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5.『風の乙女(ベルセド)』(2)
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額に布を巻き付ける。右肩が異常に熱っぽい。探ってみると、やはりねっとりとした血糊の感触があった。
だが痛みはあまり感じない。激しい動きをするとそれなりに痛むが、普通の動作には支障がない。頭のどこかと同じように、そこだけ感覚が麻痺しているようだ。血がこれほど流れているのに痛みがないというのは妙な感覚だった。
(一体、ボクはどうして怪我をしたんだろう)
ぼんやりと岩肌に身を寄せもたれかかりながら、ユーノは考える。
(どうして、裂け目から落ちたんだろう)
繰り返す問いは、軽い頭痛とともに、一つの問いに集約されていく。
『ボクは誰なんだろう』
仄かな明るさを頼りに、さきほど、手に掬った水鏡に自分を映してみた。
焦げ茶色の髪は肩のあたりで跳ね返っている。瞳は濃くて暗い色、何色かはよくわからない。顔立ちはどちらかというと意地っ張りの鋭い顔、削いだような頬の線ときつく食いしばったような唇が印象的で、正直美形にはほど遠い。
だが、その鏡像がもたらしたのは虚無だけだった。何も思い出さないし、何の手がかりも与えてくれない。
額の布が僅かにずり落ち、手を上げて結び直そうとし、絡み付く髪がうっとうしくなる。
(邪魔だな)
左手で剣を掴んだ。右手で掴んだ髪をざくりと切る。少しは手当がしやすくなる。そのまま、ざくりざくりと髪を切り落とし、水に流す。短くなった髪の毛が、それ以上上手く掴めず、剣でも切れなくなると、溜め息をついて岩にもたれた。
(疲れた)
重い疲労感、喉の渇きはあるが、水を汲むのも億劫だ。溜め息をつき、目を閉じ………そしてユーノは、己が何者かもわからぬまま、一時の眠りに落ちていった。
「どう…っ……どう」
アシャは、馬に軽く声をかけて止まらせた。汗に濡れ、額にへばりついた髪をかきあげる。
かなり走り、既に野戦部隊(シーガリオン)が見えない位置まで来ているというのに、ユーノの気配一つ、影一つもみつからない。あちこちに点在している赤茶けた岩塊の後ろを、一つ一つ探るというわけにもいかない。厳しく唇を引き締めたアシャは、背後に近づいた物音に振り向いて問う。
「ユカル」
「はいっ…」
ようやくアシャに追いついてきた少年は、軽く息を切らせて答えた。
「もし、お前が『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の者を、姿形残さず始末するとしたら、どうする?」
「えっ…はい…あの…」
ユカルは緊張した顔に微かな惑いを浮かべ、手綱を握りしめて汗ばんだらしい片手を膝の辺りにすりつけた。
「俺…俺なら…」
ここ数日間、走り回っていたスォーガの草原を見回す。岩塊の陰などは子どもだましだ。もし、その姿形を、一目につかぬように始末してしまうとしたら。
ふと、何かに呼ばれたように、ユカルの眼が風に波打つ草の間をくぐり抜けた。
「俺なら『風の乙女(ベルセド)の住みか』へ落とすでしょう……では!」
はっと目を見開くユカルに、アシャは苦く唇を歪めた。
「俺もそうするだろうな。特に、その人間が有名であればあるほど」
言いながら、胸の内にじりじりと焦燥が満ちてくるのを必死に押さえつける。
「この辺りの裂け目を知っているか?」
「ええ、大体は」
ユカルは、はしこそうな焦茶の目を、草原の数カ所に走らせながら応じた。
「もう少し東へ行った所に一つ、それから、南に行った所にかなり大きいのが一つあります。でも、もっと小さな裂け目なら、少なくとも五つはあります」
「七、八つか」
ぐいとアシャは手綱を引いた。
「手当たり次第にあたってみるしかないな」
