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5.宿敵(2)
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「はっ!」
キンッ!!
鋭い音が響いて、ギヌアが踏み込んで突いた切っ先が、軽々とアシャの手から剣を跳ね飛ばした。指先を弾かれて一瞬顔を歪め、それでも咄嗟にひらりと後ろに飛び下がったものの、獲物を失ったアシャが苦笑まじりに両手を差し上げる。
「お手上げだ。相変わらず鋭いな」
「ふん」
ギヌアは侮蔑まじりに唸って、相手の乱れた金髪と上気した薄紅の頬を見やった。練習用の刃の丸い剣を鞘に納めながら言い捨てる。
「お前は踏み込むのが甘い」
「そうだな」
気にした様子もなく、アシャは淡々と応えて飛んだ剣を拾いに行った。
対峙して互いに相手の首を狙ったはずだ。一呼吸遅ければ、いくら刃が丸めてあるとはいえ、その重さはかなりのもの、渾身の力を込めれば骨の一本や二本は叩き折れる代物、首なら喉は潰しかねない。
「ラズーンの名を持つ、第一正統後継者のくせして」
しなやかな動きで剣を鞘に納める相手の背中にギヌアは吐く。
出逢ったときから、この、きらびやかで華やかな容姿を持つ相手に反発を感じていた。何がどう、というのではない。ただ、アシャはギヌアと根本的なところでどうしても溶け合わぬものを抱えているようで、口にはしないが、ふとした仕草や視線に、どこか憐れみめいたものをギヌアに感じているような、そんな気配を漂わせる。
たとえば、今の剣にしても、そうだ。
平穏で安定したラズーンの治世に、今さら荒廃の世を生き抜くためのような厳しい修行なぞ要らぬことだ。
だが『太皇(スーグ)』はーこの、彼らの親代わりの老人も、度々、ギヌアには理解し切れない遠いものを見ているような物の言い方をしたー剣の腕を錆びさせるなと繰り返し、こうして互いに技術を磨き合うことを是とした。実際に剣を絡ませ合い、自分の力を見極め、自分に足りぬところを学び、願うところを果たす技術と窮地に凌ぎ抜く心を伸ばしていく、そういう姿勢で向きあえ、と。限りなく実戦に近い、訓練の日々。
もっとも、ギヌアはこの方法が気に入っていた。例え剣の刃先が丸めてあろうとも、立ち会いそのものは真剣勝負で、ぎりぎりを凌いで相手を打ち負かす喜びは何ものにも代え難い。
だが、おそらくは、幾人かの正当後継者候補の中でも、唯一ギヌアと対等な腕を持つアシャは、今一つこの方法を好まなかった。手を抜いている気配はないが、度々ギヌアに負かされながら、その度に、今のような微かな苦笑を浮かべることが多く、悔しがることなどほとんどない。いつも淡々と勝敗を受け入れ、再度の勝負を挑んでくることもなく、そのままふいと訓練を止め、書庫に入り込んでは昔の記録や伝承、政治の在り方などを記した書物を丹念に読み込んでいる。
それはまるで、これほどまでギヌアが欲し求め奪い取った勝利が、望むことさえなく我が手にすぐに取り戻せると考えているような素っ気なさで、最近は立ち会えば立ち会うほど、ギヌアの中に焦りばかりが降り積もる。
(興味がないというのか)
ギヌアに勝利する事は。
(意味がない、とでも言うのか)
ギヌアはこれほど限界の崖を覗き込んでいるのに。
「ギヌア」
「うむ?」
剣を納めたアシャが、ゆっくりと振り向く。
「ぼくは、ラズーンを継ぐ気はない」
「っっ」
ぎょっとした。
「本気か?」
「本気だ」
ギヌアの凝視を見返すアシャの濃紫の瞳は澄んでいて、嘘を言っているようには見えない。かといって、二十歳にもならない若者の、ただただ純真な心から零れたことばということだけでもなさそうだ。
「……この世の頂点だぞ」
ようよう、ギヌアは応じた。
「この世の中を、あまねく支配する統合府、ラズーンだ」
「……だが、ぼくにはたいした意味がない」
ぽつりと呟かれて、一瞬周囲の物音が消えた。
昼近くなった強い陽射し、人の目を射るように輝く金褐色の髪を無造作に掻きあげる指、少女と言っても通る優しげで繊細な顔立ちがまっすぐギヌアを見返す。ふいに、不似合いな冷ややかな大人びた表情が過った。
「ラズーンの王となるよりも、ぼくには、しなくてはならないことがある気がする」
(ラズーンの王となるよりも、だと?)
