『ラズーン』第三部

segakiyui

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5.『風の乙女(ベルセド)』(3)

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 アシャ達を襲った『風の乙女(ベルセド)』は、裂け目に居たユーノをまともに包み込んだ。
「う…」
 甘い匂いにむせ、呼吸ができなくなって、ユーノは目を覚ました。額と右肩の痛みは依然として感じないが、じくじくと濡れたままの包帯や長衣が出血が続いていると教えている。
「あ、ふ…」
 思い切り息を吸い込んだユーノは、次の瞬間、ぐらりとくる目眩を感じた。頭の芯が白く色を失い、空洞になった部分に、その匂いが巧みに滑り込んでくる。
(何の…匂い…)
 岩に体を委ねたままぼんやりと考える。ただでさえ、奇妙に麻痺したままの感情と思考が、匂いにより寸断されていく。
 いらっしゃい。
 匂いはユーノに囁いた。有無を言わせない、けれど力の限り抗えば抜け出せる、微妙な強制力。
 ユーノはそれに抗おうとは考えなかった。
 ぴくっと腕が動き、掌がのろのろと岩肌を押す。危なっかしく揺れる体を支える。両足がパシャンと軽い音をたてて、水の中に突っ込まれ、力が込められる。全て他人事のように、感覚が遠い。岩肌のざらざらしているはずの手触りも、両足を包んだ水の冷感も、力を込めた時の体の痛みさえも、恐ろしく鈍い。
 こっちよ。
 声が呼ぶ。
 右手をぎちりと突っ張って、思わず体を強張らせた。鮮烈な痛みが走り、霧がかった頭の中を揺り起こす。
「あ…?」
 少し眉をしかめた。
 心のどこかで警告の鐘が打ち鳴らされている。切羽詰まった祈りのような、掠れたか細い響き。
 消えそうなそれに耳を傾けようとしたユーノは、ごつっ、と水流の中に突き出していた岩に躓いた。
 バシャン!!
「くっ」
 まともに水の中へ倒れ込み、慌てて体を起こす。窒息しまいとした本能的な動きだったが、それが曇ったユーノの心に微かに光を差し込ませる。
(まえに……こんなことがあった……)
 水の流れの中だった。
 辺りは夜の闇だった。
 哀しくて哀しくて、ただ泣いていた。
 そのユーノに差し伸べられた手があった。
 暖かく抱き締めてくれるその手に、すがりついた、すがりついて……なのに、哀しかった。
 これは夢なのだと、何度も言い聞かせなくてはならない、そうわかっていた。
(痛い…)
 ユーノは胸の奥を貫いた想いに顔を歪めた。
 なぜかはわからないけど、この記憶は心を息苦しく締め付ける。
 ユーノの怯みに、匂いは巧妙に忍び込む。
 おやめなさい。こっちよ。こっちにくるの。
(こっち…?)
 水粒を滴らせながら立ち上がった。匂いが導くように辺りを取り巻き、ユーノを誘い込む。
 一歩……一歩……。
 夢の中のような危うい歩みを続けた。
 ぼたん。紅まじりの水滴が緋色の花のように岩の上に砕ける。
 声が呼び続ける。
 こっちよ。こっちに来るの。哀しいんでしょ。痛いんでしょ。つらいんでしょ。慰めてあげるわよ。
 岩の行路をふどれほど歩いたのか、水流が少し先の岩組みの中へ吸い込まれる辺りで、ユーノは歩みを止めた。
 だめだ。行くな。お前は帰らなくちゃならない。
 声が響く。
(どこへ?)
 決まっている。お前を待ってくれている人の所だ。
 内側の、どこかから。
 だが。
(誰がボクを待っているって? ……何が……ボクを?)
 ふらりとユーノは岩によりかかった。額から生暖かいものが流れてくるのを感じる。
(出血…?)
