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1.シーン201(1)
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上品な調度類を配置した部屋、窓に向かって男が一人、肘掛け椅子に腰掛けている。歳の頃22、3か。俯き加減なのは、膝に載せた小さな冊子を読んでいるからだ。と、突然、その白い紙面にぽとりと光るものが落ちた。
「周一郎…」
低く押し殺した声が、しとしと降る雨の合間に滲むように消える。男の肩が僅かに震えている。白紙のページを繰る指が一瞬ためらうように止まり、再び目元から何かが光って落ちた。
静かな雨の音、重く沈んだ薄青い空気感………。
「カァーット!!」 カチン!
銅鑼声が響いた。続いたカチンコ、夢から醒めたように人々が動き出す。
「いいぞお、垣君! 珍しく一発だ!」
「垣さん!」
いささか不似合いな三つ揃いを身に着けた少年が、何かを隠すように半分背中を向けている男のところへ駆け寄り、訝しそうに計算された絵になるポーズで相手を覗き込んだ。
「垣さん?」
「……」
「あ…ほんとに泣いてる!」
「っ!」
男はぎくりと体を起こし、慌ててごしごしと手の甲で目を擦りながら応じる。
「泣いてないよ」
「うそだ。じゃ、これ、何なの?」
ちょいと差し出された細い指先を男は不愉快そうに避けた。
「これ…は鼻水!」
「へええ、垣さんて、目から鼻水出るの!」
あははは、と朗らかに笑う少年の顔には、人懐っこい笑みが溢れている。年齢13、4歳。まだまだ幼い、けれども整った顔立ちの少年は、映画ファンなら一度や二度は見ている名子役、友樹修一。両親とも日本アカデミー主演男優・女優賞を受賞し、この世界での血筋を証明されたサラブレッドだ。
「で、出る時は出るんだ!」
「ふう、ん」
焦った男は垣かおる、修一の相手役として一般公募で選ばれた。駆け出しの役者で修一より10歳以上年上の25歳、だが今のところ完全に修一に呑まれた状態だ。
「修一さん!」
監督に向かって何かを話していた、ジーンズにセーターの20代半ばの男が声をかけて、修一と垣に近づいてきた。
「佐野さん、怒ってますよ。もう録画撮りの時間でしょ」
「え? もう?」
少年は手首の時計に目をやって体を起こした。
「ほんとだ! 垣さんほら、急がなきゃ」
「う、うん」
「高野さん、車」
「こっちです!」
踵を返す男に修一は急き立てて走り出す。後ろから垣が慌てて従う。
「急いで!」「あ、ああ!」
撮っている映画の舞台となっている、レンガ塀に囲まれた豪勢な屋敷の玄関を出ると、黒塗りの車が3人を待っていた。運転席に座っていた上品な灰色のスーツを鮮やかに着こなした女性がちらりと3人に目をやる。
「だめよ、修一君」
「すみません、佐野さん」
ちらっと舌を出して、修一は後部座席に乗り込んだ。佐野は切れ者マネージャーだけに時間に厳しい。続いて高野が助手席に、最後に垣がかなり遠慮しながら乗り込もうとし、足をかけ損ねてこけた。
「でっ!」
「垣さん!」
はっと修一が腰を浮かせるのを視線で制して、佐野は淡々とからかう。
「そこまで演技しなくても結構よ、『滝さん』」
「は、はあ」
赤くなった垣が慌て気味に座席に滑り込むのに、修一はくすくす笑った。
「勉強熱心なんだよ、ね? 『滝さん』」
「ど、どうも」
ますます縮こまる垣に助手席の高野までにやにや笑いを顔に広げる。
「ねえねえ、佐野さん」
「はい」
走り出した車のシートから運転席に乗り出した修一は機嫌よく続けた。
「今日は何の録画撮り?」
「『猫たちの時間』と『京都舞扇』制作のエピソード、今度の『月下魔術師』の宣伝です」
「あ、周一郎シリーズ?」
「ええ」
さらりとセミロングの髪をゆらせて、佐野は肩越しに視線を投げた。
「じゃあエピソードに苦労しないな、垣さんの事話してれば、すぐに終わるもの」
楽勝ーっ、と歓声を上げると、佐野が視線を投げてくる。
「監督も一緒ですけど」
「監督?」
修一は脳裏を掠めた顔に思わず眉を潜めた。気づいた高野が問いかけてくる。
「あんまり嬉しくなさそうですね? 修一さん」
「わかる?」
ひょいと肩を竦めてみせる。
「僕、あの人あまり好きじゃないんだよね………伊勢監督ときたら、すぐ僕(しゅういちろう)を苛めたがってさ」
確かにいろいろ癖のある他の監督達と比べれば、やりやすい相手とは言えるのだが。
「すぐ『周一郎』を怪我させたり倒れさせたりする方向にアレンジしたがるし? 『周一郎』ってば『滝さん』にべたべたなのにさ、引き離そうとばっかりするし?」
唇を尖らせると、佐野がひんやりと口を挟んだ。
「仕事ですから割り切って下さい。これまでの2作品もヒットしてますから」
「はぁい、了解」
確かにそれは大事な要素だ。
修一は茶目っぽく佐野に頷いて見せた。
「着きました」
佐野の声に素早く周囲を見回し、ほっと溜め息をつく。
「良かった。今日の、あまり知られてないんだな」
「必死だったんですよ、録画撮り秘密にしておくの。垣さん、ほら早く降りて!」
高野がわたわたしている垣を急かせる。
