『ラズーン』第五部

segakiyui

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7.泥土(5)

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「……シャ様、これで準備は十分に……アシャ様?」
「ん? あ、ああ、すまない」
 不審そうに尋ねられて我に返る。
「『氷の双宮』に何か?」
「いや…」
 準備万端整え、アシャに付き従うという栄誉に顔を紅潮させているシャイラに苦笑しながら振り返る。
「行くか」
「はい」
 それぞれに馬に跨がり、手綱を握りしめる。シャイラの手が軽く震えているのに気づき、アシャは笑いかけた。
「どうした、怖いのか」
「怖いはずがありません」
 シャイラは揺れる己の手を訝しげに眺めながら言い切る。
「アシャ様と一緒なら、何が起こっても大丈夫だとわかっていますから」
 これはきっと武者震いですよ、と引き攣り気味の笑顔を返す、その胆力に免じてそれ以上は突っ込まなかった。
 本来ならば、各公の親衛隊も兼ねる『羽根』の長が、他公の地へ単独で出向くことなどあり得ない。領地を侵犯したと糾弾されかねない所行だが、今回に限り、『太皇(スーグ)』からの申し入れもあって許された。今は平時とは違う状況、しかも、シャイラとグードスは十年来の友人、同道を許された裏には事情がある。
「それに、ミダス公のお側を離れることも案じておりません」
 シャイラはにっこりと笑った。
「名高き『星の剣士』(ニスフェル)が公邸に逗留しているという噂は、とうに知れ渡っています。そんなところへのこのこ忍び込むような馬鹿はラズーンにはいませんよ」
「…そうだな」
 ミダス公がアシャの共にとシャイラを差し向けたのも、おそらくはそういうことだろう。野戦部隊(シーガリオン)が一目置くという『星の剣士』(ニスフェル)がいる、おおあの大男か、なるほど強そうじゃないか、そう囁き合う面々が、イルファを見ながら感心していたとしても、ミダスには十分な守りが置かれている、その事実はかわらない。
 ましてやアシャは、この間ユーノを命の危機に陥れた相手に対して、かなり非情な処置を取った。憐れみも労りも一切ない遣り口に、ユーノ・セレディスに手を出せば、憤激に狂いながらアシャが襲いかかってくる、そう覚悟しなければならないと、周囲には十二分にわかったはずだ。
(確かにラズーンの人間は動かない……だが、『運命(リマイン)』は別だ)
 視察官(オペ)に紛れ、或いは四大公の中に、『運命(リマイン)』の牙が隠されている。それはいつ、容赦ない力でユーノを噛み砕こうとするかわからない。
(離れたくなかった)
 何もかも捨て、ユーノの側に居たかった、ただの物静かな、けれど絶対の守りを約束する従者として。
(けれど俺は、あいつを、泣かせた)
 幾多の戦いに耐え、セールの死も歯を食いしばって堪えた気丈な娘を。脳裏を過ぎる潤んだ瞳はアシャを責めたい想いで一杯だった。
(まだ…泣いている気がする)
 なぜだなぜだと理由を問いながら、アシャに奪われた唇を悔しさで噛み締めながら。そのユーノに胸が傷む一方で、密やかな喜びが胸の底に広がってくるのは、やはりアシャが魔性だからか。
(甘くて…柔らかい…)
 花の蕾のような。果実の一房のような。噛みついて啜り、味わいたかった、零れ落ちる露一雫まで。我ながらおぞましいまでの卑劣な欲望、愛しく慕わしく、守りたいと思うその主を蹂躙することに煽られる付き人なぞ、危なっかしいばかりだ。
(何が『氷のアシャ』だ。あいつ一人まともに支え切れずに、何が第一正統後継者だ)
 アシャは自分の唇を苦く噛んだ。風に嬲られ乱れた金褐色の髪が光を散らせる額の下で考え続ける。
(けれど、ユーノ、お前は誰を求めているんだ?)