 額に手を当てようとして、よろめいた。崩れかけ、岩角を曲がるようにたたらを踏み、かろうじて持ちこたえる、と、そのとたん、匂いは甘く強く、ユーノの全神経を支配した。
(あ…あ)
 そこは、さながら淡く月光を浴びた、妖精の寝所とも見えた。
 小部屋ほどはある岩屋の中一面、薄い黄色のフワフワした塊が微かに光を放って転がっている。塊の一つ一つは人のこぶし程度の大きさで、柔らかそうな和毛は生まれたばかりの鳥の雛を思わせた。
 それが何なのかはユーノにははっきりわからなかった。が、ただ、ユーノを優しく受け止めてくれるだろうということはわかった。その柔らかそうな絨毯に向かって、自分の体が倒れ込んでいくのを、ユーノは止めなかった。
 ぼす…っ。
 衝撃はすぐに和毛の塊に吸収された。まるで、細かな粒子が風に煽られて浮き上がるように、幾つか飛び上がった塊がフワッ……フワッ……とユーノの体の上に降りてくる。と、パン、と微かな音をたてて黄金色の粒を吐いて砕け、あのどこか、妖しい甘い匂いが充満した。
「ん…」
 頭の隅、彼方の遠いところから強烈な眠気が襲ってきて、ユーノは再び眠り込んだ。

「……」
 ユカルは声もかけられないまま、黙々とアシャの後ろについていっていた。
 先ほど岩の上にどうやら血の染みらしい黒々とした汚れを見て取ってから、アシャは寡黙になり、ユカルに足下と進路上の注意をする以外は口をきかなくなっていた。整った顔立ちだけに表情は厳しく、こんな薄闇でもよく見えているかのように先を急ぐ。
 足下を流れる水は冷たくユカルの脚を凍えさせた。きっとラズーンの雪解け水が、遥かな距離を旅して来て、この裂け目の下を流れているのだろう。
「ふ…う」
 流れる汗を拭おうとして岩角に手をつきぎょっとする。掌にぬるりとした手触り、確認して手についた薄赤いものに気づく。
「アシャ…」
 声をかけて、ユカルは相手が既に岩角を曲がってしまっているのに気づいた。慌てて後を追い、アシャが淡光を放っている岩屋の前で立ちすくんでいるのに出くわす。
「どうしたんです…」
 続くことばをユカルは呑み込んだ。
 岩屋のほぼ正面に、妙に毒々しい緑の木があった。
 しかし、それは樹、と呼んでいいのだろうか。
 ほぼ人間の胴回りほどの緑の蔓が十数本、お互いに絡み合って岩屋の天井へと伸び上がり、そこから天井を這って今度は岩屋を覆うように垂れ下がっている。
 その太い蔓から人間の腕程度に細い蔓が、何十本となくゆらゆらと空中に漂っていた。その蔓という蔓に、ラーシェラの結実を示す、豊かに実ったクリーム色のふわふわした塊がついている。塊は、岩屋の床にも絨毯と見まごうほどに転がっていた。岩屋の隅の方に、細い縦長の裂け目がある。そこから微風が流れ、塊の和毛を揺らせている。
「ラーシェラ…」
 ユカルのことばに、アシャは重く頷いた。その目は、正面の緑の蔓の塊に、食い入るように注がれている。
「…ユーノ…」
 蔓には、まるで抱かれるように細身の体がもたれかかっていた。右肩と額の当たりに紅の花が開き、緑の蔓を背景に妙に鮮やかだ。短くなった髪が濡れそぼって張り付き、まるで十四、五の少年のように見える。
 と、その目がゆっくりと見開かれてこちらを見た。深くどこか虚ろな黒の瞳だ。
「星の剣士(ニスフェル)!」
 ユカルが喜びの声を上げてラーシェラの実を踏みしだき、ユーノの側へ駆け寄ろうとするのを、アシャは厳しい表情で止めた。
「待て」
「どうしてですか?」
「ユーノの意識は俺達にない」
「だって」
 ユカルはわけがわからぬまま、アシャとユーノを見比べた。
「こっちを見ているのに…」
「いや…」
 アシャが苦い顔になった。
「ユーノが見ているのは俺達じゃない……あいつの心の中の誰か、だ」
「……」
「ラーシェラは引き寄せた生物のもっとも強い感情を増幅させて、その身の動けない退屈を紛らせるんだ。普通のラーシェラのように地上に生えていたなら、獲物は次々見つかるから一つの獲物に固執することはないだろうが……これほどの地下へ、生きたまま獲物を引き寄せるのは容易じゃないからな。ちょっとやそっとではユーノを離さないだろうし、まずくすれば俺達も巻き込まれる」
 アシャのことばを聞いたように、ラーシェラのしなやかな蔓が揺れ動き、幾つかの塊を落とした。ユカルに踏まれても割れなかったものもあるのに、今落ちた実はポン、ポンと次々に弾け、黄金色の粉を吹き出す。
