゃない。とりあえず無害に見せて、好意をほのめかす。そうすれば人は急には致命的な打撃をよこさない。
「食事相手が欲しかったんですか」
「食事相手だけでいいの?」
 きっかけが欲しい。料理は淡々と進んでいく。何か見えると言ったのを突っ込むか。けれど、それには微かに抵抗があった。へたに怒らせるのは難しい展開になる。
 いつか致命的なものが来るにしても、今はまだ始めたばかりだと信じたい。
 課長も家に帰ると誰もいない口ですか、と尋ねられて、『も』、ね、と胸の中で繰り返す。
 そうか、伊吹『も』一人で暮らしているんだ。すぐに帰らなくては困ることはない、万が一のことがあっても、逃げ帰る場所も守ってくれる存在もない、ならば。
 口元が自然に綻ぶのを感じた。
「前は猫がいたんだけどね」
 京介は運ばれてきたミニステーキをことさらゆっくり切って、ぐさり、とフォークで刺し、やや不自然な間を開けてそのまま押さえてみた。伊吹が少し視線を上げる。
「急にいなくなったと思ったら、玄関先に置かれてたよ……首切られて血塗れで」
「う」
 にこ、と笑って肉を口に運んだ。柔らかくてたっぷりの肉汁が溢れる。気持ちのいい歯ごたえ、力を込めて噛み切る瞬間、伊吹の肌に吸いついたような印象があって、少し、震える。
 こんなふうに温かいだろうか、目の前で凍りついた顔をして僕を見ているこの人は。
 さすがに自分の欲望がにじみ出てるかもしれないと、京介は目を伏せて、何、と尋ねた。
「……恨み買ってるんですか」
「買う覚えはないけどなあ」
 呪ってもいい相手はたくさん居るけれどね。っていうか、もう僕にとって、世間には恨む相手しかいないんじゃないかとさえ、ぼつぼつ思い始めてるけどね。
「……あ、そっか」
 伊吹が何か見えるというのなら、それがどんな形のものかはわからない、けれど、格好の実験体がここにいるじゃないか、と思いついて京介は嬉しくなった。
「まず僕を見てもらえばいいんだよね」
 そうだそれがいい。
「『彼女』のことをあれこれする前に、まず僕を見てもらえば、伊吹さんの能力を確かめられるし」
 京介の絡み合って身動きできない過去を、ねじ曲がって煮えたぎっているのに冷めてる心を、そうやすやすと見抜けるわけもない。
 けど、万が一、伊吹がその中の一つにでも辿り着けたとしたら。
「僕の問題も解決するし」
 その間伊吹と付き合える。
「引き受けると言ってませんから」
「じゃあ、そういうことをやったこともあるんだ?」
 ああ、また一つ、君の秘密を手に入れた。
 京介は跳ね上がるような興奮で強ばった伊吹の顔を上目遣いに見上げる。
「やってません」
 しかもちゃんと応えてくれるんだ?
「お金もらわなかったの」
「だから」
 まだちゃんと応えようとしてくれる。
 楽しい。京介はわくわくとワインを舐める。
「幾らでも取れたんじゃないの」
 すごく楽しい。
 伊吹は少し沈黙して、ほう、と溜め息をつき、サラダを片付けていたフォークを置いた。
「…………失敗したから」
「失敗?」
 翳った声に京介は瞬きする。
 失敗。伊吹はそのことを負担に思っている。自分の責任だと感じている。
 興奮が見る見る醒めていくのがわかった。
 そこまで背負う人間が伊吹の過去に存在している。いや、その人間を、伊吹は今も背負っている。
「相手は納得しなかった。状況が悪化して、私のせいだと言われた。私は手を引いて……」
「……手を引いて?」
「………相手は自殺した、らしいです」
「ふぅん」
 不愉快だ。
 一瞬に自分の心を塗りつぶした真っ黒な靄を、いつものように客観視できなくて、京介はレタスに噛みついた。
 不愉快だ。
 全くもって不愉快だ。
 なぜ、彼女は未だにその人間を心に残している? 死んだからか? いや、でもそれは。
 冷えきった思考がなお感情のない答えを叩き出す。
 問題解決に伊吹の特殊な力を当てにした。そういうことをする人間は二種類居る。全力尽して何も実らず精魂尽き果ててすがったか、それとも自分が取るべき行動を取りたくないがゆえ、そういう自分の脆さ弱さに向き合いたくないがゆえに万能の力を頼ったか。
 いずれにしても伊吹が背負うべき問題でも、責任でもない。方法を間違ったというだけの話だ。
 しかも、それをわざわざ第三者が伝えた匂いがある。
「や、旨いね、ここ」
 レタスを呑み込み笑った。
「直接聞いたわけじゃないの」
 一応確認する。
「……相手の友達が、そう知らせてきて」
 ほら、見ろ。
「くだらない」
 京介は吐き捨てた。
