『ラズーン』第五部

segakiyui

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2.暗雲(1)

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 ザ……ウンッ…。
 唐突に響いた音に、ユーノははっとして辺りを見回した。
 途轍もなく巨大なものが海へと身を投げたような音。しかもそれは、かなりの重みを伴っていて、浮かび上がる音さえなく沈み込んでいく気配だ。
 とっさに身構えたのは、脳裏を掠めた数々の太古生物の存在だ。気づかぬうちに、その中の何ものかが忍び寄っていて、今再び深みから泳ぎ上がってきて襲いかかろうとしているのではないか。
『あそこを』
 だが、ラフィンニは物憂げに一言呟いて、薄暮の世界に白い指を伸ばした。
「?」
 振り返って指差す彼方を見上げたユーノの目に、遥かな高みへと伸び上がる絶壁の上、白く浮かぶ帯状の部分が映った。
『あれは雪……氷河、と呼ぶ方がわかりやすいか』
「氷河…?」
『「狩人の山」(オムニド)は二つのものを紡ぐ山……生と死……命と滅亡…白と黒とを。「狩人の山」(オムニド)に積った雪は、神殿のあるあたりを境にして、重みであちら側とこちら側に分かれて滑り落ちてゆく。あちら側では、氷河は滑り落ちながら陽射しに溶けて幾多の流れとなり、あるものは「黒の流れ」(デーヤ)に混じり、あるものは他の支流となって国々を潤し、生命を育む。…が、こちら側には、そのような生は与えられぬ。その先には、ただ、この暗い海あるのみ…』
「……」
 ラフィンニの説明を聞きながら、白く浮かび上がる雪の塊を見つめていたユーノは、その断崖絶壁上の氷河の層に、きしむような鋭い音とともに亀裂が走ったような気がして、目を凝らした。
 だが、辺りは依然として静まり返り、ますます濃く重くなる夕闇に、氷河はいよいよ白く冷たく幻影じみた色に染まっていくだけだ。
(でも、何か聞こえた、ような)
 諦め切れずに氷河を凝視していたユーノは、ふいにどきりとして目を見開いた。
「っ」
 最初は小さな一揺れだった。目の錯覚か、気の迷いかと思われるほどの微かな揺らぎ。氷河の突端、削られたような一画のやや左、どこか不自然な形で絶壁の上から突き出ていた部分が、動いたように見えた。
「…?」
『いや、錯覚などではない』
 ユーノの心を読んだようにラフィンニが応じた。
『あれを』
「!」
 それは今や、ユーノの目にもはっきりそれとわかるほど揺らいでいた。
 耳に届くほどの音はたてない。だが、間違いなくその一画が、じわじわと本体を離れて虚空へ倒れかかりつつある。恐ろしいほどの緩慢さで、けれど一瞬たりとも止まることなく、亀裂が下へ下へと這い下りていく。人の顔も定かではない、暮れ切った夕闇の浜辺に、揺らぐ塊のごく僅かな端切れにしか過ぎない、それでも人を叩き潰せるほどの大きさは優にあろう雪の塊が、一つ二つと零れ落ちてきて砕け、少しずつ数を増していく。
 やがてその本体は、ぐらりと最後の一揺れを見せて、ゆっくりと、なおゆっくりと氷河の端から身を放ち、既に暗き澱みと化した海面へと落下していった。耳の痛くなるような、空気を締め上げるような、沈黙の時の流れの中、さきほどユーノの鼓膜を震わせた音が夜闇を深く響かせる。
 ザ……ウ…ンッ……。
『始めは誰も気づかぬ一揺れのこと……それが崩落の始まりじゃ』
 ラフィンニは心ここにあらずといった様子で続けた。
『そなたは運が良い……この光景を見た者は、そう多くはおらぬ』
 そのことばが、自分達の運命や、ラズーンの未来をも語っているように思えて、ユーノは思わずラフィンニを見上げた。
 白骨のごつごつした硬い線で作られた横顔に、一瞬、世にも艶やかな憂い顔の美姫が重なる。
『我らは……滅ぶ』
 淡々と事実だけを口にしたと言いたげなことばに、静謐を秘めた虚ろさと不可思議な安堵感が漂っているような気がして、ユーノはいつまでもラフィンニの顔を見つめていた………。


 キンッ!!