「では、手分けしましょうか?」
「いや、ひょっとすると伝令に飛んでもらわなければならないかも知れない」
自分の声が温度を下げる。
「どうも嫌な気配がある」
「『運命(リマイン)』の?」
ユカルはどきりとした顔になった。彼自身はそう感じていなかったのだろう。
「おそらくはな」
(余分な手間がかからなきゃいいが)
スォーガにはもう一つ厄介な魔物(パルーク)の噂がある。それは太古に生きていた生物で、近づく者を虜にするという。
「とにかく、近くの裂け目から当たってみよう」
「はい!」
アシャはユカルについて馬を進めた。
空は次第に、おどろおどろしい不気味な色に染まっていく。風が一際強く草原を吹き渡って、前に居たユカルがいまいましげに呟くのが聞こえた。
「ちぇっ……『風の乙女(ベルセド)』でも出そうだ」
(『風の乙女(ベルセド)』か)
ユーノもそうだな、と頭の隅で考える。
(追いかけても抱き締めても、いつもいつも俺の腕から幻のように擦り抜けていってしまう)
「!」「アシャ!」
ユカルの不安げな声を待つまでもなく、突然、前方から押し渡ってきたような風が、普通の風とは違っているのを感じた。鼻先を掠める空気、その瞬間。
(これは)
「ユカル! 伏せろ! 息を止めるんだ!」
叫んですぐに身を伏せる。そのアシャとユカルを巻き込むように、風は一気に吹きつけてきた。まとわりつくような異様な感触、まるで何十人という乙女が一斉に小声で話しかけてきたような錯覚を与える、ざわめいた風だ。息を堪えるアシャの鼻腔に、一瞬吸い込んだ甘ったるい匂いが染み付くように澱んでいる。
(物狂いする風……『風の乙女(ベルセド)』が聞いて呆れる)
息を詰めながら、心の中で舌打ちする。
確かに、この風にまともに吹かれていれば、生き物、特に人間などは、ただひたすら、その甘さを求めて裂け目に飛び込みかねないだろう。粘りつくような饐えた甘い匂いは、アシャにはなじみだ。
(そうか……スォーガの地下で蘇っていたのか、ラーシェラは)
「ぐ…」
ユカルの苦しげな呻きが、風の音の合間に漏れ聞こえる。そろそろ呼吸が苦しくなってきたのだろう。アシャの肺も熱くなってきている。助かったのは、匂いに魅了されたのか、馬も平原竜(タロ)も風に巻かれたままに呆然と竦み、動かなかったことだ。
もう限界かと思った次の一瞬後、彼らを取り巻いていた風は唐突に消え去った。
「ふ、うっ…」
跳ね起きるように体を起こし、髪を乱して息を吐く。びくりと震えた馬が、いまさら怯えて躍り上がろうとするのをなだめ、大気にもうあの匂いが漂っていないのを確かめると、平原竜(タロ)にしがみつくようにして体を震わせ堪えているユカルに声をかけた。
「もう、大丈夫だ」
「うっ、はあっ…!」
激しく息を吐いて、ユカルも身を跳ね上がらせた。さすがに平原竜(タロ)は落ち着いたものだ、主人が無事だと確認すればそれでよし、ゆっくりと大きく首を振り、名残の空気を振り払うように体を揺する。その上で、肩を上下させながら、ユカルはアシャを振り返った。
「今のが……『風の乙女(ベルセド)』…ですよね…?」
「ああ」
「もし、まともに被って、吸い込んでたら、どうなってたんです…?」
息を整えながら、ユカルは好奇心を満たした目で問いかけてくる。
「あの風にはラーシェラの花粉が混じっている。物狂いとはいかなくとも、『風の乙女(ベルセド)の住みか』へは十分引っ張り込まれているだろう」
「…自分で飛び込む…と…?」
ぞくりとユカルが身を震わせた。
「ラーシェラとは…」
「太古生物の一種だ」
乱れた髪をかきあげまとめ直しながら、アシャは応じた。
「……思考を持った植物、というところだな」
「そんなものが生き残っているんですか? 太古生物はみんな滅んだと聞いたのに」
「……」