「はいはいっ」「助かった。さすが高野さんだね」
それでも周囲を見回しつつ車から体を出した修一は、誰もいないのを確かめると急いで座席から滑り降りる。テレビ局の裏口は目の前だ。急ぎ足に入って行きながら呟いた。
「この前なんか困ったんだよ。変なのがいて、サインとか握手の代わりに触ってくるんだから」
気のせいか、最近そんなファンが増えた。色紙を突き出す代わり、手を差し出す代わりに、距離を詰めて肉薄してくる。男女問わず、このまま抱き締めにかかるんじゃないかというほど迫られる。それが一人二人じゃなくなると営業用の笑みでも強張る。
「友樹さん!」
中で待ち構えていた男が修一の姿を認めて声をかけてくる。
「3スタです! 早く!」「うん!」
さすがに10年近く業界にいると、修一が知らないスタジオやスタッフは少なくなってきていた。スタジオ番号を聞くだけで最短ルートを弾き出し、局内を走り抜けて行こうとした修一は、垣が入り口辺りでまだおろおろと戸惑っているのに気づいた。不安そうな顔で周囲を見回す男を見ていると、いつもほっとする。くすりと笑ってその側へ駆け寄る。
「垣さん!」
「あ?」
「こっちだよ」
くいと垣の手を握り、引っ張って走る。
「ちょ、ちょ、待っ」「待ってたら遅れちゃうよ!」
先を行く高野が3スタに飛び込み、肩越しに声を投げてくる。
「修一さん! スタンバイ!」
「はいっ! ほら、垣さん!」
「わっ…わ!」「げっ」
いきなり垣に引っ張られて目を見開いた。
(これは想定内だけど、今やる?)
呆れた視界がくるりと回る。
「修一さん!」「っっ」「ひええっ」
カメラのコードに足を取られて垣が派手にこけるのに、修一も巻き添えをくらって一緒にひっくり返る。
(時間がないって言うのに。今更メイクさんも入れないってのに)
したたかに腰を打ち、かろうじて顔を庇って舌打ちする。
「わ、悪い!」「…」「修一さん、スタンバイ!」
再び飛んでくる声に、高野が慌てて修一に駆け寄ってきて埃を払った。一緒に走ってきたスタイリストも顔が硬直している。垣がようよう立ち上がるが、こっちはもともとたいした格好はしていない。
「早く速く!」「はいっ」「うへえっ」
駆け出す修一、必死に追いかけてくる垣、二人がセットの椅子に腰掛けて多少体を見回し落ち着くや否や、Qサインが出た。
「遅いぜ」「すみませんっ」
既に座っていた伊勢監督は渋い顔だ。もっとも、本当に渋い気持ちなのかどうかはわからない。何せこの監督はいろんな意味でしたたかで狸だ。それでも一応謝っておいた。
「こんばんは」
さっきまで泡を食っていたとは思えない司会者のにこやかな笑顔がカメラを振り向く。びくんっ、と垣の背筋が伸びる。
深呼吸一つ。
修一はずっと前からそこに居て、和やかに談笑していたかのような顔で司会者を見やり、カメラの方を振り返った。
「土曜スペシャル、今日はあの『猫たちの時間』の周一郎役、友樹修一さん、滝役、垣かおるさん、監督脚本の伊勢潔さんに来て頂きました」
穏やかな微笑を振られ、修一は微笑み返す、20年来の知己のように。もっとも、この司会者の歳ならば、修一が生まれた時の情報番組も担当していたかも知れない。
「題して『猫たちは笑う』周一郎スペシャルです。私、納屋順一が司会をさせて頂きます」「アシスタントの朝倉美華です」
一通りお定まりの挨拶が済むと、納屋は改めて修一を振り向いた。
「さて、まず、友樹さん、映画のヒット、おめでとうございます」
監督よりも先に話を振ってくるのはセオリーから外れている。けれど、悪くはないんじゃないかな、印象作りには、と計算する。
「今、上映中の『京都舞扇』も連日満員ですよね」
美華も如才なく口を添える。
「はい、ありがとうございます。これもファンの皆様が応援して下さるからだと思っています」
にっこりとと修一は嬉しそうに笑った。するすると横滑りして、始まった時から場所を変えていたカメラ、位置は知らされなくとも、どこにどんな笑顔を向ければ自分が一番よく映り印象がよくなるか、4、5歳からカメラの前に立っていれば否応なくわかる。
(訓練の賜物だよね)
「あ、ちょっとシーンが出ました」
納屋が視線を移すのに、修一もモニターを見つめる。
『京都舞扇』で周一郎と滝が初めて京都の嵐山へ行った時の場面だ。滝のとぼけた表情が温かく周一郎を見守る。まるで年の離れた幼い弟を見守るような視線。
垣は決して素晴しい役者とは言えないけれど、本当に『滝』は当たり役だ。浮世離れしたこの男の、とんでもない包容力を難なく表現して見せる。
(垣さんの動きが少し固いけど………まあ、1作目よりはましか)
『滝』を見るときにいつも感じるくすぐったさをごまかしつつ評価した。
「まあ、これが、今上映中の『京都舞扇』、周一郎シリーズの2作目ですね?」
「ええ」
「1作目が『猫たちの時間』、まあ、これで周一郎というキャラクターが初めて私達の前に姿を現したわけですが…」
納屋はついと手元の資料に目をやった。
(おいおい、そんな資料ぐらい覚え込んでおかなくちゃ)
浮かびそうになった冷笑を修一は巧みに消し去る。そんな司会者ならば、投げかけられる質問も予想がつく。案の定、納屋は如何にも視聴者の代弁をするかのように丁寧に進めてくる。
