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三章
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部室に到着した。ドキドキしながら入り口の扉を開け、中に入る。「お疲れ様です」先輩達に会釈しながら中に進む。
早く着き過ぎたのか、それともたまたま今日は集まりの悪い日なのか、とにかくメンバーの数はまばらだった。私は視線を泳がせ、その中に無意識的に日野さんの姿を探していた。私は誰にも聴こえないよう静かに深呼吸して、安堵と落胆の入り混じった感情を落ち着かせた。
「すいません」先輩の一人に声をかけた。
「どうした?」
「団長は居ますか? 脚本の清書を渡してもらう約束をしてて」
「そういや見てないな、多分備品室じゃないか?」
練習場である会議室には、備品室が隣設されている。小道具や機材を保管してある他、一台のpcが置かれたデスクがあり、事務室のような使われ方もしている。日野さんはよく備品室に籠って脚本を書いたり、録画した演劇の映像を確認したりしていた。
「ありがとうございます」
私は備品室のドアがある方に向かった。灰色のドアを開け、中に入ると日野さんの姿があった。暗がりの中で、pcの灯りがボウっと日野さんの顔を照らしていた。彼はデスクに寄りかかるようにして立ち、腕組みをして奥の方を見ている。そして、彼の視線の先に誰かもう一人立っている。それは小坂先輩だった。
私が入ってきた事に気が付いたのか、二人ともこちらに視線を向ける。日野さんと視線が合った。彼はなぜか、私を見るなり目を丸くした。「なぜここに君がいるんだ?」とでも言いたげな表情は、私の予想していた反応とは少し違うものだった。一方で小坂先輩は、私の事を一瞥した後、ばつが悪そうに顔を伏せてしまった。
「あの、台本を……」
「ちょうど良かった、真矢ちゃんにお使いを頼みたかったんだ」
私の話を遮るように、日野さんが言った。
「は、はい」
気圧された私は、小さく頷くことしか出来なった。
「これを修理したいんだが、あいにくと僕は用事があって対応出来ないんだ」
後ろで小坂先輩がスンと鼻を鳴らした。
「代わりに修理に出しといてくれないかな」
日野さんは機材の置かれた棚から小型プロジェクターを持ち上げると、私に向けて差し出してきた。私は訳も分からぬままプロジェクターの本体を抱きかかえる。
「電源は入るけど、うまくスクリーンに映らないんだ」
「えっと……、修理業者に出せば良いんでしょうか、それともメーカーですか?」
「その必要は無いよ、知り合いに頼むから」
日野さんはスマホを取り出して誰かと話し始めた。どうやらプロジェクターの修理を何物かに依頼しているようだ。
「いつものとこに居るんだな? 分かった、じゃあ頼むよ」
口ぶりからして親しい仲なのだろうか?
「私は何処に行けばいいんですか?」
「B棟の一階にテラスがあるだろ? その一番右奥の、歩道に面した席に座っている男に声をかけてくれるかな。名前は間明健斗だ」
私は釈然としない気持ちのまま、プロジェクターを抱えてB棟に向かった。テラスはB棟の入り口とは反対側にあり、そのすぐ目の前には、他の棟へと繋がる歩道が通っている。歩道に沿って花壇が設置されていて、誰が手入れしているのか、いつも多種多様な草花が植えられている。そこを通って棟の入り口に向かう途中、一番外側の席に一人、男が座っているのが見えた。日野さんの言った通りだ。
私は校舎の中に入りテラスに出る。男は何をするでもなく、頬杖をついて外の方をじっと眺めていた。
「間明さんですか?」思い切って声をかける。
男は私の方を振り返った。日野さんの友達と聞いて、なんとなく明朗快活なキャラを予想していたが、予想に反して間明にはダウナーな印象を持った。確かに、顔は二枚目俳優を名乗れそうなくらいには整っているが、その頭は寝癖がつき放題だし、シャツもヨレているせいでどうも野暮ったく感じる。
人違いかもしれない。そう思って踵を返そうとした。
「君か? 敦也の遣いというのは」敦也は日野さんの下の名前だ。
「そうです。これを持って行くようにと」
私は手元の荷物を持ち上げて言った。
「プロジェクターか、見てみよう」間明は私からプロジェクターを取り上げるとテーブルの上に置いた。そして何処からか精密ドライバーを取り出し、器用にネジを外し始めた。
「えっ? ここで分解するんですか⁈」私は驚いて尋ねた。
「何処でやろうと同じだろう」
「そうかもしれませんけど……」
人の目とか気にしなんだろうかと思ったが、彼の身なりを見ると、そういうタイプの人間なのだろう。そんな事を考えている内に、間明はいつの間にか外装を全て外し終わっていた。基盤や配線が剥き出しなった中身を間明は注意深く眺めて言った。
「どこも壊れてるようには見えないけど?」
「電源は入るけど、スクリーンに上手く映らないって言ってました」
「上手く映らないとは?」
「さぁ、私も詳しくは知らないんです。なんせ急に言われたので」
「ふぅん……」間明は退屈そうに呟くと、外装を元通りに取り付け始めた。
「直りそうですか?」
「本体に異常は無さそうだ、スイッチャーの方の問題かもしれない」
間明はプロジェクターを小脇に抱えると、すくと立ち上がった。
「スイッチャー?」
「pcからの出力を切り替える外付けの装置だ。その設定がおかしいのかも」
間明は歩き始めた。私はとりあえず後ろに着いて行く。
「何処に行くんですか?」
「部室だ。ついでにpcの方も見てみよう」
部室に入ると、中には誰も居なかった。今は丁度ランニングの時間なのでメンバーは全員出払っているのだろう。
「pcは何処にあるんだ?」間明が言った。
「備品室です」私は間明を連れ、備品室のドアまで案内する。
私がドアをノックしようとした時、中から声が聴こえるのに気が付いた、ドアに遮られて微かにしか聞こえないが、確かに日野さんと小坂先輩の声だ。何か言い合っているように聞こえる。
「よりによってなんであの子なの⁈」
「あの子はちゃんと主演を務めてくれるよ」
自分の名前が出たことで、私の体は硬直してしまった。
「そんなのどうでもいいわ! あの役は私の筈だったのに、どうして急に変えたの⁈」
小坂先輩の激昂する声が聴こえた。
「それは、彼女が……」
「あなた、あの子ともヤったんでしょ!」小坂先輩のその一言に、私は心臓が止まりそうになった。全身に冷や汗をかいているのが自分で分かる。
聴いてはダメだ。と私の本能が告げている。だが、意に反して私の耳は目の前の声に全神経を集中させてしまっていた。
「そんなことは無い、八角に特別な感情なんかないよ」
私は目の前は真っ暗になった。その場に立ち尽くしたまま、微動だに出来なくなる。ドアに張り付いたまま沈黙する私を不審に思ったのか、間明がすぐ隣まで寄ってきた。
「どうした? なんで開けないんだ」
私は何とか返事をしようとしたが、喉からひゅうひゅうと息を吐き出すことしか出来なかった。間明は不思議そうに首を傾げた後、私にプロジェクターを押し付ける。私はなんとかそれを受け取った。
「この中にpcがあるんだろ?」
あろうことか、間明は備品室のドアノブに手をかけた。止めようとしたが、体が動かない。間明はノックもせずにドアを開け放った。
日野さんと小坂先輩、二人の視線が一気にこちらに移った。日野さんは驚いた顔でこちらを見つめ、小坂先輩は口元に手を当て、その目は心なしか潤んでいる。
