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1.『剣の伝説』(シグラトル)(6)
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ゆっくりとした、ことさらユーノと二人だけの時間を長引かせるようなラフィンニの歩みに合わせて、神殿の中を歩いた。数多くの支柱が森の樹々のように立ち並ぶ。中を歩むと、外観より遥かに高い天蓋は、薄暗がりに没している。
ラフィンニは語り続けた。
荒廃の極にあった戦乱の世界。異形の悪夢が跋扈跳梁し、敵味方なく争い、倒れた者の屍肉を貪り合う地上。
一人の女王に率いられた、美貌と戦鬼の誉れ高い一族。無敵であったが故、美しくあったが故の驕りと傲慢。
完全なる勝利を目指した果ての悲劇。自然の不可思議な仕組みにより育まれた共生関係に無知であったことの罪業。
「…狩る必要はなかったのじゃ。我らは既に最強であったのだから…」
支柱の林に、天蓋の薄闇に、吸い込まれ漂うようなラフィンニの語りは続く。それ以外は二人の足音だけが、ひたひたと神殿の中を広がっていく。
『穴の老人』(ディスティヤト)は確かに狩られた。だが、結果として勝者はどこにもいなかった。
凱旋と興奮の一夜の後、破滅と混乱の朝が届く。紅蓮の炎に顔を焼くのは己の美を誇ったせいか。素早く剣を揮える手足を失うのは、斬られる者の傷みを思わなかったせいか。
女王は無知蒙昧な配下を責めはしなかった。
ただその運命を受け入れた。
「そして我らは……聖女王(シグラトル)を失い……魔、となった。永きラズーンの治世も、我らには意味を為さぬ望みもせぬ……今日、今、この時までは」
一つの小部屋にユーノは招き入れられる。先に入ったラフィンニが、促すように白骨の顔を振り向ける。
ふいに、その姿が、細やかな粒のような光に包まれ輝いているように見える。
ごくりと唾を呑んで、ユーノは部屋に脚を踏み入れた。
そこは何の飾り気もない、それまでと同様、相も変わらずの蒼みがかった乳色の石壁に囲まれた部屋だった。だが、
「っ…」
(眩しい)
薄闇に慣れた眼には驚くほどの光量、神殿の奥深くにどうしてこれほど明るい広間がしつらえられるのか。
(光?)
上空から降り注ぐ何かに気づいて見上げれば、天井は全て蒼い水晶、透明できららかなだけではない、精緻な細工を施してあるのだろう、どこからか飛び込んだ光が乱反射して部屋全体に淡い光を満たしている。まるで澄んだ水底から泡立つ水面を見上げているようだ。
「ユーノ」
促されて視線を戻すと、正面に一つの玉座があった。近づいてようやくそれとわかるほどの細かな無数の彫刻が施されている。図案は波打ち雄叫ぶ激流を表すものだ。天井と同じく燦く蒼水晶の半透明の玉座は、天井からの光を受けて、それ自身で淡く光を放っているように見える。
玉座近くに立って周囲を見回すと、部屋の四隅にも、同じように見事な細工で仕上げられた水晶の小さな三角柱が置かれていた。ちょうど大人一人が腰掛けることができる高さと幅、腰を落ち着ければ玉座を囲む形になる。
玉座に跳ねた光は、各々の三角柱に吸い込まれ、四方に虹の光を弾く。だが、乱反射する光の中で、それらは七色に弧を描くことなく、ただただきらきらとした幻影を漂わせている。
「ここは…」
「『聖女王(シグラトル)の間』……四隅に位置するのは、そなたに使える四人の配下の座……そして、中央の玉座こそ、そなたの座」
光に惑い導かれるように、ユーノはふらりと脚を踏み出した。手を伸ばし、玉座に触れる。
幻のように儚げに見えたその席は、ひんやりと滑らかな、けれど揺るぎない堅さをもってユーノの指を受け止めた。
「どうして……」
思わず口を開く。
「私が聖女王(シグラトル)だとわかる?」
ユーノは目を細め、眩く光る四つの座を見渡し、それらに守られ、傅かれる玉座を再び見下ろす。
たびたび剣の腕で高い評価を受けてはきた、が、これほど過大な誉れを受けたことなどない。
「私は……ただの…自分の心さえ満足に御せない人間だよ」
胸の奥に過る顔は、もちろんアシャとレアナの顔。
「いつまでたっても、必要な強さを得られずにもがいている…」
「ユーノ」
ラフィンニが静かにことばを返してきた。
「あの『沈黙の扉』の中で、我らは人の心が疲れ果てる闇を、次々とそなたの内側に送り続けた。だが、そなたは、ほんの一時も、一瞬さえもたじろがなかった。我らの送る闇にも、己の心が作り出す闇にも、誰を恨むでもなく憎むでもなく、怯むことなく受け入れ受け止めて、なお光を探し続けた」
苦い笑いを挟む。
「闇を避けて光を見いだすのは容易かろう。だが、我らが聖女王(シグラトル)と仰ぐ以上、その者は、我らが闇に対峙すると同時に、己の闇にも向かわねばならぬ。我らが裡に潜む闇を相手取り、なおそこに光を見いださねば、我らが救いとはならぬ」
どこか遠くでさらさらと衣擦れのような音が響いた。まるで部屋に満ちる光が、見えない小雨となって、天蓋より降り落ちるような音だ。