「友樹さんは、お小さい頃から映画に…」
「ええ。父と出たのが4歳の時でした」
「確か『白い海上』……流氷の上に置き去りにされる子どもの役でしたね」
「はい。あの時は怖かったです」
くすっと修一は笑みを漏らした。
繰り返される質問だが、甦る気持ちは変わらない。役者なんて意識もなくて、なぜあのとき父親が修一をロケに連れていこうと思い立ったのか、今もまだ知らないままだが、わけもわからず流氷の上に乗せられ泣きそうになった表情が、準備していたどの子役よりもカメラ写りがよかった。
それから、修一は次々と映画に引っ張り出されることになった。
「それからずっと、でしたわね」
「はい……と言っても、半分以上、父母と一緒でしたから」
美華のことばに修一は軽く頷いた。
「お父様は友樹陽一さん、日本アカデミー賞主演男優賞を受賞された方ですね?」
「はい。『帰らぬ我が子』で頂きました」
「非行に走っていく子どもを必死に抱きとめようとする、穏やかだけど力強い父親の役でした、あ、出ましたね」
再び納屋の目がモニターに向かった。
修一は瞬時ためらった。
(穏やかだけど力強い父親)
確かに友樹陽一を語られる時に、必ずそのイメージがあげられる。
(けど)
そちらを見つめ、垣が激しい憧れを目に浮かべて父を見ているのに、妙に虚ろな気持ちになる。表情も一瞬翳ったかも知れないが、もちろん、カメラに映っていない時だ。
モニターの中で、聡明そうな父親が息子の腕を掴んでいる。親子で激しく言い争っていたが、息子役の少年がナイフを取り出すのにはっとした表情になり、突っ込んでくる息子にきっと歯を食いしばった。そのまま避けずに、ナイフを構えた息子を両手を広げて抱き締めるシーンに移る。ぐっとナイフが父親の腹に突き刺さり、息子が驚愕の表情で父親を見上げる場面でモニターが切り替わる。
「この父親像は、この年の教育界に大きな影響を与えましたね」
ほう、と垣が感嘆の吐息を漏らすのを、修一は冷ややかに眺める。
「お母様もまた日本アカデミー賞の主演女優賞を受賞された、友樹雅子さんです」
美華が笑いかけてくるのに、さも嬉しそうに頷いてみせる。納屋が再び資料を繰った。
「『夜の河』の主役、勝ち気で華やかなホステスの役でしたね?」
「はい」
(勝ち気で華やかな)
陽一とは反対に、そのことばは雅子を見事に表している。
モニターは『夜の河』の一場面を映した。
大柄の、けれど決して大味ではない女が正面に脚を組んで座っている。滑らかな脚にはパールの混じったストッキング、それでも吸い込まれるような奥の翳りに目を奪われない男の方が少ないだろう。言い寄りかけた男を平手打ちで跪かせると、体に張りつくような薄いサテンドレスにミンクのコートを肩から軽く引っ掛けてターン、細いピンヒールを高く鳴らして画面から消えて行く。
「そうすると、今度の作品は…」
我に返ったように納屋が修一を振り返った。
本当はもう少し続きを見たかったと納屋の目が伝えている。この後、雅子演じるホステスが、仲間に陥れられて男に無理矢理抱かれ続ける場面に繋がっているのを、視聴者はもちろん、修一もよく知っている。
雅子に奪われかけている意識を取り戻すのが腕のみせどころか。
「僕個人の映画としては初めてのシリーズということになります」
ちょっと頼りなげに笑ってみせた。ぱちぱちと指先を弾く。もちろん、修一にはそんな癖はない。だから納屋がおや、という顔で指先に目をやってくれる。有難いことだ。
「振り返っても演技を導いてくれる人がいないわけですから」
それは嘘だ。今まで父母が演技をつけてくれたことなど、一度もない。
「じゃあ、プレッシャーは大変なものですね」
納屋がどこか嬉しそうに笑みを広げた。他人の不幸は蜜の味か。
「そうですね」
修一は少し目を伏せた。視界の端にポカンとこちらを見ている垣の姿が映っているのに、思わず唇を綻ばせる。
「でも、役をやる以上、常に何かのプレッシャーはありますから」
胸を張り、頑張っている二世役者、の顔を作る。
「さすが、というところですね。ところで、垣さん」
「はっはいっはいっはいっ」
ふいに矛先を向けられてうろたえたのか、垣はどもって返答した。納屋が笑みを噛み殺しながら、
「垣さんは確か一般公募で選ばれたんですね?」
「はいっ、そうですっ!」
「役者志望で…」
「はいっ」
「選ばれた時のお気持ちは?」
「嬉しかったです!」
(あー、上がってる)
修一は小さく溜め息をついた。真正面を向いて答える垣は、納屋が求める会話になっていないことに気づいていない。もちろん、カメラの位置にも気づいていない。今のままでは画面の彼方を眺めながら選手宣誓をしているスポーツマンのような状態に映っているはずだ。ぴいいいんと伸ばした背筋、口以外は動かそうともしない。
「一般公募というのは、どなたが」
これでは話にならないと踏んだのだろう、納屋は早々に垣への質問を切り上げた。顔を紅潮させた垣は、番組の視点が自分から移動したことにも気づかないまま、不動の姿勢を取り続けている。
「僕です」
「友樹さんが?」