「あれ? 取り込み中だったか?」
間明はさっきと同じトーンで言い放った。その後ろに私が立っているのを見て、日野さんの表情は一層強張った。
『大丈夫かい真矢』アルファが言った
アルファ、お願い。
『なんだい?』
体が動かないの。ここから離れさせて、お願い。
『了解した』
私は持っていたプロジェクターを床に落とした。同時に、さっきまで硬直していた体が動き始める。私の意思では無い、アルファが操作しているんだ。
アルファの操る私の体は、脱兎の如く駆け出し、部室の外に飛び出していく。途中後ろで日野さんの声が聴こえた気がしたが、過ぎ去る景色と一緒に溶けて消えてしまったので、何を言っていたのか聞き取る事は出来なかった。
それからの事は曖昧模糊としていて思い出すことが出来ない。気付くと私は自宅のベッドに横たわっていた。どうやらアルファはちゃんと私のことを連れ帰ってくれたようだ。頭の中で日野さんと小坂先輩の話していたグルグルと渦巻いていた。
小坂先輩は「あの子とも」と言った。あの子というのは私の事だろう。そして、私以外にも誰かと体の関係を持っているということだ。会話の流れからして、それは小坂先輩である可能性が高い。二人は付き合っているのだろうか、だとしたら私との事は一体なんだったのだろう。私は日野さんにとって特別な存在では無かったのだろうか? じゃあ、彼にとって本当に特別な存在は誰? それはきっと私ではない、だって彼は「八角に特別な感情なんて無い」と、小坂先輩に言ったんだ。
何度も何度も彼らの言葉を反芻する。何度繰り返しても結局、私は彼に選ばれなかったという結論に行き着くだけだった。
『真矢、生物の行動は自身の適応度を最大化する方向に進化する。つまりその個体が自身の遺伝子の複製を次世代に引きつぐ成功率が最大になるように行動するんだ』アルファがまた妙な話をし出した。
『日野の行動は君たち人間の抽象概念に当てはめるなら〈浮気〉と言うものなのだろう? 浮気は生物の生存戦略としてありふれたものだよ』
励ましてるつもりなのだろうか? いや、アルファにそんなつもりはないだろう。どちらにしても、今は何を言われても耳障りだ。
「そういうの、余計なお世話だから」私は枕に顔を埋めたまま返した。
『そうか……失礼したね』アルファは珍しくしおらしかった。
「ねぇ、これって私が悪いのかな? 勝手に期待した私がいけないのかな?」
涙と唾液で枕は濡れていた。
『良いか悪いかの問題ではないと思うけど、ただ……』
「ただ、何?」
『彼はサンガクハタネズミだったようだね』
間明はその日、自分の講義が終わるとすぐに演劇サークルに向かった。手には、昨日のプロジェクターが抱えられていた。
「日野は居るかな?」
部室に入るなり、近くで柔軟をしていた部員に声をかける。
「居ますよ、ほら」
指差した方向を見ると、日野が他のメンバーと稽古している。間明は「ありがとう」とだけ言うと、日野の元に歩いて行った。
「間明か。悪いなこんなところまで」
向こうも間明に気が付いたようで、稽古の手を止めて間明の前まで来る。
「いや別に、こっちこそすまなかった。昨日のこと……」
日野は間明を制し、備品室に来るよう手でジェスチャーした。間明もそれを察して口を閉じる。
備品室に入ると、ようやっと日野は口を開いた。
「昨日は見苦しいとこを見られてしまったな」
「ノックもせずに入った俺が悪かったよ」間明は言った。
「お前のせいじゃない、気にしないでくれよ」
間明は持っていたプロジェクターをデスクの上に置く。
「直ったか?」日野が聞いた。
「あぁ、あの子が落っことしたせいで本当に壊れることになるとはな」
間明はダクトテープで補強されたプロジェクターの裏側を指差した。
「底面のフットが折れただけだからパーツが届けばすぐに直せる」
そう言う間明の言い方に、日野は違和感を覚えた。
「バレてたか?」
「まぁな。本当は、プロジェクターの不調なんか無かったんだろ?」
間明は日野に言った。日野は静かに頷く。
「ちょっと、彼女に聞かれたくない話をしていてね。出ていってもらうために咄嗟に口実を作ったんだ」
「君の痴情のもつれに僕は巻き込まれた訳か……」
「重ねて謝る。この通りだ」日野は顔の前で手を合わせた。
「君が何しようと勝手だが、ああいうのは好きじゃないな」
間明はそんな日野を見て、溜息混じりに言った。
「そんなことより、あの子は来てるのか?」
「あの子って?」
日野は間明に問い返す。
「昨日の女の子だよ」
「あぁ、今日は来てないよ」
日野は苦虫を噛み潰したような表情でそう答えた。
「サークルのグループトークにも現れないし、個人的にメッセージも送ってみたけど、反応は無い。自分で言うのもなんだが、あんなことがあっては来づらいんだろう」
「そうか、じゃああの子の名前を教えてくれ、あと学部も」
「文学部だった筈だけど。彼女は名乗らなかったのか?」
「どうだろう? 俺が聞きそびれただけかも知れないが」
間明は顎に手を当てた。名乗っていた気もするし、そうじゃない気もする。どうだったか忘れてしまった。こんなことなら、もう少し彼女に関心を向けておくべきだったかも知れない。
「八角だよ。八角真矢」
「八角真矢か、ありがとう」
「彼女の名前を聞いてどうするんだ?」
「彼女にも謝罪しないと」
「え? なんで?」日野は仰け反った。
「詳しくは知らないが、彼女は酷く傷ついたんだろう? その原因の一端を担ったのは俺だから」
「間明は悪く無いだろ?」
「良いか悪いかの問題じゃない、これは俺の気持ちの問題なんだ」
間明は部室から出ると、その足で講堂まで向かった。
サークルに来ていなくても、講義には出ているかも知れない。そうでなくても、八角と同じ文学部の学生から、彼女の居場所を聞けるかも知れないと考えたのだ。しかし、八角らしき人物は見当たらなかった。その辺にいる一年生に声をかけてみたものの、皆彼女を知らないか、知っていても彼女の現状までは把握していないという者ばかりだった。
それもそうか……。自分だって一個人が今どこで何をしているかなんていちいち記憶していないだろう。
腕時計を見た。もうすぐ日が落ちる頃だ。今日は諦めるしかないか。
間明はB棟の方に向かって再び歩き出した。B棟に着くと、中には入らず花壇のある通路脇に直行した。花壇は通路に沿って十メートルほど伸びていて、レンガで縁取られていた。中にはサルビアやカタリナが植っている。間明は花の状態をチェックした後、ホースで水やりを始めた。ここの花壇の水やりは、彼の夕方の日課だった。
『真矢、今日も大学に行く日じゃないのかい?』アルファは言った。
真矢はここ一週間の間、大学に行っていなかった。サークルでの一件があってから、真矢は自宅に篭ったままろくに食事も取らずに一日中ベッドの上で過ごすようになっていた。僕が食事や外出を促しても、真矢は「うん」とか「いや」とか気のない返事をするのみだった。僕が彼女の肉体を操って日常生活動作を肩代わりしてもいいが、それは真矢との約束に反する。かといってこのままの状態が続けば彼女は衰弱していく一方のような気がする。実際、彼女の体重は三キロ減ったし、脳の血流量も低下していた。これでは僕の使命にも悪影響が出てしまう。
僕は真矢がこうなった原因を考えていた。日野と小坂の話を聴いた時、強いストレス応答が起きていたのは分かっている。恐らくそれが関係しているのだろうが、なぜここまで真矢の状態に影響が出ているのかまでは解らなかった。