その微かな音よりも密やかな、まるで誰に伝えるつもりもないような声で、ラフィンニは続ける。
「闇の彼方に光を見る者、魂の祈りと沈黙に耐え得る者……我らはそのような者をこそ、聖女王(シグラトル)と呼ぶ………その魂の雄々しさにひれ伏して」
ラフィンニを知っている者が聞けば、耳を疑うだろう。優しく甘い口調は恋人に愛情を告げる声音に似ている。
「我らは……そなたの中にこそ、その魂を見つけたのだ。果てぬ命を持て余し、破壊と破滅をもたらす強大な力を持って暗い夜に魔となり地を駆け命を狩りたいという欲望に耐え………ただ、そなただけを待っていたのだ」
ユーノは振り返る。背後のラフィンニは小さな子どもがだだをこねて立ち竦んでいるように見えた。
「ユーノ……こちらへ……来てはくれぬか…?」
長身が震えている。今にも泣き出しそうな気配でさえある。
「そなたを知らねば耐えもしよう、長の重圧を堪えもしよう、ただひたすらに世界を担げて待ち続けよう……が、ユーノ……我らはもう………待てぬ……待てぬのだ!」
「ラ…フィンニ…」
声は悲鳴の響きを宿して部屋の隅に吸い込まれていった。
沈黙がわだかまる。
どちらも引き受けることのできない沈黙が、光の部屋に重くたゆたう。
「……我らが聖女王(シグラトル)よ」
ラフィンニはわずかに首を振った。取り乱した自分への戒めのような、吐露し過ぎた心情をかき消すような仕草、低い声で訴える。
「剣を受けてほしい……それこそが、我らの忠誠の証となる」
音もなく歩み去り、左側に壁にそっと手を突いた、と壁がゆっくりと左右に押し開かれ、深い藍色の口を開く。
光の部屋から一転、今度はどこへユーノを誘おうと言うのか。否という返答を聞かぬために、今度こそ逃げられない深い闇の道を示しているのではないか。
「……わかった」
ユーノは深く溜め息をついた。覚悟を決める。
どちらにせよ、『狩人の山』(オムニド)を、ユーノ一人、それもチュニック一枚の軽装で、無事に下れるはずもない。
ラフィンニの指先の示すままに歩み寄る。
その口の中は、遥か下へと続く半透明の蒼水晶の階段になっていた。想像していたような次第に濃くなる闇への道ではない。下の方に、微かな光、暮れなずんだ空の紫が、ひたひたと波のように揺れながら打ち寄せている。
「ここは?」
「途中に宙道(シノイ)を細工した通路じゃ。時もかからずに、『狩人の山』(オムニド)の向こうの麓に降りることができる』
「向こうの?」
「そなた達の言う、『世界の果て』じゃ」
(世界の果て)
どきり、と痛いような強い鼓動が胸で鳴り響いた。
そんなものを誰が見たことがあるのだろう。セレドではもちろん、ラズーンの者でさえ、『狩人の山』(オムニド)の彼方であるのなら、見たことがある者はほとんどいないのではないか。
(どんな場所なんだろう)
ずきずきと胸の内側で痛み続ける拍動、初めての旅の空を見た時、初めての剣を手にした時、今まで知らなかった新しい世界に触れようとする時に感じる、これは好奇心だ。
(何があるんだろう)
想いは体を突き動かす。怖さに震え、それでも止められずに一歩階段に足を降ろしたとたん、まるで、その一歩で一つの国を駆け抜けたような衝撃と疲労感が襲い、思わずユーノは体をふらつかせた。
「ユーノ」
ラフィンニがはっとしたように白く細い指で支えてくれる。
「魔の者には堪えぬ通り道だが、そなたには辛かろう」
「大…丈夫、」
歯を食いしばった。
「ちょっと、目眩がしただけだから」
虚勢を張って体勢を立て直す。
再び一歩。続いて一歩。そして一歩。
(く、そ…っ)
一歩足を進める毎に、身体中の力が抜けてくる。気力が根こそぎ奪われる。
見た目には十数段しかない階段だが、この行程で『狩人の山』(オムニド)の頂上から麓までの高さを降りているというのだから、一段ごとに途轍もない距離を含んでいることになる。
そのような宙道(シノイ)をこともなげに作って使っている『泉の狩人』(オーミノ)はおよそこの世ならぬ力の持ち主、だがその彼女らをもってしても破滅に追い込まれた『穴の老人』(ディスティヤト)とはどのような存在だったのか。
いずれにしても、この世の理を越えた存在、それが間近に居てユーノに話しかけているということに、今更ながら身震いが出る。ラフィンニのしなやかで細いながらも力強い指に支えられ、一段、また一段と歯を食いしばりつつ降りていく。
やがて、ついに最後の一段を降り切ったユーノは、小さく吐息をついて顔を上げ、次の瞬間、目の前を覆った光景に息を呑んだ。
紫と藍の混じり合った空。その下に灰青色の水面が繊細な布のように翻る。縁取りは細やかなレースのような白い波頭、岩だらけの岸辺に砕けてあぶくを生み、その度ぴりりといがらいような匂いが、鼻の奥に押し寄せてくる。
