『ラズーン』第四部

segakiyui

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9.沈黙の扉(2)

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 リ……ィィ……ン……リ…ィ……ン。
 静まり返った氷の岩屋の中、微かな響きが谺する。
「ふ…」
 深く澄み渡る輝きをたたえた床の上に、ユーノは横たわっている。外光は射していないが、壁に使われている光石のせいで仄かに明るい広間、ぐったりと四肢を投げ出している左肩は、見るも無惨なささくれ立ったような血肉の塊と化している。首の付け根辺りから引き裂かれたような傷がぱくりと口を開け、傷がじっとりと濡れているのは、そこからまだじわじわと流れ続けている体液のせいだろう。
 もっとも、傷からすれば、その量は信じられないほど少なかった。まるで見えない何かが膜となって傷を覆っているように、吹き零れて一気になくなるはずの血潮は、ごく僅かずつ滲み出して零れていくだけだ。
「う、…」
 今しも、その微かに開いた唇から小さな呻きと息が漏れ、ユーノの命の灯が揺らめきながらも消えてしまってはいないことを教える、が。
 ジリッ……ガッ……ガラッ! ドスッ!
 突然、その小さな吐息に呼応するように、固いものがこすれあう響きとともに、広間の天井から崩れ落ちた何かが凄まじい勢いで床にめり込んだ。薄闇にきらきらと光を放ちながら突き立つそれは、一抱えほどもある透き通った結晶の柱だ。
 もし、ユーノに意識があるならば、その岩屋の天井を見上げた途端、声もなく立ち竦んだことだろう。
 床を平に覆う広々とした天井は、実は大小無数の水晶の原石から成っていた。原石、と言っても、泥や土に塗れているわけではない。優れた芸術家が腕によりをかけて磨き上げたような滑らかな表面、六角の柱状で鋭く尖った先端を下に、ぎっしりと貼りついている。
 岩屋の天井に水晶が貼りつけられたというより、水晶の山を掻き分けて岩屋としたようなその造形は、人間業ではなし得ない精巧さと美しさがあったが、同時に実は、残忍さと気まぐれを含んでいるものだった。
「く…っ」
 既に意識朦朧としており、声を上げたつもりさえないユーノが、僅かに身動きし唸る。それはもう、声と呼べないほど微かな悲鳴だったが、天井から吊り下がった剣の切っ先にも似た水晶の塊は、確実に反応した。
 ズッ…。
 ユーノの真上近くの、水色の結晶が微かに震え、揺れる。はめ込まれていた場所からついに重さに耐えかねたとでも言いたげに、じりじりとずり落ち始め、やがて生を保たない無機物特有の容赦なさで、まっすぐ真下のユーノめがけて落ちていく。
 ふ、と何に呼ばれたのだろう、ユーノが目を開けた。漆黒の瞳には膜がかかったような無表情さが満ち、自分めがけて落ちてくる水晶の切っ先にも注意を払う様子はない。
 ヒュ……ゥン……ドッ!!
「……」
 水色の水晶は、ユーノの右頬すれすれを掠めて耳のすぐ側に落ちた。天井にあっては小粒の結晶だったが、それでも落ちてみれば、優に顔ほどはある。直撃すれば、ユーノの手足なぞ、ただの肉塊に成り果てるだろう。
 だが、ユーノには、その光景も、その光景が与える恐怖も意味を為さなかった。見えなかったわけではない。それよりも、心をぎりぎりと締め付けてくる責め苦に耐え続けるのに精一杯だったのだ。
(…『聖なる輪』(リーソン)が………鳴って……いる…)
 いつ気づいたのか定かではなかった。ただ、それが鳴ると、心が泡立ちかき回されて、幼い頃の思い出が次々と甦ってくる。そして、それを待ち構えてでもいたように、得体の知れない何かの気配が、ユーノの魂を粉々にしながら引きずり出そうとするのだ。
(鳴る…な…)
 そう願う。
(鳴る…な…?…)
 『聖なる輪』(リーソン)が鳴らなくなるということは、死を意味するのではなかったか。
(それでも……いいんだ…)
 それでもいい?
 どういうことだ?
 問いかけてくるのは誰だろう。
(だって…)
 その問いに、心の中に一つの光景が溢れ出す。