「あつっ!」「ユーノ!」
 殺気に咄嗟に振り上げた剣に、投げられた短剣が跳ね上がった。それも、ひどくまずい跳ね上げ方で、さすがに『泉の狩人』(オーミノ)から受け取った長剣の方は刃こぼれ一つしなかったが、飛んで来た短剣を見事に二つに折り散らして、跳ね上がった一片はユーノの頬を、もう一片は左腕を、軽く掠めて通り過ぎる。
「大丈夫か?!」「うん、大丈夫! ごめん、アシャ」
 駆け寄ってくるアシャに苦笑して、ユーノは手の甲で頬の傷を拭う。
「ったく…剣の練習の最中に、何考えていたんだ」
 アシャが眉をしかめて、ユーノを叱りつける。
「ああ、こら、そんな手で擦るな!」
 声と同時にユーノの手首を容赦なく掴む。
「ごめんって言ってるだろっ」
 ユーノはむくれて、急いでアシャに掴まれた手首を取り戻す。
(いけない、まだ『泉の狩人』(オーミノ)の事から、切り替えができてない)
「ああわかった、わかったから……ほらみろ、顔が血だらけになってるぞ」
「洗ってくるよ」
「待て」
 剣を鞘に納め、さっさと身を翻したユーノを、アシャが肩を掴んで引き止める。
「一時休憩だ。手当のついでに、左肩の包帯も替えてやろう」
 逆光のアシャの表情はよく見えない、案じてはくれているのだろうが。
「う、ん」
 ユーノは渋々、アシャに従ってミダス公の屋敷に入った。
 昼近い陽射しの中、午前中いっぱい剣の練習を続けていた体は汗びっしょりだ。本調子でないのは、たった半日程度の、しかも内庭で済むような簡単な稽古で汗まみれになるのでもよくわかる。
「ふぅ……暑…」
「ずいぶん汗をかいたな」
「うん。……包帯替えてもらう前に、ちょっと汗流してくるよ、待ってて」
「ああ」
 アシャの方は涼しい顔だ。額に汗の粒一つ浮かんでいない。訓練の後の軽い屈伸運動を終えると、与えられた自分の部屋の長椅子に、ゆったりと体を伸ばす。
 それを背中に部屋から出たユーノは、自分の部屋に戻り、布と着替えを準備して浴衣場へ向かった。
(最近、アシャは何か変だ)
 勝手知ったる巧緻の粋を尽くした風呂場、広い湯船に半分ほどたたえられた湯を準備されている小さな木鉢で掬って、左肩を濡らさないようにそっと体にかける。粘り着くように体を覆っていた被膜が、湯の熱さに蕩けたようにつるつると床に流れ落ちる。汗と血で固まった顔を洗い流し、汚れた髪にも俯いてかけて埃を落とした。それから静かに湯船の中に半身浸し,額に張りついた髪を掻き上げながら考える。
(どこが、と言われると困るんだけど)
 ここ数日、妙な違和感を感じ続けている。不快かと言われるとそうではない。むしろ、快い違和感というか、どこか、今まで期待もしていなかった嬉しい出来事を次々と囁かれているような、胸が微かに波打つような驚きを含んだ感覚。
(前より優しくなった? ……ううん、そうじゃない)
 アシャの優しさはセレドを出た時から変わっていない。
(態度や仕草の、どこがどう、変わっているわけでもないのに)
 首を傾げる。
 ゆっくりと四肢の先から温まってくる体に、さきとは別の汗が額に滲んでくる。湯を掬い上げ、目を閉じて顔にかける。
(何だろう)
 繰り返しアシャの言動を思い浮かべてみるが、どうにもよくわからない。
 何かが違う、そう感じるだけだ。
「…いいか」
 とにかく、自分とアシャの間は落ち着いていてうまくいっている、そういうことだと想い定めて、ユーノは勢いをつけて湯船から上がった。
「っ」
 とたんに左肩の奥に鋭い痛みが一瞬走って、思わず眉をしかめる。
「…やっぱり、この前のが響いてるのかな」
 忌々しく呟く。
 左肩は、表面の回復度の割には、なかなかすっきりと痛みが取れていなかった。左肩に力をかけず負担を与えないで、その他の体に注意を向ける訓練にちょうどいいと言って、アシャは無茶を押すユーノの剣術指南を引き受けてくれたはいたが、さすがにアシャほど基礎を積んでいない体だから、どうしてもじわじわと左肩に無理がかかっている。だが、『泉の狩人』(オーミノ)と『運命(リマイン)』、特になぜか不気味なほど沈黙を保って動かないギヌアのことを考えると、そんな無理を押してでも剣の腕を磨かざるを得ない。
「…ふ…」