訝しそうに首を傾げるユカルに、それ以上は答えず、馬を進める。もう少し問いたそうな顔をしながら、ユカルが付き従ってくるのに、小さく溜め息をついた。
(そうだ、生き残っているはずがないんだ)
昔語りは、人の生活を脅かす怪物達は全て滅んだと言い聞かせてきた。それは、繊細で脆い、人と呼ばれる種族を守るための心理的な方便だったが。
(滅びるはずもない、んだが)
滅びるはずがない、『運命(リマイン)』の存在同様、アシャがここにいる意味と同様。
だが、制御はできているはずだったのだ。
(ラズーン支配が日増しに弱くなる)
気配だけではなく、こうやって明らかな脅威として目の前に立ち塞がるのを実感するほどに。
(だからこそ、何としてでも『銀の王族』を集め、ラズーンに入ろうと皆…)
「?」
ふと、考えに沈むアシャの視界に、赤茶けた草や岩とは違った反射が飛び込み、本能的にそちらへ向きを変えた。再び吹き出したのは健やかで緩やかな風、揺れる草の陰に再び沈み込んでいこうとする紅の光に無言で速度を上げる。
「アシャ?」
それは小さな岩だった。気をつけなくては見落としそうな、地表に少しだけ突き出た何の変哲もない石くれ。
だが、その表面に、明らかに奇妙な光が反射している。
背後からユカルの操る平原竜(タロ)の重い蹄の音が響いてくる。気になっていた岩まで来ると、アシャは急いで馬から飛び降り、しゃがみこんで手を触れた。
「それは…!」
ユカルがぎょっとした声で叫んだ。慌てて自分も平原竜(タロ)を降り、駆け寄ってくる。アシャの手元を覗き込み息を呑むのに頷き返す。
「…」
指を濡らしたのは血だった。
それほど前に流されたものではない。
乾き切っていない……乾き切らぬほど大量に流されたのか?
「アシャ、こっちにも!」
周囲を素早く確認したユカルが、点々と続く血の跡を指差した。
辺りの草は激しく踏みにじられている。犠牲者を引きずっていったと見えなくもない。その先に、小規模ながらも底深い『風の乙女(ベルセド)の住みか』が口を開けている。
「…どうやらここらしいな」
低く呟いて裂け目の中を覗き込む。ただでさえ鈍い光は、とてもではないが、その奥まで照らしてくれはしない。
「クェアーッ!!」
唐突に猛々しい叫びが響いて、アシャとユカルは振り向いた。
曇天に白々と、クフィラの勇壮な姿が浮かび上がっている。
「サマル!」
アシャの厳しい声を叱咤と感じたのか、クフィラは渋々と言った様子で舞い降りてきた。差し出した左腕に大人しく乗ったものの、いつものようにアシャの肩へすり寄ろうとはしない。
「これ…星の剣士(ニスフェル)のクフィラだ」
「クェッ!」
これ、と物扱いされたのに苛立つように、サマルカンドはぷいと首を背けた。だが、問い正すようなアシャの冷ややかな目にあうと、首を竦め、上目遣いに機嫌を伺うような様子を見せた。ユーノの側に居なかったのを恥じるように見える。
「…ん? …そうか、連絡があったのか」
どうして肝心の時に、サマルカンドがいなかったのかはすぐわかった。足首に通信筒がついている。ラズーンの方で呼ばれたのだろう。アシャに近い呼びかけをするもの、おそらくは『太皇(スーグ)』あたりか。
メッセージを確かめたアシャは思わず眉を寄せる。
『急ぎ帰還せよ。ラズーン存亡の危機、来たれり』
顔をしかめたまま、アシャは通信筒をサマルカンドの足首に戻した。
「よし、サマル。俺の馬が野戦部隊(シーガリオン)に戻ったら、すぐにラズーンへ飛んでくれ」
「クェッ!」
ふわりと、質量を感じさせない軽さで、クフィラはアシャの左腕から舞い上がった。それを見送ることもなく、アシャは馬の荷を下ろし、丈夫な縄紐を取り出した。『風の乙女(ベルセド)の住みか』の端へ固定し、強度を試す。
「あ、アシャ!」
「ん?」
「この中に…降りるんですか?」
「ああ」
「だって……ここから『風の乙女(ベルセド)』が出て来たんじゃないですか?」