「はうっ!」
「ユーノ様!」
 夜の闇。繰り出されてくるカザドの刺客の剣。傷を負って転がれば、手から剣がはね飛んでしまう。
(しまった!)
 歯噛みしても既に遅い。この前の戦いで受けた傷が完治していないユーノにとって、剣がなければ苦戦は必至、このままでは屠られるのを待つしかない。
(これまでかっ)
「たああっ!!」
 勢いに乗って振りかぶり振り下ろしてくるカザド兵、さすがに覚悟して目を閉じたとたん、響いたのは絶叫。
「うわああっ!」
(サルト?!)
 ぎょっとして目を開けると、目の前にずしっとサルトの体が降ってくる。
「ユー……ノ…さ…ま…」
「サルッ…」
 キンッ! 
 呼びかけながら、すがるようにしがみつかれて手渡された剣で、カザド兵の攻撃を受け止めた。剣さえ手に入れば、一人や二人のカザド兵、たとえ負傷したサルトを庇ってでも倒せないユーノではない。
「ひ、ひけっ! ひけえっ!!」
 悲鳴のような叫び、嵐のように去っていったカザド兵、ほっと息をついたユーノは次の瞬間体を強張らせる。背後に庇ったはずのサルトがぴくりとも動かない。そればかりか、その体を覆うのは半死半生の荒い呼吸でもうろたえたように轟く心臓の鼓動でもない、固く深く静まった死の無音だけ。覗き込めば、骨に達するほど深く大きく切り裂かれた背中の傷、それだけではない、抉り込まれたような刺し傷が背中に抜けている。
「サル…」
(私を、庇って)
 静寂の中、視界が一気に曇った。
 誰もいない、誰も襲撃に気づいていない、今ここにいるのは、ユーノとサルトだけ。そして、今もなお、誰一人駆けつけてくる気配さえなく。
 だから、ユーノは心のままに振舞える。
 そろりそろりと、冷え強張っていくサルトの体に腕を回す。抱え、ゆっくりと抱き締める。
『本日より付き人になりました、サルト、とお呼び下さい』
 付き人など初めてだった。着替えをきちんとしないことや食事をちゃんと摂らないことを、あれほど真剣に心配されたことも。
『いいですか、ユーノ様、仮にも第二皇女なんですから、時にはにっこり笑って下さい。……違いますって、それじゃ怒ってるみたいですよ』
 傷を隠すために遠ざけると悲しげに顔をしかめ、頼みごとをすると喜んで駆けよってきてくれた。
『ありがとうございます! 俺、お役に立ってるんですよね!』
 老いた両親の世話をしなくてはならないと言いながらも、いつも嬉しそうだった。
『俺一人っ子だから。ユーノ様みたいなのが三人居ればよかった……あ、失礼しました! 何もユーノ様が男勝りだなんて言ってませんから!』
 からかう笑顔が、心配するしかめ顔が、頭の中を、心の底を、繰り返し繰り返し巡り巡り巡っていって。
「ご…めん……」
 サルトの肩に顔を埋め、ユーノは呟いた。泣き声を上げる代わりに、何度も何度も謝り続ける。
「ごめん………ごめ…ん……私の……せいだ……ごめ…ん……サルト…っ」
 サルトの死は隠された。
 傷痕の残った遺体を返すわけにはいかない。彼は遣いに出たまま帰らなかったということになった。
 どこかで盗賊に襲われたのかも知れない、彼を一人で遣いにやるのではなかったと話すユーノに、老父母は肩を落として帰っていった。老夫婦の世話を密かに言いつけるのはもちろん、その後ろ姿を見ながら、ユーノは心の中で詫び続けた。
(私のことを、憎んでも嫌ってもいいから。だけど、今は話せない、ごめん………ごめんなさい)
 唇を噛んで見送り続ける、口の中に苦い血の味が広がる。
 だが、涙は一切出なかった。

