時計職人

顎(あご)

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二章

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 トイレの床に、胎児のように丸まった体勢で目を覚ました。ドアは開けっぱなしになっていて、そこから上半身が廊下にはみ出していた。私は呻き声を上げながら上体を起こす。ブラとパンツしか身につけていなかったせいで、体はすっかり冷えてしまっていた。体の所々には、乾いた血がこびりついている。寝ていたせいか、口の中はカラカラに乾いていた。口内を舌で舐めると、酸味と生臭さが渾然一体となった、何とも嫌な味が口いっぱいに広がった。
 私はよろめきながら隣にある洗面台に向かった。洗面台の前の床は黒く変色した血溜まりが広がっていて、とても使用できる状態ではなかった。仕方ないのでキッチンの方の流しを使って顔と口を洗う。洗面室の床に転がっていた歯ブラシを拾ってきて歯を磨いた。リビングにある掛け時計を遠目に見ると、朝の七時だった。
 
 昨日は何か凄まじい体験をした気がする。宇宙人の幻聴に体を乗っ取られて自分のゲロを食わされた。きっと血を出しすぎたせいで錯乱していたのだろう。正常な思考が出来なくなり、奇行に走ってしまったに違いない。だけど、きっともう昨日のようなことは起きないだろう。
 私は洗面室の奥にある浴室に入った。浴室の中で下着を脱いで、脱いだ物を洗濯機に向かって放り投げる。パンツが洗濯機の縁《ふち》に引っ掛かる。本当はネットに入れたかったが、そこまでする気力が無い私は、気にしない事にして浴室の扉を閉めた。
 シャワーを出して、お湯の温度をいつもより少し熱めにする。そのお陰か少し目が覚めて、思考がはっきりしてきた。左の手首を見た。まだ少し赤いが、瘡蓋は殆ど剥がれていて、その下に新しい皮膚が出来ていた。
 『綺麗に治ってるでしょ?』
 その声に、私は落胆して項垂うなだれた。
 『僕としては早く何か食べてほしいな、その傷を修復するのに体内の元素を結構使ってしまったんだ』
 なんでまだ聴こえてくるの……。
 昨日の出来事が、単なる悪夢だったという私の淡い希望は打ち砕かれた。あるいは、今もまだ悪夢の続きを見ているのだろうか。そう言えば、心を病んでいる時は悪夢を見やすいと聞いたことがある。そうだ、一度病院に行ってみよう。もしかしたら軽い鬱とかそういうのかも知れない。
 『君、まだ僕の存在を精神疾患だと疑っているのかい?』
 声は私の思考を読んだ。
 「あんたはただまぼろしよ、病院に行って治療して、さっさとおさらばしてやるわ!」
 『病院ってどんなところなんだい?』
 私は声を無視した。浴室から出て体を拭くと、適当に服を選んで素早く着込む。最小限のメイクをしながら、スマホを使ってメンタルクリニックを検索した。幸い、徒歩圏内に小さなクリニックを見つけた。
 財布と自宅のキーを引っ掴むと、乱暴にドアを開けて外に出た。朝日が一気に視界に入り、目が眩みそうになる。私は普段かぶらないキャップのツバを深く下げた。何となく、精神科に入るところを知り合いに見られたくなかったのだ。髪を乾かしきれてなかったので割と不快だったが、我慢することにした。
 スマホに地図を表示しながら、クリニックのある方に向かって歩く。
 『出来ることなら、君には休養をとって欲しいところだけど、病院に行くことで君の気が済むならそれも良いだろう。僕はしばらく引っ込んでおくことにするよ』
 それ以降、声は話しかけてこなくなった。

 
 大通りに面した敷地にクリニックは建っていた。建物は木目調の近代的な外観をしており、道路に面した一面はガラス張りになっていた。遠くから見たらカフェだと勘違いしてもおかしくない程モダンな造りになっている。医療機関といえば白一色の無機質なイメージを持っていた私は少し驚いた。
 私は入り口の自動ドアの前で数秒間逡巡しゅんじゅんした末、意を決して中に入った。自動ドアを越えるとすぐに受付窓口になっていた。その左奥にソファや椅子が置かれた待合室がある。始業したばかりだからか、まだ私以外に人影は見えない。
 私は緊張を押し殺し、受付のカウンターに向かって歩いた。おそらく二十代であろう若い女性の従業員が一人立っている。こちらに気付くと、笑顔で挨拶してくれた。
 「おはようございます。ご予約の方ですか?」私と違い女の子っぽい可愛らしい声だった。
 しまった、予約が必要なのか。ここにくる前に電話で確認しておけばよかった。私は軽く後悔した。
 「あの、いえ……。予約はしてなくて、初めて来たんですけど」
 「初診の方ですね。ドクターの予約状況を確認しますので、問診票を書いてお待ちください」
 「あ、はい」
 私はバインダーとペンを受け取り、待合室のソファに腰掛けた。問診票には名前と生年月日、連絡先と、最後に受診した理由を書く欄があった。受診した理由については「幻聴、幻覚」とだけ書いた。リストカットのことが頭をよぎったが、関連性が不明な上、余計なことを書いて悪戯に詮索されるのも嫌だったので、書かないことにした。
 大きな窓から日光が射して、問診票の紙に白く反射した。窓は通りに面していて、通行人たちがせわしなく右から左へ、あるいは、左から右へと流れていた。そんな光景を眺めていると、日常から切り離されて、自分だけ別の世界に居るような錯覚に陥る。
 私が外の様子に気を取られていると、さっきの女性が私の元に戻ってきていた。
 「問診票は記入して頂けましたか?」
 不意を突かれた私は、急いで女性の方に首を回す。
 「は、はい」
 女性は問診票を受け取ると、軽く目を通してから言った。
 「八角様ですね。丁度ドクターの予定が空いてますから、今から御案内出来ますよ」
 よかった。飛び込みでも診てくれるんだ。私は胸を撫で下ろした。
 「すいません、お願いします」
 「では、このまま少しお待ちください」
 受付の女性は、そう言うと再度奥に引っ込む。彼女の付けている香水の薫りだけが残り、私は再び一人になる。二、三分経って、私の名前が呼ばれた。
 「八角様、八角真矢様」
 私は立ち上がって声のする方を見た。待合室の向かいで、診察室と書かれたスライド式のドアが半分ほど開かれ、ブルーの制服を着た年配の看護師が私を呼んでいた。私は特に理由も無く小走りになってドアの方へ向かった。診察室は思ったより広くて、ウッディな良い香りがしていた。
 私は背もたれ付きの椅子に腰掛けるよう促された。目の前の机には、デスクトップPCが置かれてある。
 落ち着きなくキョロキョロと室内を見回していると、紺色のTシャツを着た長身の男性が入ってきた。私は一瞬何者かと思って目を見開いたが、首にかけてある名札にドクターと書かれたあるのを見て、彼が医師なのだと分かった。
 最近の医者は白衣を着ないものなのだろうか。あまり病院に行かない私にとっては、それが普通なのかどうか判断しかねるところだ。
 「初めまして、ドクターのたきと言います」
 落ち着いたよく響く声だった。私は「初めまして……」と会釈した。
 「今日はどうしましたか」
 滝はデスクに腰を下ろしながら言った。先ほど私が書いた問診票を手に持っていたが、早々にテーブルの上に置き、それ以降一瞥いちべつもくれなかった。おそらく私の書いた情報が少な過ぎて、見ても当てにならないのだろう。
 私は何から話そうか迷った。簡潔に幻聴のことだけ相談するか、昨日のサークルでの事まで遡るべきか。しかし、大学での個人的な事まで他人に話すのは気が進まなかった。
 「主訴に幻聴、幻覚と書かれていますが?」
 見かねた滝が話を振ってくれた。
 「そ、そうなんです。昨日の晩から、突然知らない声が聴こえ出して。こんなこと初めてでどうしたら良いのか分からなくて……」
 何とかそれだけ話すのがやっとだった。なんせ私にも何が起こっているのか理解が追いついていないのだ。的確に話せと言われても無理がある。
 「そうですか。声はどんな時に聴こえてきましたか?」
 滝はパソコンに何かを打ち込みながら質問した。
 「どんなと言われても、大学から家に帰って……」
 私は言い淀んだ。声が聴こえてきたのはリストカットして気を失った直後のことだったからだ。
 「大学に通われてるんですね」滝が言った。
 「何処の大学ですか?」
 「城南大学です」
 「頭いいんですねぇ」
 「いえ、私は文学部の方なので」
 「僕の知り合いが、昔そこの研究室に居ましたよ」
 「はぁ、そうなんですか」
 私は俯きながら答えた。
 どこの大学に通っているかなんて知ったところで意味があるのだろうか。それとも場を和ませようと他愛の無い話をしているだけなのか。滝の表情をチラッと伺ってみたが、私には判別がつかなかった。
 「失礼、話が逸れましたね。声が聞こえるのに特に決まったタイミングは無いと言うことですか?」
 「というか、今回が初めてなのでよく分からないです」
 「なるほど、声はどんなことを八角さんに言うのでしょうか」
 滝は質問を変えた。私はあの宇宙人の言っていたことを思い出そうと眉間に皺を寄せた。
 「確か、自分は別の銀河から来た電磁波生命体で、地球に調査のためにやって来たと」
 言いながら恥ずかしくなってきた。私は羞恥心から拳を握り締めた。
 「他はどんなことを言ってましたか? 例えば、悪口を言われたり逆に八角さんを誉めるようなことを言ったりしませんか?」滝は淡々と質問した。
 「特にそのようなことは聴こえませんでした」
 「では、声意外に何か五感で感じた物はありませんか? 触られる感覚や、誰かに見られているような感覚です」
 「そういうのはありませんが、勝手に部屋の明かりが灯ったり、コンセントを差していないドライヤーが起動したり、非通知から電話がかかってきたりするんです。あ、あと体が操られたように勝手に動くことも……」
 「それら全て昨日のうちに起きたことなんですか?」
 私が頷くと、滝は驚いているようだった。キーボードを打つ手を止め、腕組みする。
 「今も声は聴こえますか?」
 「いいえ。でもここにくる途中までは聴こえていました」
 「そうですか。どうやら幻聴、幻覚症状以外の症状も見られているようですね」
 滝は神妙な面持ちになった。
 「理由もなく気分が落ち込んだり、どうしようもない事を永遠と悩んでしまったり、或いは涙が止まらなくなったりすることは?」
 私はドキリといた。それに関しては身に覚えがあったからだ。
 「実は、昔から時折気分が沈むんです。嫌な考えがぐるぐる頭の中を巡るというか……」
 隠していてもしょうがないので、私は正直に答えた。
 「あの、私ってどんな病気なんですか? 重症なんでしょうか」
 私は不安になって思わず聞いた。滝は目を硬く瞑り、数秒間唸った後言った。
 「正直、この一回の診察で診断を下すのは難しいと思います。所謂いわゆる統合失調症の前駆段階のようにも見えますが、ここまで色々な症状が一度に発生する例は見たことがない。それに今の八角さんは健常な人と変わらない、正常な思考能力を保っているように見えます」
 「じゃあ、他の病気ですか?」
 「妄想などの精神症状を伴うタイプの鬱病である可能性もありますが、それもまだはっきりと断言できません。どちらにせよ、今日この一回の診察では何ともお答え出来ないのです」
 私はその言葉に肩を落とした。原因がはっきりすれば、いくらか安心できると思ったのに。
 