「そうだ」
「じゃあ、また出てくることも」
「あり得るな」
淡々と答えながら、アシャは持ち物を確かめた。
「もし、そんなことになったら、どうするんですか?」
切り立った崖のような裂け目の壁を伝い降りる最中に、あの風に巻き込まれてしまえば、一瞬意識を失って落下してしまうかもしれない、どこが底ともわからない千丈の谷の中へ。
だが。
「下にユーノが居る」
その場にそぐわぬ笑みだったのだろう、見返したユカルが顔を引き攣らせる。
「それだけだ」
そして、それ以外のどんな理由が必要だろう、今ここでアシャが降りていく意味に。
(お前は俺の主)
ふいに胸に打ち寄せた激しい感情に、思わず目を伏せる。
(お前が居るところこそ、俺の居るべき場所)
昔語られた恋物語だっただろうか、それとも恋人を口説く詩歌だっただろうか。
脳裏を過ったのは、ユーノがいない旅の日々だ。レスファートの落ち込みも、イルファのことさらな上機嫌も引っ掛かりはする、だがそれより強く傷む想い、繰り返し繰り返し見やる、天幕(カサン)のいつもの場所に眠っていない存在を、どれほど自分が望んでいたのか、今しみじみとわかる。
「でも…っ」
軽く後じさりしかけるユカルに苦笑した。
「怖いのか?」
アシャは怖くない、むしろ胸が高鳴っている、ようやく再会できるのだ。ようやくもう一度、ユーノの側に自分を置けるのだ。唇が微笑みに綻ぶのがわかった。
(どこまでも、俺はお前を追う)
いやむしろ、ユーノを追えるのが自分だけだと証明したい、今。
「怖いなら来なくていい」
そっけなく言い放ったアシャに、ユカルの強張っていた顔が見る見る赤くなった。アシャの笑みを嘲笑ととったのか、苛立った表情で、
「俺も行きます!」
「…」
「隊長に怒られる」
訝しく振り向いたアシャの目を真っ向から見据えて、険しい顔で唸る。
「あなた一人を行かせる気はない…っ」
その瞳の激しさにアシャは微かに息を呑む。
(こいつ、ひょっとして)
同じ激情をアシャは自分の中に飼っている、ユーノを誰にも渡さないという所有欲を。
「…なるほど」
応じたアシャの声の低さに、ユカルもまた気づいたのだろう、ぎっと歯を食いしばる音が響いた。
若さと情熱、それに勝る何をアシャはユーノに示せるのか。
(だが、今はそれに構っている場合じゃない)
ラーシェラもまた手強い敵だ。
「よし、来い」
「はいっ!」
縄を伝って地の底へ降り始めるアシャに、ためらうことなくユカルが続く。
「クェアアアーッ!」
無事を祈る、そう言いたげなサマルカンドの声が、鋭く天を衝いていった。
だが痛みはあまり感じない。激しい動きをするとそれなりに痛むが、普通の動作には支障がない。頭のどこかと同じように、そこだけ感覚が麻痺しているようだ。血がこれほど流れているのに痛みがないというのは妙な感覚だった。
(一体、ボクはどうして怪我をしたんだろう)
ぼんやりと岩肌に身を寄せもたれかかりながら、ユーノは考える。
(どうして、裂け目から落ちたんだろう)
繰り返す問いは、軽い頭痛とともに、一つの問いに集約されていく。
『ボクは誰なんだろう』
仄かな明るさを頼りに、さきほど、手に掬った水鏡に自分を映してみた。
焦げ茶色の髪は肩のあたりで跳ね返っている。瞳は濃くて暗い色、何色かはよくわからない。顔立ちはどちらかというと意地っ張りの鋭い顔、削いだような頬の線ときつく食いしばったような唇が印象的で、正直美形にはほど遠い。
だが、その鏡像がもたらしたのは虚無だけだった。何も思い出さないし、何の手がかりも与えてくれない。
額の布が僅かにずり落ち、手を上げて結び直そうとし、絡み付く髪がうっとうしくなる。
(邪魔だな)
左手で剣を掴んだ。右手で掴んだ髪をざくりと切る。少しは手当がしやすくなる。そのまま、ざくりざくりと髪を切り落とし、水に流す。短くなった髪の毛が、それ以上上手く掴めず、剣でも切れなくなると、溜め息をついて岩にもたれた。