まるで、『それ』が選択肢の一つでしかないような言い草。『それ』を手に入れるために、自分の体を切り刻むようにして日々を暮らしている者もいるだろうに。
ギヌアの衝撃に気づかぬまま、アシャは続ける。
「出逢うべき相手にまだ出逢っていないような……一刻も早く、その相手と巡り逢わなくてはならないような」
「…はっ」
かろうじて嘲笑を響かせるのには成功した。
「女か」
一番下衆な口調で言い切る。
「かも知れない」
ギヌアの嘲りにもアシャはたじろがなかった。むしろギヌアのことばに導きを得たような顔で頷き、考え込みながら呟く。
「わかっているのは、その相手が、他の誰でもなく『ぼく』を必要としているということだけだ」
静かな声には自信があった。
「他の誰かでは駄目だ。『ぼく』しか、その相手にはいないんだ」
「夢だな」
苛立たしさにギヌアは言下に否定した。
「幻だ。人が人を必要とするなぞ、甘い考えだ。人間なんてものは、自分のために人の命を踏み台にするものだ」
「君はそう考えるんだろう」
アシャは、あの、憐れんだような笑みを返してきた。ぐ、っと詰まったギヌアに、
「ぼくは視察官(オペ)になろうと思っている」
「視察官(オペ)に?」
声が裏返りそうになったほど、予想外だった。訝しく問いかけるギヌアに、アシャはゆっくりと頷く。
「視察官(オペ)なら諸国を歩き回れるし、捜し出して、巡り逢う機会も多いはずだ。ギヌア」
アシャの唇が唐突に笑み綻んだ。陽射しに緩んで解けた、明るい色の花を思わせる微笑。
「ぼくは、この世を治めるより、この世について知りたいこと、教わりたいことが、まだまだ山ほどあるんだよ」
「…ふん」
彼方から二人を呼ぶ声がした。
「アシャ! ギヌア!」
穏やかだが豊かな響きの『太皇(スーグ)』の声にアシャは振り返る。
「はい! 今行きます!」
一瞬ギヌアを見やった瞳が陽射しにきらきら光っている。
「ギヌア、ぼくには、ラズーンの名は要らない」
きっぱりと言い捨てて去っていくアシャを、ギヌアは茫然と見送る。
(ラズーンの名が要らない、だと?)
一体なぜ? 本気なのか? どうして今伝える?
(お前は何を考えている?)
だが、もしそれが本当なら,当然、第二正当後継者である自分が、ラズーンの長の地位を継ぐことになる。
(本当に?)
