『ラズーン』第五部

segakiyui

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2.暗雲(2)

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「ふむ」
 アシャはユーノの左肩を固定していた紐を解き、濡れた包帯を外した。左肩をまじまじと眺め、手を伸ばして上腕を掴む。
「っ!」
 それほど捻られたわけではなかった。そのままくい、と斜め上に、それこそ普通に腕を持ち上げるように動かされた途端、視界に光が走ったような痛みが駆け抜けて、思わず体を浮かせる。咄嗟に唇を噛んだほどの痛みだった。なのに、アシャはそれに全く気がつかなかったと言いたげに、ぐいぐいと同じ方向に力を加え続ける。
(い、い…ったあっ)
 胸の中で上げた悲鳴に自分で驚きながら、とにかくそれを知られまいとユーノは必死に痛みを堪えた。困惑と不安、無意識に眉をしかめて顔を背ける。それでも我慢できずに目を閉じて、じっとりした脂汗が滲んでくるのにうろたえる。
(何で? どうしてこんなに痛む?)
 剣の練習の時は感じなかった。日常生活でも平気だった。似たような動きは何度もしていたはずなのに、今この動きが震えるほど苦痛だ。体が勝手にその抵抗を減らそうと仰け反りながら浮いていく。
「…、…」
「……よし」
「…あ、…ふ…っ」
 アシャが低い声で呟くと同時に力を緩めた。圧力が一気に消えて、まるでそこへ意識を全て持ってかれたような暗闇が視界を覆い、ユーノは必死に瞬きする。思わず漏らした吐息が、自分でもわかるほど頼りなかった。体から力が抜ける。アシャに腕を握られたまま床に座り込む。それでも左肩の奥がじんじんと痛みを訴え続ける。
「大丈夫か? …ちょっときつかったか」
 柔らかく左頬に当てられたのはアシャの手の甲、心配そうな声音に眩む頭を必死に持ち上げる。
「ん…大丈夫…」
 何度か大きく呼吸を繰り返し、どのあたりが大丈夫なんだよ、と自分で罵倒しながら、ようやく目を開いてアシャを見た。
「大丈夫だよ。治り具合を見てくれたんだろ。どう?」
 に、と笑う。頬に当てられた手はそのままで、ちょっとだけその感触に憩った。
「……剣の練習はしばらくお預けだな」
「、そんなっ!」
 あっさりと告げられて血の気が引いた。次の瞬間に湧き上がった憤り、何を悠長なことを言ってるんだと怒りを吐き出す。
「今まではやってくれてたじゃないか!」
「もう少し回復していると思ってた。……お前、隠してたな?」
「…」
 覗き込んでくる紫の瞳を思わず避けた。
「…だって!」
(あなたはいついなくなるかわからない)
「だって、そんなに待ってる暇なんてない!」
(あなたにはもう守る人がいる)
「いつギヌアが狙ってくるか、『運命(リマイン)』が動くかわからない、少しでも早く完成させなきゃ…」
(私はまだ、あなたと同じ世界に生きていたい)
 たった一人ででも。
「今の状態じゃ、無理だ」
 熟練した医術師の冷徹さをもって、アシャは淡々と言い放った。ユーノの頬から額、滲んだ汗を拭ってくれる指先は優しいまま、
「左腕が効かなくなるぞ」
 冷ややかな宣言をする。
「だ…大丈夫だよ!」
(左腕一本ぐらい)
「これぐらいなら、そのうち何とかなるって!」
「だめだ」
「レアナ姉さまやリディノが居る! レスも居る!」
 ユーノの体のことだけで通せないなら、狡い手だって使う。
「姉さま達に何かあったらどうするの!」
「、『銀羽根』にイルファも俺も居る」
 一瞬世にも不愉快そうな顔になったアシャが吐き捨てるように言い切った。
「でも……でも!」
「ユーノ」
 怒りを秘めた瞳は赤紫に燃えている。怒っている、俺を信じないのか、と。苛立っている、また無茶を重ねる気か、と。
(でも!)
「あなた、ただでさえ疲れて…っ!」
 叫び返しかけて、ユーノは息を呑む。
(もし、あなたに何かあったら)
 ベッドに埋まっていた蒼白い顔を思い出す。レアナが付き添った夜、窓の外でひたすら回復を祈った、あの夜。
(次にあんなことがあるぐらいなら)
 私が死んだ方がいい。
「俺は…」
「…ボクなら大丈夫だから。ボクが強いのは知ってるだろ、回復も早いし、大丈夫だって、練習続けててもすぐに治るって、それにさ」
 反論されそうなアシャの口を封じたくて、不敵に笑って見せる。
「左腕一本ぐらい、大丈夫だって」