驚いた納屋の顔。もちろん、手元の資料には、その詳細は書かれているわけだが。
「はい。はじめ、脚本(ほん)をもらった時、周一郎シリーズの要が『滝志郎』だなと思ったんです」
それは本当だ。今でも考えは変わっていない。
「やっていることや自分の可能性がわかっているようでわかっていないというキャラクターにぴったり合う人を見つけたくて、それで監督に一般公募をお願いしました」
事情通ならば、今修一が口にしたことがどれほどあり得ないことなのか、よくわかるだろう。映画は監督のものだ。役者が、それもどれほど有名であろうと一子役にしか過ぎないような子どもが、配役に采配を指示することはない。
だからすぐにわかるだろう、この映画は監督が撮りたかったものではなく、修一を売るためのものだった、と。そして、その背後に巨額のカネが動いたと。
どれほど隠しても明らかになる『構造』、だからこそ、修一は『ただの映画』としても楽しんでもらいたかったし、正当な評価が欲しかった。
「確か…1000人ほど、と聞きましたが」
やっぱり少ないよね、のニュアンスは、この場でしか響かない。修一は微笑みを保つ。
「それについては、私から」
さっきまで1人でニヤついていた伊勢は、のっそりと口を挟んだ。
「始めの公募で1000人に絞りました。これは、友樹君の相手役というので、様々な年齢、男女を問わずの応募がありまして…いや、もちろん、滝、は大学生の男なんですが、一目友樹君を見ようというのか、一瞬でもエキストラでも参加したいと言うのか、とにかく役柄の枠を越えた応募がありました。それを書類と写真審査で1000人に絞ったわけです。ところがまあ、そこからが大変でしてねえ」
伊勢はニヤニヤ笑いを顔全体に広げた。脂ぎったチェシャ猫だ。
「その1000人の中で1人、これをどうやって決めようと思案していたら、友樹君が実に面白い方法を考えてくれたんです」
「面白い方法、ですか」
納屋が興味深そうに頷く。
「このシリーズ、脚本(ほん)を見てもらえばわかりますが、滝志郎という男は本当にもうひたすらドジな男でしてね、実によくこけるんです」
「は、あ」
納屋はわけがわからないと言った表情で頷く。
「それで、友樹君がね、役者としての演技はさておき」
垣が情けない顔をしてくれるとよかったのだが、相変わらず垣は不動の姿勢で固まっている。
「いっそ、すぐにこけられる人の方が良くはないか、と。要するに『こけ方』で300人かな、絞ったんですな」
「これはまた…」
納屋は微妙な表情で垣を見た。そこでようやく視線が集まったのに気づいたのだろう、少しきょとんとしていた垣は、助けを求めるように修一を見る。
「そうですよね、あの時、垣さんも『こけ方』審査受けましたよね」
番組進行どころか、今何を話していたのかさえ、ぴんと来ていなかったらしい垣が、友樹の振りに少し考え、ふいにはっとした顔になった。見る見る赤くなりうなだれてしまう。次に続く話を予想したらしい。
「しかし、それで300人でしょう?」
「次が名案でしてね」
伊勢は嬉しそうに揉み手をした。機嫌がいい時、特によからぬことを企んでいて、それがとんでもなくうまくいきそうな時によく見せる仕草、垣がさすがに警戒した顔になる。それを気にも止めず、伊勢はあっけらかんとした口調で続けた。
「スタジオの入り口にロープを張っておいたんです。で、何も説明せず、次々に候補者を呼び入れた。もちろん、大抵の者は何だこれ、と言う顔でひょいと跨ぎ越していく。少しわかっているのは、一瞬立ち止まり、スタジオの中を覗き込んで、えいやっと飛んでみせたり、大仰な振りで驚いて引っ掛かる真似をしてみたり、いろいろ工夫して入ってきましたね。真っ暗な中に張られたロープじゃない、どう見たってそこにあるのがあからさまにわかるロープだから、誰も本気では引っ掛からない。すると…」
さあ聞いてみろと言いたげに口を噤むから、仕方なしに納屋が尋ねた。
「すると?」
「なんと、それに引っ掛かる男がいたんですよ、300人の中で、たった1人」
「は?」
「垣さんだけが、ね」
つい思い出して笑ってしまったというふうで、くすくす笑って修一が付け加えた。見せ場を奪われた伊勢がじろりと見やったが、修一は軽く微笑んでスルーし、楽しそうに続ける。
「目の前にあるロープに引っ掛かってこけたんです。それで、僕、凄く気に入っちゃって」
「これはこれは…」
ADがカメラの外で大きく腕を回し、どっとセットの中で笑い声が満ちる。
「それも、垣にしてみれば、跨ぐつもりだったと言うんですな、けれどちょいと足の上げ方が足りなかったらしいと…」
ほんとですか、ほんとにそんな冗談みたいなやりとりを、と突っ込む声が響き渡る笑い声に紛れる。伊勢の解説に本気で笑い出したスタッフもいる。
「そ、それではここで一息入れて…」
美華が爆笑したいのを堪えた顔で促し、モニター画面がCMに切り替わった。
「周一郎…」
低く押し殺した声が、しとしと降る雨の合間に滲むように消える。男の肩が僅かに震えている。白紙のページを繰る指が一瞬ためらうように止まり、再び目元から何かが光って落ちた。
静かな雨の音、重く沈んだ薄青い空気感………。
「カァーット!!」 カチン!