正面は彼方まで空と水だった。正面だけではない、左右視界の届く限り、上下に切り分けられた空と水。今まで見たどんな湖の比でもない。波打つ水の動きや打ち寄せる波の高さを見れば、その波間に在るなら自分がどれほどかぼそく小さな存在であるかがよくわかる。
波が一うねりする間に水底に沈んでも誰も気づかないだろう、その巨大さ。
『海じゃ』
『狩人の山』(オムニド)を離れたせいだろうか、ラフィンニの声はどこか茫洋として捉えどころのない響き、それも悲劇を予感させる不穏さを満たしていた。
「うみ…」
凍りついていたユーノはようやく身動きし、風景に呑まれていた自分をく、と歯を噛み締めて取り戻した。挑むように繰り返し深く息を吸い、軽くむせ返った。
「…っ」
(濃い、空気…)
湿度の高い、薫りの強い、存在を主張する空気は、それそのものが水であるかのように鼻腔を満たす。
(これが、話に聞いた、海)
セレドには海はない。近隣の国々も海には面していない。けれど、遠く異国の彼方には、海と呼ばれる大きな湖に接する国々があるとは聞いていた。
その巨大な湖は一国を浸すほどに大きく、塩辛い水は様々な生き物を育み、地上で見たこともないような巨大なものも居るという。そこはまた、荒々しく非情な神々の支配下(ロダ)にあり、商人達は海を渡る船に乗り込むときは必ず、貴重な香を焼べ、高価な酒を注ぎ、互いの体を丁寧に清めて出立することになっているそうだ。
なるほど、それも納得できる。
これほど大きな力が溢れかえっている場所に、どれほどの集団、どれほどの船で乗り込もうとも、無事である保証など一つもあるまい。空は薄暗いが、それでもまだ荒れてはいない、それでも海がこれほどに圧倒的な激しさを突きつけてくるならば、天候が荒れ、この水全てが波打てば、どれほどの破壊力を持つか、容易に想像がつく。
(これは、力だ)
穏やかに見え、緩やかに見えても、動き出せば何ものも止めることができない力の存在。
聖女王(シグラトル)の玉座に彫り込まれていた激流を思い出した。同時に、『氷の双宮』に彫られていた意匠も。
我は制する。
真後ろから『太皇(スーグ)』の低い声で囁かれたような気がした。
(命の、力だ)
ぞくり、と皮膚が粟立った。
この『海』に秘められた力、この『海』が蓄えた力、それを、『氷の双宮』を作った人々は自らのものとし、操ろうとした。
(これを、制御しようとした、のか)
運命を描く力を。
(そして、悉く、敗れ去った)
逆巻く世界の激流に呑まれ、侵食する命の力に蹂躙され、『氷の双宮』は願いの残骸として残された。
(そうか……そういうことなのか)
ラズーンは、とうに滅び去っていたのだ。
『ラズーンは
失われた都
枯れた泉
死して飛ばぬ人の夢
すべての栄えがさもあるように
永遠に続く栄えはない
いつしか
美しきこの都も
朽ち果て
大地の上に横たわらん
しかし、世は続く
人の命は続く…』
創世の詩が耳の奥に響き渡る。
今ここに残されているのは、その夢の残滓だ。人の滅亡を防ごうとして、虚しく潰えた願いの果てだ。
命の力を自らの手で制御し繋ごうとした挙げ句、『運命(リマイン)』や太古生物の復活という、願った永遠の栄えを遮る悪夢まで同時に発生させ続けるしかないお粗末な装置の結末だ。
その未来が見えたからこそ、最後の一人は力を放棄した。
『死が人の運命なら
生も又人の運命
ラズーンは滅び
失われた都となる
「運命(リマイン)」は跳梁し
闇は人々の心に巣食い
動乱は世を暗くする
滅びは定め
世の始め
星の降り立ちし夜より
ラズーンの祭は
その身に課せられてあり……』
滅ぶのだ、滅ぶのだ、滅ぶのだ。
そう思い定めた時、脳裏を過ったのは何だっただろう。
(私には、わかる気がする)
人の運命とか命の制御とかではない。
死線に立つ者の心に過るのは、たった一人の、たった一瞬の、たった一度の、かけがえのない、二度と手に入らない、愛おしい、大事な存在だ。
だからこそ、創世の詩は願うのだ。
『しかし
再び創世の時は来たり
その時
世は人の命を紡ぎ
人は命の綾を織りなし
手をつなぎ
心を結び
慈しみあい
愛しあい
命の綾は世を生まれ続けさせるのだ……』
どれほど叶わぬ願いかは、十二分に知っていただろう。
(けれど)
ユーノは目を閉じ、一瞬流れ落ちた涙を払い、すぐに目を開いた。
(もう一度だけ、と)
その傷みは自分のことのように、よくわかる。
「……あれは、何?」
しばらくの間、魅入られたようにその波の光景を眺めていたユーノは、薄青く小暗い風景の中、ほぼ真正面の岩に何かが突き立っているのを見つけた。
それは一振りの剣だった。
抜き身の刃が、岩の一つに深々と突き刺さって立っている。蒼く透き通ったように見える姿、細身で繊細な造形が、薄闇の中で儚く脆く光っている。
まるでそれは、願い、のようだ。
「水晶の剣…?」
何かの飾りか、儀式に使われるものだろうかとの問いを込めて、ラフィンニを振り仰げば、相手は静かに首を振った。
『いや、れっきとした実用の剣……あれこそ、我らが聖女王(シグラトル)の証の剣じゃ』
ラフィンニの闇の視線に促されるように、再び剣を凝視する。
