『ラズーン』第五部

segakiyui

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1.『剣の伝説』(シグラトル)(5)

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 何か予感めいたものを感じさせる、そんな日だった。
 風は凪ぎ、花々の薫りは強く立ちこめ、ユーノの鼻腔を満たしている。深く澄んだ立風琴(リュシ)の音が、高く低く、暮れかけて朧に霞んだ空へと流れてゆく。
 剣士としてだけではなく、楽師としても名の知れたアシャが、レアナ達の求めに従って無聊を慰めるために立風琴(リュシ)を奏でているのだ。
(柔らかい音色…)
 ユーノはスティルの幹にもたれて膝を抱き、目を閉じながら考える。
(立風琴(リュシ)は奏でる者の声に似るって、本当だな)

 音が聴こえて来たとき、廊下を歩いていたユーノはすぐさま広間に向かった。余りにも見事な立風琴(リュシ)の音色、それだけではない、それがアシャの音、しかも恋歌だと気づいたせいだ。
(何て甘やかな、切なげな音)
 通りすがりに聴くだけでもこれほど心をかき乱す、そんな音を一体どんな顔で奏でているのやら。興味半分、残り半分は『そういう顔』を見たいと思う欲望、自分で気づいていささか熱くなった頬を持て余しつつ、広間に踏み込みかけてぎくりと立ち止まる。
 広間の中央にミダス公、その側に妃、そして、二人から一段下がった所に、アシャが立風琴(リュシ)を抱えて腰を降ろしている。そして、その回りを囲むように、レアナ、リディノ、レスファートが顔を揃えていた。色気より食い気のイルファは、どこかでつまみ食いでもしているのか姿はなかった。
 穏やかで明るくて柔らかな光景、声をかければ、皆笑顔で振り向いてくれそうな、優しい気配。
 だが、ユーノは、次の一歩が踏み込めなくなった。
 セレドでも、そっくり同じ光景を見た。旅の楽師を取り囲む、父と母、姉に妹、くるりとまとまったその輪が、余りにも見事に整っていて、そこに入れる余地を見いだせなかった。
 自分が居ても居なくても、あの輪は変わることはないのだろう。ユーノの存在が無いからと言って、何が欠けることもないのだろう。
 それは凍てつくような確信、今目の前にしている光景にも、それと同じような竦むような感覚があった。リディノの付き人のジノでさえ、やや端に身を縮めて座っている。あれほどリディノに近しい彼女のことを、リディノは気にする様子さえない。
 この、たとえようもなく穏やかできれいな世界を、自分が踏み込むことで台無しにしてしまう、きっと何かを壊してしまう。たった一歩のこと、何をためらう、何を馬鹿なことを考えている、そう思いながらも足が動かなかった。
 そろりと後じさりすれば、嘘のように軽々と足は動いて、ユーノは音もなく素早く庭へ抜け出た。いつか登ったスティルの樹、ジノの衣を染める深草色の染料がとれる樹にもたれて、一人密かに音色に耳を澄まし続ける。

(甘い音……甘い声……まるで、耳元で囁くような…)
 聴いているだけで、胸が切なく締め付けられる。耐えようとして眉を潜めて息を詰める。
(でも、あなたの遠さは嫌というほど知っている…)
「おまえの国へ
 旅をしよう
 遠い夜の国から来たのだから
 おまえは俺を迎えてくれ
 疲れ切った俺の体を
 そっと抱き締めて囁いてくれ
 待っていた、と……
 愛していた、と……