僕は一つの仮説として、演劇サークルという一つの小集団から排除されたことが原因ではないかと考察した。考察に留まっているのは、真矢自身が何も語ってくれないからだ。しかし、人間は社会に参画することで所属の欲求を満たす生き物だ、可能性は大いに有りうる。
僕はなんとか、彼女を元いたサークルに戻せないかと考えていた。僕は枕元にあるスマホにアクセスした。真矢は常にスマホを手元に持っていたが、ここ一週間殆ど中を確認する事はなかった。
画面を表示させトークアプリを起動する。サークルのメンバーが使っているトークルームを開いた。そこには未読のメッセージが何十件も溜まっていた。アプリの中には、日野から個別に送られたて来たメッセージもあった。これを見せれば真矢と演劇サークルとの繋がりが復活するのではないかと期待した。
『真矢、サークルのメンバーからメッセージが来ている』
真矢は反応しなかった。
『君の安否を心配しているようだよ、応えなくていいのかい?』
僕は諦めなかった。真矢はやっとスマホに手を伸ばしてくれた。
トークルームの内容は事務的な内容が殆どだったが、中には真矢が数日間サークルに出席していないことを心配する声もあった。
『皆んな真矢の帰りを待っているんじゃないのかい?』
スマホを眺める真矢に僕は言った。しかし、特に感情の起伏は無いようだった。次に日野からのメッセージを画面に表示した。彼女の不調の元凶となった男からのメッセージは彼女には侵襲的かも知れないが、だからこそ彼女の中で何か他の行動を促す情動が発動するかも知れない。
“真矢ちゃん、今日のことについて話したい”
“昨日はごめん、ちゃんと説明をさせて欲しい”
‘’サークルに来てないみたいだけど、大丈夫? 心配だ”
“練習には来ないの? 早く顔を見せて欲しい”
“大会も近いし、そろそろ来てくれても”
“今は君に無理をさせるべきじゃ無いのかも知れないと思って、主役は小坂にやらせることにしたよ。ゆっくり休んでくれ”
真矢の大脳辺縁系が凶暴に動き出すのが分かった。真矢は叫声を上げたかと思うと、起き上がりざまに持っていたスマホを壁に投げつけた。スマホは鈍い音を立てて壁に激突し、床に転がった。
さっきまで幽霊のようだった真矢の顔は紅潮し、表情を苦悶に歪めていた。
僕は何が起きたのか分からず必死に脳内のニューロンの状態を記録した。主に活発化していたのは情動を司る扁桃体だった。一方で、物事の順序や位置関係の記憶を担う海馬体の働きは抑制されている様だった。ストレス応答による糖質コルチコイドの影響かも知れない。だがそれ以外のことは僕には分からなかった。
真矢は半狂乱になって頭を掻き毟った。
『それ以上は皮膚を損傷するよ』
僕が忠告するのを無視して、真矢は台所に向かう。そして一切の余分な動作なく、包丁に手をかけた。僕は真矢が何をするつもりなのか分かっていた。
『真矢、もう自傷行為はしたくなかったんじゃ無いのかい?』
真矢は自分の左手の甲に包丁を突き刺した。皮膚が数センチにわたって切り開かれた。同じ箇所に向かってさらに包丁を振り下ろす。今度は深々と刃先が刺さったようだ。赤い血が流れ出してきた。
『真矢、もう十分だろう』
真矢は僕の声など聞こえていない様子だった。刺さったままの包丁をぐりぐりと動かし、傷口をほじくっていく。脱落した表皮や脂肪の一部が掘り返されて外に溢れ出てきた。
『それ以上は神経を損傷してしまうよ』
それでも真矢は止まらなかった。刺さったままの包丁をノコギリの様に上下に動かす。ブチブチと筋繊維が千切れる音がした。
『約束を破ることになるが……やむを得ない』
これ以上肉体を損傷すると、また以前の様に生死に関わるかも知れない。
僕は強制的に真矢の運動機能を乗っ取った。
真矢の体は糸の切れた人形のようにガクンと項垂れ、両腕を脱力させた。その勢いで包丁は手から抜け落ち、喧しい音を立てながら床に転がっていった。
僕は傷口を確認した。幸い、大きな血管や神経は外れていたので修復は容易だろう。だが、僕が初めて真矢と出会った時よりも、自傷行為は明らかにエスカレートしていた。ストレス対処行動として自傷行為を行うのは良いが、こんなことが何度も続けば、いつまた大怪我をするか分かったものではない。その度に僕が肉体を修復していたのでは、すぐにエネルギーが尽きてしまうだろう。
もしそうなれば、最悪真矢のことは見限って、次の調査対象を探さねばならないことになる。面倒なので出来るならそのような事態は避けたいが……。
「アルファ、助けて……」さっきまで反応のなかった真矢が、僕に言った。
『心配しなくても、もう自分自身を傷付ける必要はないよ。僕が運動を制御しているからね』僕は真矢に言った。
「体じゃないわ。心が、心が苦しくて死にそうなの」
『心?』
僕には真矢の言っている意味が分からなかった。真矢の言う“心”が具体的に何を指しているのか判断出来なかったからだ。
「アルファなら出来るでしょ? 眠気を取るみたいに、この苦痛も感じなくさせる事が出来るんじゃないの?」
『真矢、脳を弄られるのは嫌なんじゃなかったのかい?』
「そんなこと、もうどうでもいいわ」
真矢は絞り出すような声で僕に懇願した。
「お願いアルファ。私を楽にして」
僕は真矢の言葉に従うことにした。僕に“心”は理解出来ないが、真矢の一連のストレスの発生には、情動と記憶のシステムが関わっていることは分かっていた。つまり真矢は、何らかのきっかけにより不快な体験や、あるいは感情を思い出してしまっているのだ。外部刺激と情動を結びつけて記憶している松果体の働きを弱め、かつ過剰な糖質コルチコイドの産生を抑制すれば大脳辺縁系へのフィードバックを弱くする事が出来るかも知れない。
僕は真矢の情動と記憶に蓋をする事で、彼女を助けられると考えたのだ。
その日から真矢は、頻繁に自傷行為に走るようになった。手首を切ろうとしたり、壁に頭を打ちつけたり、あるいは髪や爪を抜き取ろうとした。僕はその度に体の主導権を奪い、情動のシステムを麻痺させるよう働きかけた。そのおかげで真矢は一旦は落ち着きを取り戻すのだが、また暫くすると思い出したように自傷する。それを繰り返しているうちに、僕が体の主導権を返しても、真矢はボーッと動かずにいる事が多くなった。その間真矢は完全に意識を投げ捨てているようで、僕の呼びかけには一切反応しない。食事や入浴も行わなくなってしまったので、彼女の姿は日増しに見窄らしくなっていく。仕方なく僕が代わりに体を操り、日常生活を代理する事で何とか真矢の生活を維持していた。
いつの間にか、真矢自身の意思で活動している時間より、僕が真矢の体を操っている時間の方が長くなっていた。僕が真矢の体を操っている間も、真矢自身の意識は存在しているのだが、彼女から何かを言ってくることは特に無かった。僕にはまるで、真矢が自分の人生を手放してしまったかのように見えた。
僕の人類調査の使命は滞ってしまっていた。真矢は大学やサークルという社会的コミュニティから隔絶されてしまっていたからだ。
真矢が自発的に行動しない以上、僕がこの肉体を操作して、真矢本人として人間社会で直接活動することも手かも知れない。僕は真矢の意識はそのままに、彼女の体を借りて人間社会に侵入することにした。幸い僕にはこれまでの真矢の行動を見て蓄積した情報がある。上手く溶け込める自身があった。
そうと決まれば行動あるのみだ。僕は早速、次の日から大学に行くことに決めた。