ど、どう、と重い振動音とともに、巨大な波の一塊が打ち寄せてきた。周囲の岩に牙をたて、石ころを叩きつけて砕き、隙間を喰い広げる獰猛な波、隘路を通ってきたのか見る見る高さを増して近づき、岩に突き立つ剣の上、まるで折り砕こうとでもするように容赦なく落ちかかる、が。
「あ!」
思わずユーノは声を上げた。
剣に襲いかかった波が、その刃に触れたか触れないかでつうっと二つの曲面に分たれたのだ、まるで波が水ではなくて固く滑らかな何かの塊であったかのように。
「波が……切れた…」
我は願う。
今度は背後からではなく、身の裡から、体の奥底から湧き出てくるような声が響き渡った。
抗うことのできない巨大な波の中にあっても、我が祈りを届けんことを。
呑み込まれるしかない世界の渦にあっても、我が依って立つ場所を失わぬことを。
『太皇(スーグ)』の声ではなかった。もっと弱々しく微かで頼りなく、けれど消えることなく紛れることなく、聞こえ続けるその声に、ユーノは聞き覚えがあった。
それは、セレド皇宮の夜闇で煌煌と照る月を見上げた時に響いていた。
それは、旅の荒野を剣を掲げて走る砂塵の中で響いていた。
それは、仲間と火をおこしながら笑い合った草原で響いていた。
(我は願う)
そうだ、ずっと聞こえていた。
たった一人であっても、疲れ切っていても、命の瀬戸際にあってもなお。
(我は願う)
命よ、失われるな。
魂よ、砕かれるな。
(我は願い続ける)
怯むな、逃げるな、たじろぐな。
この想いを支えるために。
『願いよ、届け』
まるで耳元で叫ぶように響き渡る声は紛れもなく自分のもの、だが同時にそれは、見たこともない、ついに戻らなかった聖女王(シグラトル)の声のようでもある。配下の失策の負い目を全て背負って宿敵の元に臨む時、彼女の胸を鳴らせ心に響き渡っていたのは、まさにその声に違いない。
幻が見える、昂然と顔を上げ、一人歩き続ける聖女王(シグラトル)。
ラフィンニが岩場を踏み越え、剣に近づいていく。足を滑らせれば、すぐさま波に攫われ遥か彼方に連れ去られようという濡れた岩場を軽々と、薄青の裳裾を翻らせ、長い髪を風に舞わせて、幾度も通った道のように。
やがて、その剣の柄にしなやかに指を添えたラフィンニは、軽く握りしめてゆっくりと岩から剣を引き抜いていった。ほっそりとした刀身が抜き出されるに従って、軽く揺れるその度ごとに、触れた岩が音もなく削られる。
(何て切れ味…)
『ユーノ』
ラフィンニが抜き放った剣を差し上げ、こちらへ呼びかけてくる。白骨の顔を、蒼々と澄んだ刀身が鏡のように映している。岩場に立つ異形の剣士、周囲を叩きつける波と乱れ飛ぶ白銀の飛沫が、暗い空を背景に輝いて見える。
息を詰めたまま凝視し続けるユーノの元へ、するすると戻ってきたラフィンニは、波に濡れた気配一つなく、剣を両手に載せて掲げた。
『どうぞ、これを』
深々と頭を項垂れながら、ユーノの前で静かに膝を突く。
およそ、あり得ない光景だろう。ラズーンさえ蹂躙する魔性の存在が、辺境の小国の皇女の前に跪くなど。
だが、ラフィンニは剣を掲げたまま、なお頭を垂れた。
『我らが聖女王(シグラトル)』
「……」
ユーノが手を伸ばしたのは、覚悟を決めたせいではない。乳白色の地に薄青い筋が螺旋を描くように入り込んでいる意匠の柄を握った時も、そのまま信じられないほど掌に馴染むそれを軽く振ってみた時も、それを受け取る意味を本当のところはわかっていなかったのだろう。
剣は軽かった。
握ってみても、さきほどの印象を裏切る華奢さ、まるで模造品を扱うような頼りなさ、だが、掌に吸い付いたように離れない。空気を切っても気配さえ残さない。
ラフィンニが満足げに、銀の装飾を施した革細工の鞘を差し上げる。
(知っている)
この軽さは力の前の命の重量だ。
(わかっている)
自分の小さな掌が包めるものなど知れている。
(それでも、この剣は、私の剣だ)
いつ消えるかも知れない命を必死に握り続けようとする願いを満たす剣。
アシャでは駄目だ。軽過ぎて無尽に揮ってしまう。イルファでは駄目だ。強く掴み過ぎて自分を傷つける。レスファートでは駄目だ。儚さに意識が集まり過ぎてしまう。シートスでは駄目だ。携える間に砕いてしまう。ユカルでは駄目だ。使う時に考え込んでしまう。
差し上げられた鞘に水晶の剣を納める。吸い込まれるように輝きを納めた剣は、波を切り岩を削っても刃こぼれ一つしない正体を、露ほども漏らさない。
(この剣は)
抜いてはならない。
抜くなら倒さなくてはならない、如何なる状況にあろうとも。
それは命を引き換える、という意味なのだから。
(私の命だけじゃない、背後に護る全ての命を引き換える)
ぶるっ、とユーノは体を震わせた。
『これで、そなたは名実ともに、我らが聖女王(シグラトル)じゃ』
ラフィンニは改めて深く頭を下げた。
『我らが「泉の狩人」(オーミノ)、望むままに使われるがよい』
そなたの示す方向を平らげることこそ、我らが望み。