(疲れた)
重い疲労感、喉の渇きはあるが、水を汲むのも億劫だ。溜め息をつき、目を閉じ………そしてユーノは、己が何者かもわからぬまま、一時の眠りに落ちていった。
「どう…っ……どう」
アシャは、馬に軽く声をかけて止まらせた。汗に濡れ、額にへばりついた髪をかきあげる。
かなり走り、既に野戦部隊(シーガリオン)が見えない位置まで来ているというのに、ユーノの気配一つ、影一つもみつからない。あちこちに点在している赤茶けた岩塊の後ろを、一つ一つ探るというわけにもいかない。厳しく唇を引き締めたアシャは、背後に近づいた物音に振り向いて問う。
「ユカル」
「はいっ…」
ようやくアシャに追いついてきた少年は、軽く息を切らせて答えた。
「もし、お前が『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の者を、姿形残さず始末するとしたら、どうする?」
「えっ…はい…あの…」
ユカルは緊張した顔に微かな惑いを浮かべ、手綱を握りしめて汗ばんだらしい片手を膝の辺りにすりつけた。
「俺…俺なら…」
ここ数日間、走り回っていたスォーガの草原を見回す。岩塊の陰などは子どもだましだ。もし、その姿形を、一目につかぬように始末してしまうとしたら。
ふと、何かに呼ばれたように、ユカルの眼が風に波打つ草の間をくぐり抜けた。
「俺なら『風の乙女(ベルセド)の住みか』へ落とすでしょう……では!」
はっと目を見開くユカルに、アシャは苦く唇を歪めた。
「俺もそうするだろうな。特に、その人間が有名であればあるほど」
言いながら、胸の内にじりじりと焦燥が満ちてくるのを必死に押さえつける。
「この辺りの裂け目を知っているか?」
「ええ、大体は」
ユカルは、はしこそうな焦茶の目を、草原の数カ所に走らせながら応じた。
「もう少し東へ行った所に一つ、それから、南に行った所にかなり大きいのが一つあります。でも、もっと小さな裂け目なら、少なくとも五つはあります」
「七、八つか」
ぐいとアシャは手綱を引いた。
「手当たり次第にあたってみるしかないな」
「では、手分けしましょうか?」
「いや、ひょっとすると伝令に飛んでもらわなければならないかも知れない」
自分の声が温度を下げる。
「どうも嫌な気配がある」
「『運命(リマイン)』の?」
ユカルはどきりとした顔になった。彼自身はそう感じていなかったのだろう。
「おそらくはな」
(余分な手間がかからなきゃいいが)
スォーガにはもう一つ厄介な魔物(パルーク)の噂がある。それは太古に生きていた生物で、近づく者を虜にするという。
「とにかく、近くの裂け目から当たってみよう」
「はい!」
アシャはユカルについて馬を進めた。
空は次第に、おどろおどろしい不気味な色に染まっていく。風が一際強く草原を吹き渡って、前に居たユカルがいまいましげに呟くのが聞こえた。
「ちぇっ……『風の乙女(ベルセド)』でも出そうだ」
(『風の乙女(ベルセド)』か)
ユーノもそうだな、と頭の隅で考える。
(追いかけても抱き締めても、いつもいつも俺の腕から幻のように擦り抜けていってしまう)
「!」「アシャ!」
ユカルの不安げな声を待つまでもなく、突然、前方から押し渡ってきたような風が、普通の風とは違っているのを感じた。鼻先を掠める空気、その瞬間。
(これは)
「ユカル! 伏せろ! 息を止めるんだ!」
叫んですぐに身を伏せる。そのアシャとユカルを巻き込むように、風は一気に吹きつけてきた。まとわりつくような異様な感触、まるで何十人という乙女が一斉に小声で話しかけてきたような錯覚を与える、ざわめいた風だ。息を堪えるアシャの鼻腔に、一瞬吸い込んだ甘ったるい匂いが染み付くように澱んでいる。
(物狂いする風……『風の乙女(ベルセド)』が聞いて呆れる)