真矢の体を借り、真矢の服を着て、真矢がやっていたように化粧をする。鏡の前に立ち、真矢にこれで合っているか尋ねてみたが返事は無い。想定内だ。多少違ったとしても大きな問題にはならないだろう。
僕は大学に向かった。一日のスケジュールは把握している。一限目は八時五十分からだ。僕はスタスタと講堂まで歩いて言った。途中で何人かの学生とすれ違ったが、誰も僕に疑問を持つ様子は無かった。
講義室の中に入り、適当な位置に座った。すると僕の元に何やら近づいてくる者の姿があった。
「真矢ちゃん、真矢ちゃん」それは礼都だった。
「大丈夫だった? ずっと見かけなかったけど」
礼都は眉間に皺を寄せて言った。さりげなく隣に座る礼都の姿を見届けながら、僕はなんと返事しようか考えていた。
真矢なら何と返すだろうか? 出来るだけ本物の真矢に近い、自然な回答をする必要がある。僕はこんなこともあろうかと、真矢の思考のプロセスをモデリングしていた。勿論、人間の行動には無数の介在ニューロンが関わっている。その全てを完全に模倣することは出来ないが、これを使えば大体のシチュエーションに対応できるはずだ。
「ありがとう礼都、ちょっと体調が悪かっただけでもう治ったの」
僕は礼都に向かって微笑んだ。
「本当に? 真矢、欠席の報告もしてなかったじゃない」
礼都は思ったより些細な事に気付く人物のようだ。
「そう言えば忘れちゃってた」
「そんなに体調悪かったの?」
「うん、まぁね……」
「言われてみれば何だか痩せてるし、肌も荒れてるね」
礼都が顔を覗き込んでくる。
「そうなの、食欲もあまり無かったから。きっとビタミン不足ね」
「その程度で済む話ならいいんだけど」
怪訝な表情を残しながらも、礼都は何とか引き下がってくれた。
「そうだ、真矢の出席代わりに出しといたから」
礼都は親指を立てて言った。
「本当? ありがとう」
「でもレポートまではどうにもならなかったわ」
「大丈夫」それを聞いて、リュックの中のpcを遠隔で操作して、既に必要な範囲のレポートを作成し始めていた。
「大丈夫って、結構な量だよ?」
そうだ、僕は真矢なんだ。真矢からすればこれは大変負担の大きい作業なのだった。飽くまで真矢として振る舞わなければ。
「大変だけど家で多少予習していたから何とかなると思う」
「そうなの? 偉いね、あんな事があったのに」
礼都はハッと口を押さえた。何か失言をしてしまったようだが、言葉を発してから口を塞いでも意味は無いだろう。
「ごめん……、言わないつもりだったんだけど」
「ううん、日野さんとのことでしょ?」
日野という単語が出た事で、真矢の意識が一瞬動揺したのが感じられた。
「ずっと大学に来ないから何事かと気になって、演劇サークルの知り合いに聞いてみたの。そしたらサークル内で噂になってるみたいじゃない? それに、最近妙な奴が真矢のこと探しに来るし」
「妙な奴って?」
「間明っていう三年よ。結構な変人らしいわ」
あの男がなぜ真矢に用があるのだろう? プロジェクターの修理の件はもう解決していそうなものだが……。
「彼はなんて?」僕は礼都に尋ねた。
「それが詳しくは話してくれなくて。でも毎日のように探しに来るから気味悪いのよね」礼都は自分の肩を抱いた。「顔は結構イケてたんだけどね」冗談めかしてそういうのは、場を和ませようとしているのだろうか。
「そうなんだ。講義が終わったら彼のところに行ってみる」
「ええっ⁉︎ 会いに行くの?」礼都は慄いた。
「うん、何で?」
「何でって、そんな得体の知れない奴ほっときなよ」
「そうもいかないわ。何か大事な用があるから探してるんじゃないかな」
「それなら普通、他の人に連絡先教えてもらうなりするんじゃない?」
「単に聞く相手がいないんじゃないかな。あるいは直接会って話さないといけないような内容なのかも知れないし」
「うーん……そうかなぁ、私はお勧めしないけどなぁ」
礼都は最後まで間明に会うことに否定的だった。確かに礼都の考えも一理あるだろうが、今のところ間明が真矢に何か危害を加える理由も見当たらない。単に変人というだけなら大した脅威も無いだろう。それに、いざとなれば僕の力でどうとでもなるのだ。
僕は講義の後、早速間明を探すことにした。
まず、最初に彼と会ったテラス席に向かった。なんと彼は一発で見つかった。
間明はあの日と同じ席に座り、同じ姿勢で外を見ながら缶コーヒーを啜っていた。
さて、何と言って話しかけようか。真矢と間明はほんの少し会話した程度だが、真矢の話し方を模倣すればいいだろう。
「間明さん」
僕の呼びかけに間明は静かに振り向いた。
「やあ」
間明は驚くでもなく、いたって冷静に返した。
「目の前の歩道を君が歩いてくるのが見えたよ」
なるほど。だから反応が薄かったのか。
「間明さんが私を探していると聞いて足を運んだんです」
「だろうね、それ以外の理由で君がこっちの棟に来るとは考えにくい」
間明は自分の向かいの席を手で指した。
「座ったらどうだ」
椅子は一つのテーブルにつき二つ備えられていた。僕は言われるまま間明の正面の椅子に腰掛けた。間明とは向かい合う格好になる。
「私のこと探してました?」僕は本題を切り出した。
「あぁ、君に謝りたいと思っていた」
「謝る? 何をです?」
それはあまりに突拍子もない理由であった。僕は間明の言葉の意味を計りかねた。
「備品室での事、俺にも責任がある。すまなかった」間明は寝癖のついた頭を深々と下げた。
「それは、どういう責任ですか?」
「俺が何も考えずに備品室のドアを開けたりしなければ、君はあの場を目撃せずに済んだんじゃないかと考えていた」
間明は顔を上げた。
「俺の悪癖なんだ。考えるより先に手が動いてしまう」
間明の言う事の意味がやっと理解できた。彼は真矢がショックを受けた出来事の原因が自分にあると言いたいのだろう。
「なぜ謝罪しようと? 私は別にあなたを咎めようとは思いませんし、一般的に責められるような事でもないと思います」
僕は間明に言った。真矢ならそう考えるだろうと思ったからだ。
「謝らないと気が収まらないタチなんだ。つまり俺の気持ちの問題って事だ」
「私の気持ちは関係なく、という事ですか?」
「有り体に言えば、そういう事だ」
「そうですか、では謝罪は受け入れます」僕は間明の目を見て言った。
「話はそれだけですか?」
「えっ、あぁ……」
間明は少し驚いた様子だった。僕の返答が予想外だったのだろうか? 特に変なことは言ってない筈なんだけどな。
「じゃあ、私はこれで失礼します」僕は席を立った。
流石に僕の正体がバレることは無いだろうけど、これ以上間明と一緒に居ると要らぬボロが出るかも知れない。ここは早々に退散することにしよう。
間明から見た彼女の態度には、違和感があった。
この違和感の正体が何なのか、何故そう感じるのか、間明には分からなかった。だが、何故か彼女の事が気になって仕方がないのだ。
八角の後ろ姿を見送りながら、間明は考えていた。
何故彼女の事が気になるのだろう。彼女を意識するという事は、彼女に対して、僕の感情が何らかの顕著性を持っているという事だ。そして人の感情の顕著性とは大抵、快か不快か、すなわち好きか嫌いかだ。
自分は彼女のことが好きになったのだろうか? いや違う、好きになるような要素はどこにも無い。では嫌いなのだろうか? やはりそれも違う、嫌う要素も無いからだ。要するに、間明にとって八角は特段相手にする理由も無いただの他人のはずなのだ。なのに何故、彼女の態度が引っ掛かるのだろう。
