『ラズーン』第四部

segakiyui

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9.沈黙の扉(4)

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 その『扉』は、神殿より少し離れた巨岩に作られていた。
 『狩人の山』(オムニド)を埋める雪の中、神殿から蒼石の渡り廊下が扉までの距離を繋ぎ、人を導く。
 廊下の突き当たりには小さな四阿がある。八本の支柱で囲まれた空間の正面に、ごつごつした岩に不似合いなほど繊細な水晶で作られた扉がはめ込まれている。幾何学模様を飾り帯のように散らせた幾重もの縁取りは、内側になるほど複雑精巧となり、見る者にこれを作り上げた人々の苦労を思わせた。
 今、四阿の中で、その扉に向き合い、これを囲むようにして、青衣の裾を風になびかせ、白骨の顔に艶やかな髪を乱れさせた九人の『泉の狩人』(オーミノ)が立っている。各々が白い腕を手首のあたりで、胸の前に交差させ、何かを深く祈るような気配だ。
 そこに、セールが同様の格好で端に並び、十人の狩人が揃った。
「開こう」
 セールがふいに声を張り上げた。
「我らが沈黙を」
 もう一方の端の狩人、ウォーグが応じるように受ける。
「開こう」
 セールの隣の狩人が続ける。
「今ここに」
 ウォーグの隣が応じる。
「開こう」
「約束は交わされた」
「開こう」
「長ラフィンニとアシャにより」
 さざ波のように左右へ言い交わされながら、呪文は広がった。唱えながら、狩人が一人、また一人と腕を左右に開いていく。隣に立つ狩人と微かに重なる白い腕は連なる生身の鎖のようだ。
「開こう」
 風が寒々しい音をたてて吹き過ぎ、最後の一人、カイルーンが口を開いた。
「ここに我らが封印を解き、沈黙を破る者への呪いを込める。開くがよい、『沈黙の扉』よ」
 すうっと水晶の中心に細い光が走った。やがて音もなく中央から二つに割れた扉が奥へと開く。
 中はそれほど広くない。狩人達が全て入り込めば、ぎっしりと空間が満ちるだろう。
 開いた扉の正面にただ一人、華奢な体を横たえて目を閉じているユーノの姿があった。額には透明な輪、時折漏れる、弱々しくも清冽な呼吸が響く。
 一瞬、何もかも捨てて飛び込みたくなる衝動を、かろうじてアシャは堪えた。
「アシャ」
 背後からのラフィンニの声に、振り返らない。
「知ってはいるだろうが、この岩屋に人の声は禁物……僅かな囁きでも天井の剣は震えて落ちるぞ」
「わかっている」
 言葉少なに答えて、アシャは扉の前に立った。手にした『聖なる輪』(リーソン)が、ユーノの『聖なる輪』(リーソン)と共鳴し、身を震わせる。
 それを扉の外に残し、静かに岩屋の中に踏み入った。一歩、また一歩とユーノに向かって近づいていく。
 視界の端に天井を埋め尽くす煌めく水晶の塊がちらつく。
 物音で水晶は崩れない。だが、一言でも声をたてたが最後、天井から吊り下がった美しくも残忍な装飾品は、雨のようにユーノを穿つだろう。
「う…」「…」
 アシャの接近に何かを察知したのか、それとも開いた扉からの冷気を感じたのか、ユーノが微かに呻き、アシャはぎくりとして足を止めた。ズッ、と頭上で擦れるような音が響き、ぱらぱらと透明の砂が降り落ちてくる。息を詰めて身動き一つしないアシャの髪に、肩に細かな破片が当たる。
 そろそろと視線を移して、アシャは天井を見上げた。全く動かないかのように見える天井の水晶、気のせいだったのかと安堵しかけて、眉を寄せる。違う、今、目の前で、子どもの体ほどもある紫水晶の塊が、ゆるゆるとその根を天井から抜きつつある。