「ユカル! 吸い込むな!」
 アシャの警告に、指示された通りに鼻と口を布で覆い、ぐっと歯を噛み締めた。同じようにしてアシャが息を止め、舞う金粉がおさまるのを待っている。と、それまでぐったりと緑の蔓に抱かれていたユーノが、ふいにのろのろと立ち上がり、こちらへ歩み出してきた。まるで誘うように緩やかに手を差し伸べてくる。
「なに…」
 くぐもった声でユカルが問うと、アシャは複雑な表情になった。
「俺達を誘い込もうと言うんだろう。ユーノが心の中で描いている誰かと、俺達の姿を重ね合わせるようにラーシェラが仕組んでいるんだ」
「じゃあ、星の剣士(ニスフェル)が呼んでいるのは、俺達じゃないんですか?」
「おそらくは、な」
 アシャは顔を歪めた。
(誰を探している…誰を求めているんだ、ユーノ)
 苛立たしい想いが湧き上がってくるのを押さえ込み、アシャは踊りのように静かに腕を舞わせるユーノを見守った。
 甘い匂いが満ちる岩屋の中、陽炎じみた儚い姿が緩やかに漂っている。長衣の裾が乱れるのを僅かな脚さばきで払い、片腕を回し、ユーノは空中に紋様を描いた。片手を天井へ差し伸べる。もう片手で自分の体を抱く。顔を俯け目を伏せる。切なげにすぼめた唇が仄かに開き、柔らかい吐息を押し出す。
 脚が止まった。
 まるで誰かに出会ったようにユーノはたじろぎ、一点を見つめ、腕を解いた。少し笑っておずおずと両手をそちらへ伸ばす。恥ずかしげな、ためらいがちな求愛の動作だった。
『愛してもいいですか』
「…」
 その動作に含まれた問いかけを、アシャは読み取る。
『愛してもいいですか。好きになってもいいですか。いいと言って下さいますか』
 切なげな視線。震える吐息。
(けれど、俺じゃない)
 アシャが欲して止まぬものは、今別の誰かに向けられている。その一途さ素直さに胸の奥がじくじくする。
 ユーノの髪から水滴が光りながら零れ落ちた。瞳が甘えるように優しい光を帯びる、と、次の瞬間、ユーノの顔が強張り、顔色が青ざめた。差し伸べた手を凍り付かせる。
(…拒まれた!)
 まるでその傷みを自分が感じたように、アシャは唇を引き締めた。
 ユーノの求愛は受け入れられなかった。両手が下がる。涙がこぼれ出すかと思った目がゆっくりと細められた。頑なに引き締められていた唇がそっと……淡く笑う。
 わかっていたよ、とその姿は呟いている。
『わかっていた。この想いが届かないことぐらい』
(ユーノ)
『誰の罪でもない。あなたが悪いのではない。ただ…私があまりにも私だっただけのこと……だけど……わかっていたけど…』
(ユーノ…)
 微笑したまま、眉をひそめて自分の胸を抱き締めるユーノに、アシャは息苦しくなる。
(それほどの想いを…)
 誰が拒んだんだ?
(知りたい、が、知りたくない)
 その男はどれほど長くユーノの側に居たのだろう。アシャよりも長く、アシャよりも深く、ユーノの心に触れていたのだろうか。きり、と小さく奥歯が鳴る。
『大丈夫』
 静かにユーノの唇が動いた。
『わかっていたから……大丈夫』
 だが、それでも、わずかに上げた瞳の黒は、想いを込めて相手を追っている、追っている、追っている…。
「アシャ…」
 ユカルの呼びかけに、我に返った。
「あれは一体何をしてるんですか」
「…ユーノが感じている一番強い感情の表現だ。ある人間を好きになった。気持ちを伝えても拒まれた。なのにそいつを諦め切れない」
 自分の声が硬く単調なものになっているのを感じた。
(誰なんだ)
 荒々しい声が胸で弾ける。
(ユーノの想いを拒んだのは誰なんだ。あいつに、あんな想いをさせている男とは、一体どんな奴なんだ)
 旅の最中にユーノが見せたためらいが、次々とアシャの脳裏に浮かんでくる。
 一番誰よりも幸せになってほしい人間。
(俺には絶対わからないと言っていた)
 そいつならば、ユーノはその心を、その身を委ねるのだろうか。アシャの時のようにためらうことなく、腕の中へ身を投げるのだろうか。
「…っつ」
 じり、と焼け付く胸に顔をしかめる。
(嫉妬か)
 気づいて苦笑する。
(まったく、ざまあない、これじゃそこらのガキと同じだ)