あり得なかった夢。満たされるはずのない願望。
どくり、と胸の中央で熱い固まりが跳ねた。
脳裏に、かつて一度見たこの世界の全地図が、そして『太皇(スーグ)』に連れられ、『狩人の山』(オムニド)に登って、遥かな高峰からラズーン支配下(ロダ)を眼下に一望した時のことが思い浮かんだ。
革に描かれた地図は、ラズーンの『氷の双宮』がラクシュの実よりももっと小さく、その四つ割り以下の大きさに描かれていたが、それでも地図の大きさは机のほとんどを絞めていた。また、その後で実際に見た世界は、呆れるほど広く遠く果てがなく、それら全てがラズーン支配下(ロダ)で、なおかつ、『太皇(スーグ)』一人に支配されているとは信じ難いほどだった。
(あれが、全て、俺のものになる)
ギヌアの胸は轟いた。
闇夜に蠢く魔性が鳴らす太鼓のように、地の底に流れる漆黒の激流のように。
「あっ…」
イリオールがびくりと体を震わせ、声を上げて仰け反った。押さえつけられた両腕を取り戻そうと、しばらく無駄に足掻いていたが、そのうち眉をしかめ唇を噛み、陵辱をひたすら堪える方向で凌いでいる。
その少年の変化もギヌアには意味がない。ただ機械的にイリオールを弄ぶ。追い上げ追い落とす。蹂躙し粉々にする。相手が正気であろうとなかろうと、ただ反応する躯であるだけだ。
「ギ…ヌア…様……」
ほとんど吐息だけの声で、イリオールはギヌアを呼んだ。だが、ギヌアはそれを無視し、己の記憶の中に再び埋没していく。
「だめじゃ」
「え?」
予想もしていなかった答えに、ギヌアは呆気にとられて『太皇(スーグ)』を見つめた。
その頃アシャは視察官(オペ)として『氷の双宮』を離れつつあった。姿を見せなくなった第一正統後継者に、僅かながらも不審が囁かれ始めていた。『太皇(スーグ)』がアシャの才能と人望に恐れを抱いて、密かに放逐しようとしている、そんな噂さえ流れかけていた。
時は満てり。
ギヌアはそう踏んだ。意気揚々と、けれど表面は深刻を装って粛々と、『太皇(スーグ)』に、アシャ不在で人心が惑う中、自分をこそ第一正統後継者にしてくれるように具申した。
だが、『太皇(スーグ)』は、その願いを一言のもとに撥ねつけた。
「…どうしてですか」
零れた疑問はまっすぐに投げかけられた。真実、なぜ拒まれるのか、ギヌアには全くわからなかった。
「お前はアシャに勝てておらん」
『太皇(スーグ)』のことばは冷酷だった。
「アシャより劣っている者を、アシャが権利を棄てたと言って、その場所へ据え直すことはできん」
「では、ラズーンはどうなるのです!」
ギヌアは激しく言い募った。
「後継者がいなくなれば、滅びてしまうではありませんか!」
「滅びはせぬ、が、『ラズーン』は無くなるかも知れぬ」
「そんな馬鹿な!」
「仕方あるまい」
たった一人の後継者がその座を離れたからと言って、国そのものが失われてたまるか。それではギヌアや他の正当後継者に何の意味がある。『控え』でさえないというのか。
(馬鹿な……馬鹿な!)
あいつ一人のために、このラズーンを滅ぼすだと?
「『太皇(スーグ)』! あなたは根本から間違っておられる! だがあえてお尋ねしよう、私のどこがアシャに劣っておりますか?」
形は問いだが、意味は糾弾だ。
だが、相手は動じた素振りさえ見せなかった。
「剣一つをとってみても」
「剣? 剣だと?」
は、とギヌアは嘲笑した。
「それこそ馬鹿なことだ、私とアシャが立ち会って、あいつが勝てた試しなどない!」
「練習では、な」
『太皇(スーグ)』は白い髪と髭に覆われた顔の奥から、深い瞳でギヌアを見つめた。
「真剣で立ち会ったことはあるのか?」
「…」
ことばに窮した。
世の噂はアシャの凄まじい戦士振りを、物陰で密かに伝えていた。ギヌアが『炎』と呼ばれれば、アシャは『息をも凍らせる冷気』と囁かれた。ギヌアが激烈に敵を屠ると言われれば、アシャは冷酷に敵を滅すと謳われた。
そして何より、ラズーンに相対する敵が真の恐怖を持って語るのは、必ずアシャ・ラズーンの方だったのだ。
それを真に受けていたわけではない。
ならばなぜ、今まで真剣勝負を挑まなかったのか。
『太皇(スーグ)』の瞳の色に、アシャと同じ気配を感じ取った。
わかっているのだ、お前は、と。
真の勝者が誰なのか、想いを馳せる前から理解しているのだ、と。
(そんな、馬鹿なっ!)
ギヌアは髪を逆立てて、『太皇(スーグ)』の前から辞した。
キンッ!!