 急ぎ、落下予測を目算する。尖った先端は、ユーノの心臓真上より腕一本長、離れているか。抜け落ち方によってはユーノを直撃しかねないが、ユーノを庇おうとして飛び込む振動で他の水晶が抜け落ちかねない。
 歯を食い縛ってアシャは静止したまま待ち続けた。目の前でユーノを貫かれる恐怖と自分がその惨劇を招く不安の天秤がゆらゆらと揺れる。
「…っ」
 ズン…ッ。視界をまっすぐ落ちた水晶は、重い音をたててユーノの腕を掠めて床に食い込んだ。傷みがユーノを目覚めさせたのか、苦しげに仰け反る相手を凍る想いで見つめる。
(頼む)
 静かに足を踏み出す。次の水晶がどこまで持ちこたえてくれるか、保証はない。
(苦しいだろうが、それ以上、声を上げるなよ)
 駆け寄りたい、走り寄り、体を投げ出して守りたい、だが、落ちる水晶はアシャの背骨を軽々と砕いてユーノを叩き潰すだろう。
 息を細く吐きながら、ゆっくりと、影が這うように歩を進め、ようようユーノの側に辿り着き、そろそろと膝をつく。
「…」
 左の首筋から肩にかけて喰い裂かれたような傷が目に飛び込んだ。こんな傷を負わせたのか。シズミィ相手にどれほど抵抗できたはずもない、なのに、こんなに酷い傷を負わせるまで戦わせたのか。
 怒りに叫びたくなるのを必死に堪える。特別な祈りに伏すように、体を倒し、そっとユーノの肩の下に手を差し入れる。今度は確実に痛みが意識を呼び戻したのだろう、苦痛に強く潜めた眉の下で、ユーノの瞳がうっすらと開かれた。
 潤む、至上の、黒曜石。
「ぁ…」
 呟こうとした唇に優しく、けれど容赦なく口を重ねて呼吸と声を呑み込んだ。もがいて拒もうとする体を一気に胸に抱き込む。
「んむ」
 顔を逸らせて口を離そうとするのを追って塞ぐ。強く掴んだ肩の激痛にユーノが仰け反る。見開いた瞳がたちまち茫洋と霞み、額からにじんだ汗と涙が次々と頬に顎に流れ落ちる。悲鳴を上げたいのだろう、だが唇はアシャの支配下にある。
 かちかちと口許で小さな歯が音を立てるのを感じながら、アシャは片膝をつき、立てた膝にユーノの体をもたせかけて、呼吸が少し落ち着くのを待った。すがろうとする手が虚しく揺れて、アシャの腰を叩く。何事か囁こうとするように唇が動きかけるのを、より深く覆って呑み込み、封じた。
「………、」
 僅かな抵抗が消えた。ぐったりと目を閉じるユーノを見つめながら、されるがままの体をそっと抱き上げていく。体が捻れ、抱え込まれる姿勢に左肩が疼くのだろう、堪え切れぬように跳ねるユーノは、まるで拷問を受けているような顔だ。
(まるで、無理に抱いているみたいだな)
 凍った心でアシャは思う。
 腕の中で動きを封じられ唇を奪われ、アシャの動き一つにびくりびくりと震えるユーノの姿、閉じた瞳はアシャを見ない、くたりとした指先はアシャを求めない、その姿のどこにもアシャへの愛情は愚か、友情さえもない。
(所詮、俺は)
 こうしてお前を苦しめて奪うことしか出来ない男だと言うことなのか。
 これほど近くに身を寄せるなら、甘やかに色づいた肌に触れたかった。優しい声音で受け入れて欲しかった。熱く湿った指先で、アシャをも求めて欲しかった。
(全て、夢だ)
 どうして俺は、もっと早く、お前に跪かなかったのだろう。
 どうして俺は、もっと強く、お前に願い出なかったのだろう。
 与えてほしい、と。
(どうして、俺は)
 一番欲しいものを、失う時にしか見いだせないのだろう。
(わかっている、愚かだからだ)
 男としての意地だとか、これまでの経験だとか、生まれや気性や自分の役立たずな外見さえも捨てることができなかったから、こうしてついにユーノを失ってしまうことになるのだ。
 閉じた視界に柔らかく笑うユーノが居て、身を絞るほど切なくなる。
(俺は、お前を、失うんだ)
 思わず願った。
 誰かこのまま、俺を切り裂いてくれ。