 すべての呪文を解くことばは
 いつもおまえの胸の裡にある
 光を捜し求めてきたのだから
 おまえは俺を迎えてくれ
 かぼそいその腕で
 そっと抱き締めて囁いてくれ
 待っていた、と……
 愛している、と……」
(待っていた……愛している…)
心の中で、詩の繰り返しをなぞる。そっと膝を抱き締め、頭をもたせかける。
(私の旅はきっと終らないんだろうな)
 なぜなら、帰れる唯一つの胸には、すでにレアナの白い手の封印があるから。ユーノにできるのは、その前で立ちすくむだけ。
(魂が……痛い…)
「っ!」
 心の中で呟いた瞬間、ふいに間近に人の気配を感じて身を起こした。咄嗟に滑らせた右手は剣にかかる。片膝立ちになってそちらを見据えたユーノの頭からは、アシャのこともレアナのことも消え失せている。あるのはただ、敵ならば一刀両断、斬り捨ててくれようという殺気だけだ。
『ほ……ほほ…』
「何者!」
(宙道(シノイ)!)
 すぐ近くの空中に黄金の輪が浮かび、その中に黒々と星一つない深い夜を満たしている。いや夜ならばまだしも、一歩足を踏み入れれば、底なしの闇に落ちて行きそうな無窮の空間だ。
 唐突に響いた笑い声は、決して快いものとは言えず、どちらかと言えば、死の使いが獲物を前にたてる喜びの嘲りとも聞こえた。
『さすがは我らが聖女王(シグラトル)……戦士としても、一流と見える』
「シグ……ラトル…?」
 聞き慣れないことばを耳にして訝しく眉を顰めたユーノは、次の瞬間ぬめりと暗黒から湧きいでるように現れた相手にぎょっとした。
 それは何と不可思議な姿だっただろう。
 一見しては人間の女性だ。白く滑らかな肌に薄水色の衣をまとい、わずかに波打つ黒髪を艶やかになびかせている。ただ、彼女が人ではあるまいと思わせてしまうのはその顔、どうことばを繕っても、肉が全て溶け落ちたとしか言いようのない白骨の顔だ。
 虚ろな眼窩は覗き込むほどに暗く得体の知れぬ闇をたたえ、剥き出された歯の一つ一つは真珠のように美しく傷一つなく磨かれているが、根本は干涸びた上下の顎に埋まり込んでいるばかり、明るい色の頬がある部分は武骨に突き出た頬骨に変わられ、鼻はかさかさに乾いた二つの空洞になっている。
(敵か、味方か)
 前者ならば数瞬後には屠られているだろう、後者であるなら何を代償に求められるのかわからない。
 緊張に体を張るユーノに、相手はどこから響くのかわからない声で告げた。
『我が名はセール……我らが長…ラフィンニの使いとして……「泉の狩人」(オーミノ)がそなたを迎えに参った』
「っ」
 ユーノは思わず息を呑んだ。
(これが、『泉の狩人』(オーミノ))。
 狩人の山(オムニド)に踏み込み、謁見を願い出ようとして果たせなかった一族が、今目の前に居る。
(ここまで、人と離れた存在だったのか)
 お伽噺や昔語りの中にいる太古生物とどれほど違うのか。むしろ、こんな存在が人語を解するということの方が信じられない。
(アシャは、こんな相手と交渉しにでかけたって…?)
 それは既に豪胆とか勇猛とかの範疇ではなく、無謀とか命知らずとか、そういう類のものではないのか。
 茫然としてことばもなく相手を見つめるユーノに、セールは苛立ったように急き立てた。
『来るがいい……ユーノ・セレディス…』
「……、」
 ふらりと立ち上がった自分にどきりとする。何だろう、妙に無防備になってしまい、唯々諾々と相手のことばに従ってしまいそうになる。この陰鬱な独特の声の響きのせいか、それとも、余りにもユーノの知っている世界とかけ離れた存在だからか。
『こちらだ』
「……」
 だが、拒否しようとは思わなかった。促すセールに頷いて、ユーノは宙道(シノイ)の闇の中へ足を踏み入れていった。


