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第1章
2.闇から見る眼(7)
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「課長?」
「はい」
「これのどこがカフェなんですか」
伊吹が京介のマンションのエントランスで凍りついたのを、くるりと振り返って、
「カフェなんて言ってないよ?」
「は?」
「おいしいコーヒー飲みたくないかって言っただけ。マンションでも十分に一軒でしょう」
にっこり笑ってスラックスのポケットに手を突っ込み、立ち竦んでる伊吹に首を傾げてみせた。
「それとも伊吹さんは戸建てでないと一軒と数えないとか?」
タクシーは帰してしまった。
なんか街中から離れていってませんか、と車の中で尋ねた伊吹に、雰囲気いい落ち着いた場所だからねえととぼけた口調そのままで、
「そういうのは偏見だと思うなあ」
付け加える。
ちっ。
おお舌打ちした。
伊吹が一瞬微かに顔を背けて舌を鳴らし、掠めた鋭い表情に京介は瞬きした。さっきまでの静かな穏やかな顔ではない、激しくて強いものを秘めた顔、瞳も底に炎を走らせたみたいに見えて思わず見愡れる。
わかってるんだ、僕がわざと連れ込んだこと。
しかもそれに対して、僕が狡いと不快がっているというよりは、自分が間抜けだったと怒ってる。
どこまでもどこまでも自己責任の境界がしっかりした、カットグラスみたいな人だねえ。
ちら、と入り口奥の受付に座っていた男が訝しそうに目を上げた。エントランスを塞ぐように立っている二人、京介は普段からそこそこ愛想よくしてるからいいが、伊吹にはちょっと警戒した顔だ。しかも今の舌打ちに剣呑なものを感じたらしい。管理人は微かに眉を寄せて京介と見比べている。
まあ、普通はそうだよね、と京介は思う。
相子は警戒なんかされやしない。ふわふわして中途半端にだれていて、何かをやらかすとは思えないし、京介が付いていれば完璧だ。
けれど伊吹は、この臨戦体勢に入ったときの激しさが周囲に緊張をもたらす。見えているような当たり障りのない人間ではないと知らしめる感覚、たぶん相子や石塚が微妙なやり方をするのは、この圧倒されるような力の気配がときどき漏れるからだろう。
そうか、怖いんだよね。
ふいに気付いて納得した。
伊吹の中には激しく強い圧倒的な力がある。それがいつどんな時に吹き上がるのかわからない、だから感じ取って怯えた人間が、先に優位に立っておこうと攻撃をしかけてしまうのだ。
馬鹿だなあ。
京介は微笑んだ。
そんなことするから、とんでもないものを引きずり出すんじゃないか。伊吹が制御し押さえているもの、本人はそれでどうこうしようなんて思ってもいないものを刺激して、結果的に被害に合う。
違うんだよ、こういう人はそんな扱いをしちゃだめだ。
伊吹の側を不安そうな顔の女性が通り過ぎ、京介に会釈してマンションの中に入っていくのに、伊吹ははっとしたように京介を見返した。
「帰ります」
ほら来た。
意志だけを伝える冷やかな声。反論も抵抗も許さない。
けど方法はある。
くるりと背中を向けて歩き出そうとした気配の伊吹に、ぼそりと呟いた。
「泣くよ?」
「はぁあ?」
ぴたりと伊吹が脚を止めた瞬間に半身振り返りながら、肩越しに微笑んで見せた。
「何?」
「泣く」
振り返った伊吹が見上げてくるのに繰り返す。
「誰が」
「僕が」
「どこで」
「ここで」
男性が往来で泣く、というのは未だに社会常識では異色な展開だ。それをまた、職場でどんなトラブルがあっても冷静でうろたえない男がやるというのは、十分に伊吹の興味を惹くだろう。
けれど、計算ずくの京介の応えに伊吹はなおも冷やかだった。
「………泣けば」
再びそっけなく背けられる顔、突き放した声は淡々としている。なかなかに手強い。
ではもう一声。
「二回目だから平気だよ」
「はいぃ?」
ヒット。
素頓狂な声を上げて振り返った伊吹の視線を丸ごと浴びたくて、ポケットの中で部屋の鍵を握りしめたまま、今度は体ごと振り向いて、にこりと笑う。
この鍵をどうしても今使いたい。
あれからあまり帰ることのできなかった部屋だけど、伊吹が一緒なら大丈夫な気がする。
伊吹を引き寄せ部屋の中に連れ込むために、何が有効にきくだろう、と考え、そうか、それがあったな、と気付く。
それは結構伊吹の好きな『なぞなぞ』かもしれない、と京介はにこにこした。
「……ケイが死んだ時、泣きながらここを突っ走ったから」
本当は違うけど。まあいろいろ辻褄の合わないことの方が、伊吹は踏み込んできてくれそうだし。
「ケイ、って誰です」
いい反応、そう思ったのに、一瞬、なぜか急に胸が詰まって応えられなかった。
ケイじゃない。
本当はイブキ、と言うんだ。
でも、君は死んでないでしょう。だからイブキなんて呼べないよね。死んだのはイブキだけ。何度も何度も殺されたのは僕だけ。
死んだのはイブキなのに、ケイって誰なんだろうね。
そんなの、いないんだよ。
僕はもうとっくにどこにも居なくて、ケイって名前で存在してるようなイブキと同じ、京介って名前でここに浮かんでいる幽霊みたいなもんなんだ。
ケイ、って誰、だって?