ラフィンニはゆっくりと白骨の顔を上げて、ユーノを振り仰いだ。
虚ろな髑髏に華やかな微笑を浮かべる美女が重なる。嫣然と綻ぶ唇が楽しげに告げた。
『戦場を、示されよ』
ラフィンニは語り続けた。
荒廃の極にあった戦乱の世界。異形の悪夢が跋扈跳梁し、敵味方なく争い、倒れた者の屍肉を貪り合う地上。
一人の女王に率いられた、美貌と戦鬼の誉れ高い一族。無敵であったが故、美しくあったが故の驕りと傲慢。
完全なる勝利を目指した果ての悲劇。自然の不可思議な仕組みにより育まれた共生関係に無知であったことの罪業。
「…狩る必要はなかったのじゃ。我らは既に最強であったのだから…」
支柱の林に、天蓋の薄闇に、吸い込まれ漂うようなラフィンニの語りは続く。それ以外は二人の足音だけが、ひたひたと神殿の中を広がっていく。
『穴の老人』(ディスティヤト)は確かに狩られた。だが、結果として勝者はどこにもいなかった。
凱旋と興奮の一夜の後、破滅と混乱の朝が届く。紅蓮の炎に顔を焼くのは己の美を誇ったせいか。素早く剣を揮える手足を失うのは、斬られる者の傷みを思わなかったせいか。
女王は無知蒙昧な配下を責めはしなかった。
ただその運命を受け入れた。
「そして我らは……聖女王(シグラトル)を失い……魔、となった。永きラズーンの治世も、我らには意味を為さぬ望みもせぬ……今日、今、この時までは」
一つの小部屋にユーノは招き入れられる。先に入ったラフィンニが、促すように白骨の顔を振り向ける。
ふいに、その姿が、細やかな粒のような光に包まれ輝いているように見える。
ごくりと唾を呑んで、ユーノは部屋に脚を踏み入れた。
そこは何の飾り気もない、それまでと同様、相も変わらずの蒼みがかった乳色の石壁に囲まれた部屋だった。だが、
「っ…」
(眩しい)
薄闇に慣れた眼には驚くほどの光量、神殿の奥深くにどうしてこれほど明るい広間がしつらえられるのか。
(光?)
上空から降り注ぐ何かに気づいて見上げれば、天井は全て蒼い水晶、透明できららかなだけではない、精緻な細工を施してあるのだろう、どこからか飛び込んだ光が乱反射して部屋全体に淡い光を満たしている。まるで澄んだ水底から泡立つ水面を見上げているようだ。
「ユーノ」
促されて視線を戻すと、正面に一つの玉座があった。近づいてようやくそれとわかるほどの細かな無数の彫刻が施されている。図案は波打ち雄叫ぶ激流を表すものだ。天井と同じく燦く蒼水晶の半透明の玉座は、天井からの光を受けて、それ自身で淡く光を放っているように見える。
玉座近くに立って周囲を見回すと、部屋の四隅にも、同じように見事な細工で仕上げられた水晶の小さな三角柱が置かれていた。ちょうど大人一人が腰掛けることができる高さと幅、腰を落ち着ければ玉座を囲む形になる。
玉座に跳ねた光は、各々の三角柱に吸い込まれ、四方に虹の光を弾く。だが、乱反射する光の中で、それらは七色に弧を描くことなく、ただただきらきらとした幻影を漂わせている。
「ここは…」
「『聖女王(シグラトル)の間』……四隅に位置するのは、そなたに使える四人の配下の座……そして、中央の玉座こそ、そなたの座」
光に惑い導かれるように、ユーノはふらりと脚を踏み出した。手を伸ばし、玉座に触れる。
幻のように儚げに見えたその席は、ひんやりと滑らかな、けれど揺るぎない堅さをもってユーノの指を受け止めた。
「どうして……」
思わず口を開く。
「私が聖女王(シグラトル)だとわかる?」
ユーノは目を細め、眩く光る四つの座を見渡し、それらに守られ、傅かれる玉座を再び見下ろす。
たびたび剣の腕で高い評価を受けてはきた、が、これほど過大な誉れを受けたことなどない。
「私は……ただの…自分の心さえ満足に御せない人間だよ」
胸の奥に過る顔は、もちろんアシャとレアナの顔。
「いつまでたっても、必要な強さを得られずにもがいている…」
「ユーノ」
ラフィンニが静かにことばを返してきた。
「あの『沈黙の扉』の中で、我らは人の心が疲れ果てる闇を、次々とそなたの内側に送り続けた。だが、そなたは、ほんの一時も、一瞬さえもたじろがなかった。我らの送る闇にも、己の心が作り出す闇にも、誰を恨むでもなく憎むでもなく、怯むことなく受け入れ受け止めて、なお光を探し続けた」
苦い笑いを挟む。
「闇を避けて光を見いだすのは容易かろう。だが、我らが聖女王(シグラトル)と仰ぐ以上、その者は、我らが闇に対峙すると同時に、己の闇にも向かわねばならぬ。我らが裡に潜む闇を相手取り、なおそこに光を見いださねば、我らが救いとはならぬ」
どこか遠くでさらさらと衣擦れのような音が響いた。まるで部屋に満ちる光が、見えない小雨となって、天蓋より降り落ちるような音だ。
その微かな音よりも密やかな、まるで誰に伝えるつもりもないような声で、ラフィンニは続ける。
「闇の彼方に光を見る者、魂の祈りと沈黙に耐え得る者……我らはそのような者をこそ、聖女王(シグラトル)と呼ぶ………その魂の雄々しさにひれ伏して」
