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第2章
6.バッド・ビート(6)
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「着替えに戻るの?」
「駄目ですか?」
「いや、急がないからいいけど」
風邪薬は12時間効くっていうのを呑んだし、焦る必要はないよね、と頭の中で計算して、伊吹の部屋に戻る。
「ちょっと待っててもらえます?」
「うん……入っちゃ駄目?」
「ちょっとだけだから」
にこ、と笑って伊吹が入る部屋の中、一瞬見えたものにぎくりとした。
入ってしまえば、たぶん物陰に隠れてよく見ないとわからないだろうけれど、意外に玄関から奥へ入る伊吹を見送るとまっすぐに飛び込んでくるのは、部屋の隅にそっと置かれているくま。結局誰からもらったのかは確認してないけど、たぶん間違いなく大石からのプレゼントだ。
「……まだ……置いてるんだ」
京介が気にするから気遣ってくれたんだろう、ネクタイは外してあるし、見える場所にはないけれど。
「………必要、なんだ」
ぱたんと閉まったドアの外に取り残された自分と、部屋の中にまるで京介の視線から匿われているみたいなくまに、じわっと気分が下降した。
確かに伊吹は、京介の家以外にどこかで泊まってきたりはしていないみたいだけれど。
「泊まらなくても……いい、よね」
恵子と京介のように、一晩過ごさなくてもすることはできる。
「……考え過ぎてる…?」
口を押さえてぼやきながら俯いた。
そうだ、考え過ぎている、伊吹がそんなことをするはずがない、京介とは違うのだ。伊吹は京介を大事にしてくれるし、欺こうなんて画策しない。
でも。
『すぐに伊吹さんはあなたから離れるから』
『伊吹さんだって幸せになる権利がある。あなたと一緒では無理よ』
「僕とじゃ、幸せに、なれない…」
「はい?」
がちゃりとノブが回って急に開いたドアに慌てて身を引くと、中から伊吹がちゃんとニット帽を被って出てきた。ほっとしたとたん、相手のオフホワイトと茶系のロングスカートに奇妙な既視感があって戸惑う。
「何?」
「あ、いや独り言……」
よく見れば口紅も直してくれていて、さっきより赤みが濃くなっている。
「昔よくしてた格好なんですけど」
伊吹は照れたように笑った。
「ちょっと少女趣味かなと」
「そう?」
駅へ向かって歩きながら、側の伊吹を何度も見る。
どこかで見たという感覚が消えなくて、周囲を通り過ぎる男がそれとなくちら、と伊吹に目をやっていくのに気付き、京介は苛立ちながら考え続けた。
凄く似合う。凄く可愛い。ぽちっと赤い唇も、ニット帽から流れた髪に隠れて少しだけ見えている耳たぶも、大きめのセーターに包まれているから一層華奢な感じがする体も、ロングスカートを軽快に閃かせる脚とクラッシックな形の靴も、何だかまるでぴたりと誂えたみたいで。
どこだろう、どこで見たことがある? こういう服を好む知り合いが居た? 牟田の趣味じゃない、けれど、会社で見たような感覚もある。
「あ」
ニット帽は黒一色、ここに口紅の色と同じ、さっきつけたキスマークみたいな赤が入っていたら、もっと綺麗だろうな、そう思った瞬間に気付いた。
電車の中で外を見ていた目を思わず伊吹に戻して、細かなところまで比較する。
「何?」
「よく似合うね」
皮肉な響きに聞こえるだろうかと思いながら続ける。
「初めて見た格好だけど」
僕は、ってことだ。
きょとんとした伊吹が嬉しそうに微笑むのに、口を噤んで目を逸らせる。
「ありがとう、ございます」
「うん……なんか、わかるような気がするよ」
そうだ、きっとそうなんだ、どうして僕は気付かなかったんだろう。
胸に広がった強くて深い敗北感。
大石が『Brechen』を立ち上げてきたときよりももっと痛烈でずきずきする傷み。
伊吹のその、とても似合った可愛い格好は、『Brechen』のチラシそっくり、いや、押塚まりには珍しい女の子のようなコーディネイトとポーズはきっと、伊吹美並を重ねたものなのだ。
大石は伊吹を強く望んでいる。伊吹のことをよく知っている。
そして、自分でも気付かないでこの服装を選んできた伊吹に似合うのは、桜木通販のニット帽ではなく『Brechen』で、それはつまり、伊吹も無意識に大石を望んでいるということなんじゃないか。
じゃあ、僕は?
僕は、結局?