とんでもない質問してくるねえ。
「………帰る?」
滲みかけた視界を瞬いた。心臓の鼓動が早くなる。このまま帰したほうがいいのかもしれない。何だかどんどん、何も見せてないのに、何も教えてないのに、自分の中身を暴かれてくみたいで………それが、何だろう、疼くみたいに……気持ちいい。
食事中にも思った不安定な快感、それが身体から吹き出しそうな気がして、思わずポケットの中で手を握り締める。
汗……かいてるよ。
何年ぶり?
追い詰められて、一番弱いところまで探り出されていく予感も、ひさしぶり。
ああ、くらくらする。
「ちょっと待った」
「はい?」
「…………あんた、酔ってんの?」
「酔ってません」
ぶっきらぼうな伊吹の口調に京介への微かな心配を感じ取って、また身体が熱くなった。
それと同時に働き出した冷静な計算の感覚も、慣れ親しんで懐かしいもの。
どうすれば一番早く一番無難に気持ち良くなれるか。何を口にして、何を揺さぶって、何をねだれば、望むものがやってくるか。
伊吹は京介の体調を心配している。京介があやふやになってきたことに警戒している。普通ならば面倒を避けて逃げ去るところを、伊吹は逆に距離を詰めてくる。
そうだよ、この人が欲しいなら、この人を制御したいなら、こういうふうにしなくちゃいけない。
それはよく知っている手管だ。
京介は笑みを深めて無邪気に笑った。
「はっきり酔ってないです」
「ひょっとして、お酒弱いの?」
「全然弱いです」
「日本語おかしいよ?」
「最近の若者ですから」
ほどほどに的を外したほどほどのいい感じの会話。伊吹の眉がじわりと寄る。距離も少し縮まった。もう少し煽れば、ひょっとして腕組んでくれたりするのかな。
そう思った瞬間に、伊吹がふ、と瞳を沈めた。
「………ケイって誰?」
……なんか、感動しちゃうな。
京介は茫然としながら思う。
こんな妙な状況なのに、伊吹は何が中心なのか見損なわない。
けれど、この質問には京介は本当に応えられない。いい加減な答えでは伊吹は納得しないだろう。二回繰り返された質問に応えなければ、伊吹は京介の意識状態ではなく、誠実さの方を疑うだろう。
それは不利だ、この先ずっと。
「帰る?」
瞬きしながら、首を傾げて尋ねた。
その答えを部屋の中に持ち越そう。
伊吹の興味を部屋の中まで引きずり込もう。
「課長」
「僕は真崎京介です」
役職から意識を外してもらわないと、その先の関係には進めない。パワハラしたいわけじゃない。
「わかってる」
「京ちゃんとか呼んでくれてもいいけどなあ」
呟いて、伊吹が京ちゃん、と呼ぶ場面に一瞬微かな不安を感じた。恐怖? そうだ、それに近い、そう気付いて、そのくせ京ちゃんと呼ばれる関係の近さに胸が躍る。
凄い。伊吹といると、いろんな感情が溢れ返ってきて、溺れそうになる。
「はっきり言おう……あんたは酔ってる」
「全く酔ってないですよ」
「いや、十分酔ってる、で、私は酔った相手とは話をしな……わーっ!」
伊吹が酔った相手とは、と言い出したあたりで、それらが全て指の間からすり抜けていく気がした。今の今まで掌の上で輝いていた綺麗なものが腐臭を放って崩れ落ちていく感覚、ああ、やっぱり駄目なのか、そうだ、そうだよな、と爆笑したくなる。
ぼろぼろ零れていく涙にちょっと驚いた。
泣くことは器用にできる。