ラフィンニを知っている者が聞けば、耳を疑うだろう。優しく甘い口調は恋人に愛情を告げる声音に似ている。
「我らは……そなたの中にこそ、その魂を見つけたのだ。果てぬ命を持て余し、破壊と破滅をもたらす強大な力を持って暗い夜に魔となり地を駆け命を狩りたいという欲望に耐え………ただ、そなただけを待っていたのだ」
ユーノは振り返る。背後のラフィンニは小さな子どもがだだをこねて立ち竦んでいるように見えた。
「ユーノ……こちらへ……来てはくれぬか…?」
長身が震えている。今にも泣き出しそうな気配でさえある。
「そなたを知らねば耐えもしよう、長の重圧を堪えもしよう、ただひたすらに世界を担げて待ち続けよう……が、ユーノ……我らはもう………待てぬ……待てぬのだ!」
「ラ…フィンニ…」
声は悲鳴の響きを宿して部屋の隅に吸い込まれていった。
沈黙がわだかまる。
どちらも引き受けることのできない沈黙が、光の部屋に重くたゆたう。
「……我らが聖女王(シグラトル)よ」
ラフィンニはわずかに首を振った。取り乱した自分への戒めのような、吐露し過ぎた心情をかき消すような仕草、低い声で訴える。
「剣を受けてほしい……それこそが、我らの忠誠の証となる」
音もなく歩み去り、左側に壁にそっと手を突いた、と壁がゆっくりと左右に押し開かれ、深い藍色の口を開く。
光の部屋から一転、今度はどこへユーノを誘おうと言うのか。否という返答を聞かぬために、今度こそ逃げられない深い闇の道を示しているのではないか。
「……わかった」
ユーノは深く溜め息をついた。覚悟を決める。
どちらにせよ、『狩人の山』(オムニド)を、ユーノ一人、それもチュニック一枚の軽装で、無事に下れるはずもない。
ラフィンニの指先の示すままに歩み寄る。
その口の中は、遥か下へと続く半透明の蒼水晶の階段になっていた。想像していたような次第に濃くなる闇への道ではない。下の方に、微かな光、暮れなずんだ空の紫が、ひたひたと波のように揺れながら打ち寄せている。
「ここは?」
「途中に宙道(シノイ)を細工した通路じゃ。時もかからずに、『狩人の山』(オムニド)の向こうの麓に降りることができる』
「向こうの?」
「そなた達の言う、『世界の果て』じゃ」
(世界の果て)
どきり、と痛いような強い鼓動が胸で鳴り響いた。
そんなものを誰が見たことがあるのだろう。セレドではもちろん、ラズーンの者でさえ、『狩人の山』(オムニド)の彼方であるのなら、見たことがある者はほとんどいないのではないか。
(どんな場所なんだろう)
ずきずきと胸の内側で痛み続ける拍動、初めての旅の空を見た時、初めての剣を手にした時、今まで知らなかった新しい世界に触れようとする時に感じる、これは好奇心だ。
(何があるんだろう)
想いは体を突き動かす。怖さに震え、それでも止められずに一歩階段に足を降ろしたとたん、まるで、その一歩で一つの国を駆け抜けたような衝撃と疲労感が襲い、思わずユーノは体をふらつかせた。
「ユーノ」
ラフィンニがはっとしたように白く細い指で支えてくれる。
「魔の者には堪えぬ通り道だが、そなたには辛かろう」
「大…丈夫、」
歯を食いしばった。
「ちょっと、目眩がしただけだから」
虚勢を張って体勢を立て直す。
再び一歩。続いて一歩。そして一歩。
(く、そ…っ)
一歩足を進める毎に、身体中の力が抜けてくる。気力が根こそぎ奪われる。
見た目には十数段しかない階段だが、この行程で『狩人の山』(オムニド)の頂上から麓までの高さを降りているというのだから、一段ごとに途轍もない距離を含んでいることになる。
そのような宙道(シノイ)をこともなげに作って使っている『泉の狩人』(オーミノ)はおよそこの世ならぬ力の持ち主、だがその彼女らをもってしても破滅に追い込まれた『穴の老人』(ディスティヤト)とはどのような存在だったのか。
いずれにしても、この世の理を越えた存在、それが間近に居てユーノに話しかけているということに、今更ながら身震いが出る。ラフィンニのしなやかで細いながらも力強い指に支えられ、一段、また一段と歯を食いしばりつつ降りていく。
やがて、ついに最後の一段を降り切ったユーノは、小さく吐息をついて顔を上げ、次の瞬間、目の前を覆った光景に息を呑んだ。
紫と藍の混じり合った空。その下に灰青色の水面が繊細な布のように翻る。縁取りは細やかなレースのような白い波頭、岩だらけの岸辺に砕けてあぶくを生み、その度ぴりりといがらいような匂いが、鼻の奥に押し寄せてくる。
正面は彼方まで空と水だった。正面だけではない、左右視界の届く限り、上下に切り分けられた空と水。今まで見たどんな湖の比でもない。波打つ水の動きや打ち寄せる波の高さを見れば、その波間に在るなら自分がどれほどかぼそく小さな存在であるかがよくわかる。
波が一うねりする間に水底に沈んでも誰も気づかないだろう、その巨大さ。
『海じゃ』
『狩人の山』(オムニド)を離れたせいだろうか、ラフィンニの声はどこか茫洋として捉えどころのない響き、それも悲劇を予感させる不穏さを満たしていた。