銅鑼声が響いた。続いたカチンコ、夢から醒めたように人々が動き出す。
「いいぞお、垣君! 珍しく一発だ!」
「垣さん!」
いささか不似合いな三つ揃いを身に着けた少年が、何かを隠すように半分背中を向けている男のところへ駆け寄り、訝しそうに計算された絵になるポーズで相手を覗き込んだ。
「垣さん?」
「……」
「あ…ほんとに泣いてる!」
「っ!」
男はぎくりと体を起こし、慌ててごしごしと手の甲で目を擦りながら応じる。
「泣いてないよ」
「うそだ。じゃ、これ、何なの?」
ちょいと差し出された細い指先を男は不愉快そうに避けた。
「これ…は鼻水!」
「へええ、垣さんて、目から鼻水出るの!」
あははは、と朗らかに笑う少年の顔には、人懐っこい笑みが溢れている。年齢13、4歳。まだまだ幼い、けれども整った顔立ちの少年は、映画ファンなら一度や二度は見ている名子役、友樹修一。両親とも日本アカデミー主演男優・女優賞を受賞し、この世界での血筋を証明されたサラブレッドだ。
「で、出る時は出るんだ!」
「ふう、ん」
焦った男は垣かおる、修一の相手役として一般公募で選ばれた。駆け出しの役者で修一より10歳以上年上の25歳、だが今のところ完全に修一に呑まれた状態だ。
「修一さん!」
監督に向かって何かを話していた、ジーンズにセーターの20代半ばの男が声をかけて、修一と垣に近づいてきた。
「佐野さん、怒ってますよ。もう録画撮りの時間でしょ」
「え? もう?」
少年は手首の時計に目をやって体を起こした。
「ほんとだ! 垣さんほら、急がなきゃ」
「う、うん」
「高野さん、車」
「こっちです!」
踵を返す男に修一は急き立てて走り出す。後ろから垣が慌てて従う。
「急いで!」「あ、ああ!」
撮っている映画の舞台となっている、レンガ塀に囲まれた豪勢な屋敷の玄関を出ると、黒塗りの車が3人を待っていた。運転席に座っていた上品な灰色のスーツを鮮やかに着こなした女性がちらりと3人に目をやる。
「だめよ、修一君」
「すみません、佐野さん」
ちらっと舌を出して、修一は後部座席に乗り込んだ。佐野は切れ者マネージャーだけに時間に厳しい。続いて高野が助手席に、最後に垣がかなり遠慮しながら乗り込もうとし、足をかけ損ねてこけた。
「でっ!」
「垣さん!」
はっと修一が腰を浮かせるのを視線で制して、佐野は淡々とからかう。
「そこまで演技しなくても結構よ、『滝さん』」
「は、はあ」
赤くなった垣が慌て気味に座席に滑り込むのに、修一はくすくす笑った。
「勉強熱心なんだよ、ね? 『滝さん』」
「ど、どうも」
ますます縮こまる垣に助手席の高野までにやにや笑いを顔に広げる。
「ねえねえ、佐野さん」
「はい」
走り出した車のシートから運転席に乗り出した修一は機嫌よく続けた。
「今日は何の録画撮り?」
「『猫たちの時間』と『京都舞扇』制作のエピソード、今度の『月下魔術師』の宣伝です」
「あ、周一郎シリーズ?」
「ええ」
さらりとセミロングの髪をゆらせて、佐野は肩越しに視線を投げた。
「じゃあエピソードに苦労しないな、垣さんの事話してれば、すぐに終わるもの」
楽勝ーっ、と歓声を上げると、佐野が視線を投げてくる。
「監督も一緒ですけど」
「監督?」
修一は脳裏を掠めた顔に思わず眉を潜めた。気づいた高野が問いかけてくる。
「あんまり嬉しくなさそうですね? 修一さん」
「わかる?」
ひょいと肩を竦めてみせる。
「僕、あの人あまり好きじゃないんだよね………伊勢監督ときたら、すぐ僕(しゅういちろう)を苛めたがってさ」
確かにいろいろ癖のある他の監督達と比べれば、やりやすい相手とは言えるのだが。
「すぐ『周一郎』を怪我させたり倒れさせたりする方向にアレンジしたがるし? 『周一郎』ってば『滝さん』にべたべたなのにさ、引き離そうとばっかりするし?」
唇を尖らせると、佐野がひんやりと口を挟んだ。
「仕事ですから割り切って下さい。これまでの2作品もヒットしてますから」
「はぁい、了解」
確かにそれは大事な要素だ。
修一は茶目っぽく佐野に頷いて見せた。
「着きました」
佐野の声に素早く周囲を見回し、ほっと溜め息をつく。
「良かった。今日の、あまり知られてないんだな」
「必死だったんですよ、録画撮り秘密にしておくの。垣さん、ほら早く降りて!」
高野がわたわたしている垣を急かせる。
「はいはいっ」「助かった。さすが高野さんだね」
それでも周囲を見回しつつ車から体を出した修一は、誰もいないのを確かめると急いで座席から滑り降りる。テレビ局の裏口は目の前だ。急ぎ足に入って行きながら呟いた。
「この前なんか困ったんだよ。変なのがいて、サインとか握手の代わりに触ってくるんだから」
気のせいか、最近そんなファンが増えた。色紙を突き出す代わり、手を差し出す代わりに、距離を詰めて肉薄してくる。男女問わず、このまま抱き締めにかかるんじゃないかというほど迫られる。それが一人二人じゃなくなると営業用の笑みでも強張る。