いつ泣けばいいのか、どのあたりでどんなふうに泣けば早く終わるのか、何度も訓練できている。生き延びるために必要だったから、泣くことに抵抗もない。
けれど、こんなふうに、息を詰めもせず、痛いところや苦しいところに意識を集めるでもなく、目を閉じて唸ることもなく泣けるなんて京介は思わなかった。
あれ。
泣いちゃってるよ、僕。
思わず首を傾げて微笑んでしまう。
凄いな、これも伊吹マジックか。
「何っ!」
けれど、それはどんなことばより伊吹を驚かせたようだ。うろたえた顔をして一気に側までやってきてくれて、その身体の熱が温かくてほっとする。
「だから泣くっていったでしょう」
丁寧に説明しようとしたら、わかったわかったわかった、行きましょう、はい、といきなり腕を掴まれて、エレベーターに押し込まれた。
「僕、わりと器用に泣けるんだよ」
説明しながら伊吹の手が掴んだ部分をじっと見つめてしまう。
「いいから、何階っ」
「802」
ぎゅ、と握られてる。腕を強く握られることは何度もあったけれど、それが嬉しいということに繋がってるのは初めてだ、と京介はくすぐったくなった。
「8階ね!」
家まで来てくれるんだね、とそっと確認したら、仕方ないでしょうと溜め息をついた伊吹の顔には、心配だけではない興味が広がっている。
ほらやっぱりこういう人は、こういう方法が一番意のままになってくれやすいんだよね。
京介はくすくす笑って流れた涙をハンカチで拭き取った。
「はい」
「これのどこがカフェなんですか」
伊吹が京介のマンションのエントランスで凍りついたのを、くるりと振り返って、
「カフェなんて言ってないよ?」
「は?」
「おいしいコーヒー飲みたくないかって言っただけ。マンションでも十分に一軒でしょう」
にっこり笑ってスラックスのポケットに手を突っ込み、立ち竦んでる伊吹に首を傾げてみせた。
「それとも伊吹さんは戸建てでないと一軒と数えないとか?」
タクシーは帰してしまった。
なんか街中から離れていってませんか、と車の中で尋ねた伊吹に、雰囲気いい落ち着いた場所だからねえととぼけた口調そのままで、
「そういうのは偏見だと思うなあ」
付け加える。
ちっ。
おお舌打ちした。
伊吹が一瞬微かに顔を背けて舌を鳴らし、掠めた鋭い表情に京介は瞬きした。さっきまでの静かな穏やかな顔ではない、激しくて強いものを秘めた顔、瞳も底に炎を走らせたみたいに見えて思わず見愡れる。
わかってるんだ、僕がわざと連れ込んだこと。
しかもそれに対して、僕が狡いと不快がっているというよりは、自分が間抜けだったと怒ってる。
どこまでもどこまでも自己責任の境界がしっかりした、カットグラスみたいな人だねえ。
ちら、と入り口奥の受付に座っていた男が訝しそうに目を上げた。エントランスを塞ぐように立っている二人、京介は普段からそこそこ愛想よくしてるからいいが、伊吹にはちょっと警戒した顔だ。しかも今の舌打ちに剣呑なものを感じたらしい。管理人は微かに眉を寄せて京介と見比べている。
まあ、普通はそうだよね、と京介は思う。
相子は警戒なんかされやしない。ふわふわして中途半端にだれていて、何かをやらかすとは思えないし、京介が付いていれば完璧だ。
けれど伊吹は、この臨戦体勢に入ったときの激しさが周囲に緊張をもたらす。見えているような当たり障りのない人間ではないと知らしめる感覚、たぶん相子や石塚が微妙なやり方をするのは、この圧倒されるような力の気配がときどき漏れるからだろう。