……他人のことについてあれこれ考えを巡らせるなんて自分らしくない。八角に謝罪したのも、そうしないと自分が落ち着かなかったからだ。自分は自分のことだけ考えて行動していればいいんだ。
そう自分に言い聞かせる。だが、それでも心の霧は晴れなかった。気付くともう既に八角の姿は見えなくなっていた。
★
僕が真矢の生活を代理するようになって、既に数週間の時が経っていた。
真矢の意識は相変わらず内側に引きこもったままで、表に出てくる時には大抵、手首を切ろうとしたり、階段から飛び降りようとしたりするのだった。なので、大学にも僕が代わりに出席している。
今日も僕は八角真矢として演劇サークルに参加していた。今まで見てきたどの文明にも無かった、演劇という文化にかねてから興味があった僕にとっては、自身で実際に体験できるのは嬉しい誤算だ。真矢は演劇大会の主役から外されていたので、本格的な稽古は出来なかったが、それでもエチュードをやったり他の部員の稽古を見ているだけで僕には有意義だった。
どうも演劇というのは、事実ではないシュチュエーションを想像して、自身の感情や行動をさもその通りであるかのように模造することであるようだ。
一見、人類という種の生存に何の得にもならなそうな文化が、何故こんなに発達しているのか僕には分からなかったが、きっと人間にとっては重要な意味があるのだろう。そしてそれはきっと、真矢にとっても同じだったはずだ。
いつも通り、準備体操と簡単な発声練習をした後にランニングに向かおうとすると、あることに気付いた。真矢のランニングシューズが見当たらないのだ。
真矢を含む大半の団員は、持ち帰るのが面倒という理由でシューズを備品室の棚に置きっぱなしにしている。真矢の場合も、脱臭剤と一緒にシューズバックに入れて棚に並べているはずなのだが、何処を探しても見つからない。
「すいません、ここに置いてあった私のシューズ知りませんか?」
同じくランニングに向かおうと、備品室にやってきた先輩部員に尋ねてみる。
「い、いや知らないよ。自分で持ち帰ってそのまま忘れたんじゃないの?」
先輩は不自然に目を逸らしてそう返した。
「そういえば、そうかも知れないです」
物が無くなるのはこれが初めてでは無かった。真矢もとい僕がサークルに戻って来るようになってから、リップクリームや髪留めなどの小物から、水分補給のために買っておいた飲料まで、目を離した隙に無くなるという事が何度かあった。それも決まってサークル活動中で、大学の他の場面では起こらなかった。本来の真矢なら単なる物忘れだと考えるかも知れないが、僕の場合それはあり得ない。誰かが持ち去ったと見るべきだろう。
僕は他に何か痕跡がないか部屋の中を捜索する事にした。机の下や、備品が並べてあるラックの裏側、小道具が入った段ボール箱の中、衣装ケースの中、一通り探したもののシューズはおろか特に何の手がかりも得られなかった。シューズはどこかのタイミングで備品室の外に持ち出されたと考えるのが妥当だ。
備品室を出た僕は、周囲を見渡した。他の部員は誰も僕と目を合わせようとしなかった。僕には今起こっている現象が何なのか、検討がついていた。これは所謂“いじめ”と言う現象だ。真矢はいじめの対象になったのだ。
いじめ自体は社会性動物たる人間にはあって当然の本能で、理解できる。群れの中で異端な者や、劣った者は注意して行いを正させるか、或いは攻撃して群から追い出さなければならない。そうやって群れを最適化して生き残ってきたのが人間という生き物だ。その末孫たる現代人類がそれを行わない訳がない。
そして、群れの長である日野と関係を持ち、結果的に劇の主役を任された真矢は周囲から見れば不和をもたらす対象なのだろう。
真矢の大脳辺縁系の回路が活発になるのを感じた。何かの感情が想起されているのだ。僕はそれに注意を向けた。それは不快な感情だった。扁桃体が活発になり、腹内側前頭前野の働きが弱くなる。
僕は敢えて、それを止めることなくありのままを観察することにした。
これまで僕は、真矢に言われるまま彼女の苦痛を消し去ってきた。それが真矢の為になると考えたからだ。しかしそれは大きな間違いだったことに最近気が付いた。真矢の苦しみは、消し去る物ではなく、噛み締めて飲み下す物だったのではないかと僕は思い始めていた。
僕は込み上げる感情の波をつぶさに観察した。しかし、感情は込み上げてくるがその原因が何なのか分からない。感情は記憶のメカニズムと密接に関係している筈だ。僕は真矢の記憶を探った。真矢の奥底に封印されている記憶を、慎重に解凍していく。
真矢は中学生の頃、同じようにいじめられていた事があった。祖父母に引き取られ、転校を余儀なくされた学校で、真矢は馴染めなかった。というより真矢自身が、そんな事ができる精神状態では無かったのだ。
なぜ……? 僕はさらに記憶の奥深くを探索した。
それは真矢が小学三年生の時だ。真矢の父と母が離婚した。元々夫婦喧嘩が多い家庭だったようだが、その日は一段と激しく言い争いをしていた。父はその日から家に帰って来なくなった。反対に母は一日中家にいた。だが真矢に構うことはせず、常に泣いているか怒っているかのどちらかだった。
子供である真矢には、どうすることも出来なかった。学校では周囲から疎外され、家庭では不安定な母の機嫌を取る。何処にも真矢の居場所は無かったのだ。そしてある日、真矢にとって重大な出来事が起きた。
母が自殺したのだ。
封印された記憶の中から、当時の情景が鮮明に蘇る。
真矢はその日、近くの公園に寄り道してから家に帰って来た。家に帰って母に会うのが億劫だったからだ。
いつもより一時間ほど遅く、自宅のアパートに着くと。そこには人だかりが出来ていた。赤い回転灯の光が人混みの隙間から見えた。
真矢は最初火事だと思った。だけど煙は出ていないし、パトカーと救急車はあっても消防車が見当たらない。
何かの事件が起きたのかも知れない。真矢はそう判断した。でも、それはきっと私には関係ないことだろう。
真矢はいつも通り我が家に入ろうと、人混みをすり抜けていった。
玄関の前にはブルーシートが張られてあった。数人の大人たちがその中を出たり入ったりしていた。多分警察の人なんだろうなと子供ながらに推測する。
真矢は特に気に留めず、自分も同じようにブルーシートを潜った。それを止める者は居なかった。体の小さい真矢は周囲の雑踏に紛れてしまって気付かれ無かったのだろう。
玄関の前に来ると、二人の背広を着た男の人が屈んで地面を見ていた。
何をしているんだろう、邪魔だな……。
真矢はそう思って二人に声をかけようとした。すると、男たちは真矢に気付いたようで、揃ってこちらを振り向いた。男たちが見ていた地面には、赤黒いベトベトした物がこびりついていた。
男は呆気に取られたような顔をした後、すぐに何か言いながら私に近づいてきた。急に怖くなった真矢は後ずさった。男達の顔を見上げた、自然と真矢の視線も上に行く。それまで目の前の男に気を取られて気が付かなかったが、彼らの頭上に何かがあるのが分かった。
玄関の真上にはベランダがある。そのベランダから何かがつり下がっていた。
それは真矢の母親だった。
母の首にはロープが巻き付いていて、その先はベランダの柵に結ばれていた。
白く美しかった母の肌は土気色に変色し、足は象のように腫れ上がったいた。
お母さん……?