 「しかし、気分の落ち込みを考えると鬱傾向にある可能性は高いです。鬱症状はストレスが重なると起きることがあります。誰か困り事を相談できる相手は近くにいますか?」
 そう言われて、私は答えに窮した。そういえば、私は今まで困ったり、辛い気持ちになった時、誰かにそれを打ち明けたことがあっただろうか。私の中で、自分の問題は完全に自分だけの物であり、自力で解決しないといけない物だった。今もそう考えている。
 「いえ、そんな相手はいません」
 私は答えた。
 「ご両親はどうです? 今日は一緒ではないようですが」
 「親は……いません」
 滝の表情が少し変わった。私はそれを見て、言った事を少し後悔した。
 「そうでしたか、無神経な質問をてしまってすいません」
 「いえ、良いんです。慣れてますから」
 本当は慣れてなどいなかった。私はポリポリと手首を掻いてざわつく心を誤魔化そうとした。それがいけなかった。
 「失礼ついでにもう一つお聞きしたいんですが」
 「何でしょうか」
 「その手首の傷についてです」
 私は咄嗟に、右手で左手首を覆った。しかし時既に遅しだ。
 「最近できたもののように見えますが、理由を聞いても?」
 私は俯いたまま黙りこくった。黙秘するつもりではない。ただ、何をどう言えば良いのか、私自身分からないのだ。
 「言いたくなければ、無理にとは言いませんよ。そのうち話してくれればそれで構いません」
 滝はそれ以上、手首の傷には触れないでくれたが、その時にはもう、私は一秒でも早くこの場を立ち去りたい気持ちになっていた。自分の事を根掘り葉掘り聞かれるのは思ったよりしんどい事なんだと悟った。それに、これといって明確な答えも返って来そうに無い。私はいつしか、この滝という医者に対して怒り似た感情を覚えていた。それは多分、このどうにもならない状況を滝がどうにかしてくれるのではないかという淡い期待を、私が抱いていたからなのだろう。しかし、滝はPCの画面を睨んだまま何かを悩んでいる様子だった。何も無いなら、このまま診察は終わりにして欲しかった。 
 滝がマウスに触れようとした時、あの声が唐突に聴こえた。
 
 『ダメだダメだ。その薬剤は量が多過ぎるよ』
 「はわっ」
 私は思わず声を上げてしまった。滝も何事かと私の方を見やる。
 「どうしました? 八角さん」
 滝は目を丸くして私の顔を凝視した。
 「すいません、声に話しかけられて……」 
 「今ですか? いったいどんな内容ですか?」
 『その物質は真矢の体内のセロトニン濃度を上げ過ぎてしまう。彼に止めるよう言ってくれないか』
 二人の声が同時に聞こえるせいで、音声が混じり合って内容が聞き取りにくい。
 「ちょっと、被せてこないでよ。こっちが話終わるまで待って」
 「僕しか話して無いはずですが、八角さんの中の声が、今何か喋っているんですね」
 滝は戸惑ってはいるようだが、流石に医者だけあってすぐに状況を理解したようだ。
 『この医師は君の症状の原因が脳内のセロトニン量の低下による物だと考えているのだろう。確かに君は一時的に特定の神経伝達物質の低下をきたしていたが、僕が脳内で活動電位を操ることで既に正常値に戻っている。今の状態でさらに人為的にセロトニン濃度を上げる行為は、君の消化器官や運動機能に悪影響を与える可能性が高い』
 「えーっと。要するに、セロトニンというのが私の体には悪いみたいです。だからセロトニンを増やすようなお薬は出さないでくれと言いたいようですね。何のことだか私にはさっぱりですけど……」
 私は混乱する頭で何とか幻聴の内容を滝に伝えた。
 滝は途中まで真剣な表情で私の言葉に耳を傾けていた。しかし私が話すにつれ徐々に顔色が青ざめていき、最終的には恐怖とも取れるような険しい表情に変貌した。
 「なぜ、分かったんです?」
 滝の声は裏返っていた。
 「へ? 何がですか?」
 私には滝の言葉の意味が理解できなかった。
 「先生、どうしそんなに汗を掻いているんですか?」
 滝は私の顔と、目の前のPCの画面を交互に見る動作を繰り返していた。
 「……なぜ僕がSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)を処方しようとしているのが分かったんですか。八角さんからは僕のPCの画面は見えない筈だ」
 