(だって…)
 ユーノは心の中で問いに応じる。
(あの時だって、私に付いていなければ、サルトは死ななかった……ううん、アシャだって)
 魔物(パルーク)の姿、禍々しいドーヤル老師、傷を負いながらもユーノを助けにきてくれたのに、ユーノの腕の中で気を失ったアシャ。
 サルトの姿が重なって凍りつくほどぞっとした。
(もし、私がギヌアなんかに狙われてなければ)
 レスファート。カザド兵との戦いで、滑らかな足に走った紅の筋。
(カザドなんかに狙われてなければ)
 護ろうとしていたレアナは、ユーノを引っ張り出すために連れ出されて囮になり、危うく殺されてしまうところだった。いや、ユーノ一人だったなら、確実に殺されていただろう。
(私がいたから………ううん……私が……いなければ)
 生まれ損なったとは思っていた。神様とて忙しいのだろう、時には少女の体に少年の魂を入れてしまうことがあるのかも知れない。送り出してから、ああしまったと見送られていたのかも知れない。
(でも…ひょっとしたら…)
 ユーノは空ろな心の奥で考える。
(生まれたこと自体、間違っていたのかも知れない)
 父母とレアナ、セアラが談笑する中に入れなかったのも、一度や二度ではない。拒まれたわけでもないのに立ち竦んで、一人でじっと四人で作られた輪を見つめていた。それでも時にはそこに入りたくて、手を伸ばしかけ、その都度、カザドが来るかも知れないと思い直して首を振り、背中を向けた。
 ミアナ妃が優しくレアナの髪をまとめる。セアラのリボンを結び直してやる。皇はおどけて小さな貴婦人達にわざわざ椅子を引いてやり、レアナとセアラが優雅にドレスを広げお辞儀を返して腰掛ける。響く笑い声、甘く柔らかい母の声が窘める、皇女はそんなに大声で笑うものではありませんよ。
 その声を、全身を耳にして、背中を向け、庭のほの暗い隅に油断なく視線を配りながら、テラスの手すりに腰掛け、聞いた。心の全てを見えない手にして、朗らかな輪に差し伸べながら考えていた。
(不思議だな)
 温もりを求め、肩を竦めて少し寄せる、抱く腕はテラスに突いて体を支えているから。
(あそこに私がいなくても、何のかわりもないんだな)
 たとえばレアナがいなければ、まずミアナ妃がレアナはどこにいるかと尋ねるだろう。同じようにセアラがいなければ、皇が、ミアナ妃がいなければ、同じく皇が、皇がいなければ、ミアナ妃が居場所を確かめようとするだろう。居場所を確かめ、何をしているのか、どうしてここへ来ないのかと尋ねるだろう。
 けれども、ユーノについては、始めにセアラが「ユーノ姉さまは?」と尋ね、皇が一言「またレノでも駆けさせておるのだろう」と応じたきり、以後は誰も話すことさえない。
(私が……いなくってもいい……のかな?) 
 夜の闇に問いかけても、答えが返るはずもない。
(父さま達のせいじゃない)
 そっと心の中で反論する。
(私はあんまり皇宮にいないから、な)
 ちゃりっ、と腰で剣が音をたてる。
(うん、だからきっと、そのせいだ)
 俯く。そうではない、と気づいているのを見まいとする。
(護れれば……いいだろ?)
 自分に問いかける。
(護れれば……ねえ?)
 帰る所はないとわかっていても。
(でも……アシャの側には、もう、レアナ姉さまがいる…)
 そこに、ユーノが居るどんな意味があるのだろう。アシャはレアナを命にかえて護るだろう。レアナはアシャの心安らぐ場所となるだろう。アシャはいずれセレドに戻り、そして、セレドは安泰となる。父母はもちろん、いずれセアラにも護ってくれる人が現れる。
(私の手なんか……いらない……私は誰にも必要じゃない……)
 そればかりか、ユーノが居ることで、アシャレアナ、レスファートやイルファを巻き込んでしまう可能性の方が遥かに大きくなりつつある。殺気立ったギヌアの顔、下卑た笑みを浮かべるカザディノの顔、敵の顔なら幾つも幾つも思いつく。
(……ああ……そうだ)
 ゆっくり瞬いて思う。
(皆を護るなんて言って、ほんとは)
 ユーノが支えられてきたのだろう。皆を護り支えていると思っていた、そのようにあろうと願っていた。
 けれど、本当は、ユーノが、ユーノ自身が、自分は生まれて来ない方が良かったと思うのがたまらなかったからだ。何かどこかで、自分が必要とされていると信じていたかった。
(だから……『聖なる輪』(リーソン)…)
 心の中でそっと命じる。
(もう……鳴るな…)
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