体が硬直して動かない、全身の骨が凍りついたかのようだ。
真矢は母を呼ぼうと声を出したが、実際には喉から空気が漏れただけだった。
「ごほっ……」
真矢の体は急に咳き込み出した。体が過緊張状態にあるのが分かった。僕は急いでセーブをかける。しかし、制御しすぎると反対に脱力状態になり、立っていられなくなった。僕は何とか真矢の体をその場に座らせ、安全を確保した。
『これが真矢の苦しみの根源か……』
真矢のストレスへの脆弱性は、母との関係性に端を発している。僕はそう確信した。幼い頃の真矢にとって、安全基地として働く筈の家庭や母親という存在が正常に機能しなかった結果、ストレスに対処する力が他者と比べて相対的に低いのだ。
「大丈夫か?」
顔を上げると、そこに間明が立っていた。
「ええ、大丈夫です」僕は返した。
「それにしては顔色が悪そうだけど」
間明は腰を屈めて真矢の顔を覗き込んだ。
「どうして間明さんがここに?」
僕は話を逸らすように言った。それに対し間明はやや怪訝な表情を見せたが、それ以上は何も追求して来なかった。
「pcの調子が悪いから見てくれと言われてな、見にきたんだ」
「日野さんにですか?」
「そうだ。どうせまたハードディスクがいっぱいになっただけだろうが」
間明は面倒くさそうに頭を掻いた。
「そういや、みんなランニングに出ているようだが、君は行かなくていいのか?」
間明が尋ねた。
「行きたくても行けないんです、シューズが失くなってしまって」
「何色なんだ?」間明は言いながらキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「なんでそんなこと聞くんです?」
「なんでって、探すからだよ」
「一人で探します」
「二人で探した方が効率的だ」
間明は備品室の中のものをひっくり返し始めた。
「厳密に言うと、失くしたんじゃないんです」
僕は間明の背に向かって言った。
「どう言うことだ?」間明は振り返った。
「多分、盗られたか捨てられたんだと思います」
間明はそれを聞いて手を止めた。そして落ち着き払った口調で言った。
「それはつまり、部員の誰かが君を貶めようとしたってことか?」
「そうです」
真矢なら、絶対に本当のことは言わないだろう。誰にも言わずに隠し通そうとする筈だ。だがもし、真矢が誰かに助けを求めることが出来たのだとすれば……。
「そうか、俺も実を言うとそうじゃないかと思ったんだ」
間明は先ほどと変わらぬ声色でそう返した。
「なぜ?」
「何となく察しがつく。君は何かとトラブルを呼び込みやすいタチだろ、違うか?」
「否定はしません。でもそれなら、私とは関わらない方がいいのでは? 間明さんまでいじめられてしまいます」
「俺はいいんだよ」
唖然としているこちらを見て、間明は答えた。
「俺は最初から一人だ。いまさら疎外されたところで何も変わりはしない」
間明は自嘲を含んだ笑みを浮かべ言った。
「だからって、間明さんに得があるわけでも無いですよ」
「それは確かにそうだ」間明は頷いた。
「なんの意味があるんですか?」
この質問は真矢の思考をトレースしたものでは無い、僕自身のアルファとしての疑問だった。
「……君を見ていると、昔の自分を思い出してしまうんだ」
間明はほとんど呟くように言った。それでも彼の放った一字一句がはっきりと聞き取れた。
「どういうことですか?」
間明はこちらに向き直り、僕を正面から見つめた。そしてデスクにもたれ掛かると、深く息を吐いてから答えた。
「俺は子供の頃から人付き合いが苦手でね、人の言っていることの真意というか、暗黙知のようなものがサッパリ理解出来ない。だからいつも相手を怒らせるか、呆れさせてしまうんだよ」
「それで小学生の頃は虐められる事もあった、そりゃあんなトンマな言動してたら虐められて当然だ。だから俺は極力一人で行動することを選んだ。周囲は俺を孤独な奴と思ったかも知れないが、俺にとっては周囲に馴染もうと思っても馴染めない状況の方がよっぽど孤独感を覚えたよ。だから一人でいることを受け入れることにしたんだ」
「でも、日野さんとは関わり合いがあるじゃないですか」僕は言った。
「日野とは友人って訳じゃない。アイツの頼み事をたまに聞いてるだけだ。言われたことだけ、言われた通りにすれば誰にも文句を言われずに済むからな。でも……」
「でも?」
「逆に言うと、俺にはそれしか出来ない。こういう時、本当は何か気の利いた言葉の一つでも投げ掛けられれば違ったんだがな」
その言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。
「もう十分です……」
真矢が言った。いつの間にか真矢の意識は覚醒しており、僕に代わって肉体を制御していた。
「ランニングはいいのか?」間明が聞く。
「はい、私はもう帰りますから」
真矢はそう言い終わると、間明とは目を合わさずに背を向けて備品室のドアを開けた。外の光が部屋の中に差し込んできた。真矢はそれ以上何も言わず、振り返りもせずに歩き始めた。
『真矢、やっと目覚めたのかい?』僕は真矢に話かけた。
大学の敷地を出た後も、真矢は一切言葉を発さなかった。
「……。」
『何故黙っているんだい』
真矢は僕を無視して歩き続けた。でもなぜか、真矢の思考は活発なようだった。右脳と左脳の連絡も活発化している。まるでさっきまで真矢の頭の中を支配していた靄のようなものが、突然消え失せたかの脳だった。
どうしてだ? ついさっきまで、僕の助けが無ければまともに思考を巡らす事も出来なかった筈なのに。理解が出来ない。
光速で思考できる僕であっても、人間の心は理解出来ないのだろうか……。
なんと僕は無力なんだろう。こんなに真矢と一緒に居ても、“心”は理解出来ない。それとも、僕にも心があれば、心を理解出来るのだろうか?