 
 
 あの滝という医者は最後まで頭を捻っていたが、結局のところ、私がまだ若いということと、体重が平均より軽い事を考慮して薬は処方せず、診察のみで帰されることになった。最後に定期的な外来通院を勧められはしたが、多分もう来ることは無いだろうと思う。
 外に出ると、人通りはラッシュを過ぎて落ち着いていた。私は顔を伏せ、出来るだけ誰とも顔を合わさないように道を歩いた。近くにあった公園に入り、木陰のベンチに腰掛ける。
 『これで、今度こそ信じてくれるかな?』
 声が私の頭の中に響いた。
 「信じるしかないのね」
 私は俯いたまま両手で顔を覆い、深く息を吸った。
 『やっと僕の事を認知してくれたか。改めて説明しておこう、僕は地球とは別の銀河からやって来た電磁波生命体だ。この星には調査のために飛来した』
 「調査って何の?」
 『地球の知的生命体、つまり君たち人類のことだが、その活動を観察しデータを集めるのが僕の使命だ』
 「何で私なのよ、他に幾らでも人間は居るでしょ」
 『君は自ら自身の体を傷つけ、命を落としかけていた。と言うことはあまり自分の体や生命に頓着しないのかと思ってね。君の体も自由に使わせてくれるかと思ったんだ』
 「絶対に嫌よ」
 『そう言うだろうと思ったよ。君の肉体の完全掌握は諦めることにしよう』
 「当たり前よ。自分の体を得たいの知れない宇宙人に開け渡すなんて」
 『宇宙人じゃないよ。君に八角真矢という固有名詞があるように、僕にも特定の一個体を指す識別コードがあるんだ』
 「あなたにも名前があるっていうの?」
 『僕の名前は〈fg;*#%nz#*v=fλ〉だ』
 突然、脳内に窓ガラスを引っ掻いたような雑音が響き渡る。私は頭を押さえて悶絶した。
 「何すんの!!? 嫌がらせ!?」
 何もない空間に向かって怒声を浴びせる私の姿を、近くの家族連れが怪訝な顔で見ていた。私は急いで顔を伏せる。
 『そうじゃない。どうやら君を蘇生する際に大事なパーソナルデータの一部を破損させてしまったようだ。自分の名前を忘れるなんて』
 「蘇生って、あなたが私を助けてくれたの?」
 『そうだよ。僕のエネルギーを物質化させて体内の足りない元素を補った、その影響が出ているんだろう。物質をエネルギー化させるのは簡単だけど、その逆となると膨大なエネルギー量が必要になる。なんせ質量に光速度の二乗を掛けたエネルギーが必要になるからね』
 「そう言えば、この傷もあなたが治してくれたのね」
 私は手首の傷をまじまじと見た。もう近くで見ないと分からないほど傷は目立たなくなっていた。
 「何だか申し訳ないことしたわね。私を手当てしたせいで自分の名前を忘れちゃうなんて」
 『名前に関しては、地球に居る間は問題ないだろう。母星に帰ってデータを修復すれば良いだけの話だ』
 「えらく冷静なのね、名前を失ったていうのに」
 『君たちはこういう時どうなるの?』
 「そりゃ、焦るでしょ? あるいは不安になったりとか」
 『そんなに慌てることかな?』声は呑気に言った。
 「いや、名前無かったら不便じゃない。私はあなたのことなんて呼べばいいのよ?」
 『君が名前をつけてくれないか? そうだな、混同を避ける為に普段使わない単語がいいな。かといって長かったり難しいかったりするのはダメだよ。それはそれで不便だろうからね』
 「お願いする側のくせに注文が多いわね……」
 『君の為に言っているんだ。君たち人類は思考を一度言語に変換して、それをわざわざ声帯から発する振動波として外部に伝えている。非常に効率の悪いやり方だ』
 「あなたは違うの?」
 『僕たちには言語は無い。思考した内容を電磁波のパターンとして相手に直接伝達している。考えている事や感じている事がそのまま同じように相手にも伝わるんだ』
 「何だかちょっと羨ましいわ」
 『ちなみにだけど、君も僕に対してわざわざ言葉を発する必要はないんだよ? 君の思考は脳内の活動電位を読み取るだけで把握できる』
 「えっ、そうなの? それ早く言ってよ」
 それを知っていたらわざわざ周りを気にする必要も無かったじゃない。
 私は試しに頭の中で言葉を思い浮かべてみた。
 
 あなたの名前。〈アルファ〉はどう?
 
 『何か由来はあるのかい?』
 本当に通じたらしく、返事が帰ってきた。
 あなたは地球に来た最初の電磁波生命体でしょ? だから物事の*最初*を表す単語にしたの。あと、何となく横文字がいいかなって。
 『なるほどね』
 何よ、不満なの?
 『いいや、気に入ったよ。今日から僕はアルファだ。君の事はそのまま八角真矢と呼べばいいかな?』
 真矢、でいいわ。
 『了解した。よろしく真矢』
 『早速だけど、真矢の体を少し使わせて貰うよ』
 「え?」
 電源を落とされたように私の視界は暗くなった。
 
 
 
 ★
 
 
 
 次に意識を取り戻した時には。私は大学の図書館の中に居た。
 本来は高い棚にある本を取る為に使われる木製のステップに腰掛け、分厚い本を開いていた。本の表紙には〈リチャード・ドーキンス著 盲目の時計職人〉と書かれている。
 何これ、何がどうなってるの? 私を目を白黒させた。
 