「ほう」
「唇で声を封じるか」
 さて、どうしてユーノを助け出すのかと、戸口で見守っていたセールが微かな笑い声をたてた。他の狩人も、アシャの煩悶を格好の見世物とばかりに眺めている。
「さても気障な男じゃ。こんな時でも伊達男ぶりを発揮するとはな」
「気障なばかりでもあるまい」
「長…」
 ラフィンニの声に振り向く。
「考えてもみるがいい。ユーノ一人では身動きならぬ。娘を岩屋から連れ出そうとするのなら、抱いて運ぶしか手はあるまい。あの傷で抱き上げられ抱え込まれるのは激痛、自然、呻き声の一つや二つは零れよう。が、ここは『沈黙の扉』の中、声を上げれば無数の水晶の塊が彼らを押し潰し刺し貫く………ならば、如何にしてユーノの声を封じる?」
「猿ぐつわなりと何なりと」
 おどけたような声が響いた。
「そういう荒事ができぬ男でもありますまい」
 ラフィンニは微かに頷き、問いを重ねる。
「『あの』アシャが、己の命を引き換えにしようとまで惚れた娘に、か?」
「それに、猿ぐつわでは、呻き声を封じられぬ」
 くすくすと別方向からからかう口調が応じた。
「半端に開いた口で呻かれては、元も子もない。好き者ならば別であろうが」
「そう言えば…」
 ウォーグが思い出したように、岩屋の中のアシャを見やった。
「アシャの傷はまだ完治しておらぬはず」
「完治どころか、塞がってもおらぬわ」
 ラフィンニの促しに『泉の狩人』(オーミノ)達がどれどれと覗き込む。
「なるほど血の匂いがする」「また新しく滲む気配じゃ」「アシャにはよう似合うておるが」
「その傷をおして宙道(シノイ)を開き、あの娘を救いに来たというのに、娘の命と引き換えに心に鍵を掛けねばならぬ」
 ラフィンニは珍しく、憂うような優しい口調で続けた。
「名のある戦士でも娘の体ぐらいは手に入れようともがこうに……さすがアシャじゃな、あの口づけ、娘への別れを告げるものと見た。武人の誉れも高いアシャのこと、おそらくは二度と娘の唇に触れまい」
 外でかまびすしく騒ぐ『泉の狩人』(オーミノ)達の声が聞こえているのかいないのか、ユーノを抱えて口を塞いでいたままのアシャが、緩やかに動き出した。抱え込み抱き上げる、その瞬間、苦しげに眉を寄せたのは、ユーノの口を塞いでいるためだけではないだろう。強張る体が傷みの元を教える。ひょっとするとユーノの口に、自分の悲鳴を注いだのかも知れない。
 だが、アシャは動きを止めなかった。抱き上げたユーノと口を重ねながら戸口へ向かって歩いてくると、静かに一歩、戸口の外へ踏み出したと同時に顔を上げた。
「ふ、ぅ…」
 口を離されたユーノが溜め息のような声を漏らして軽く仰け反る。それをそっと支えて我が胸へ抱き直し、アシャは優しく髪に唇を当てた。胸にもたれてくるユーノの頭に、目を閉じ、頬を寄せる。
 場所が『狩人の山』(オムニド)でなかったなら、双方傷を負っていなければ、それは穏やかな昼下がりを楽しむ恋人達の寄り添う姿に見えた。
 甘やかな時は数瞬。
 唐突にアシャは目を開く。自分達の逢瀬を興味津々で見守っていた目を照れもせずに見返す。
「では、頂いていく」
 むしろ爽やかな声音が宣言した。
「我らが聖女王(シグラトル)じゃ、大切にして頂こう」
「安心しろ」
 ラフィンニの確認に、冷淡に澄み渡った紫の瞳が応じる。
「二度とこんな目に遭わせない」
「そのことば、誓いと受け取っておこう。ユーノ様の傷は我らが念で包んでおいた。悪化はしておらぬはず」
「適切な処置に感謝する」
 淡々と言い放ち、くるりとラフィンニに背中を向ける。伸びた背筋、俯き加減の首筋に金色の髪が幾筋も汗で張りついている。
 アシャもまた、激痛を堪えている。
 すぐに、その傷みは目に見えた。渡り廊下を歩くことなく、雪の上を歩み去る足下は、薄紅に染まっている。
 だが、歩みは止まらない。ユーノを抱く腕が震えることもない。
 誰もどこへと尋ねなかった。アシャが進む前方の空間に、きらきらとした金色の輪が、陽の光が残した傷痕のように浮かんでいる。
「……」
 その前に立ち止まったアシャは、無言で念を込めた。ゆらり、とアシャの体の周囲が黄金の靄を漂わせ、揺らめく陽炎のように霞む。
 次の瞬間、ばこり、と不気味な音をたてて、その輪の中が真っ黒に変わった。透明な泉の中に突然現れた闇のよう、目にした誰もが踏み込むのを恐れるだろう底知れなさだ。
 アシャはたじろがなかった。ことさら身構えることもなく、むしろ薄い笑みを浮かべて足を踏み出す。
「…」
 所詮、俺は。
 呟いたことばの先は聞こえない。
 雪の上に点々と鮮血を滴らせた跡を残し、アシャは闇の中へと姿を消した。

 
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