「うみ…」
凍りついていたユーノはようやく身動きし、風景に呑まれていた自分をく、と歯を噛み締めて取り戻した。挑むように繰り返し深く息を吸い、軽くむせ返った。
「…っ」
(濃い、空気…)
湿度の高い、薫りの強い、存在を主張する空気は、それそのものが水であるかのように鼻腔を満たす。
(これが、話に聞いた、海)
セレドには海はない。近隣の国々も海には面していない。けれど、遠く異国の彼方には、海と呼ばれる大きな湖に接する国々があるとは聞いていた。
その巨大な湖は一国を浸すほどに大きく、塩辛い水は様々な生き物を育み、地上で見たこともないような巨大なものも居るという。そこはまた、荒々しく非情な神々の支配下(ロダ)にあり、商人達は海を渡る船に乗り込むときは必ず、貴重な香を焼べ、高価な酒を注ぎ、互いの体を丁寧に清めて出立することになっているそうだ。
なるほど、それも納得できる。
これほど大きな力が溢れかえっている場所に、どれほどの集団、どれほどの船で乗り込もうとも、無事である保証など一つもあるまい。空は薄暗いが、それでもまだ荒れてはいない、それでも海がこれほどに圧倒的な激しさを突きつけてくるならば、天候が荒れ、この水全てが波打てば、どれほどの破壊力を持つか、容易に想像がつく。
(これは、力だ)
穏やかに見え、緩やかに見えても、動き出せば何ものも止めることができない力の存在。
聖女王(シグラトル)の玉座に彫り込まれていた激流を思い出した。同時に、『氷の双宮』に彫られていた意匠も。
我は制する。
真後ろから『太皇(スーグ)』の低い声で囁かれたような気がした。
(命の、力だ)
ぞくり、と皮膚が粟立った。
この『海』に秘められた力、この『海』が蓄えた力、それを、『氷の双宮』を作った人々は自らのものとし、操ろうとした。
(これを、制御しようとした、のか)
運命を描く力を。
(そして、悉く、敗れ去った)
逆巻く世界の激流に呑まれ、侵食する命の力に蹂躙され、『氷の双宮』は願いの残骸として残された。
(そうか……そういうことなのか)
ラズーンは、とうに滅び去っていたのだ。
『ラズーンは
失われた都
枯れた泉
死して飛ばぬ人の夢
すべての栄えがさもあるように
永遠に続く栄えはない
いつしか
美しきこの都も
朽ち果て
大地の上に横たわらん
しかし、世は続く
人の命は続く…』
創世の詩が耳の奥に響き渡る。
今ここに残されているのは、その夢の残滓だ。人の滅亡を防ごうとして、虚しく潰えた願いの果てだ。
命の力を自らの手で制御し繋ごうとした挙げ句、『運命(リマイン)』や太古生物の復活という、願った永遠の栄えを遮る悪夢まで同時に発生させ続けるしかないお粗末な装置の結末だ。
その未来が見えたからこそ、最後の一人は力を放棄した。
『死が人の運命なら
生も又人の運命
ラズーンは滅び
失われた都となる
「運命(リマイン)」は跳梁し
闇は人々の心に巣食い
動乱は世を暗くする
滅びは定め
世の始め
星の降り立ちし夜より
ラズーンの祭は
その身に課せられてあり……』
滅ぶのだ、滅ぶのだ、滅ぶのだ。
そう思い定めた時、脳裏を過ったのは何だっただろう。
(私には、わかる気がする)
人の運命とか命の制御とかではない。
死線に立つ者の心に過るのは、たった一人の、たった一瞬の、たった一度の、かけがえのない、二度と手に入らない、愛おしい、大事な存在だ。
だからこそ、創世の詩は願うのだ。
『しかし
再び創世の時は来たり
その時
世は人の命を紡ぎ
人は命の綾を織りなし
手をつなぎ
心を結び
慈しみあい
愛しあい
命の綾は世を生まれ続けさせるのだ……』
どれほど叶わぬ願いかは、十二分に知っていただろう。
(けれど)
ユーノは目を閉じ、一瞬流れ落ちた涙を払い、すぐに目を開いた。
(もう一度だけ、と)
その傷みは自分のことのように、よくわかる。
「……あれは、何?」
しばらくの間、魅入られたようにその波の光景を眺めていたユーノは、薄青く小暗い風景の中、ほぼ真正面の岩に何かが突き立っているのを見つけた。
それは一振りの剣だった。
抜き身の刃が、岩の一つに深々と突き刺さって立っている。蒼く透き通ったように見える姿、細身で繊細な造形が、薄闇の中で儚く脆く光っている。
まるでそれは、願い、のようだ。
「水晶の剣…?」
何かの飾りか、儀式に使われるものだろうかとの問いを込めて、ラフィンニを振り仰げば、相手は静かに首を振った。
『いや、れっきとした実用の剣……あれこそ、我らが聖女王(シグラトル)の証の剣じゃ』
ラフィンニの闇の視線に促されるように、再び剣を凝視する。
ど、どう、と重い振動音とともに、巨大な波の一塊が打ち寄せてきた。周囲の岩に牙をたて、石ころを叩きつけて砕き、隙間を喰い広げる獰猛な波、隘路を通ってきたのか見る見る高さを増して近づき、岩に突き立つ剣の上、まるで折り砕こうとでもするように容赦なく落ちかかる、が。