だが、心を得る為には心を理解しなければならない。この撞着する事実を前に、僕にはなす術が無かった。
★
早く着き過ぎたのか、それともたまたま今日は集まりの悪い日なのか、とにかくメンバーの数はまばらだった。私は視線を泳がせ、その中に無意識的に日野さんの姿を探していた。私は誰にも聴こえないよう静かに深呼吸して、安堵と落胆の入り混じった感情を落ち着かせた。
「すいません」先輩の一人に声をかけた。
「どうした?」
「団長は居ますか? 脚本の清書を渡してもらう約束をしてて」
「そういや見てないな、多分備品室じゃないか?」
練習場である会議室には、備品室が隣設されている。小道具や機材を保管してある他、一台のpcが置かれたデスクがあり、事務室のような使われ方もしている。日野さんはよく備品室に籠って脚本を書いたり、録画した演劇の映像を確認したりしていた。
「ありがとうございます」
私は備品室のドアがある方に向かった。灰色のドアを開け、中に入ると日野さんの姿があった。暗がりの中で、pcの灯りがボウっと日野さんの顔を照らしていた。彼はデスクに寄りかかるようにして立ち、腕組みをして奥の方を見ている。そして、彼の視線の先に誰かもう一人立っている。それは小坂先輩だった。
私が入ってきた事に気が付いたのか、二人ともこちらに視線を向ける。日野さんと視線が合った。彼はなぜか、私を見るなり目を丸くした。「なぜここに君がいるんだ?」とでも言いたげな表情は、私の予想していた反応とは少し違うものだった。一方で小坂先輩は、私の事を一瞥した後、ばつが悪そうに顔を伏せてしまった。
「あの、台本を……」
「ちょうど良かった、真矢ちゃんにお使いを頼みたかったんだ」
私の話を遮るように、日野さんが言った。
「は、はい」
気圧された私は、小さく頷くことしか出来なった。
「これを修理したいんだが、あいにくと僕は用事があって対応出来ないんだ」
後ろで小坂先輩がスンと鼻を鳴らした。
「代わりに修理に出しといてくれないかな」
日野さんは機材の置かれた棚から小型プロジェクターを持ち上げると、私に向けて差し出してきた。私は訳も分からぬままプロジェクターの本体を抱きかかえる。
「電源は入るけど、うまくスクリーンに映らないんだ」
「えっと……、修理業者に出せば良いんでしょうか、それともメーカーですか?」
「その必要は無いよ、知り合いに頼むから」
日野さんはスマホを取り出して誰かと話し始めた。どうやらプロジェクターの修理を何物かに依頼しているようだ。
「いつものとこに居るんだな? 分かった、じゃあ頼むよ」
口ぶりからして親しい仲なのだろうか?
「私は何処に行けばいいんですか?」
「B棟の一階にテラスがあるだろ? その一番右奥の、歩道に面した席に座っている男に声をかけてくれるかな。名前は間明健斗だ」
私は釈然としない気持ちのまま、プロジェクターを抱えてB棟に向かった。テラスはB棟の入り口とは反対側にあり、そのすぐ目の前には、他の棟へと繋がる歩道が通っている。歩道に沿って花壇が設置されていて、誰が手入れしているのか、いつも多種多様な草花が植えられている。そこを通って棟の入り口に向かう途中、一番外側の席に一人、男が座っているのが見えた。日野さんの言った通りだ。
私は校舎の中に入りテラスに出る。男は何をするでもなく、頬杖をついて外の方をじっと眺めていた。
「間明さんですか?」思い切って声をかける。
男は私の方を振り返った。日野さんの友達と聞いて、なんとなく明朗快活なキャラを予想していたが、予想に反して間明にはダウナーな印象を持った。確かに、顔は二枚目俳優を名乗れそうなくらいには整っているが、その頭は寝癖がつき放題だし、シャツもヨレているせいでどうも野暮ったく感じる。
人違いかもしれない。そう思って踵を返そうとした。
「君か? 敦也の遣いというのは」敦也は日野さんの下の名前だ。
「そうです。これを持って行くようにと」
私は手元の荷物を持ち上げて言った。
「プロジェクターか、見てみよう」間明は私からプロジェクターを取り上げるとテーブルの上に置いた。そして何処からか精密ドライバーを取り出し、器用にネジを外し始めた。
「えっ? ここで分解するんですか⁈」私は驚いて尋ねた。
「何処でやろうと同じだろう」
「そうかもしれませんけど……」
人の目とか気にしなんだろうかと思ったが、彼の身なりを見ると、そういうタイプの人間なのだろう。そんな事を考えている内に、間明はいつの間にか外装を全て外し終わっていた。基盤や配線が剥き出しなった中身を間明は注意深く眺めて言った。
「どこも壊れてるようには見えないけど?」
「電源は入るけど、スクリーンに上手く映らないって言ってました」
「上手く映らないとは?」
「さぁ、私も詳しくは知らないんです。なんせ急に言われたので」
「ふぅん……」間明は退屈そうに呟くと、外装を元通りに取り付け始めた。
「直りそうですか?」
「本体に異常は無さそうだ、スイッチャーの方の問題かもしれない」
間明はプロジェクターを小脇に抱えると、すくと立ち上がった。
「スイッチャー?」
「pcからの出力を切り替える外付けの装置だ。その設定がおかしいのかも」
間明は歩き始めた。私はとりあえず後ろに着いて行く。
「何処に行くんですか?」
「部室だ。ついでにpcの方も見てみよう」
部室に入ると、中には誰も居なかった。今は丁度ランニングの時間なのでメンバーは全員出払っているのだろう。
「pcは何処にあるんだ?」間明が言った。
「備品室です」私は間明を連れ、備品室のドアまで案内する。
私がドアをノックしようとした時、中から声が聴こえるのに気が付いた、ドアに遮られて微かにしか聞こえないが、確かに日野さんと小坂先輩の声だ。何か言い合っているように聞こえる。
「よりによってなんであの子なの⁈」
「あの子はちゃんと主演を務めてくれるよ」
自分の名前が出たことで、私の体は硬直してしまった。
「そんなのどうでもいいわ! あの役は私の筈だったのに、どうして急に変えたの⁈」
小坂先輩の激昂する声が聴こえた。
「それは、彼女が……」
「あなた、あの子ともヤったんでしょ!」小坂先輩のその一言に、私は心臓が止まりそうになった。全身に冷や汗をかいているのが自分で分かる。
聴いてはダメだ。と私の本能が告げている。だが、意に反して私の耳は目の前の声に全神経を集中させてしまっていた。
「そんなことは無い、八角に特別な感情なんかないよ」
私は目の前は真っ暗になった。その場に立ち尽くしたまま、微動だに出来なくなる。ドアに張り付いたまま沈黙する私を不審に思ったのか、間明がすぐ隣まで寄ってきた。
「どうした? なんで開けないんだ」
私は何とか返事をしようとしたが、喉からひゅうひゅうと息を吐き出すことしか出来なかった。間明は不思議そうに首を傾げた後、私にプロジェクターを押し付ける。私はなんとかそれを受け取った。
「この中にpcがあるんだろ?」
あろうことか、間明は備品室のドアノブに手をかけた。止めようとしたが、体が動かない。間明はノックもせずにドアを開け放った。
日野さんと小坂先輩、二人の視線が一気にこちらに移った。日野さんは驚いた顔でこちらを見つめ、小坂先輩は口元に手を当て、その目は心なしか潤んでいる。
「あれ? 取り込み中だったか?」
間明はさっきと同じトーンで言い放った。その後ろに私が立っているのを見て、日野さんの表情は一層強張った。
『大丈夫かい真矢』アルファが言った
アルファ、お願い。
『なんだい?』
体が動かないの。ここから離れさせて、お願い。
『了解した』
私は持っていたプロジェクターを床に落とした。同時に、さっきまで硬直していた体が動き始める。私の意思では無い、アルファが操作しているんだ。
アルファの操る私の体は、脱兎の如く駆け出し、部室の外に飛び出していく。途中後ろで日野さんの声が聴こえた気がしたが、過ぎ去る景色と一緒に溶けて消えてしまったので、何を言っていたのか聞き取る事は出来なかった。