そうか、怖いんだよね。
ふいに気付いて納得した。
伊吹の中には激しく強い圧倒的な力がある。それがいつどんな時に吹き上がるのかわからない、だから感じ取って怯えた人間が、先に優位に立っておこうと攻撃をしかけてしまうのだ。
馬鹿だなあ。
京介は微笑んだ。
そんなことするから、とんでもないものを引きずり出すんじゃないか。伊吹が制御し押さえているもの、本人はそれでどうこうしようなんて思ってもいないものを刺激して、結果的に被害に合う。
違うんだよ、こういう人はそんな扱いをしちゃだめだ。
伊吹の側を不安そうな顔の女性が通り過ぎ、京介に会釈してマンションの中に入っていくのに、伊吹ははっとしたように京介を見返した。
「帰ります」
ほら来た。
意志だけを伝える冷やかな声。反論も抵抗も許さない。
けど方法はある。
くるりと背中を向けて歩き出そうとした気配の伊吹に、ぼそりと呟いた。
「泣くよ?」
「はぁあ?」
ぴたりと伊吹が脚を止めた瞬間に半身振り返りながら、肩越しに微笑んで見せた。
「何?」
「泣く」
振り返った伊吹が見上げてくるのに繰り返す。
「誰が」
「僕が」
「どこで」
「ここで」
男性が往来で泣く、というのは未だに社会常識では異色な展開だ。それをまた、職場でどんなトラブルがあっても冷静でうろたえない男がやるというのは、十分に伊吹の興味を惹くだろう。
けれど、計算ずくの京介の応えに伊吹はなおも冷やかだった。
「………泣けば」
再びそっけなく背けられる顔、突き放した声は淡々としている。なかなかに手強い。
ではもう一声。
「二回目だから平気だよ」
「はいぃ?」
ヒット。
素頓狂な声を上げて振り返った伊吹の視線を丸ごと浴びたくて、ポケットの中で部屋の鍵を握りしめたまま、今度は体ごと振り向いて、にこりと笑う。
この鍵をどうしても今使いたい。
あれからあまり帰ることのできなかった部屋だけど、伊吹が一緒なら大丈夫な気がする。
伊吹を引き寄せ部屋の中に連れ込むために、何が有効にきくだろう、と考え、そうか、それがあったな、と気付く。
それは結構伊吹の好きな『なぞなぞ』かもしれない、と京介はにこにこした。
「……ケイが死んだ時、泣きながらここを突っ走ったから」
本当は違うけど。まあいろいろ辻褄の合わないことの方が、伊吹は踏み込んできてくれそうだし。
「ケイ、って誰です」
いい反応、そう思ったのに、一瞬、なぜか急に胸が詰まって応えられなかった。
ケイじゃない。
本当はイブキ、と言うんだ。
でも、君は死んでないでしょう。だからイブキなんて呼べないよね。死んだのはイブキだけ。何度も何度も殺されたのは僕だけ。
死んだのはイブキなのに、ケイって誰なんだろうね。
そんなの、いないんだよ。
僕はもうとっくにどこにも居なくて、ケイって名前で存在してるようなイブキと同じ、京介って名前でここに浮かんでいる幽霊みたいなもんなんだ。
ケイ、って誰、だって?
とんでもない質問してくるねえ。
「………帰る?」
滲みかけた視界を瞬いた。心臓の鼓動が早くなる。このまま帰したほうがいいのかもしれない。何だかどんどん、何も見せてないのに、何も教えてないのに、自分の中身を暴かれてくみたいで………それが、何だろう、疼くみたいに……気持ちいい。
食事中にも思った不安定な快感、それが身体から吹き出しそうな気がして、思わずポケットの中で手を握り締める。
汗……かいてるよ。
何年ぶり?