 ふ、っと息を吐いた。心を統制し鎮めにかかる。自分を嘲笑いながら言い聞かせる、なるほどえらく切羽詰まっているが、そういうことは死地を脱出してからのんびりやることだ。
(よし)
 腰の辺りを探って、小さなカプセルを三個取り出す。
「ユカル」
 振り向く相手に一つ差し出す。
「これを含んでいろ。『風の乙女(ベルセド)』が出たら軽く噛むんだ。中から空気が溢れ出て、口さえ閉じていれば、しばらくは息がもつ」
「はい…」
 ユカルは不思議そうに酸素発生剤を受け取った。
 残り二つを片方の掌に転がし、傷みを抱え込むように体を揺らせているユーノを見やる。自分で切ったのかばらばらに乱れた髪、苦痛を堪える顔が痛々しい。どんなに大切な想いかは知らないが、ラーシェラのお楽しみを満たすために差し出し続ける必要もないだろう。得られる資格があるのは。
(全テヲ、ヨコセ、コノ俺ニ)
 喉の奥で吐きそうになった台詞を噛み殺す。
「俺はラーシェラの手に乗ってみる」
「え?」
「遅かれ早かれ『風の乙女(ベルセド)』が出るだろう。あの中にいる限りユーノは幻覚から逃れられない。かといって、急に引っ張り出すと、心が夢の中へ置き去りにされてしまう」
 物狂いの風とはよく言ったものだ。
「じゃ、じゃあ、どうするんですか」
「一か八か、ラーシェラの手に乗って、ユーノの夢の中へ入り込んでやろうと思う。上手く行けば、あいつを夢から連れ出せる」
「でも…」
 困惑した顔で眉を寄せるユカルに、少し笑った。
「心配だろうが、先に降りて来たところに戻って、足場を確保しておいてくれ。必ず助け出していく」
「…わかりました」
 さすがに太古生物では分が悪すぎると思ったのだろう、ユカルは考え込みながらも頷いた。
「先に行って、お待ちします、アシャ・ラズーン」
「いい子だ」
「…俺は子どもじゃありません」
 ちらりと挑発的な視線を投げ、ユカルは降りて来た裂け目の方へ戻っていった。
 見送ってアシャは再び岩屋に向き直った。カプセルを二つとも口に含む。噛みはしない。含んだまま、そっとふわふわしたクリーム色の絨毯の上、和毛の塊を押しのけるように足を降ろした。僅かに現れた岩肌にざりと奇妙な感触がある。和毛の塊の下、割れ砕けた薄白い欠片はよく見ると点々と散っている。
(犠牲者は数知れず、か)
 ざわり、とラーシェラが揺れる。アシャの意図に気づいたようだ。
 だが、逆に挑んでくるように、蔓を揺らめかせてなお幾つかの実を落とし、黄金色の粉を撒き散らした。
 また刺激されたのだろうか。ふ、とユーノがアシャを認めたように、再び求愛の動作を繰り返す。
 手を差し伸べる、優しく微笑む。
 踊りを申し込まれたように、アシャも静かに相手の動作に答えを返した。
 手を差し伸べる、笑みかける、だがそこで止める。嫌いじゃないよ、とも、好きだ、ともとれる曖昧な動作は意識的なものだ。
 不審そうに眉を寄せたユーノが、一歩彼に近づいてきた。どうやらうまく夢の中へ入り込めたらしい。
 ユーノは片手を差し伸べて小首を傾げる。その手をとって、アシャはユーノを引き寄せる。
 一瞬怯えたような表情がぼんやりとしていたユーノの面を覆った。びくりと体を震わせ、身を引こうとするのを、アシャはそのまま手を放してやる。
 ラーシェラの夢の中に居る人間に対して無理強いは禁物だ、特にあまり接触が確かでない場合は。強く拒まれたが最後、永久に夢から連れ出せなくなってしまう。
「……」
 ぎりぎりと胸を締めつけてくる焦燥感に耐え、アシャはわずかに遠ざかってしまったユーノをじっと待った。汗が滲む。このまま、この娘が自分の手に戻らなかったらどうする、そんな迷いを必死に振り切る。
(今は俺を消す)
 自我をなくし、ユーノの夢に同化することが先決、アシャの存在はただの記号でいい。
 数歩急ぎ足に離れたユーノは、立ち止まり、そっとアシャを振り返った。
「…?」
 おどおどした目がアシャを見つめる。
「……」
 応えて、アシャは両手をそっと開いた。
(ここへおいで)
 戻れと訴えたいのは山々だが、初めて会った娘のように優しく誘いかけていく。
(ここは安全だから)
 ユーノはためらい、戸惑った顔で首を傾げつつ竦み、次の瞬間、まるで崖から飛ぶような勢いで、一足飛びにアシャの腕の中に飛び込んできた。ほっと小さく息を吐いて、アシャの胸に身を寄せる。
(こんなに、冷えてる)