 「すいません、ちょっといいですか?」
 気付かぬうちに、誰か目の前に立っていた。メガネを掛けた初老の女性は、胸の名札を見るに大学の職員だろう。
 「は、はい。何でしょうか」私はおっかなびっくり答えた。
 「何でしょうか? じゃないです。これはどういうことですか?」
 女性職員が指差す方に目をやる。図書館の端から端まで並ぶ全ての書架しょかの本が、乱雑に抜き取られていた。そして前方の通路に、これまた乱雑に積み上げられている。積まれた本でできた小さな塚は、十メートルほどの長さになり、私の座るステップのすぐ横まで続いていた。数学、文学、哲学、量子力学、電磁気学、動物行動学、行動形態学、進化心理学、幾何学、遺伝学、熱情報力学と、様々な分野の本がうずたかく積み上がっていて、その数はどう見ても百冊以上あった。
 女性職員以外にも、周りには数人の利用者が集まっていて、好奇と嘲笑が混ざった視線を四方八方から投げかけられていた。連れと何やらヒソヒソと話す者もいた。私は咄嗟に持っていた本で顔を隠した。
 意味わかんないっ。何がどうなってるの!
 「本を読むのは素晴らしいことですがね、ちゃんと元の場所に戻して貰わないと困ります」
 静かな怒気を含んだ声で、女性職員が言った。
 「す、すいません!」私は首がちぎれるくらい高速で何度も頭を下げた。
 ちょっと、アルファ! 出てきなさい!
 同時に、脳内でアルファを呼び出す。
 『出てくるも何も、僕はずっと側にいるよ』
 これは一体どういうこと!
 『人間の文明レベルを知りたくて、君の体を使用して情報収集していたのさ、言語を翻訳するのに、君の脳を処理装置として使った方が効率がいいからね』
 私の意識を乗っ取る必要はないでしょ!
 『意識を共有した状態では、君の脳に余計な負荷をかける可能性がある』
 余計な負荷なら今かかってるわ!
 「あの、どうして怒った顔をしてるんです? この場合怒るのはこっちだと思うんですけど」女性職員が半ば困惑したように言った。
 しまった、感情が顔に出ていた。
 「いえっ、そんなんじゃないですっ。すぐに片付けます!」
 私は深々と頭を下げる。女性職員はそんな私の姿を気味悪そうに見ながら「早く片付けてくださいね」と言い放って去っていった。
 『謝罪する。すまなかった、僕の選択がこのような結果を招くとは』
 本当に何バカなことしてくれてるのよ。兎に角、一刻も早くこれを片付けるわよ。
 私は手近にある本から順に、棚に戻し始めた。しかし、アルファが適当な場所に本を置き去りにしているせいで、手持ちの本がどこからやってきたのか分からなくなっていた。きっと、読んでる途中で興味が移って、本を持ったまま移動していたのだろう。
 『その通りだ、よく分かったね』思考を読んだアルファが答えた。
 関心してないで、どの本がどこにあったか教えなさいよ。
 『了解した』
 アルファがそう言うと、突然私の脳内に見知らぬ映像が想起された。それは私が書架から本を抜き取る光景だった。アルファに乗っ取られている間の私が見た記憶なのだろう。私が本を手に取ると、それに対応した書架の映像が映し出される。同時に、書架ごとに割り振られているアルファベットと数字が頭の中に勝手に浮かんでくる。
 何だか気持ち悪いわ、身に覚えのない記憶や情報が出てくるなんて。
 『でもこの方が効率的だろう?』
 効率が良けりゃいいってもんじゃないから。
 『じゃあどうすればいいんだい?』
 普通に言葉で教えてよ。
 『分かったよ。その本は自然科学A1の棚だ』私は本を持ったまま、言われた通りの書架に向かった。
 それにしても、これだけの量の本を私が読んだなんて信じられないわ。私はいつから図書館に居たの? 
 『一時間ほど前さ』
 私は持っていた本を落としそうになった。
 一時間? 一冊を一分で読んだとしても時間が合わないじゃない。
 『文字を肉眼でスキャンして、脳の言語野を通して翻訳した。だが実際に情報を処理するのは僕自身だから君ほど時間はかからない。紙面を一瞬見るだけで僕には書いてあることが全て理解できるんだ』
 つまり私は、高速で本を捲りながら書架の前を移動するという奇行を晒してしまったわけね。最悪……頭がおかしい人だと思われたかも。
 『酷くストレスが掛かってるようだね』
 当たり前でしょ! 人には世間体ってものがあるのよ、宇宙から来たあんたには分からないでしょうけど。
 『理解は出来るよ。人間は群れで行動する社会性の生物なんでしょ? 故に社会から孤立する行動は直接生命の危機に繋がる事象であり、本能的な危機感を覚える。他人からの見え方を気にするのはそれが原因だろう』
 分かってるならなんであんな事したのよ。
 『僕の選んだ行動が、社会通念上どこまで許容されているかまでは推し量ることは出来ないよ』
 アルファは私の記憶を共有しているんでしょ? ある程度分かってるんじゃないの?
 『真矢一人の記憶を見ただけでは、他者を含む社会全体の様相を掴むことは不可能だ』
 じゃあどうやって人間を調査するつもりなの?
 『無論、真矢と他の人間との交流を側から観察することで、真矢という一個体と人間社会との相互作用を観察するのさ』
 私に張り付いてもあまり期待持てないわよ。今からでも別の人を探せば?
 『何故だい?』
 私、人付き合いとか苦手だし。昔から、友人や恋人が出来ても長続きしないのよ。
 『問題無いよ。君が社会の中に生きている限り、他人と関わらない訳にはいかないはずだ』
 『それに、僕はそう簡単に観察対象を変更することは出来ないんだ、人類への干渉は最小限でなければならないという一族の掟があるからね』
 あっそ、なんでもいいけど、さっきみたいなことは本当にやめてよね。社会的に死ぬのはごめんだわ。
 『〈死〉に種類があるのかい?』アルファが言った。
 これ以上話を広げると面倒臭いことになりそうだったので無視した。
 私はアルファの指示に従いながら、黙々と片付けに奔走した。時々、通りがかる学生に奇異の眼差しを向けられた。今すぐこの場から消滅したい衝動に駆られながらもなんとか全ての書物を片付けることができた。時計を見ると午後二時を過ぎていた。
 すごく疲れた……。
 そういえば、昨日の昼から何も食べてなかった。ぼんやりとした頭でそんなことを考える。そのせいか、不意に激しい空腹を覚えた。私は鉛のような体を引き摺って図書館から退散すると、そのまま大学を出て近くのコンビニに立ち寄った。適当におにぎりと水を買ってから、歩きながらかぶりつく。
 そういえば、アルファはなにを食べて生きているのだろうか?
 『僕は周囲の電磁波を吸収して自らのエネルギーに換えているんだ』
 アルファが答えた。そうだ、私の思考はコイツに読まれているんだった。
 でも、電磁波なんてありふれてるだろうし、食事をしなくても勝手に補給されるって言うのは便利そうね。
 『だけど、僕というパーソナルデータを維持するためにはそれなりにエネルギーが必要だ。加えて、僕のいた母星と違って地球は外から入ってくる電磁波の総量が少ない。だからあまり無駄使いは出来ない』
 もし、エネルギーが無くなるとアルファはどうなっちゃうの? 餓死しちゃうとか?
 『この星の生命と違って純粋なエネルギー体である僕らに死の概念は無い。単に、個としての連続性を維持できずに消えてしまうのさ』
 待って、アルファは自分のエネルギーを使って私の傷を治したのよね。それって自分の命を削る行為なんじゃないの?
 『心配しなくてもあの程度では僕のエネルギーは枯れたりしない。一度に全てのエネルギーを放出しない限り消滅などということは起きないよ』
 そうなのかも知れないけど、自分のエネルギーを他人のために使うなんて、怖く無かったの?
 『怖いという感情は、生物が生存に不利な行動を避けるため、或いは有利な行動を発現させるために本能が訴えかけてくる信号に過ぎない。死の概念が無い僕には、恐怖の感情も無いのさ』
 感情がない? それってどう言う事?
 『君たちが感情と呼んでいるものは、生存本能による指令を大脳皮質という高次機能を持った器官が認知した結果に過ぎない。恐怖は自身を危険から遠ざけ、喜びは餌や異性などの報酬へ向かう行動を強化する。そもそも生存本能が無い僕に、感情がある訳が無い』
 なんか前提が違い過ぎてカルチャーショックどころじゃないわ。驚きたくても驚きようが無いっていうか。でも、感情に流されないで済むのはちょっと羨ましくもあるわね。
 『感情は君たちにとって、何か行動を起こす為の重要なキーになっているようだ。必要不可欠だよ』
 私がリスカしたのも感情のせいってこと?
 『そうだ。真矢もそう思うだろ?』
 唐突な質問に身をよじる。私は椅子の上で居直りながらアルファに言った。
 「自分でもよく分からない。分からないけど……苦しみから解放された気がするのは事実ね」
 『苦しみの原因は何だい?』
 「さぁ、それもよく解らないわ」
 『君の母親や父親のことかい?』
 「……どうだろう」私は俯いて口をつぐんだ。
 『手首を切るのは、自衛のための行動だろう。人間の体は怪我を負った際や何らかのストレス負荷を受けた際に強い陶酔とうすい作用を持つ内因性物質を作り出す機能がある。君は自身を傷つけることでその物質を放出させ、無意識にストレスに対処しようとしたと推測できる』
 「……そうなの?」
 『図書館で脳科学についての本も読んだからね。実際、君の体内にはモルヒネの受容体と結合するペプチドと、それを産生するニューロンが存在するようだ』
 そんなこといちいち考えてリスカなんかしてないわ。
 『無意識での行動だと言うなら、生物として生来備わった自己防衛プログラムなのかもね』
 アルファの言うとおりなのだろうか。私が手首を切るのは、脳内麻薬を出して心の痛みを和らげるため? だとしたら、まるで薬中だわ。自分で手首を切って脳内麻薬を出すのと、買ってきた薬を注射器で打つのとまるで同じじゃない。
 『そんなに卑下しなくてもいいじゃないか』アルファが言った。
 『急場を凌ぐ為にはじつに合理な防衛機能だと思うよ。無意識で起こるのも、大脳皮質の処理を待たずに、より素早く対処する為だろう。地球生物は皆、本能に行動を促されそれに付き従いながら生きているんだね』
 でも、人間には意思があるわ。だから本能ではなく自分の意思で行動を決めることができるのよ。
 『果たして本当に、全ての行動を自分の意思で決定していると言えるかい? 人の行動を決めるのは感情だ、そして感情の起源は大脳辺縁系、すなわち脳の中枢部分からもたらされる。当然だが、大脳辺縁系は脳全体の中では原始的な部分だ、そこは本能が支配している。君たちは本能による決定を後から感情として認知するしかない』
 私たちに自由意志なんて最初から無いって言いたいの?
 『そういうことになる』
 私は私の行動を私自身の意思で決めてるわ。
 『本当にそうなら、後悔を繰り返したりしない筈さ。リストカットも自分の意思で止められた筈だ。或いは最初からリストカットなんてしなかった。君の感情、もとい本能がそうさせたんだ』
 アルファの言葉に、私はどこか冒涜的な不快感を覚えた。そもそも、感情を持たないコイツに感情を持つ私の何が分かると言うのか。そう考えていると、不快感は怒りの感情にへと徐々に変わっていく。
 もう講釈は結構よ、講義でもないのに小難しい話をいつまでも聞きたくないわ。帰って部屋の掃除もしないといけないことだしね。血だらけになった洗面所のことを思い出すとげんなりするわ。
 
