『ラズーン』第五部

segakiyui

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5.宿敵(1)

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「あ…はぅ…」
 薄暗い部屋の中、鈍い光沢のある黒布を敷いたベッドで、仰け反っていた白い裸身が力を抜いた。苦しげに伸ばした手で掴んでいた布を離し、自分がまだ生きているのか確かめるように、のろのろと指を開く。
「ふ…」
 小さく吐き出された息は、まだ熱を含んでいる。整えようとするのか、しばらくせわしない呼吸を紡ぎながら、浅く上がった息を少しずつ深くしていく。
 その躯から、覆い被さり一体化していた影が一つ、ふいに離れた。寝そべった裸身を一顧だにしない冷ややかさで、周囲に張り巡らせた紫の透き通った薄物を払いのけ、ベッドに腰掛けてから立ち上がる。
 影は部屋の中央に歩み寄って、灯皿に火を点けた。黄色がかった光に浮かび上がった男の端整な面立ちには、何の感情も浮かんでいない。白い炎のような髪が乱れ、その下に輝く血の紅の瞳を覆う。じっと灯を見下ろしながら、身動きしなければ、ただの彫像のようにも見える姿だ。
「ギヌア様…」
 細い両手で体を起こし、仰臥していた少年がおずおずと立ち上がった男を呼んだ。腰のあたりまで掛け物を引き寄せ、片手で額に滲んだ汗を拭いながら、そっと問いかける。
「どうか…されたのですか?」
「…」
「いえ…」
 くるりと無言で振り返ったギヌア・ラズーンの視線の冷酷さに、少年は淡い青の瞳に一瞬怯えたような色を浮かべ、目を伏せた。
「いつもとどこか……」
「違う、と?」
 ギヌアの薄い唇がわずかに両端を吊り上げる。微笑みではない、動かぬ仮面に突然切れ込んだ裂け目、滲むのは嘲笑だ。
「何が違う」
「あ…」
 少年はギヌアの声音にびくりと体を竦めた。掛け物ごとわずかに背後へ後じさる、ギヌアの視線に灼かれるかもしれないと考えたように。汗に濡れた肩が急に温度を下げたのか、ぶるりと体を震わせて顔を背けた。
「いえ、何も…」
「どこが違う。言ってみろ、イリオール」
 ギヌアは椅子にかかっていた黒い上着を羽織った。前を合わせる紐を結ぶこともなく、今の今までさんざ相手を弄んだ己の一物を無造作に晒しながら、イリオールに向き直る。
「イリオール?」
「な、何も!」
 イリオールは激しく首を振った。背後の空間を手探りし、端まではまだあると知って、なお後じさる。だが所詮虚しい試みだ、すぐに壁に遮られて絶望に顔を振り仰ぐ。それでも、目の前の主に必死に抗弁した。
「何も、感じておりません、ギヌア様!」
「そうか?」
 薄笑みを浮かべたギヌアは滑るようにベッドに近づき、次の瞬間には、床を蹴った気配さえなく、夜闇を舞う恐ろしい怪鳥のようにイリオールに飛びかかった。手首を捉えて捻り上げ、引き倒しベッドに埋め、細い首に手首を押し当て、体重をかけてのしかかる。
「ぐぅっ」
「イリオール? 馬鹿な詮索をしろと誰が命じた?」
「ぐ、ぅうっ」
「答えてみろ、イリオール」
「っ、っ、っ」
 イリオールは顔を歪め身もがいたが、ギヌアの体の下から逃がれられない。ギヌアの腕にしがみつき、自由になっている脚をばたつかせ、体をのたうち回らせるが、それは蛇が鎌首を押さえられてじたばたと暴れるように虚しい抵抗だった。唇が色を失い、瞳が朦朧としてくるのと前後して、もがいていた四肢が力を失い崩れ落ちる。零れ落ちた涙とよだれが黒布を濡らすのに、ようやくギヌアは力を抜いた。意識を失ってしまっている相手の頬を二度三度、烈しく叩いて息を吹き返させる。
「ぁふっ、ぐっ、ぐふっっ!」
 喉を詰まらせたイリオールが咽せ込み咳き込みながら、体を二つに折り曲げ苦しがる。その呼吸が整わぬうちから、ギヌアは相手の両手首を捉えた。
「イリオール」
「はっ、はふっ」
 ぼろぼろと涙をこぼし怯えながらイリオールは顔を上げる。
「俺は誰だ、言ってみろ」
「あなた、はっ…ギヌア様…っ、で、す…っ」
 喘ぎつつ答えるイリオールの瞳には、ただ恐怖しかない。顔を濡らしている汗も、さきほどの快楽に堕ちて流したものとは全く違う冷えた温度だ。
「お、願い…です…もう」
 懇願に震えるイリオールの細い首筋に、ギヌアはゆっくりと顔を降ろした。獣が獲物を喰らうときは、こんな風に舌を触れるのだろうか。少年がひくりと体を引き攣らせる。
「お前は誰のものだ、イリオール…?」
「ぼ…くは……あなたの…」
 あ、と微かな吐息がことばをとぎらせた。震えが一瞬止まり、やがて内側の波に揺さぶられるようにもどかしげに体が揺れる。
「あなたの……ギヌア…ラズーン…様の…もの……っ」
 最後のことばを呑み込みながら仰け反る躯が、ギヌアにしがみつき、また突き放すように身悶える。抵抗は形だけだった。強く深く押し入ったギヌアに、切なげな掠れた呻きが応える。
 あれほど怯え、あれほど拒み、あれほど支配を望まなかったのに、今この指先で喘ぎ始めたイリオールは、肌を薄く染めながら強く閉じた瞼を裏切っている。
 人など、この程度のものだ。
(ギヌア・ラズーン)
 そのことばにまつわる思い出が、脳裏に甦り始めている。
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