 小さな体は凍えていた。いつぞやの、なかなか命が戻らなかった夜を思い出して胸苦しくなる。近くで見た横顔には血の跡がある。またどこかを怪我しているのだ、見えている以上に。
(また、俺の知らないところで)
 胸の底に広がった苦さは悔しさと苦しさで濃くなっていく。
(俺に一言も助けを求めないで)
 それほどアシャは、ユーノにとって意味がないものなのか。
 静かにユーノの体に腕を回す。
「!」
 どきりとしたようにユーノが身を起こし、離れようとする。対するアシャはそれを止めない。飛び離れかけた相手に乱れそうな呼吸を堪え、再び静かに腕を開く。
 逃げるな、では戻ってこない。囁くべきことばは一つ。
(ここだ)
「…………」
 ユーノは逃げなかった。自分の体から離れた腕を見つめ、そっと指先で触れてアシャを見上げる。頷いて、もう一度、ユーノを抱く。今度は相手は身動きせず、じっとアシャの胸に体を休ませている。
 見下ろして気づく。右肩から強烈な血の臭いがする。夢の中だから普通に動けていても、かなりの深手なのかもしれない。早く手当をしてやりたい、早く。
(落ち着け)
「…ふ…」
 カプセルを吐き出してしまわないように、静かに息を吐いた。
(まず一段落)
 続いてもう一度、今度は腕に力を込める。ユーノの反応を見ながら、怯えさせないように、少しずつ。
 それはまだるっこしい過程だった。
 ほんの少しずつユーノを抱き締めていきながら、決してユーノの夢を壊さないようにしなくてはならない。ユーノの夢に、それとわからぬほどの微細な干渉を加え続け、現実へ現実へとゆっくり引き戻していくのだ。だが。
 焦りと反対に思わず微笑んでしまった。
(意外にこれは楽しいな)
 ユーノの頬に軽いキス、体を強張らせるのをなだめて、もう一度。
 ユーノの心を世界から隔てている障壁を、感触でもってほんの僅かずつ切り崩していく。
 互いの体を重ねるのに似ている、と不謹慎なことを思う。あれもまた、夢を現実に繋いでいく儀式と言えなくもない。
 額の紅に染まった布に手を触れると、ユーノはぎくりと体を震わせてアシャを見た。安心させるように頷いて、額の布を取り出した新しいものに変える。アシャの体にそっと身を寄せているユーノは逃げない。甘えるように右肩を差し出したので、その傷も手当できた。
 一つ触れ、一つ手当が進むごとに、ユーノの目の奥で何かが動き、やがて傷に触れると痛みに体を強張らせるようになった。
「あ…りがと…」
 ようやく掠れた声が響く。
「…ああ…」
 随分長いこと聞かなかった声だ、と胸が呻いた。同時に自分が、体の全てが、これほどユーノの不在に餓えていたと気づいて、胸が甘酸っぱくなった矢先、
「あなた……誰……?」
 心底訝しげな声にひやりとした。
「…、に…?」
 思わず見下ろす黒の瞳は、もう澄み渡って晴れつつある。立ち方もしっかりとし、さきほどまでの危うい頼りなげな気配はない。ユーノがほとんど覚醒しているのは確かだ、なのに。
(今、何て言った?)
「……っ!」
 ふいにラーシェラの気配がざわめくように濃厚になった。どうやらユーノを失うまいとしているらしい。
 一刻の猶予もない。ぐっと酸素発生剤を噛み、ユーノの顎を押し上げる。
「あ、う」
 いきなりの挙動、小さく呻いて眉を寄せたユーノの唇に口を重ね、酸素発生剤の一つを舌で押し入れ含ませた。驚きに目を見張ってもがこうとする相手の体を強く抱く。ラーシェラの実が蔓についたまま、次々と弾け始めた。床に広がっていた塊も、連鎖反応のようにあっという間に黄金の煙に変わっていく。
「ん…っむ」
 ユーノが意識を失ったように腕で崩れた。ラーシェラがユーノの支配から手を引き、実を弾けさせるのに集中しだしたらしい。膝が崩れて座り込もうとするユーノの体を片腕で引き上げ、口を布で覆って縛り、軽々肩へ担ぎ上げる。
(もらっていくぞ)
 ちらりと樹を振り返って響かせた想いは嘲笑だ。
(お前じゃ格不足だ)
「!!!」
 声なき怒号が岩屋を満たす。荒れ狂うように黄金の粉を吹き付け、蔓を揺らめかせたが、アシャは立ち止まることもなく、『風の乙女(ベルセド)』に吹き送られるように脱出していった。
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