 あの誇り高い魂が、誰かの内懐に抱え込まれることを良しとするようなことなどあるのだろうか。
(それとも、この世の男などには溶けもしない、お前こそ氷の心の持ち主か)
 それならいっそ救いがある、アシャだけではない、他のどんな男のものにもならない至高の異性として、その命を護る従者として控えることで慰めも得られる。
(聖女王)
 『泉の狩人』(オーミノ)の願いを束ねる聖なる女王。その目に映るのは戦いのみ、その手が取るのは剣の柄のみ。死に向かって奔り続けることを恐怖することもなく、伸ばしたこの指の僅か先で紅蓮の炎と化して消えていく。
「…シャ……シャ・ラズーン」
「っ」
 響いた声に我に返った。
「どうかなさったのですか」
 気がつくと、またシャイラが不安げに覗き込んでいた。
「それほど……グードス救出は難しいのですか」
「いや…『泥土』について、どの程度知っている?」
 軽く首を振って、アシャは当面の敵に意識を戻した。
「あまり詳しくはありません」
 シャイラは僅かに顔を赤くした。
「『羽根』の入隊直後の申し送り程度です。アギャン公領の東に広がる泥の大地、作物は種のうちに腐って芽吹かず、土には未だ明らかにされない毒素が含まれ、長時間触れていると肌から毒が染み込んで狂死するとか。それに……『泥獣(ガルシオン)』のことも多少」
 シャイラはためらいがちに続けた。
「荒廃の世の時代から、広大な『泥土』の恵みのもとに生き長らえてきた太古生物ですよね。体長は大人の男の前腕ほど、全身が焦茶のいぼだらけのしなやかな皮膚で覆われており、中央が高く周囲になるほど薄べったく広がる体、地面に接する部分に小さな無数の口がついていて、犠牲者の体にべったりとはりつくと内出血を起こさせるほどの強い吸啜力を持つとか」
 言いながら、シャイラの顔はゆっくりと白くなっていく。
 その顔は続く内容も知っていると告げている。
「…常食としているのは他の生物の体液だ」
 アシャは静かにことばを継いだ。
「人で言えば温かい血液、だな。『泥土』に生息する吸血動物の中では最大、最多数を誇る。それに加えて『泥獣(ガルシオン)』はただの吸血動物にはない大きな特徴がある。『眼』だ」
「『眼』?」
 さすがにシャイラはそれは知らなかったらしく、訝しげに尋ね返してきた。
「細長くて中央が盛り上がり周囲がびらびらした体の前の方に、緑色の細かな粒子を詰め込んだようなきらきらした二つの膨らみがあるんだよ。『眼』と呼ばれているが、厳密には『眼』じゃない。獲物の存在を感知する感覚器の一つだが、同時に、獲物の視覚や聴覚に働きかけて、ある種の幻覚を見せる特殊な波動を発生させている放射器でもある」
「……『泥獣(ガルシオン)』は人を惑わし甘い夢を見せる、ということですか…?」
「そうだ」
 アシャは小さく溜め息をついた。
「その者の最も望んでいるものを見せる。どうしてそれを奴らが感知するのかはわかっていないが、人が望むものを考えると、何か特別な体の反応があるのかも知れないな」
 アシャがユーノを想う時に切なく揺れる心は、『泥獣(ガルシオン) 』にはどんな動きとして感じ取れるのだろう。心迷わせるような甘い匂いの体臭か、僅かに震えるさざ波のような肌の振動か、それとも潤み熱をたたえて細められる快楽にけぶる瞳の湿度か。
「餌食になった奴を何人も見ている。気をつけるんだな」
「…はい、わかりました」
 一瞬間を置き、自分の心の何ものかを確かめたように瞬いて、シャイラはゆっくり頷いた。

 『氷の双宮』から『白の流れ』(ソワルド)に沿って南東へ下り、街の視界に入る場所を避けて、アシャとシャイラは急ぎ続けた。
 『氷の双宮』に知らせがないとはいえ、アギャン公の後をカルキュイが継いだのは確実、そしてグードス救出に向かう彼らが、カルキュイとその一派に歓迎されないのも確実だった。
 馬の体は汗にまみれ、明るい陽射しに強い体臭を立ちのぼらせる。足の下で躍動し続ける体躯は未だ疲労も感じさせない力強さを保ってはいたが、既に口角には白い泡が溜まっている。
 やがて前方、虚しいまでに広々と視界を占める『泥土』が見えてきた。
 『灰泥土』とも呼ばれるように、地平の彼方まで一面灰色の、どろりと濁り、鈍く陽の光を跳ね,或いは光を吸い込む地表には、生物の影は一つも見当たらない。