「あ!」
思わずユーノは声を上げた。
剣に襲いかかった波が、その刃に触れたか触れないかでつうっと二つの曲面に分たれたのだ、まるで波が水ではなくて固く滑らかな何かの塊であったかのように。
「波が……切れた…」
我は願う。
今度は背後からではなく、身の裡から、体の奥底から湧き出てくるような声が響き渡った。
抗うことのできない巨大な波の中にあっても、我が祈りを届けんことを。
呑み込まれるしかない世界の渦にあっても、我が依って立つ場所を失わぬことを。
『太皇(スーグ)』の声ではなかった。もっと弱々しく微かで頼りなく、けれど消えることなく紛れることなく、聞こえ続けるその声に、ユーノは聞き覚えがあった。
それは、セレド皇宮の夜闇で煌煌と照る月を見上げた時に響いていた。
それは、旅の荒野を剣を掲げて走る砂塵の中で響いていた。
それは、仲間と火をおこしながら笑い合った草原で響いていた。
(我は願う)
そうだ、ずっと聞こえていた。
たった一人であっても、疲れ切っていても、命の瀬戸際にあってもなお。
(我は願う)
命よ、失われるな。
魂よ、砕かれるな。
(我は願い続ける)
怯むな、逃げるな、たじろぐな。
この想いを支えるために。
『願いよ、届け』
まるで耳元で叫ぶように響き渡る声は紛れもなく自分のもの、だが同時にそれは、見たこともない、ついに戻らなかった聖女王(シグラトル)の声のようでもある。配下の失策の負い目を全て背負って宿敵の元に臨む時、彼女の胸を鳴らせ心に響き渡っていたのは、まさにその声に違いない。
幻が見える、昂然と顔を上げ、一人歩き続ける聖女王(シグラトル)。
ラフィンニが岩場を踏み越え、剣に近づいていく。足を滑らせれば、すぐさま波に攫われ遥か彼方に連れ去られようという濡れた岩場を軽々と、薄青の裳裾を翻らせ、長い髪を風に舞わせて、幾度も通った道のように。
やがて、その剣の柄にしなやかに指を添えたラフィンニは、軽く握りしめてゆっくりと岩から剣を引き抜いていった。ほっそりとした刀身が抜き出されるに従って、軽く揺れるその度ごとに、触れた岩が音もなく削られる。
(何て切れ味…)
『ユーノ』
ラフィンニが抜き放った剣を差し上げ、こちらへ呼びかけてくる。白骨の顔を、蒼々と澄んだ刀身が鏡のように映している。岩場に立つ異形の剣士、周囲を叩きつける波と乱れ飛ぶ白銀の飛沫が、暗い空を背景に輝いて見える。
息を詰めたまま凝視し続けるユーノの元へ、するすると戻ってきたラフィンニは、波に濡れた気配一つなく、剣を両手に載せて掲げた。
『どうぞ、これを』
深々と頭を項垂れながら、ユーノの前で静かに膝を突く。
およそ、あり得ない光景だろう。ラズーンさえ蹂躙する魔性の存在が、辺境の小国の皇女の前に跪くなど。
だが、ラフィンニは剣を掲げたまま、なお頭を垂れた。
『我らが聖女王(シグラトル)』
「……」
ユーノが手を伸ばしたのは、覚悟を決めたせいではない。乳白色の地に薄青い筋が螺旋を描くように入り込んでいる意匠の柄を握った時も、そのまま信じられないほど掌に馴染むそれを軽く振ってみた時も、それを受け取る意味を本当のところはわかっていなかったのだろう。
剣は軽かった。
握ってみても、さきほどの印象を裏切る華奢さ、まるで模造品を扱うような頼りなさ、だが、掌に吸い付いたように離れない。空気を切っても気配さえ残さない。
ラフィンニが満足げに、銀の装飾を施した革細工の鞘を差し上げる。
(知っている)
この軽さは力の前の命の重量だ。
(わかっている)
自分の小さな掌が包めるものなど知れている。
(それでも、この剣は、私の剣だ)
いつ消えるかも知れない命を必死に握り続けようとする願いを満たす剣。
アシャでは駄目だ。軽過ぎて無尽に揮ってしまう。イルファでは駄目だ。強く掴み過ぎて自分を傷つける。レスファートでは駄目だ。儚さに意識が集まり過ぎてしまう。シートスでは駄目だ。携える間に砕いてしまう。ユカルでは駄目だ。使う時に考え込んでしまう。
差し上げられた鞘に水晶の剣を納める。吸い込まれるように輝きを納めた剣は、波を切り岩を削っても刃こぼれ一つしない正体を、露ほども漏らさない。
(この剣は)
抜いてはならない。
抜くなら倒さなくてはならない、如何なる状況にあろうとも。
それは命を引き換える、という意味なのだから。
(私の命だけじゃない、背後に護る全ての命を引き換える)
ぶるっ、とユーノは体を震わせた。
『これで、そなたは名実ともに、我らが聖女王(シグラトル)じゃ』
ラフィンニは改めて深く頭を下げた。
『我らが「泉の狩人」(オーミノ)、望むままに使われるがよい』
そなたの示す方向を平らげることこそ、我らが望み。
ラフィンニはゆっくりと白骨の顔を上げて、ユーノを振り仰いだ。
虚ろな髑髏に華やかな微笑を浮かべる美女が重なる。嫣然と綻ぶ唇が楽しげに告げた。
『戦場を、示されよ』
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