鋭い音が響いて、ギヌアが踏み込んで突いた切っ先が、軽々とアシャの手から剣を跳ね飛ばした。指先を弾かれて一瞬顔を歪め、それでも咄嗟にひらりと後ろに飛び下がったものの、獲物を失ったアシャが苦笑まじりに両手を差し上げる。
「お手上げだ。相変わらず鋭いな」
「ふん」
ギヌアは侮蔑まじりに唸って、相手の乱れた金髪と上気した薄紅の頬を見やった。練習用の刃の丸い剣を鞘に納めながら言い捨てる。
「お前は踏み込むのが甘い」
「そうだな」
気にした様子もなく、アシャは淡々と応えて飛んだ剣を拾いに行った。
対峙して互いに相手の首を狙ったはずだ。一呼吸遅ければ、いくら刃が丸めてあるとはいえ、その重さはかなりのもの、渾身の力を込めれば骨の一本や二本は叩き折れる代物、首なら喉は潰しかねない。
「ラズーンの名を持つ、第一正統後継者のくせして」
しなやかな動きで剣を鞘に納める相手の背中にギヌアは吐く。
出逢ったときから、この、きらびやかで華やかな容姿を持つ相手に反発を感じていた。何がどう、というのではない。ただ、アシャはギヌアと根本的なところでどうしても溶け合わぬものを抱えているようで、口にはしないが、ふとした仕草や視線に、どこか憐れみめいたものをギヌアに感じているような、そんな気配を漂わせる。
たとえば、今の剣にしても、そうだ。
平穏で安定したラズーンの治世に、今さら荒廃の世を生き抜くためのような厳しい修行なぞ要らぬことだ。
だが『太皇(スーグ)』はーこの、彼らの親代わりの老人も、度々、ギヌアには理解し切れない遠いものを見ているような物の言い方をしたー剣の腕を錆びさせるなと繰り返し、こうして互いに技術を磨き合うことを是とした。実際に剣を絡ませ合い、自分の力を見極め、自分に足りぬところを学び、願うところを果たす技術と窮地に凌ぎ抜く心を伸ばしていく、そういう姿勢で向きあえ、と。限りなく実戦に近い、訓練の日々。
もっとも、ギヌアはこの方法が気に入っていた。例え剣の刃先が丸めてあろうとも、立ち会いそのものは真剣勝負で、ぎりぎりを凌いで相手を打ち負かす喜びは何ものにも代え難い。
だが、おそらくは、幾人かの正当後継者候補の中でも、唯一ギヌアと対等な腕を持つアシャは、今一つこの方法を好まなかった。手を抜いている気配はないが、度々ギヌアに負かされながら、その度に、今のような微かな苦笑を浮かべることが多く、悔しがることなどほとんどない。いつも淡々と勝敗を受け入れ、再度の勝負を挑んでくることもなく、そのままふいと訓練を止め、書庫に入り込んでは昔の記録や伝承、政治の在り方などを記した書物を丹念に読み込んでいる。
それはまるで、これほどまでギヌアが欲し求め奪い取った勝利が、望むことさえなく我が手にすぐに取り戻せると考えているような素っ気なさで、最近は立ち会えば立ち会うほど、ギヌアの中に焦りばかりが降り積もる。
(興味がないというのか)
ギヌアに勝利する事は。
(意味がない、とでも言うのか)
ギヌアはこれほど限界の崖を覗き込んでいるのに。
「ギヌア」
「うむ?」
剣を納めたアシャが、ゆっくりと振り向く。
「ぼくは、ラズーンを継ぐ気はない」
「っっ」
ぎょっとした。
「本気か?」
「本気だ」
ギヌアの凝視を見返すアシャの濃紫の瞳は澄んでいて、嘘を言っているようには見えない。かといって、二十歳にもならない若者の、ただただ純真な心から零れたことばということだけでもなさそうだ。
「……この世の頂点だぞ」
ようよう、ギヌアは応じた。
「この世の中を、あまねく支配する統合府、ラズーンだ」
「……だが、ぼくにはたいした意味がない」
ぽつりと呟かれて、一瞬周囲の物音が消えた。
昼近くなった強い陽射し、人の目を射るように輝く金褐色の髪を無造作に掻きあげる指、少女と言っても通る優しげで繊細な顔立ちがまっすぐギヌアを見返す。ふいに、不似合いな冷ややかな大人びた表情が過った。
「ラズーンの王となるよりも、ぼくには、しなくてはならないことがある気がする」
(ラズーンの王となるよりも、だと?)