「友樹さん!」
中で待ち構えていた男が修一の姿を認めて声をかけてくる。
「3スタです! 早く!」「うん!」
さすがに10年近く業界にいると、修一が知らないスタジオやスタッフは少なくなってきていた。スタジオ番号を聞くだけで最短ルートを弾き出し、局内を走り抜けて行こうとした修一は、垣が入り口辺りでまだおろおろと戸惑っているのに気づいた。不安そうな顔で周囲を見回す男を見ていると、いつもほっとする。くすりと笑ってその側へ駆け寄る。
「垣さん!」
「あ?」
「こっちだよ」
くいと垣の手を握り、引っ張って走る。
「ちょ、ちょ、待っ」「待ってたら遅れちゃうよ!」
先を行く高野が3スタに飛び込み、肩越しに声を投げてくる。
「修一さん! スタンバイ!」
「はいっ! ほら、垣さん!」
「わっ…わ!」「げっ」
いきなり垣に引っ張られて目を見開いた。
(これは想定内だけど、今やる?)
呆れた視界がくるりと回る。
「修一さん!」「っっ」「ひええっ」
カメラのコードに足を取られて垣が派手にこけるのに、修一も巻き添えをくらって一緒にひっくり返る。
(時間がないって言うのに。今更メイクさんも入れないってのに)
したたかに腰を打ち、かろうじて顔を庇って舌打ちする。
「わ、悪い!」「…」「修一さん、スタンバイ!」
再び飛んでくる声に、高野が慌てて修一に駆け寄ってきて埃を払った。一緒に走ってきたスタイリストも顔が硬直している。垣がようよう立ち上がるが、こっちはもともとたいした格好はしていない。
「早く速く!」「はいっ」「うへえっ」
駆け出す修一、必死に追いかけてくる垣、二人がセットの椅子に腰掛けて多少体を見回し落ち着くや否や、Qサインが出た。
「遅いぜ」「すみませんっ」
既に座っていた伊勢監督は渋い顔だ。もっとも、本当に渋い気持ちなのかどうかはわからない。何せこの監督はいろんな意味でしたたかで狸だ。それでも一応謝っておいた。
「こんばんは」
さっきまで泡を食っていたとは思えない司会者のにこやかな笑顔がカメラを振り向く。びくんっ、と垣の背筋が伸びる。
深呼吸一つ。
修一はずっと前からそこに居て、和やかに談笑していたかのような顔で司会者を見やり、カメラの方を振り返った。
「土曜スペシャル、今日はあの『猫たちの時間』の周一郎役、友樹修一さん、滝役、垣かおるさん、監督脚本の伊勢潔さんに来て頂きました」
穏やかな微笑を振られ、修一は微笑み返す、20年来の知己のように。もっとも、この司会者の歳ならば、修一が生まれた時の情報番組も担当していたかも知れない。
「題して『猫たちは笑う』周一郎スペシャルです。私、納屋順一が司会をさせて頂きます」「アシスタントの朝倉美華です」
一通りお定まりの挨拶が済むと、納屋は改めて修一を振り向いた。
「さて、まず、友樹さん、映画のヒット、おめでとうございます」
監督よりも先に話を振ってくるのはセオリーから外れている。けれど、悪くはないんじゃないかな、印象作りには、と計算する。
「今、上映中の『京都舞扇』も連日満員ですよね」
美華も如才なく口を添える。
「はい、ありがとうございます。これもファンの皆様が応援して下さるからだと思っています」
にっこりとと修一は嬉しそうに笑った。するすると横滑りして、始まった時から場所を変えていたカメラ、位置は知らされなくとも、どこにどんな笑顔を向ければ自分が一番よく映り印象がよくなるか、4、5歳からカメラの前に立っていれば否応なくわかる。
(訓練の賜物だよね)
「あ、ちょっとシーンが出ました」
納屋が視線を移すのに、修一もモニターを見つめる。
『京都舞扇』で周一郎と滝が初めて京都の嵐山へ行った時の場面だ。滝のとぼけた表情が温かく周一郎を見守る。まるで年の離れた幼い弟を見守るような視線。
垣は決して素晴しい役者とは言えないけれど、本当に『滝』は当たり役だ。浮世離れしたこの男の、とんでもない包容力を難なく表現して見せる。
(垣さんの動きが少し固いけど………まあ、1作目よりはましか)
『滝』を見るときにいつも感じるくすぐったさをごまかしつつ評価した。
「まあ、これが、今上映中の『京都舞扇』、周一郎シリーズの2作目ですね?」
「ええ」
「1作目が『猫たちの時間』、まあ、これで周一郎というキャラクターが初めて私達の前に姿を現したわけですが…」
納屋はついと手元の資料に目をやった。
(おいおい、そんな資料ぐらい覚え込んでおかなくちゃ)
浮かびそうになった冷笑を修一は巧みに消し去る。そんな司会者ならば、投げかけられる質問も予想がつく。案の定、納屋は如何にも視聴者の代弁をするかのように丁寧に進めてくる。
「友樹さんは、お小さい頃から映画に…」
「ええ。父と出たのが4歳の時でした」
「確か『白い海上』……流氷の上に置き去りにされる子どもの役でしたね」
「はい。あの時は怖かったです」
くすっと修一は笑みを漏らした。