「ふ…」
 かなり長い間、宙道(シノイ)の中を歩いたと思っていたが、それが途切れ、再び外界に出た時、陽はまだ蒼穹の端にあった。
 不意に開けた白銀の視界、真正面に蒼みがかった乳白色の神殿が聳えたっている。『氷の双宮』に似た造り、表には八本の支柱が立ち並んでテラスを形作り、右手には渡り廊下が雪に埋もれた中を続いて小さな四阿につながり、神殿同様の八本の支柱の間からは、繊細巧妙な図を散らせた水晶の扉を垣間見ることができる。渡り廊下の蒼色が、白く輝く雪に残忍なほど厳しい色を映えさせている。
 生命の動きはどこにもない。
 全てが静止している。
「あれが『沈黙の扉』だ、聖女王(シグラトル)」
 その光景を言い表すかのように、セールが告げた。
(『沈黙の扉』)
 ユーノの頭に、アシャの話が甦る。
(あの中で死んでいくところだった私)
 たった一人で、他の誰にも看取られることなく。
 それは覚悟の上だった。一人で生きて一人で死ぬ、そんなことを怖がってはいなかった。
 ユーノが生きている世界では、死ぬことは一つの終わりだ。生きている間の喜びが断ち切られるが、生きている間の苦痛も断ち切られるように思える。
 だがしかし、この静止した世界では、全てがそのままに留め置かれてしまうような気がする。傷みも悩みも苦しみも、新たに加わる喜びや哀しみで紛らわせられることもなく癒されることもなく、さながら『沈黙の扉』で傷を負ったまま横たわっているように、じくじくと重苦しい傷を感じたまま眠り続けるだけの『死』。
(死の向こう側で、二度と戻ることもできずに、永遠に傷み続けるだけの『死』)
 ふと、隣のセールの横顔を見やる。
 『泉の狩人』(オーミノ)に『死』はあるのだろうか。
 それはどんなものなのだろう。
 白骨の顔を晒して、いつかの二つの塔で敵を屠る修羅の様相は、ひょっとすると『泉の狩人』(オーミノ)にとっての『死』そのものなのだろうか。
(アシャが救ってくれた私)
 ふ、と無意識に唇が綻んだ。アシャのことを思うと、胸の中に柔らかな灯がともるような気がする。痛み続けていた傷が、僅かずつ少しずつ、薄皮を張り肉芽を盛り上げ、自らの力で治っていくような気がする。
(何を嘆く)
 セールは身を切るような空気の中、雪の上を裸足で歩み進んでいく。その背後に付き従いながら、ぽかりと澄み渡った感覚で感じる。
(それで十分じゃないか)
 風が吹きつけ、雪が動いた。風の方向に顔を上げると、いつの間にか正面の神殿のテラスに、セールと同じような不気味な姿の女性達が立ち並んでいた。誰もが青みがかったドレスを寒風に舞わせている。しなやかな立ち姿、艶やかな髪が弱い陽射しにも光っている。
 だが、彼女らの腰に剣がなく武具一つも備えずとも、その中に一人として戦士の気配を持たぬ者はなく、白骨の虚ろな眼窩に紅瞳は輝かずとも、『運命(リマイン)』を越える禍々しさを放たぬ者は一人もいない。
 『泉の狩人』(オーミノ)は沈黙の中に、近づくユーノを待っている。
 何を望んでいるのか。
 何を求められるのか。
 まだ一切がわからない。
 次の一歩を踏み出したとたんに、眼に見えぬ刃が飛び交って首を切り落とされるのかも知れない。次の一瞥を投げた瞬間に、避けようのない斬撃がこの身を貫くのかも知れない。
 それでも、ユーノはまっすぐ顔を上げて進んだ。
(アシャがあれほどの怪我を押して、こんな場所へ来てくれた、それで十分じゃないか)
 セールは雪の上に小さな足跡を残して神殿に近づき、中央の、長い髪を風に舞わせた一人の『泉の狩人』(オーミノ)の前に立ち止まった。
 ユーノも一呼吸遅れて立ち止まり、きっと相手を睨み据える。
(たとえ、『仲間として』でしかなく、永久にその位置から逃れられなくとも)
 アシャの尽くしてくれた誠意を忘れるまい、無にするまい。それにふさわしい者であるよう、努力しよう。
 それが命を救われた者の本分だろう?
 す、と影が落ちるようにセールが体を落として膝をついた。その上でなお深々と頭を垂れながら、
「長、ラフィンニ。我らが聖女王(シグラトル)をお連れしました」
「うむ」
 頷きに周囲の空気が息を呑むような殺気があった。
 ラフィンニと呼ばれた女性がゆっくりとテラスから降りてくる。一歩、また一歩と、乳白色でありながら青ざめた気配を漂わせる階段に、透き通るほど白い素足を置いていく。
 風が止んだ。
 そよとも吹かぬ凪の世界、全ての動きが絶えた世界の中を、ラフィンニだけが動き続け、セールの側を通り抜け、ユーノの方へ歩み寄ってくる。
 すらりと高い長身から、地の底を抉り取るような深く陰鬱な声が降り落ちる。
「セレド皇女、ラズーンの『銀の王族』、ユーノ・セレディス」
「…」
 声の保つ巨大な圧力に押し潰されそうな気がした。ユーナの名ではなくユーノと呼ばれた、それが全てを物語っている気がする。無言で見つめ返したユーノは、彼女をまっすぐ見下ろす闇の眼窩と対峙する。
(なんという、無)
 夜ではない。灯がないのではない。何もないのではない。そこにぎっちりと詰め込まれているのは、全てを呑み込み全てを抱えても満たされぬ餓え。
「我ら『泉の狩人』(オーミノ)は、長い間……ただ一人の女王を待っていた」
 声は一転、囁くように微かなものになった。胸に溢れる想いを口にしてしまえば、その望みの全てが潰えてしまうと思っているかのように。
 願いが響く、聞こえないことばで、その眼から。
 我が餓えを、満たせ。
「……よい…瞳を……されておる……我らが聖女王(シグラトル)よ…」
 懐かしげな、愛おしげな、そして、それらを突き崩す、果てしのない絶望。
 そんなことはあり得ない、ありはしないのだ。
 そう形にならないことばが言い切ったように、ラフィンニは唐突に身を翻した。
「こちらへ。そなたに渡すものがあります。合わせて、我らが運命(さだめ)を語りましょうぞ」
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