まるで、『それ』が選択肢の一つでしかないような言い草。『それ』を手に入れるために、自分の体を切り刻むようにして日々を暮らしている者もいるだろうに。
ギヌアの衝撃に気づかぬまま、アシャは続ける。
「出逢うべき相手にまだ出逢っていないような……一刻も早く、その相手と巡り逢わなくてはならないような」
「…はっ」
かろうじて嘲笑を響かせるのには成功した。
「女か」
一番下衆な口調で言い切る。
「かも知れない」
ギヌアの嘲りにもアシャはたじろがなかった。むしろギヌアのことばに導きを得たような顔で頷き、考え込みながら呟く。
「わかっているのは、その相手が、他の誰でもなく『ぼく』を必要としているということだけだ」
静かな声には自信があった。
「他の誰かでは駄目だ。『ぼく』しか、その相手にはいないんだ」
「夢だな」
苛立たしさにギヌアは言下に否定した。
「幻だ。人が人を必要とするなぞ、甘い考えだ。人間なんてものは、自分のために人の命を踏み台にするものだ」
「君はそう考えるんだろう」
アシャは、あの、憐れんだような笑みを返してきた。ぐ、っと詰まったギヌアに、
「ぼくは視察官(オペ)になろうと思っている」
「視察官(オペ)に?」
声が裏返りそうになったほど、予想外だった。訝しく問いかけるギヌアに、アシャはゆっくりと頷く。
「視察官(オペ)なら諸国を歩き回れるし、捜し出して、巡り逢う機会も多いはずだ。ギヌア」
アシャの唇が唐突に笑み綻んだ。陽射しに緩んで解けた、明るい色の花を思わせる微笑。
「ぼくは、この世を治めるより、この世について知りたいこと、教わりたいことが、まだまだ山ほどあるんだよ」
「…ふん」
彼方から二人を呼ぶ声がした。
「アシャ! ギヌア!」
穏やかだが豊かな響きの『太皇(スーグ)』の声にアシャは振り返る。
「はい! 今行きます!」
一瞬ギヌアを見やった瞳が陽射しにきらきら光っている。
「ギヌア、ぼくには、ラズーンの名は要らない」
きっぱりと言い捨てて去っていくアシャを、ギヌアは茫然と見送る。
(ラズーンの名が要らない、だと?)
一体なぜ? 本気なのか? どうして今伝える?
(お前は何を考えている?)
だが、もしそれが本当なら,当然、第二正当後継者である自分が、ラズーンの長の地位を継ぐことになる。
(本当に?)