繰り返される質問だが、甦る気持ちは変わらない。役者なんて意識もなくて、なぜあのとき父親が修一をロケに連れていこうと思い立ったのか、今もまだ知らないままだが、わけもわからず流氷の上に乗せられ泣きそうになった表情が、準備していたどの子役よりもカメラ写りがよかった。
それから、修一は次々と映画に引っ張り出されることになった。
「それからずっと、でしたわね」
「はい……と言っても、半分以上、父母と一緒でしたから」
美華のことばに修一は軽く頷いた。
「お父様は友樹陽一さん、日本アカデミー賞主演男優賞を受賞された方ですね?」
「はい。『帰らぬ我が子』で頂きました」
「非行に走っていく子どもを必死に抱きとめようとする、穏やかだけど力強い父親の役でした、あ、出ましたね」
再び納屋の目がモニターに向かった。
修一は瞬時ためらった。
(穏やかだけど力強い父親)
確かに友樹陽一を語られる時に、必ずそのイメージがあげられる。
(けど)
そちらを見つめ、垣が激しい憧れを目に浮かべて父を見ているのに、妙に虚ろな気持ちになる。表情も一瞬翳ったかも知れないが、もちろん、カメラに映っていない時だ。
モニターの中で、聡明そうな父親が息子の腕を掴んでいる。親子で激しく言い争っていたが、息子役の少年がナイフを取り出すのにはっとした表情になり、突っ込んでくる息子にきっと歯を食いしばった。そのまま避けずに、ナイフを構えた息子を両手を広げて抱き締めるシーンに移る。ぐっとナイフが父親の腹に突き刺さり、息子が驚愕の表情で父親を見上げる場面でモニターが切り替わる。
「この父親像は、この年の教育界に大きな影響を与えましたね」
ほう、と垣が感嘆の吐息を漏らすのを、修一は冷ややかに眺める。
「お母様もまた日本アカデミー賞の主演女優賞を受賞された、友樹雅子さんです」
美華が笑いかけてくるのに、さも嬉しそうに頷いてみせる。納屋が再び資料を繰った。
「『夜の河』の主役、勝ち気で華やかなホステスの役でしたね?」
「はい」
(勝ち気で華やかな)
陽一とは反対に、そのことばは雅子を見事に表している。
モニターは『夜の河』の一場面を映した。
大柄の、けれど決して大味ではない女が正面に脚を組んで座っている。滑らかな脚にはパールの混じったストッキング、それでも吸い込まれるような奥の翳りに目を奪われない男の方が少ないだろう。言い寄りかけた男を平手打ちで跪かせると、体に張りつくような薄いサテンドレスにミンクのコートを肩から軽く引っ掛けてターン、細いピンヒールを高く鳴らして画面から消えて行く。
「そうすると、今度の作品は…」
我に返ったように納屋が修一を振り返った。
本当はもう少し続きを見たかったと納屋の目が伝えている。この後、雅子演じるホステスが、仲間に陥れられて男に無理矢理抱かれ続ける場面に繋がっているのを、視聴者はもちろん、修一もよく知っている。
雅子に奪われかけている意識を取り戻すのが腕のみせどころか。
「僕個人の映画としては初めてのシリーズということになります」
ちょっと頼りなげに笑ってみせた。ぱちぱちと指先を弾く。もちろん、修一にはそんな癖はない。だから納屋がおや、という顔で指先に目をやってくれる。有難いことだ。
「振り返っても演技を導いてくれる人がいないわけですから」
それは嘘だ。今まで父母が演技をつけてくれたことなど、一度もない。
「じゃあ、プレッシャーは大変なものですね」
納屋がどこか嬉しそうに笑みを広げた。他人の不幸は蜜の味か。
「そうですね」
修一は少し目を伏せた。視界の端にポカンとこちらを見ている垣の姿が映っているのに、思わず唇を綻ばせる。
「でも、役をやる以上、常に何かのプレッシャーはありますから」
胸を張り、頑張っている二世役者、の顔を作る。
「さすが、というところですね。ところで、垣さん」
「はっはいっはいっはいっ」
ふいに矛先を向けられてうろたえたのか、垣はどもって返答した。納屋が笑みを噛み殺しながら、
「垣さんは確か一般公募で選ばれたんですね?」
「はいっ、そうですっ!」
「役者志望で…」
「はいっ」
「選ばれた時のお気持ちは?」
「嬉しかったです!」
(あー、上がってる)
修一は小さく溜め息をついた。真正面を向いて答える垣は、納屋が求める会話になっていないことに気づいていない。もちろん、カメラの位置にも気づいていない。今のままでは画面の彼方を眺めながら選手宣誓をしているスポーツマンのような状態に映っているはずだ。ぴいいいんと伸ばした背筋、口以外は動かそうともしない。
「一般公募というのは、どなたが」
これでは話にならないと踏んだのだろう、納屋は早々に垣への質問を切り上げた。顔を紅潮させた垣は、番組の視点が自分から移動したことにも気づかないまま、不動の姿勢を取り続けている。
「僕です」
「友樹さんが?」
驚いた納屋の顔。もちろん、手元の資料には、その詳細は書かれているわけだが。