 連日の剣の練習、平和すぎる夜の浅い眠り、湯の温かさが相乗してユーノを眠りに誘い込もうとする。とろりと落ちそうになる瞼、柔らかく沈み込もうとする意識を首を振って払い、ユーノはごしごしと体を拭いた。
 鏡には見飽きた全身の傷、仄白く真昼の陽に浮かび上がって、まるで今炎に灼かれつつある刻印のようだ。視界の端でそれを見やり、ユーノは黙々と体を拭き続けた。手早く深緑のチュニックを身に着けると、アシャを待たせていると急いで浴場を出る。半端に濡れた髪の毛を被った布で擦りながら部屋へ戻り、入り口すぐの場所でぴたりと立ち止まる。
(アシャ…)
 眠っている。
 長椅子に細身の、イルファ達猛者から比べると随分華奢に見える体を伸ばし、頭に両腕を敷き込んで目を閉じている姿は、ラズーンまでの旅の空の下でよく見かけた姿だ。
 閉じた瞼、長い睫毛が陽の光を弾いて煌めき、滑らかな頬に淡い陰影を作っている。窓から入る風に金褐色の髪が乱れて、日焼けしない白い額に、本人が聞くと絶対嫌がる女性的な目鼻に零れ散っている。
(きれい、なんだよね)
 ユーノはそっと密やかに溜め息をついた。
 いくらアシャが拒もうと否定しようと、無造作にこうして寝転んでいるだけでも、全てに整い過ぎた絶妙な美、それをことばで言い表そうとすれば、ユーノの幼い語彙の中ではそのことばしか浮かんでこない。
(綺麗だよな)
 何もかも、ふさわしい場所に、整っている。
(闘ってる最中だって、綺麗だって言うのは、どういうことなんだろな)
 荒々しく命を屠り削るような空間で、曲げた手首、見据える紫の瞳、相手を仕留める動き一つ一つが無駄なく、生まれついての狩人だったのだと思わせる動きは、心ある者なら戦いの隙間にさえ魂を射抜かれるかも知れない。そして、次の瞬間には、薄く艶やかな笑みを向けられ、しなって伸びてきた腕が繰り出す剣に急所を貫かれている。
(殺されることさえ、当然のような)
 自分と同等の『人』ではなく、桁違いのどこかの空間から、命を狩るために舞い降りてきた神、そんな気にさえなるかも知れない。
 けれど今、アシャは眠っている、薄く唇を開いて、ひどく気持ち良さそうに。
(……疲れてるんだ)
 そろそろと数歩歩み寄る。寝息をたてるアシャを覗き込む。
 セシ公とずっと連絡を取り続けている。レアナやリディノやレス、イルファの相手をしている。合間を縫うように『氷の双宮』へ何度も出かけて、時に険しい顔で戻ってくる。
(ラズーンの正当後継者、なんだもんなあ)
 ユーノの前でいくらおどけてくれていても、レスファートの苛立ちに困った顔で笑っても、イルファと冗談を言い合っていても、アシャの本分は『王子』なのだ。ユーノとて、皇族の端くれ、公務の大変さは想像がつく。長くその席を空けていた王子が、ついにその位置に戻ったのなら、降りかかる期待も訴えられる要求も大きなものだろう。ましてや、世界の覇権が『運命(リマイン)』に移るかどうかという瀬戸際、本来ならばユーノの剣の相手などしている場合ではないのかも知れない。
(いついなくなっても、おかしくない)
 ユーノはもう少し近寄って、そっと長椅子の側に膝を突いた。
(でも、今ここに居てくれてるってことは、まだ『ボク』のために時間を割いてくれるってことだよね)
 貴重な時間。アシャが休めるのは、ひょっとしたら、今だけかも知れない。
 ならば、もう少し眠らせておこう。
 そう決心して立ち上がろうとした途端、アシャが目を開いてどぎまぎした。
「あ…」
「どちらかと言うと」
 にやり、とアシャは悪戯っぽく唇を吊り上げた。
「俺は襲う方が好みだが」
「、このっ……嘘つきっ!」 
 一体どのあたりから目を覚ましていたのだろう。
 一気に顔が熱くなったユーノがののしると、アシャは朗らかな笑い声を上げて身を起こした。くしゃくしゃになった髪を滑らかな仕草で掻きあげ整える。
「ほら、左肩見せろ。湯で濡れただろう」
「…うん」
 渋々見せながら唇を尖らせる。
(性格、悪いっ!)
 時々うっかり忘れてしまう。そうだ、アシャは人をからかうのも好きで、そういう意味では誠実とか真面目とか真摯ということばとは縁遠い男だった。
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