あり得なかった夢。満たされるはずのない願望。
どくり、と胸の中央で熱い固まりが跳ねた。
脳裏に、かつて一度見たこの世界の全地図が、そして『太皇(スーグ)』に連れられ、『狩人の山』(オムニド)に登って、遥かな高峰からラズーン支配下(ロダ)を眼下に一望した時のことが思い浮かんだ。
革に描かれた地図は、ラズーンの『氷の双宮』がラクシュの実よりももっと小さく、その四つ割り以下の大きさに描かれていたが、それでも地図の大きさは机のほとんどを絞めていた。また、その後で実際に見た世界は、呆れるほど広く遠く果てがなく、それら全てがラズーン支配下(ロダ)で、なおかつ、『太皇(スーグ)』一人に支配されているとは信じ難いほどだった。
(あれが、全て、俺のものになる)
ギヌアの胸は轟いた。
闇夜に蠢く魔性が鳴らす太鼓のように、地の底に流れる漆黒の激流のように。
「あっ…」
イリオールがびくりと体を震わせ、声を上げて仰け反った。押さえつけられた両腕を取り戻そうと、しばらく無駄に足掻いていたが、そのうち眉をしかめ唇を噛み、陵辱をひたすら堪える方向で凌いでいる。
その少年の変化もギヌアには意味がない。ただ機械的にイリオールを弄ぶ。追い上げ追い落とす。蹂躙し粉々にする。相手が正気であろうとなかろうと、ただ反応する躯であるだけだ。
「ギ…ヌア…様……」
ほとんど吐息だけの声で、イリオールはギヌアを呼んだ。だが、ギヌアはそれを無視し、己の記憶の中に再び埋没していく。
「だめじゃ」
「え?」
予想もしていなかった答えに、ギヌアは呆気にとられて『太皇(スーグ)』を見つめた。
その頃アシャは視察官(オペ)として『氷の双宮』を離れつつあった。姿を見せなくなった第一正統後継者に、僅かながらも不審が囁かれ始めていた。『太皇(スーグ)』がアシャの才能と人望に恐れを抱いて、密かに放逐しようとしている、そんな噂さえ流れかけていた。
時は満てり。
ギヌアはそう踏んだ。意気揚々と、けれど表面は深刻を装って粛々と、『太皇(スーグ)』に、アシャ不在で人心が惑う中、自分をこそ第一正統後継者にしてくれるように具申した。
だが、『太皇(スーグ)』は、その願いを一言のもとに撥ねつけた。
「…どうしてですか」
零れた疑問はまっすぐに投げかけられた。真実、なぜ拒まれるのか、ギヌアには全くわからなかった。
「お前はアシャに勝てておらん」
『太皇(スーグ)』のことばは冷酷だった。
「アシャより劣っている者を、アシャが権利を棄てたと言って、その場所へ据え直すことはできん」
「では、ラズーンはどうなるのです!」
ギヌアは激しく言い募った。
「後継者がいなくなれば、滅びてしまうではありませんか!」
「滅びはせぬ、が、『ラズーン』は無くなるかも知れぬ」
「そんな馬鹿な!」
「仕方あるまい」
たった一人の後継者がその座を離れたからと言って、国そのものが失われてたまるか。それではギヌアや他の正当後継者に何の意味がある。『控え』でさえないというのか。
(馬鹿な……馬鹿な!)
あいつ一人のために、このラズーンを滅ぼすだと?
「『太皇(スーグ)』! あなたは根本から間違っておられる! だがあえてお尋ねしよう、私のどこがアシャに劣っておりますか?」
形は問いだが、意味は糾弾だ。
だが、相手は動じた素振りさえ見せなかった。
「剣一つをとってみても」
「剣? 剣だと?」
は、とギヌアは嘲笑した。
「それこそ馬鹿なことだ、私とアシャが立ち会って、あいつが勝てた試しなどない!」
「練習では、な」
『太皇(スーグ)』は白い髪と髭に覆われた顔の奥から、深い瞳でギヌアを見つめた。
「真剣で立ち会ったことはあるのか?」
「…」
ことばに窮した。
世の噂はアシャの凄まじい戦士振りを、物陰で密かに伝えていた。ギヌアが『炎』と呼ばれれば、アシャは『息をも凍らせる冷気』と囁かれた。ギヌアが激烈に敵を屠ると言われれば、アシャは冷酷に敵を滅すと謳われた。
そして何より、ラズーンに相対する敵が真の恐怖を持って語るのは、必ずアシャ・ラズーンの方だったのだ。
それを真に受けていたわけではない。
ならばなぜ、今まで真剣勝負を挑まなかったのか。
『太皇(スーグ)』の瞳の色に、アシャと同じ気配を感じ取った。
わかっているのだ、お前は、と。
真の勝者が誰なのか、想いを馳せる前から理解しているのだ、と。
(そんな、馬鹿なっ!)
ギヌアは髪を逆立てて、『太皇(スーグ)』の前から辞した。
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