「はい。はじめ、脚本(ほん)をもらった時、周一郎シリーズの要が『滝志郎』だなと思ったんです」
それは本当だ。今でも考えは変わっていない。
「やっていることや自分の可能性がわかっているようでわかっていないというキャラクターにぴったり合う人を見つけたくて、それで監督に一般公募をお願いしました」
事情通ならば、今修一が口にしたことがどれほどあり得ないことなのか、よくわかるだろう。映画は監督のものだ。役者が、それもどれほど有名であろうと一子役にしか過ぎないような子どもが、配役に采配を指示することはない。
だからすぐにわかるだろう、この映画は監督が撮りたかったものではなく、修一を売るためのものだった、と。そして、その背後に巨額のカネが動いたと。
どれほど隠しても明らかになる『構造』、だからこそ、修一は『ただの映画』としても楽しんでもらいたかったし、正当な評価が欲しかった。
「確か…1000人ほど、と聞きましたが」
やっぱり少ないよね、のニュアンスは、この場でしか響かない。修一は微笑みを保つ。
「それについては、私から」
さっきまで1人でニヤついていた伊勢は、のっそりと口を挟んだ。
「始めの公募で1000人に絞りました。これは、友樹君の相手役というので、様々な年齢、男女を問わずの応募がありまして…いや、もちろん、滝、は大学生の男なんですが、一目友樹君を見ようというのか、一瞬でもエキストラでも参加したいと言うのか、とにかく役柄の枠を越えた応募がありました。それを書類と写真審査で1000人に絞ったわけです。ところがまあ、そこからが大変でしてねえ」
伊勢はニヤニヤ笑いを顔全体に広げた。脂ぎったチェシャ猫だ。
「その1000人の中で1人、これをどうやって決めようと思案していたら、友樹君が実に面白い方法を考えてくれたんです」
「面白い方法、ですか」
納屋が興味深そうに頷く。
「このシリーズ、脚本(ほん)を見てもらえばわかりますが、滝志郎という男は本当にもうひたすらドジな男でしてね、実によくこけるんです」
「は、あ」
納屋はわけがわからないと言った表情で頷く。
「それで、友樹君がね、役者としての演技はさておき」
垣が情けない顔をしてくれるとよかったのだが、相変わらず垣は不動の姿勢で固まっている。
「いっそ、すぐにこけられる人の方が良くはないか、と。要するに『こけ方』で300人かな、絞ったんですな」
「これはまた…」
納屋は微妙な表情で垣を見た。そこでようやく視線が集まったのに気づいたのだろう、少しきょとんとしていた垣は、助けを求めるように修一を見る。
「そうですよね、あの時、垣さんも『こけ方』審査受けましたよね」
番組進行どころか、今何を話していたのかさえ、ぴんと来ていなかったらしい垣が、友樹の振りに少し考え、ふいにはっとした顔になった。見る見る赤くなりうなだれてしまう。次に続く話を予想したらしい。
「しかし、それで300人でしょう?」
「次が名案でしてね」
伊勢は嬉しそうに揉み手をした。機嫌がいい時、特によからぬことを企んでいて、それがとんでもなくうまくいきそうな時によく見せる仕草、垣がさすがに警戒した顔になる。それを気にも止めず、伊勢はあっけらかんとした口調で続けた。
「スタジオの入り口にロープを張っておいたんです。で、何も説明せず、次々に候補者を呼び入れた。もちろん、大抵の者は何だこれ、と言う顔でひょいと跨ぎ越していく。少しわかっているのは、一瞬立ち止まり、スタジオの中を覗き込んで、えいやっと飛んでみせたり、大仰な振りで驚いて引っ掛かる真似をしてみたり、いろいろ工夫して入ってきましたね。真っ暗な中に張られたロープじゃない、どう見たってそこにあるのがあからさまにわかるロープだから、誰も本気では引っ掛からない。すると…」
さあ聞いてみろと言いたげに口を噤むから、仕方なしに納屋が尋ねた。
「すると?」
「なんと、それに引っ掛かる男がいたんですよ、300人の中で、たった1人」
「は?」
「垣さんだけが、ね」
つい思い出して笑ってしまったというふうで、くすくす笑って修一が付け加えた。見せ場を奪われた伊勢がじろりと見やったが、修一は軽く微笑んでスルーし、楽しそうに続ける。
「目の前にあるロープに引っ掛かってこけたんです。それで、僕、凄く気に入っちゃって」
「これはこれは…」
ADがカメラの外で大きく腕を回し、どっとセットの中で笑い声が満ちる。
「それも、垣にしてみれば、跨ぐつもりだったと言うんですな、けれどちょいと足の上げ方が足りなかったらしいと…」
ほんとですか、ほんとにそんな冗談みたいなやりとりを、と突っ込む声が響き渡る笑い声に紛れる。伊勢の解説に本気で笑い出したスタッフもいる。
「そ、それではここで一息入れて…」
美華が爆笑したいのを堪えた顔で促し、モニター画面がCMに切り替わった。
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