追い詰められて、一番弱いところまで探り出されていく予感も、ひさしぶり。
ああ、くらくらする。
「ちょっと待った」
「はい?」
「…………あんた、酔ってんの?」
「酔ってません」
ぶっきらぼうな伊吹の口調に京介への微かな心配を感じ取って、また身体が熱くなった。
それと同時に働き出した冷静な計算の感覚も、慣れ親しんで懐かしいもの。
どうすれば一番早く一番無難に気持ち良くなれるか。何を口にして、何を揺さぶって、何をねだれば、望むものがやってくるか。
伊吹は京介の体調を心配している。京介があやふやになってきたことに警戒している。普通ならば面倒を避けて逃げ去るところを、伊吹は逆に距離を詰めてくる。
そうだよ、この人が欲しいなら、この人を制御したいなら、こういうふうにしなくちゃいけない。
それはよく知っている手管だ。
京介は笑みを深めて無邪気に笑った。
「はっきり酔ってないです」
「ひょっとして、お酒弱いの?」
「全然弱いです」
「日本語おかしいよ?」
「最近の若者ですから」
ほどほどに的を外したほどほどのいい感じの会話。伊吹の眉がじわりと寄る。距離も少し縮まった。もう少し煽れば、ひょっとして腕組んでくれたりするのかな。
そう思った瞬間に、伊吹がふ、と瞳を沈めた。
「………ケイって誰?」
……なんか、感動しちゃうな。
京介は茫然としながら思う。
こんな妙な状況なのに、伊吹は何が中心なのか見損なわない。
けれど、この質問には京介は本当に応えられない。いい加減な答えでは伊吹は納得しないだろう。二回繰り返された質問に応えなければ、伊吹は京介の意識状態ではなく、誠実さの方を疑うだろう。
それは不利だ、この先ずっと。
「帰る?」
瞬きしながら、首を傾げて尋ねた。
その答えを部屋の中に持ち越そう。
伊吹の興味を部屋の中まで引きずり込もう。
「課長」
「僕は真崎京介です」
役職から意識を外してもらわないと、その先の関係には進めない。パワハラしたいわけじゃない。
「わかってる」
「京ちゃんとか呼んでくれてもいいけどなあ」
呟いて、伊吹が京ちゃん、と呼ぶ場面に一瞬微かな不安を感じた。恐怖? そうだ、それに近い、そう気付いて、そのくせ京ちゃんと呼ばれる関係の近さに胸が躍る。
凄い。伊吹といると、いろんな感情が溢れ返ってきて、溺れそうになる。
「はっきり言おう……あんたは酔ってる」
「全く酔ってないですよ」
「いや、十分酔ってる、で、私は酔った相手とは話をしな……わーっ!」
伊吹が酔った相手とは、と言い出したあたりで、それらが全て指の間からすり抜けていく気がした。今の今まで掌の上で輝いていた綺麗なものが腐臭を放って崩れ落ちていく感覚、ああ、やっぱり駄目なのか、そうだ、そうだよな、と爆笑したくなる。
ぼろぼろ零れていく涙にちょっと驚いた。
泣くことは器用にできる。
いつ泣けばいいのか、どのあたりでどんなふうに泣けば早く終わるのか、何度も訓練できている。生き延びるために必要だったから、泣くことに抵抗もない。
けれど、こんなふうに、息を詰めもせず、痛いところや苦しいところに意識を集めるでもなく、目を閉じて唸ることもなく泣けるなんて京介は思わなかった。
あれ。
泣いちゃってるよ、僕。
思わず首を傾げて微笑んでしまう。
凄いな、これも伊吹マジックか。
「何っ!」
けれど、それはどんなことばより伊吹を驚かせたようだ。うろたえた顔をして一気に側までやってきてくれて、その身体の熱が温かくてほっとする。
「だから泣くっていったでしょう」
丁寧に説明しようとしたら、わかったわかったわかった、行きましょう、はい、といきなり腕を掴まれて、エレベーターに押し込まれた。
「僕、わりと器用に泣けるんだよ」
説明しながら伊吹の手が掴んだ部分をじっと見つめてしまう。
「いいから、何階っ」
「802」
ぎゅ、と握られてる。腕を強く握られることは何度もあったけれど、それが嬉しいということに繋がってるのは初めてだ、と京介はくすぐったくなった。
「8階ね!」
家まで来てくれるんだね、とそっと確認したら、仕方ないでしょうと溜め息をついた伊吹の顔には、心配だけではない興味が広がっている。
ほらやっぱりこういう人は、こういう方法が一番意のままになってくれやすいんだよね。
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