 家に帰った私は、すぐに部屋の掃除に取り掛かった。後回しにすると面倒臭くなってしまいそうだったからだ。血液は自分でも引くほど大量に飛び散っていて、一箇所ずつ掃除するのには骨が折れた。買ってきた洗剤がいい仕事をしてくれたお陰で、幸いにも一時間かそこらでだいぶ片付いた。
 疲労からか、倒れ込むようにソファに身を預けるとすぐに睡魔が襲ってくる。ダメだダメだ、化粧を落とさないと。それに洗濯機もまだ回してない。
 だが体は意に反してソファに深く沈み込んでいく。私はもう眠気に抗えなかった。
 「何だか無茶苦茶眠いわ」
 『大脳の働きが弱まっている、少し睡眠をとるべきだ』
 さっきまで黙りこくっていたアルファが、急に話しかけてきた。
 「あんた、さては私に何かしたわね」
 『驚いた。なぜ分かったんだい』
 「やっぱり……、何だかいつもと感覚が違ったからよ。睡眠薬を飲んだ時みたいに抗えない昏睡が襲ってくるんだもの」
 『確かに脳内のメラトニン作動性ニューロンを刺激した』
 「勝手に私の脳を弄らないで」私はそれ以上怒ることも出来なかった。  
 『分かったよ。次からは君の同意を得ることにしよう』
 私はそのまま眠ってしまい、アルファに返事をすることは出来なかった。
 
 朝になって、私はソファの上で目を冷ました。涎の跡を擦りながら起き上がると、いつもの習慣でまず最初にスマホを見る。時刻は午前七時、カーテンの隙間からは薄い日光が差し込んでいる。
 どうも朝は苦手だ。寝起きが悪いという意味じゃなく、単純に嫌悪の対象なのだ。だって、眠っている間は苦悩も苦痛も、怒りや悲しみも感じないで済む。たとえ悪夢に苛まれたとしても、それは現実で起こっているわけではない、わば嘘だ。だが一度目覚めてしまえばもうそこは全てがリアルなのだ。そこで起こった出来事や感情は、全て現実の私に反映される。そして明日の私に引く継がれていくのだ。私にとってはそれが耐え難く重荷に感じる。だから、朝起きて一日の始まりを突きつけられると、どうしても気が滅入るのだ。
 それでも大学には行かなくちゃいけない、今日は一限からある日だ。
 私は緩慢な動作で服を着替え、歯を磨き、髪を梳かしてメイクをした。いつもより長時間眠っていたせいか、かえって頭はボーッとしていた。
 
 大学に着く。ついさっきまで此処に居たようなきがするのは、ここ二、三日大学と自宅の往復しかしてないからだろうか。人がまばらな講義室に入ると、私は室内をさりげなく見回す。知っている人の隣に座るためだ。
 遠目に見知った顔を見つけた。私はさも偶然通りがかったかのように、着席している彼女の横を通過し、丁度顔が視界に入るタイミングで声を掛けた。
 「あっ! おはよ」私はパタパタと手を振った。
 「真矢ちゃんおはよー」彼女も手を振り返す。
 「礼都れつもこの講義とってたっけ?」
 会話しながら私は滑り込むように彼女の隣の席に身を納めた。
 「いつも目立たないように最後尾で講義受けてるんだよね。今日はたまたま席が空いてなくてさ」
 神永礼都は私と同じ一年だった。説明会の時にたまたま隣の席になったことがきっかけで知り合いになった。とは言ってもそこまで親しいわけでもない。ギリギリ友達と言えなくもないくらいの関係だと、自分では思っている。
 程なくして、講義が始まった。礼都は早々に机の上で寝息を立て始めてしまったので、私は仕方なく一人で講義を聞く事にした。
 しかし、隣で礼都がうたた寝しているのを見ていると私の方まで眠たくなってくる。このまま私も睡眠欲に身を任せてもいいのかもしれないが、一応今日の講義内容は重要な部分が含まれるので聞いておきたい。しかし睡魔はお構い無しに襲ってくる。
 昨日寝落ちしてから睡眠はとっていたはずなのに……。私、そんなに疲れているのかな。
 『寝てしまうとマズいのかい?』アルファが話しかけてきた。
 アルファ、あなたまた私の脳を弄ったの?
 『まさか、濡れ衣だよ』
 じゃあ単純に眠たいだけか……。
 『覚醒を維持したいなら、僕が脳内環境を調整してあげようか?』
  そんな事まで出来るの?
 『真矢が望むならね。脳の覚醒維持にはオレキシンという神経ペプチドが関与しているようだ、産生を促して脳幹のモノアミン系ニューロンに働きかければ覚醒状態を維持できるだろう』
 よく分からないけど、それで起きていられるようになるの?
 『恐らく』
 恐らくって……。
 『どうする?』
 遠慮しとく。そう頻繁に頭の中を弄られて発狂でもしたらどうするの?
 『そんなヘマはしないさ』
 勝手に私の体を乗っ取る奴に言われても信用出来ないわ。
 私はアルファとの会話に気を取られていたせいで、教壇から教授が学生を見回しているのに気付かなかった。ふと、教授と私の視線が交わった。嫌な予感がして、そしてそれは的中した。
 「おっ、丁度目が合ったな。そこの君に答えて貰おう」
 「はい?」咄嗟に間抜けな声が漏れてしまった。
 「前回話していた不確定性原理についてだ、時間とエネルギーの関係性を式で表すとどうなるのだったかな?」
 老齢の男性教授が私を見やりながら言った。
 「聞こえなかったかな? そこの二人並んで座ってる女子の内、まだまぶたが開いとる方だ」
 どうやら私のことで間違いないらしい。私は居直って、何か思い出そうとしているようなフリをした。しかし、勿論答えが思い浮かぶ訳がない。
 うわー、どうしよう……。全然分からん。
 『ΔEΔt≧ħ/2  だ』出し抜けにアルファが言った。
 え、アルファ知ってるの?
 『逆になんで知らないの? 不確定性原理はこの世の基本原理じゃないか』
 「どうした? 答えられないのか?」
 気の短い教授が私を急かした。
 「ΔEΔt≧ħ/2  です」
 「……その通りだ、よく覚えていたな。このように全く不確定に見えるエネルギーと時間の振り幅も、ħ/2 の部分によって制限を受けるわけで——」
 た、助かった! ありがとアルファ。
 『それはよかった』
 