ふっと開発管理課の話をしてみようか、と思った。
伊吹は桜木通販での仕事が終わるとき、一体誰を選ぶのか、確かめたい。
腹に渦巻く激しい気持ちに戸惑いながら、京介は流れる景色を睨みつけた。
「駄目ですか?」
「いや、急がないからいいけど」
風邪薬は12時間効くっていうのを呑んだし、焦る必要はないよね、と頭の中で計算して、伊吹の部屋に戻る。
「ちょっと待っててもらえます?」
「うん……入っちゃ駄目?」
「ちょっとだけだから」
にこ、と笑って伊吹が入る部屋の中、一瞬見えたものにぎくりとした。
入ってしまえば、たぶん物陰に隠れてよく見ないとわからないだろうけれど、意外に玄関から奥へ入る伊吹を見送るとまっすぐに飛び込んでくるのは、部屋の隅にそっと置かれているくま。結局誰からもらったのかは確認してないけど、たぶん間違いなく大石からのプレゼントだ。
「……まだ……置いてるんだ」
京介が気にするから気遣ってくれたんだろう、ネクタイは外してあるし、見える場所にはないけれど。
「………必要、なんだ」
ぱたんと閉まったドアの外に取り残された自分と、部屋の中にまるで京介の視線から匿われているみたいなくまに、じわっと気分が下降した。
確かに伊吹は、京介の家以外にどこかで泊まってきたりはしていないみたいだけれど。
「泊まらなくても……いい、よね」
恵子と京介のように、一晩過ごさなくてもすることはできる。
「……考え過ぎてる…?」
口を押さえてぼやきながら俯いた。
そうだ、考え過ぎている、伊吹がそんなことをするはずがない、京介とは違うのだ。伊吹は京介を大事にしてくれるし、欺こうなんて画策しない。
でも。
『すぐに伊吹さんはあなたから離れるから』
『伊吹さんだって幸せになる権利がある。あなたと一緒では無理よ』
「僕とじゃ、幸せに、なれない…」
「はい?」
がちゃりとノブが回って急に開いたドアに慌てて身を引くと、中から伊吹がちゃんとニット帽を被って出てきた。ほっとしたとたん、相手のオフホワイトと茶系のロングスカートに奇妙な既視感があって戸惑う。
「何?」
「あ、いや独り言……」
よく見れば口紅も直してくれていて、さっきより赤みが濃くなっている。
「昔よくしてた格好なんですけど」
伊吹は照れたように笑った。
「ちょっと少女趣味かなと」
「そう?」
駅へ向かって歩きながら、側の伊吹を何度も見る。
どこかで見たという感覚が消えなくて、周囲を通り過ぎる男がそれとなくちら、と伊吹に目をやっていくのに気付き、京介は苛立ちながら考え続けた。
凄く似合う。凄く可愛い。ぽちっと赤い唇も、ニット帽から流れた髪に隠れて少しだけ見えている耳たぶも、大きめのセーターに包まれているから一層華奢な感じがする体も、ロングスカートを軽快に閃かせる脚とクラッシックな形の靴も、何だかまるでぴたりと誂えたみたいで。
どこだろう、どこで見たことがある? こういう服を好む知り合いが居た? 牟田の趣味じゃない、けれど、会社で見たような感覚もある。
「あ」
ニット帽は黒一色、ここに口紅の色と同じ、さっきつけたキスマークみたいな赤が入っていたら、もっと綺麗だろうな、そう思った瞬間に気付いた。
電車の中で外を見ていた目を思わず伊吹に戻して、細かなところまで比較する。
「何?」
「よく似合うね」
皮肉な響きに聞こえるだろうかと思いながら続ける。
「初めて見た格好だけど」
僕は、ってことだ。
きょとんとした伊吹が嬉しそうに微笑むのに、口を噤んで目を逸らせる。
「ありがとう、ございます」
「うん……なんか、わかるような気がするよ」
そうだ、きっとそうなんだ、どうして僕は気付かなかったんだろう。
胸に広がった強くて深い敗北感。
大石が『Brechen』を立ち上げてきたときよりももっと痛烈でずきずきする傷み。
伊吹のその、とても似合った可愛い格好は、『Brechen』のチラシそっくり、いや、押塚まりには珍しい女の子のようなコーディネイトとポーズはきっと、伊吹美並を重ねたものなのだ。
大石は伊吹を強く望んでいる。伊吹のことをよく知っている。
そして、自分でも気付かないでこの服装を選んできた伊吹に似合うのは、桜木通販のニット帽ではなく『Brechen』で、それはつまり、伊吹も無意識に大石を望んでいるということなんじゃないか。
じゃあ、僕は?
僕は、結局?
ふっと開発管理課の話をしてみようか、と思った。
伊吹は桜木通販での仕事が終わるとき、一体誰を選ぶのか、確かめたい。
腹に渦巻く激しい気持ちに戸惑いながら、京介は流れる景色を睨みつけた。
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