息を詰めながら、心の中で舌打ちする。
確かに、この風にまともに吹かれていれば、生き物、特に人間などは、ただひたすら、その甘さを求めて裂け目に飛び込みかねないだろう。粘りつくような饐えた甘い匂いは、アシャにはなじみだ。
(そうか……スォーガの地下で蘇っていたのか、ラーシェラは)
「ぐ…」
ユカルの苦しげな呻きが、風の音の合間に漏れ聞こえる。そろそろ呼吸が苦しくなってきたのだろう。アシャの肺も熱くなってきている。助かったのは、匂いに魅了されたのか、馬も平原竜(タロ)も風に巻かれたままに呆然と竦み、動かなかったことだ。
もう限界かと思った次の一瞬後、彼らを取り巻いていた風は唐突に消え去った。
「ふ、うっ…」
跳ね起きるように体を起こし、髪を乱して息を吐く。びくりと震えた馬が、いまさら怯えて躍り上がろうとするのをなだめ、大気にもうあの匂いが漂っていないのを確かめると、平原竜(タロ)にしがみつくようにして体を震わせ堪えているユカルに声をかけた。
「もう、大丈夫だ」
「うっ、はあっ…!」
激しく息を吐いて、ユカルも身を跳ね上がらせた。さすがに平原竜(タロ)は落ち着いたものだ、主人が無事だと確認すればそれでよし、ゆっくりと大きく首を振り、名残の空気を振り払うように体を揺する。その上で、肩を上下させながら、ユカルはアシャを振り返った。
「今のが……『風の乙女(ベルセド)』…ですよね…?」
「ああ」
「もし、まともに被って、吸い込んでたら、どうなってたんです…?」
息を整えながら、ユカルは好奇心を満たした目で問いかけてくる。
「あの風にはラーシェラの花粉が混じっている。物狂いとはいかなくとも、『風の乙女(ベルセド)の住みか』へは十分引っ張り込まれているだろう」
「…自分で飛び込む…と…?」
ぞくりとユカルが身を震わせた。
「ラーシェラとは…」
「太古生物の一種だ」
乱れた髪をかきあげまとめ直しながら、アシャは応じた。
「……思考を持った植物、というところだな」
「そんなものが生き残っているんですか? 太古生物はみんな滅んだと聞いたのに」
「……」
訝しそうに首を傾げるユカルに、それ以上は答えず、馬を進める。もう少し問いたそうな顔をしながら、ユカルが付き従ってくるのに、小さく溜め息をついた。
(そうだ、生き残っているはずがないんだ)
昔語りは、人の生活を脅かす怪物達は全て滅んだと言い聞かせてきた。それは、繊細で脆い、人と呼ばれる種族を守るための心理的な方便だったが。
(滅びるはずもない、んだが)
滅びるはずがない、『運命(リマイン)』の存在同様、アシャがここにいる意味と同様。
だが、制御はできているはずだったのだ。
(ラズーン支配が日増しに弱くなる)
気配だけではなく、こうやって明らかな脅威として目の前に立ち塞がるのを実感するほどに。
(だからこそ、何としてでも『銀の王族』を集め、ラズーンに入ろうと皆…)
「?」
ふと、考えに沈むアシャの視界に、赤茶けた草や岩とは違った反射が飛び込み、本能的にそちらへ向きを変えた。再び吹き出したのは健やかで緩やかな風、揺れる草の陰に再び沈み込んでいこうとする紅の光に無言で速度を上げる。
「アシャ?」
それは小さな岩だった。気をつけなくては見落としそうな、地表に少しだけ突き出た何の変哲もない石くれ。
だが、その表面に、明らかに奇妙な光が反射している。
背後からユカルの操る平原竜(タロ)の重い蹄の音が響いてくる。気になっていた岩まで来ると、アシャは急いで馬から飛び降り、しゃがみこんで手を触れた。
「それは…!」
ユカルがぎょっとした声で叫んだ。慌てて自分も平原竜(タロ)を降り、駆け寄ってくる。アシャの手元を覗き込み息を呑むのに頷き返す。
「…」
指を濡らしたのは血だった。
それほど前に流されたものではない。
乾き切っていない……乾き切らぬほど大量に流されたのか?