 講義が終わり、皆が席から立つ。隣で寝ていた礼都も、その騒がしさに気付いて目覚めたようだ。私は気だるそうに伸びをする礼都に話掛けた。
 「私これからお昼食べに行くけど、一緒にどう?」
 「うーん、ごめん。私他に約束があるから」
 礼都は申し訳なさそうに言った。
 「そうんなんだ、じゃあ仕方ないね」
 「ごめんね、また誘ってよ」
 礼都はそう言っていそいそと講堂を後にした。
 私はその後ろ姿を見ながら、彼女を誘ったことを激しく後悔した。どうして私なんかが声をかけてしまったのだろう。お昼を一人で食べるのが嫌でつい、そんなに仲の良いわけではない礼都に声をかけてしまったのか……。彼女はきっと私以外の、もっと仲の良い子と会うのだろう。そこに私の立ち入る隙があるのだとどうして考えてしまったのだろう。どうして私はわざわざ他人から拒絶されるようなことをしてしまったのだろう。
 時々こういうことが起きる。その度に私はモヤモヤとした感情を抱えて自己嫌悪に陥るのがお決まりのパターンになっていた。
 一人で居ることが昔から苦手だった。兎に角誰かのそばに居ようと、常に立ち回っていた。そのせいか、反対に相手からは距離を取られているような気がする。それもまた私を焦らせ、相手との関係構築を困難にしているのだと最近思う。
 『あの人講義中ずっと寝てたね。疲れてたのかな』
 アルファが呑気に言った。
 お昼ご飯食べようと思ってたけど、あてが外れちゃったわ。
 『一人で食べればいいじゃないか』
 それはちょっと、人目が気になるというか。
 『群れていないと落ち着かないの?』
 嫌な言い方するわね……その通りだけど。
 『僕が話し相手になってあげようか?』
 「はぁ……」
 『なぜため息を吐く?』
 宇宙人に気を遣われる私って……。
 『何度も言うが僕は宇宙人ではなく電磁波生命体で、そもそも宇宙に住んでいるなら人間だって宇宙人という事になるわけで——』
 あー、はいはいそうだったわね。
 私はアルファの抗議の声を無視して講堂を出た。
 
 
 
 全ての講義が終わった後は、その足でまずロッカールームに向かう。そこでトレーナーとランニングシューズに着替えてからサークルへ向かった。校舎内にある五十人規模ほどの会議室が演劇サークルの練習場所だった。会議用のテーブルや椅子は隅にまとめられていて、前方には映写用のスクリーンも備わっっている。
 中に入ると既に十数人の団員が集まっていた。総勢二十五名のサークルなのでこれでも半数近くが集合している。
 「お疲れ様です!」私は中に入るなり挨拶した。挨拶は務めて元気よくしている。人は第一印象が命、何事もファーストインプレッションが大事だと思っているからだ。
 
 サークルの練習はいつも決まってランニングから始まる。着替えたのはこのためだ。大学付近周囲の道を何周かした後、簡単な筋トレメニューを皆で行ってから初めて発生練習に入る。
 私も先輩に混じって声を張っていた。他のサークルがどんなものか知らないが、演劇サークルの一年の比率は極めて少なかった。なんならこの場に一年は私しか居ない。勿論、最初は数人の新入団員がいたがほとんど早期に辞めてしまった。残った者も私以外は在籍しているだけの幽霊団員だ。演劇という表現活動に勝手な期待を抱いた若者(私もその内の一人だが)が、実際に入ってみると練習のキツさや他メンバーとの温度差で嫌になって投げ出してしまったのが実情だと勝手に推察している。その中で私は、自分で言うのもなんだが真面目に頑張っている方だと思う。私も演劇に何か漠然とした特別なものを期待してサークルに入ったわけだが、それに加え引っ込み思案な自分を変えたいという思いもあったのだ。それが今でも活動の原動力になっている。
 
 発声練習が終わると、いつもならエチュードなどの即興劇で練習したりするのだが、近く県の演劇連盟が主催する発表会があるので今日はそのまま舞台の練習となる。と言っても、一年でまだ端役すら貰えない私は裏方で小道具の準備などをする予定だった。なので、藪から棒に団長に呼ばれた時は、正直なんの話しをされるのか全く予想できていなかった。
 