 次第次第に馬の速度を落とし、固く温かな親しみのある茶色の地面が少しずつ灰色の泥と入り交じっていく境で、アシャとシャイラは馬を止めて飛び降りた。
 『泥土』に関する忌まわしい噂は、人々によって心に植え付けられた重い恐怖であるのだろう、遠くの方にひなびた小屋が一つ、今にも崩れそうな草葺きの屋根が周囲に立て巡らせた棒杭の上にかろうじて載っているだけという代物だ。おそらくそれは、その昔置かれたという『泥土』の見張り小屋だったのだろう。
「アシャ…」
 シャイラはただただ広がる平面にあちらこちらと瞳をやって、やがて途方にくれたように彼方を眺めながら、敬称をつけることも忘れてアシャに問いかけた。
「どこもかしこも真っ平らです。グードスは一体どこにいるんでしょう……?」
 見渡す限りの平面には、人が隠れられそうな窪みも小高い山もない。グードスはおろか、『泥獣(ガルシオン)』さえ潜む場所がないように見える。
「いや」
 アシャは同じように『泥土』を見ながら軽く首を振った。馬の背中から積んできた皮の包みを降ろし、荷を解きながら続ける。
「『そう』見えているだけだ。『泥獣(ガルシオン)』が己の保身のために如何にも何もなさそうに平坦に見せているだけで、実際の地形は違っている」
「では…」
 振り向いたシャイラがアシャの動きに気づき、急いで自分も馬の背中から皮の包みを降ろし、巧みに断った辺々を合わせ脚に巻き付け、しっかりと縛り始めた。革紐は濡れてからよく締まってくるので、ほどほどに、けれども『泥土』の泥が染み込まないように皮で脚を包みつつ、膝を越え、大腿の上の方まで丁寧に巻き付けていく。
「グードスはどこに」
「『泥獣(ガルシオン)』が密集している所に『保存』されているはずだ。奴らは獲物の所有について厳しい掟を持っている。始めに見つけた者がその獲物を所有する。そして、奴らは喰い尽くすまでその場を離れない……もっとも、『生きている』とは言えないだろうが」
「…」
 淡々としたアシャのことばに、シャイラはぞくりとした顔になった。相手の体が無意識に怯んで僅かに背後に引けるのを眺め、アシャは容赦なく促す。
「行くぞ」
「は、はい」
 太古生物においては、この程度の習性は可愛いものだ。およそ惨いとしか表現しようがない状態で獲物を『保存』しておく奴らはいくらでもいる。それはまるで『人』に対する怨念のようだ。
 『人』よ滅びよ、『人』の命よ、生き長らえるな。
 そういう見えない呪詛が太古生物の血肉に流れていて、それで彼らはこれほど『人』を我が食糧にと望むのか。
「…」
 自らのうちにも同じ様な呪詛が組み込まれているのかと、脳裏を掠めた考えに首を振って、アシャはシャイラの先に立って『泥土』に脚を踏み入れた。ぐにゅりと足の裏で沈み込み滑る感触は、お世辞にも快いとは言い難い。
 指先を少し先へ伸ばす。いつの間にか体表面を覆っていた金色の靄がするすると指先から溢れ、『泥土』の上を素早く疾った。
 側に居たシャイラがはっと息を呑む。
「これは…」
 まるで目の前に垂れ下がっていた布切れを一枚払いのけていくようだった。
 アシャの金の影が疾り過ぎた後に、今の今まで平坦な泥の地面と見えていた場所が一転する。高く低くうねり波立つような泥の中、そこここに、びらびらした皮とも肉とも言えぬ襞をひらつかせて、無数の『泥獣(ガルシオン)』がもそもそと這い回っている。
「シャイラ?」
「は、はい」
 振り返って青ざめているシャイラに微笑む。
「俺から離れるなよ。『泥獣(ガルシオン)』を刺激するんじゃない。同じ速度で動いている限り、奴らは俺達が獲物だと気づかない」
「はい…アシャ様」
 シャイラは竦みかけた体を、何かを振り払うようにぶるっと震わせ、頷いた。きつい顔で歯を食いしばり、もう一度アシャに頷く。
「注意します」
 『銀羽根』の長の名にかけて、こんなところで尻尾を巻いて帰るわけにはいかないと思い定めたのだろう。平和ぼけしたラズーンにあっては貴重な人材だ、とアシャは笑みを深める。
「行くぞ」
「はい…っ」
 アシャの背後からシャイラはゆっくり踏み出してくる。アシャも小さく息を吐く。自分は切り抜けられても、シャイラの動き一つで『泥獣(ガルシオン)』に襲い掛かられるかもしれない。油断などできなかった。
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