 は、と訝しい顔で見返してくる相手にもう一度はっきりと、
「くだらないよ、そんなこと」
「そんなことって………人一人死んだんですよ」
 声を低めた伊吹に呆れた。
 ほらまた、そんなところでお人好しな発想してるんだ。自殺したのが真実かどうか、伊吹は確かめなかっただろう。そんな重大なことを、しかも「友達」が嘘をついたりするわけがないと思っている。
 けれど、京介は知っている。その「友達」とやらが、伊吹と自分の友達の関係に嫉妬していたとしたら、嘘であってもおかしくない。伊吹と友達の関係が近付いていくのを断ち切るためには、伊吹の接近が相手を不幸にすると伝えるだけでいい。
 きっと伊吹は無言で引き下がってくるだろう。
 そう思った瞬間に、広がった靄がどす黒く濁って京介はメニューを広げた。
「デザートどれがいい?」
 不愉快だ。とんでもなく不愉快だ。
「あのね」
「おいしいもの食べて忘れなさい」
 そうだ、忘れてしまえ、そんな奴のことなんか。
 弁解一つもせずに引き下がった、それは伊吹がそれだけ相手のことを考えたということで。死んだかもしれない相手、その「友達」と名乗る人間を守ろうとしたということで。
 馬鹿じゃないの。
 思わずそう言いかけた瞬間に、
「………課長が聞いたんですよ」
「あー、そっか」
 唸るような声で言われて、なるほど、と頷きながらひやりとした。
 まだ、想ってるのか?
 まだ、伊吹は大切にしているのか、その相手を。
 じゃあ、今ここで責めてしまうわけにはいかない。そのうち、何かの機会を見つけて、じんわり価値を落としていくしかない。
「じゃあ、僕の責任もあるから、ここは奢ろう、うん」
 にっこり、と眉を潜めた伊吹に笑った。
「だからデザート何でもいいよ?」
「……じゃあカフェプリン」
 細い指先が写真のつるんとした薄茶色の滑らかなものを指差している。小さなピンクの爪の近くにもう一枚生クリームをとろりとかけたバージョンの写真もあって、京介は音をたてて唾を呑み込みそうになったのをかろうじて逸らせた。
「トッピングで生クリーム添えがあるから、そっちにするよ。ダイエットしてないよね?」
 さすがに視線が上げにくい。
「あ、はい」
 かり、と音がして目をあげると、濃い紅のラディッシュが伊吹の白い歯に噛みつかれている。突き出した唇がちゅぷりと包むのがとんでもなくまずい。
「……ぬぁに」
 自覚がない伊吹はもぐもぐ咀嚼しながら、濡れた唇で京介を煽ってくる。
 自分が蕩けた顔をしているという認識はあった。隠せないと思ったとたん、急に伊吹の前に座っていること自体にくらくらした。
 何だろう、これは。
 何か、ただ食事をしているだけなのに、どこかがどうにかなりそうな気がする。
 離したくない。
 こんな不思議な相手を失いたくない。
「僕は大丈夫だよ」
 とりあえず、少しは我に返った頭で、伊吹の負担を軽くしておこうと考える。
「自分の負い目を君に押し付けたりしないから」
 伊吹は応えない。サラダの残りを片付けていく。
「それとも、僕にも何か見えるから、僕と話したくないの、伊吹さんは」
「………牟田さん」
 平然を装ったが、思ってもいなかった名前が出て京介は笑みを消した。
「課長のこと、好きですよ」
 致命的な一言。
 同僚が好きな男を伊吹は決して奪おうとしないだろう。相子が居る限り、伊吹は京介に落ちないだろう。
「…………ふぅん」
 消しておけばよかったな。
 ひんやりと思いながら、京介は運ばれてきたデザートをさっさと切り分けて、伊吹の皿に移した。
「半分あげるね」
 何か言いたそうな伊吹の顔は見ない。
 さっきまでもっと話していたかったのに、もうこの先は手に入らないとわかって、体中が冷えていくのがわかった。
 自分の持っているものを、半分と言わず全部差し出してみたいけど、それでも伊吹は受け取らないだろう。
「くだらない」
 吐き捨てる。
 そうだ、くだらない、くだらない人生だ。最初の一つを間違えて、掛け違ったボタンのように、せっかく初めて見つけた欲しいものを指を銜えて見送るしかない。
 目の底に揺らめいた熱い波を京介はしのいだ。ぱくぱくとプリンを片付け、何ごともなかったように微笑んで顔を上げる。
「もう一軒つき合って。すぐ近くだし、おいしいコーヒー飲みたくない?」
 誘うと伊吹は戸惑った顔をして、これが最後ですよ、そう京介を崖から突き落とした。
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