 知ってるはずだ、この体が傷だらけなのは。レアナが傷つくならともかく、ユーノが傷を重ねたところで、たいした意味はないはずだ。
「今更どうってことないよ」
「……ふぅ」
 アシャがじっとユーノを見つめ返していた視線をふっと落とした。俯きがちにもう一度吐息を重ねる。
「……仕方ない」
「じゃ、いいんだね!」
「…少々荒っぽいぞ」
「え?」
 するっとアシャの手が左腕を滑った。微妙に持ち方を変えられて、体の中に警告音が鳴り響く。危険を察して身を引いたときは遅かった。勢い良く、しかも容赦なく一気にねじ上げられる。
「ぅあっ!」
 ざくっ、とどこかがねじ切られたような激痛に思わず悲鳴を上げた。頭の中心を巨大な真っ赤な刃が断ち割り、身内の肉を抉ってズッポリと闇へ落ちる。吐きそうになった意識に、遠くアシャの声がくぐもって響く。
「ギヌアを甘く見るんじゃない。俺と同じく、正当後継者だった男だ、確実にここを狙ってくるぞ」
 落ちそうな意識を保つのに必死に呼吸を繰り返す。耳鳴りがして体が保てない。
「今みたいに扱われてみろ、剣を使うまでもなく、あっさり身動きできなくなる。その後は」
「……う…ん…」
 口にされなくとも、自分の未来は見えた。粋がってギヌアに突っ込み、一太刀浴びせるどころか、剣を手にするまでもなく、左腕を引きずられて踏みつぶされ肉塊となる姿。それならまだしも、『運命(リマイン)』と同化させられたりしたら、もっと不吉で苦しい命が待っている。
「…ご…め…」
 謝る声がもやもやと消えた。体を包まれ、抱きかかえられた感覚、続いて左肩にひやりとした塗り薬の感触、丁寧に塗り伸ばされた後に包帯が巻かれていく気配。緩くもなく、きつくもなく、しっかりと、だが動きやすいように。
 夢現でそれらを追いながら、また情けなくて惨めな感覚が広がる。
(どうして、私は)
 いつまでたっても、アシャに迷惑しかかけないんだろう?
(もっと強く、ならなくちゃいけないのに)
「……よし、いいだろう」
 声をかけられ、瞬きして顔を上げる。
 予想していた以上に近い場所にアシャの顔があった。しっかり抱え込まれた体は安堵して穏やかだ。このままずっと、この腕の中に居るのは、きっと幸福だろう。
(でも、この腕は)
 滲む視界に顔を歪めて、慌ててアシャの膝から滑り降りた。
「っ」
「まだ痛むか?」
 背後から、さすがに心配そうなアシャに、きゅ、と唇を噛んでから振り返り、できるだけ冷たい一瞥を投げる。
「誰がやったんだよ」
「仕方ないだろ、お前が無茶を言うから」
 アシャはほっとしたのだろう、からかうような笑みを唇に広げた。
「ボクのせいなのかよ」
「やりたくてやったわけじゃないぞ」
 今やアシャはユーノとの会話を楽しむような顔だ。
 そうだ、アシャはきっと変わった。
 以前のアシャなら、ユーノの憎まれ口に返事しながらも、少しは心配そうな目の色をしてくれていた。けれど、今目の前に居るアシャは、ユーノの強がりを楽しんでいる。さっきの遣り口だって、旅の途中ならあそこまでしなかっただろう。
 左肩のずきずきとした痛みはまだ消えないのに、アシャには、ユーノが気を失いかけるほど痛かったことを、気にしている表情はない。
(守ってくれなくなった、んだ)
 皇女の付き人としての役割が消えた。何があってもユーノを守ろうとする、その姿勢がなくなった。
(守る人が他にできたから)
 けれど、その代わりに、アシャはユーノを違う形に変えようとしている。自分がいなくても、ユーノが生き抜けるように。自分が守れなくても、闘えるように。
(付き人じゃなくて、同じ仲間、として)
 それは、背中を預ける相手と考えてくれているという『信頼』なのかも知れない。だから、ユーノはその『信頼』を嬉しいと感じなくちゃいけないのかも知れない。アシャの『信頼』はきっとかけがえないものだ、この先ずっと揺らぐことのないものだ。そしておそらく、レアナもリディノも、その『信頼』を得ることはない。ユーノ一人が受け取れる、アシャの心。
(けど)
 けれど、それは。
(私が欲しいのは)
 波立つ胸に唸った。
「……わかった」
「何が」
「ボクを苛めて楽しんでるんだ」
「誰のことだ」
「アシャのこと!」
 言い捨ててユーノは部屋を出た。
 嬉しいのか哀しいのか、わからなくなった。
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