 「真矢ちゃん、今ちょっといいかな?」
 私が音響装置を準備している後ろで、こっそりと耳打ちするように言った。日野さんは、周りに自分達の声が聴こえないように配慮している様子だった。
 「はいっ……」
 空気を読んで私も声量を落として返事をする。
 「ここだとちょっと、外で話したい」
 「わかりました」
 私の胸は自分でもわかる程に拍動していた。それはイレギュラーな事態に緊張しているのか、はたまた尊敬し、かつ異性でもある日野さんと二人きりになるというシチュエーション故なのか。
 日野さんのスタイルの良い後ろ姿に黙って着いて行く。部室近くには、自販機とベンチが置かれたちょとした休憩スペースがある。日野さんはそこで立ち止まり、周りを一周見回した後ベンチに腰を下ろした。私がどうしていいか分からず立ち尽くしていると、トントンと自分の横を手で叩く。
 私は一応一回頭を下げてから日野さんの隣に座った。
 「実は相談があるんだけど」日野さんはここに来てもまだ小声だ。
 「なんでしょうか」
 「単刀直入に言おう、次の発表大会の主演を君にお願いしようと思うんだ」
 私は最初、日野さんの言っている意味が理解できずに「どういうことですか
 ?」と聞き返した。
 「つまり、真矢ちゃんに発表会のヒロイン役をやってほしいんだ」
 私は眼球が溢れるんじゃないかというくらいに目を見開いた。
 「私がですか!?」
 「ああ、まだ確定では無いんだけどね」そう言って日野さんは頷いた。
 「あの役は小坂先輩が務める筈じゃ」
 「脚本を書いてるうちに君の方がより役にハマることに気が付いたんだ」
 演劇大会や発表会での演目は、いつも日野さんが脚本を書いている。今回の演目「海を見る人」も日野さんの脚本だ。日野さんは団長でありながら、いざ舞台に出るとなると端役に徹することが多い。なんでも自分は演じることよりも、自分の空想した世界を目の前で再現して眺めることに興味があるらしい。だから今回も彼は浜辺に佇む老人の役で、ほとんどセリフもない。対してヒロインは恋に落ちた少年と儚い約束を交わしたまま何年もの時を過ごすという物語の中でも重要な役だ。
 「力不足じゃないでしょうか……」
 「確かに技術や経験では先輩達の方に一日の長があるだろう、でも役に重要なのは、その人がその役を演じた時にどれだけ自然に見えるかだ。どれだけ演技が巧くても役とそぐわない雰囲気の人間が演じたのでは観客は感情移入がし難くなってしまう」
 「主要なキャラクターは見ている人の感情移入の真っ先のターゲットだ、だからこそ君のように良い意味で癖の無い、初々しい雰囲気を持つ人が適任だと思ってる。それに心配しなくったて、演技力も君は申し分ないよ」
 日野さんの真っ直ぐな視線が私を射抜き、息が止まりそうになる。
 「で、ですが小坂先輩は知ってるんですか」
 小坂先輩はサークルの中でも実力があり、主演も多くこなしてきた。時には日野さんの脚本にも意見を言って修正をかけさせるほどサークル内では一目置かれた存在だ。私はそんな彼女の役を奪うことになるのだ。
 「君が何を心配しているのかは分かってる。なぁに彼女だって子供じゃないんだ、僕の理論を聞けば納得するさ」
 「は、はい」
 「よかった、それじゃ今日中に台本を渡すよ。裏方作業の途中だろうから稽古はとりあえず明日から参加ってことで」そう言い残し、日野さんは意気揚々と皆んなの元に戻って行った。一人取り残された私は、未だ止まらない心臓の鼓動を手で押さえながら後を追った。サークル活動に戻ると次第に状況が整理できるようになった。それと同時に、今度は喜びと不安で気分は高揚していった。
 私に主役をお願いしたということは、私のことを見て、私のことについて考えてくれた上で評価してくれているということだ。
 日野さんは私のことを認めてくれたのだ。あの日野さんが……。
 それ以降は、ソワソワし過ぎて他事が手につかなかった。気が付けば練習時間は終わってしまっていた。そう言えば台本をまだ貰っていなかった。日野さんはどこにいるだろうか。私はフロアの中を見渡した。残っているメンバーは、帰り支度をする者、残って談笑に花を咲かせる者に分かれていたが、そのどちらにも日野さんの姿は無かった。
 台本のこと忘れて帰っちゃたのかな?
 モヤモヤしながら帰路に着く。すると、ポケットの中でスマホが振動した。
 『さっきの日野という男からだ』アルファが言った。画面を見るとまさにその通りだった。
 よかった、私のことを忘れたわけじゃなかったんだ。私は安堵した。
 「はい、八角です」
 「真矢ちゃんごめん! 台本渡すって言っといて忘れて帰っちゃってた」
 日野さんは申し訳なさそうに言った。
 「いえ、良いんです」
 「もう大学出ちゃった?」
 「はい。でも近くなんで、取りに戻りましょうか?」
 「いいよ、いいよ。どの辺にいるの?」
 「近くのコンビニですけど」
 「交差点のとこだね、分かったすぐに行く!」そう言って電話は切れた。
 私はコンビニの窓ガラスに映る自分を見て、素早く髪の毛を整えた。変なところはないだろうか? 窓の反射では細部まで確認するのは不可能だがかといってリュックから手鏡を出している暇もない。
 『なんでそんなに慌ててるの?』
 「だって日野さんがこっち来るんだもん」
 『さっきまで会ってたじゃないか』
 「あの時は練習中だったし、そうだアルファ、私の顔何も付いてない?」私は窓ガラスを凝視しながらアルファに聞いた。
 『多種多様な分子や微生物がこびり付いてるよ、外気と触れてるから仕方ないんじゃない?』
 「そうじゃなくて、髪型が乱れてたりメイクが崩れたりしてないかって事よ」
 『基本の状態を知らないからなんとも言えないよ』
 「聞くだけ無駄だったわ」
 「何を聞くのが無駄だったの?」
 私は声を上げそうになった。隣を見るとニコニコと笑いながら日野さんが立っていた。油断した、声に出してアルファと話しちゃってた。
 「いえ……これは」返答に困った私は、愛想笑いで誤魔化す。
 最悪……。図書館の時もだけどあんたと絡んでると碌なことないわ。
 『いや今のは真矢の落ち度だと思うんだけどな』
 そんな言い合いが行われているなんて知る由もない日野さんは、いつもの穏やかな調子で話を続ける。
 「さっきはごめんね、ちょっと別件で外に出てたせいで渡すの忘れてたよ」
 そういって一冊の冊子を私に手渡す。
 「気にしないでください、団長は忙しいですから」受け取りながらそう返すと、日野さんは自嘲気味に笑った。
 「団長だなんて買い被りだよ、僕以外がやりたがらなかったから押し付けられただけさ」
 「それでも、凄いと思います。尊敬してます」私は正直にそう言った。彼がどうあれ、実際にサークルをトリス切りながら日々の練習や脚本の作成を行なっているのは事実だ。他の団員たちも彼の能力は認めている筈だ。
 「ありがとう。そういってくれると嬉しいよ」
 「いえ……」
 私は照れ隠しに貰った台本をパラパラと捲った。台詞のところどころに、既に赤字でメモが書き込まれている。
 「これは?」
 「当初は小坂に演じてもらう役だったからね、君に合うように手直ししたんだ。きちんと清書した物を改めて配るよ」
 「わかりました」
 「そうだ、役のことで幾つか相談があるんだけど、よかったら晩御飯でも食べながら話しがしたいな」
 「えっ⁈」
 どうしよう、急だけど日野さんの話には興味があるし、私の役に関することなら話し合っておくべきだろう。それに、彼からの誘いは純粋に嬉しい。
 「もちろん嫌なら断ってくれても良いんだよ?」
 日野さんはまた笑って言った。
 「行きます! 行きたいです」
 「本当? よかった。何食べたい?」
 日野さんはスマホを取り出してお店を検索し始めた。
 「私はなんでも大丈夫です、お腹空いてるので」
 「近くの居酒屋が空いてるからそこにしよっか」
 お酒はあんまり得意じゃないけど、せっかく誘ってくれているというのに文句を言うのも失礼な話だ。それに、私がお酒を飲まなければ良いだけの話じゃない。そうよ、そんな事で彼の厚意を裏切ることなんか出来ないわ。
 
 
 「僕は最後の台詞は敢えて無くした方がいい気がするんだ」
 日野さんはハイボールのクラスをグイッと仰いだ。
 「どうしてですか? とても素敵な言い回しなのに」
 私は店員から、刺し盛りと二杯目の烏龍茶を受け取りながら聞く。
 「そう、それだよ。なんか上手い事言おうとしている感じが出るだろう?」
 日野さんは目をギュッと瞑って首を傾げた。いつもの精悍な表情がクシャッと歪むのが、少年のようで可愛らしいと思った。
 「大学で話してくれた、役の自然さという事でしょうか」
 「その通り。僕は演劇にできるだけリアリティを求めたい」
 「派手な演技や演出がダメだとは言わないが、僕にはどうしても嘘くさく見えてしまうんだ。真矢ちゃんはどうだい?」
 急に振られたので一瞬動きが止まってしまう。
 「そうですね、私にはまだよく分かりません。でも日野さんがそうやって自分の信念を持って脚本を書いているのは尊敬します」
 それは私の素直な感想だった。
 「そうかな。真矢ちゃんがそう言ってくれると、僕も自己肯定感が高まるよ」
 日野さんは少し酔っているようだった。でも何だか嬉しそうだ、彼が嬉しいと思ってくれているなら、私も嬉しい。それは私と一緒に居ることが嬉しいという事だから。
 「真矢ちゃんはお酒飲まないの?」
 日野さんは唐突に聞いてきた。
 「そんなにお酒強くなくて」
 「一杯くらい飲もうよ。せっかくなんだし」
 やっぱりそうよね、日野さんはきっと私とお酒を飲みたかったんだ。もちろん脚本の話をするのも目的の一つだろうけど、それだけなら極端な話、電話でもいいわけで、こうしてご飯に誘ってくれているということは私と少なからず交友を持ちたいと思ってくれている筈だ。あるいは、今後主演を務める者として私のことを知っておきたいのかもしれない。
 「それなら、一杯だけ貰いますね」私はメニュー表を開いた。
 『やめた方がいいと思うけどね』アルファが横槍を入れる
 『アルコールは大脳の働きを弱める、そんな行為をわざわざ行う意味が分からない。今から議論をしようというのなら尚更だ』
 私はアルファの声を完全無視してメニューに視線を落とした。
 