「アシャ、こっちにも!」
周囲を素早く確認したユカルが、点々と続く血の跡を指差した。
辺りの草は激しく踏みにじられている。犠牲者を引きずっていったと見えなくもない。その先に、小規模ながらも底深い『風の乙女(ベルセド)の住みか』が口を開けている。
「…どうやらここらしいな」
低く呟いて裂け目の中を覗き込む。ただでさえ鈍い光は、とてもではないが、その奥まで照らしてくれはしない。
「クェアーッ!!」
唐突に猛々しい叫びが響いて、アシャとユカルは振り向いた。
曇天に白々と、クフィラの勇壮な姿が浮かび上がっている。
「サマル!」
アシャの厳しい声を叱咤と感じたのか、クフィラは渋々と言った様子で舞い降りてきた。差し出した左腕に大人しく乗ったものの、いつものようにアシャの肩へすり寄ろうとはしない。
「これ…星の剣士(ニスフェル)のクフィラだ」
「クェッ!」
これ、と物扱いされたのに苛立つように、サマルカンドはぷいと首を背けた。だが、問い正すようなアシャの冷ややかな目にあうと、首を竦め、上目遣いに機嫌を伺うような様子を見せた。ユーノの側に居なかったのを恥じるように見える。
「…ん? …そうか、連絡があったのか」
どうして肝心の時に、サマルカンドがいなかったのかはすぐわかった。足首に通信筒がついている。ラズーンの方で呼ばれたのだろう。アシャに近い呼びかけをするもの、おそらくは『太皇(スーグ)』あたりか。
メッセージを確かめたアシャは思わず眉を寄せる。
『急ぎ帰還せよ。ラズーン存亡の危機、来たれり』
顔をしかめたまま、アシャは通信筒をサマルカンドの足首に戻した。
「よし、サマル。俺の馬が野戦部隊(シーガリオン)に戻ったら、すぐにラズーンへ飛んでくれ」
「クェッ!」
ふわりと、質量を感じさせない軽さで、クフィラはアシャの左腕から舞い上がった。それを見送ることもなく、アシャは馬の荷を下ろし、丈夫な縄紐を取り出した。『風の乙女(ベルセド)の住みか』の端へ固定し、強度を試す。
「あ、アシャ!」
「ん?」
「この中に…降りるんですか?」
「ああ」
「だって……ここから『風の乙女(ベルセド)』が出て来たんじゃないですか?」
「そうだ」
「じゃあ、また出てくることも」
「あり得るな」
淡々と答えながら、アシャは持ち物を確かめた。
「もし、そんなことになったら、どうするんですか?」
切り立った崖のような裂け目の壁を伝い降りる最中に、あの風に巻き込まれてしまえば、一瞬意識を失って落下してしまうかもしれない、どこが底ともわからない千丈の谷の中へ。
だが。
「下にユーノが居る」
その場にそぐわぬ笑みだったのだろう、見返したユカルが顔を引き攣らせる。
「それだけだ」
そして、それ以外のどんな理由が必要だろう、今ここでアシャが降りていく意味に。
(お前は俺の主)
ふいに胸に打ち寄せた激しい感情に、思わず目を伏せる。
(お前が居るところこそ、俺の居るべき場所)
昔語られた恋物語だっただろうか、それとも恋人を口説く詩歌だっただろうか。
脳裏を過ったのは、ユーノがいない旅の日々だ。レスファートの落ち込みも、イルファのことさらな上機嫌も引っ掛かりはする、だがそれより強く傷む想い、繰り返し繰り返し見やる、天幕(カサン)のいつもの場所に眠っていない存在を、どれほど自分が望んでいたのか、今しみじみとわかる。
「でも…っ」
軽く後じさりしかけるユカルに苦笑した。
「怖いのか?」
アシャは怖くない、むしろ胸が高鳴っている、ようやく再会できるのだ。ようやくもう一度、ユーノの側に自分を置けるのだ。唇が微笑みに綻ぶのがわかった。
(どこまでも、俺はお前を追う)
いやむしろ、ユーノを追えるのが自分だけだと証明したい、今。
「怖いなら来なくていい」
そっけなく言い放ったアシャに、ユカルの強張っていた顔が見る見る赤くなった。アシャの笑みを嘲笑ととったのか、苛立った表情で、
「俺も行きます!」
「…」
「隊長に怒られる」
訝しく振り向いたアシャの目を真っ向から見据えて、険しい顔で唸る。
「あなた一人を行かせる気はない…っ」
その瞳の激しさにアシャは微かに息を呑む。
(こいつ、ひょっとして)
同じ激情をアシャは自分の中に飼っている、ユーノを誰にも渡さないという所有欲を。
「…なるほど」
応じたアシャの声の低さに、ユカルもまた気づいたのだろう、ぎっと歯を食いしばる音が響いた。
若さと情熱、それに勝る何をアシャはユーノに示せるのか。
(だが、今はそれに構っている場合じゃない)
ラーシェラもまた手強い敵だ。
「よし、来い」
「はいっ!」
縄を伝って地の底へ降り始めるアシャに、ためらうことなくユカルが続く。
「クェアアアーッ!」
無事を祈る、そう言いたげなサマルカンドの声が、鋭く天を衝いていった。
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