 日野さんは、お酒のせいもあってかテンションが高かった。自分の演劇に対する思いを熱く語った。正直内容は難し過ぎてほとんど理解できなかったけど、ただ聞いてくれるだけで彼は嬉しいようだった。私もやはり少し酔っ払っていたのだろう、いつもより饒舌になっていた気がする。時折アルファが何か言ってきたが、単なるノイズとして無視した。
 結局、私の酒量は一杯では収まらなかった。何時から飲み始めたか定かではないが、結構な時間話し合っていたのは確課だ。私は意図して時計を見ることはしなかった。この今の時間が終わってしまうのが嫌だったのだ。だけど時間は一次元の方向にしか進まない、いつか終わりはやってくるのだ。私は日野さんと離れるのが悲しかった、そんな私の気持ちが漏れてしまったのか、あるいは彼も私と同じことを考えてくれていたのだろうか。私の思考は妙に多幸的になっていて、そしてふわふわと浮遊していた。だからいつの間にか二人でホテルの一室へと入っていくことも、どこか他人事のように感じていた。いや、実際私は、一部始終を冷静に理解していた。私は自分の意思で彼とホテルに入ったのだ。敢えて他人事のように考える事で、自分で思考を麻痺させていたのだと思う。そうでもしないと、色々と余計なことを考えてしまうから。
 私は臆病な人間だ、お酒のせいで露わになった私の、ありのままの姿をそのまま彼に受け入れて欲しかった。でも、私の期待通りになるかは分からない。そんな不安を、私は直視したくなかった。私は臆病で、そして狡猾なのだ。
 部屋の中は微かにタバコの臭いが漂っている。無駄にアジテーショナルな照明がうすボンヤリと室内をあからめていた。
 「あの、私……」私がいい終わる前に、日野さんの体が覆い被さってきた。立ったまま私は彼に抱擁される。胸の鼓動がはち切れんばかりに鼓動する。彼にもきっとバレている事だろうと考えると尚《なお》のこと早くなる。
 そのまま、私の体はベッドの方に押し倒される。衝撃で頭がぼんやりする。すぐに彼の唇が私のそれに重ね合わされた。それに追従するように私も彼の口唇を喰む。アルコールの匂いが鼻腔に入ってくる。彼の体の何処かが私に触れる度に甘美な衝撃が絶えず私の脳を刺激する。
 あれ、ちょっと待てよ。私は初めて何か違和感を覚えた。何か忘れてる気がする。そうだ、アイツだ。アルファ!
 『なんだい?』いつもの間の抜けた返事が返ってきた。
 そこに居るの?
 『がどこを指してるのか分からないよ』
 終わるまでどっか行ってくれない?
 『嫌だよ、真矢から離れたら観察が出来ない』
 その観察を辞めて欲しいのよ! 今だけでいいから。
 彼の手が私の上着の中へと入ってくる。私は小さく喘いだ。
 『それは出来ない。僕にだって使命がある』アルファは頑として言った。
 じゃあせめて、あっち向いてて!
 『無茶言わないでよ……』
 「どうしたの? もしかして嫌?」日野さんが眉をひそめた。私は慌てて首を振って否定の意を示す。
 「ううん、ちょっと緊張してるだけ……」
 日野さんはもう一度私に口付けした。生暖かな舌が私の口腔を撫ぜる。
 私は恍惚とした気持ちでそれを受け入れるのだった。私は今、間違いなく満たされていた。
 
  
  
  
 「ねっ、真矢もそう思うでしょ?」誰かが言った。
 「真矢? ちょっと聞いてる?」
 そう言って私の顔を覗き込むのは礼都だった。私と礼都は一緒に昼食をとっていた。お互いたまたま時間が合ったので一緒に学食に行こうと、彼女の方から声を掛けてきたのだ。
 「えっ⁉︎  ごめん、考え事してて」私は急いで返した。
 「考え事って?」
 「考え事は考え事よ。他に深い意味はないわ」
 「白々しいわね、私が聞いてるのは言葉の意味じゃなくて、その内容よ」
 礼都は逃すまいと追求してくる。話を無視されたのがそんなに気に障ったのか、あるいは私の様子が側見てあまりに普段と違うのかも知れない。実際に、昨日の夜のことがあってから、今日一日どうもソワソワして落ち着かないでいる。講義中も、ついさっきも、気が付けば日野さんの事を考えてしまっている。
 「そんなことより、何の話だったっけ?」
 私はうわついた考えを振り払うためにアイスティーを流し込んだ。
 「だから、工学部の井森君のことよ。最近いつもおんなじ娘といるの、付き合ってるんだと思う」礼都は確信に満ちた表情でそう言った。よくもまぁ証拠もなしにそこまで断定的な事を言えるものだ。
 「真矢もそう思わない?」
 「どうだろう、私はあまり絡みが無いから」
 「女の子の方は?」
 「えーっと、名前なんだっけ? 確か珍しい名字だったよね」
 「栗栖川くりすがわよ、栗栖川くりすがわ。下の名前は知らないけど」礼都が教えてくれた。
 「あー、思い出した。でもそっちとも全然関わりが無いや」
 「なぁんだ、そうなんだ」私の反応を見て、礼都は興が削がれたようだ。手元のスマホを弄り始めた。その様子を見て普段の私なら落ち込むところだろうが、今となってはどうでも良い事のように思えた。そんな事より、早くサークルの始まる時間にならないかと考えていたのだ。
 きっと日野さんに会いたいという気持ちがあるのだろう。会って彼の反応を確認したいのだ。私とセックスして、彼も私と同じような気持ちになってくれたのだろうかと、不安や期待が私の胸中を占領していた。
 
 『オキシトシンとバソプレシンだ』
 サークルへと向かう途中、アルファが唐突に話し始めた。嫌な予感がした私は、無視を決め込む事にした。
 『例えば、小型の齧歯類にプレーリーハタネズミという種がいる。彼らは一夫一妻制だ、一度つがいになれば滅多には他の異性と交尾しない』
 どうやら、お構いなしに講釈を垂れるつもりのようだ。
 『一方でサンガクハタネズミは乱婚だ、近縁種であるはずの二種がこうも生殖活動に違いを見せるのは脳内のオキシトシンとバソプレシンの作用の違いによるものらしい』
 なぜ突然ネズミの話をし始めたのか理解できない。いや、最初からアルファの考える事など理解出来た試しが無いのだが。
 『オキシトシンは他者との絆を形成する上で大きな役割を担っている。生殖相手の選択に関わるバソプレシンが、オキシトシンに共同的に働くことで、プレーリーハタネズミは番と強い愛着を形成するんだ』
 つまり何が言いたいわけ? 私は堪らず聞き返してしまった。
 『人間にも同じことが言えるのではないかと思って。現に君の脳内の室傍核しつぼうかくには、それらを産生する細胞がある』
 人間とネズミを一緒にしないでくれる?
 『勿論、二つは同じ哺乳類と言えど遺伝子的にかなり離れている。それに人間の場合、社会システムも愛着形成に大きく関わっているようだから一概に同じと断じることは出来ない』
 『でも真矢、君が日野に抱く感情の根源は間違いなくそれら内因性物質の影響だ。先のハタネズミと同じように』
 アルファの話がまるで悪魔の囁きのように聴こえた。私のこの思いがネズミと同じ? ふざけないで。心は時計仕掛けじゃない、何でも理屈で説明がつくものではないわ。第一、心を持たないアルファに、私の何が解《わか》るっていうの?
 『解らないよ。だからいつか解るようになりたいんだ』
 
 
 
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