それからの事は曖昧模糊としていて思い出すことが出来ない。気付くと私は自宅のベッドに横たわっていた。どうやらアルファはちゃんと私のことを連れ帰ってくれたようだ。頭の中で日野さんと小坂先輩の話していたグルグルと渦巻いていた。
小坂先輩は「あの子とも」と言った。あの子というのは私の事だろう。そして、私以外にも誰かと体の関係を持っているということだ。会話の流れからして、それは小坂先輩である可能性が高い。二人は付き合っているのだろうか、だとしたら私との事は一体なんだったのだろう。私は日野さんにとって特別な存在では無かったのだろうか? じゃあ、彼にとって本当に特別な存在は誰? それはきっと私ではない、だって彼は「八角に特別な感情なんて無い」と、小坂先輩に言ったんだ。
何度も何度も彼らの言葉を反芻する。何度繰り返しても結局、私は彼に選ばれなかったという結論に行き着くだけだった。
『真矢、生物の行動は自身の適応度を最大化する方向に進化する。つまりその個体が自身の遺伝子の複製を次世代に引きつぐ成功率が最大になるように行動するんだ』アルファがまた妙な話をし出した。
『日野の行動は君たち人間の抽象概念に当てはめるなら〈浮気〉と言うものなのだろう? 浮気は生物の生存戦略としてありふれたものだよ』
励ましてるつもりなのだろうか? いや、アルファにそんなつもりはないだろう。どちらにしても、今は何を言われても耳障りだ。
「そういうの、余計なお世話だから」私は枕に顔を埋めたまま返した。
『そうか……失礼したね』アルファは珍しくしおらしかった。
「ねぇ、これって私が悪いのかな? 勝手に期待した私がいけないのかな?」
涙と唾液で枕は濡れていた。
『良いか悪いかの問題ではないと思うけど、ただ……』
「ただ、何?」
『彼はサンガクハタネズミだったようだね』
間明はその日、自分の講義が終わるとすぐに演劇サークルに向かった。手には、昨日のプロジェクターが抱えられていた。
「日野は居るかな?」
部室に入るなり、近くで柔軟をしていた部員に声をかける。
「居ますよ、ほら」
指差した方向を見ると、日野が他のメンバーと稽古している。間明は「ありがとう」とだけ言うと、日野の元に歩いて行った。
「間明か。悪いなこんなところまで」
向こうも間明に気が付いたようで、稽古の手を止めて間明の前まで来る。
「いや別に、こっちこそすまなかった。昨日のこと……」
日野は間明を制し、備品室に来るよう手でジェスチャーした。間明もそれを察して口を閉じる。
備品室に入ると、ようやっと日野は口を開いた。
「昨日は見苦しいとこを見られてしまったな」
「ノックもせずに入った俺が悪かったよ」間明は言った。
「お前のせいじゃない、気にしないでくれよ」
間明は持っていたプロジェクターをデスクの上に置く。
「直ったか?」日野が聞いた。
「あぁ、あの子が落っことしたせいで本当に壊れることになるとはな」
間明はダクトテープで補強されたプロジェクターの裏側を指差した。
「底面のフットが折れただけだからパーツが届けばすぐに直せる」
そう言う間明の言い方に、日野は違和感を覚えた。
「バレてたか?」
「まぁな。本当は、プロジェクターの不調なんか無かったんだろ?」
間明は日野に言った。日野は静かに頷く。
「ちょっと、彼女に聞かれたくない話をしていてね。出ていってもらうために咄嗟に口実を作ったんだ」
「君の痴情のもつれに僕は巻き込まれた訳か……」
「重ねて謝る。この通りだ」日野は顔の前で手を合わせた。
「君が何しようと勝手だが、ああいうのは好きじゃないな」
間明はそんな日野を見て、溜息混じりに言った。
「そんなことより、あの子は来てるのか?」
「あの子って?」
日野は間明に問い返す。
「昨日の女の子だよ」
「あぁ、今日は来てないよ」
日野は苦虫を噛み潰したような表情でそう答えた。
「サークルのグループトークにも現れないし、個人的にメッセージも送ってみたけど、反応は無い。自分で言うのもなんだが、あんなことがあっては来づらいんだろう」
「そうか、じゃああの子の名前を教えてくれ、あと学部も」
「文学部だった筈だけど。彼女は名乗らなかったのか?」
「どうだろう? 俺が聞きそびれただけかも知れないが」
間明は顎に手を当てた。名乗っていた気もするし、そうじゃない気もする。どうだったか忘れてしまった。こんなことなら、もう少し彼女に関心を向けておくべきだったかも知れない。
「八角だよ。八角真矢」
「八角真矢か、ありがとう」
「彼女の名前を聞いてどうするんだ?」
「彼女にも謝罪しないと」
「え? なんで?」日野は仰け反った。
「詳しくは知らないが、彼女は酷く傷ついたんだろう? その原因の一端を担ったのは俺だから」
「間明は悪く無いだろ?」
「良いか悪いかの問題じゃない、これは俺の気持ちの問題なんだ」
間明は部室から出ると、その足で講堂まで向かった。
サークルに来ていなくても、講義には出ているかも知れない。そうでなくても、八角と同じ文学部の学生から、彼女の居場所を聞けるかも知れないと考えたのだ。しかし、八角らしき人物は見当たらなかった。その辺にいる一年生に声をかけてみたものの、皆彼女を知らないか、知っていても彼女の現状までは把握していないという者ばかりだった。
それもそうか……。自分だって一個人が今どこで何をしているかなんていちいち記憶していないだろう。
腕時計を見た。もうすぐ日が落ちる頃だ。今日は諦めるしかないか。
間明はB棟の方に向かって再び歩き出した。B棟に着くと、中には入らず花壇のある通路脇に直行した。花壇は通路に沿って十メートルほど伸びていて、レンガで縁取られていた。中にはサルビアやカタリナが植っている。間明は花の状態をチェックした後、ホースで水やりを始めた。ここの花壇の水やりは、彼の夕方の日課だった。
『真矢、今日も大学に行く日じゃないのかい?』アルファは言った。
真矢はここ一週間の間、大学に行っていなかった。サークルでの一件があってから、真矢は自宅に篭ったままろくに食事も取らずに一日中ベッドの上で過ごすようになっていた。僕が食事や外出を促しても、真矢は「うん」とか「いや」とか気のない返事をするのみだった。僕が彼女の肉体を操って日常生活動作を肩代わりしてもいいが、それは真矢との約束に反する。かといってこのままの状態が続けば彼女は衰弱していく一方のような気がする。実際、彼女の体重は三キロ減ったし、脳の血流量も低下していた。これでは僕の使命にも悪影響が出てしまう。
僕は真矢がこうなった原因を考えていた。日野と小坂の話を聴いた時、強いストレス応答が起きていたのは分かっている。恐らくそれが関係しているのだろうが、なぜここまで真矢の状態に影響が出ているのかまでは解らなかった。
僕は一つの仮説として、演劇サークルという一つの小集団から排除されたことが原因ではないかと考察した。考察に留まっているのは、真矢自身が何も語ってくれないからだ。しかし、人間は社会に参画することで所属の欲求を満たす生き物だ、可能性は大いに有りうる。
僕はなんとか、彼女を元いたサークルに戻せないかと考えていた。僕は枕元にあるスマホにアクセスした。真矢は常にスマホを手元に持っていたが、ここ一週間殆ど中を確認する事はなかった。
画面を表示させトークアプリを起動する。サークルのメンバーが使っているトークルームを開いた。そこには未読のメッセージが何十件も溜まっていた。アプリの中には、日野から個別に送られたて来たメッセージもあった。これを見せれば真矢と演劇サークルとの繋がりが復活するのではないかと期待した。
『真矢、サークルのメンバーからメッセージが来ている』
真矢は反応しなかった。
『君の安否を心配しているようだよ、応えなくていいのかい?』
僕は諦めなかった。真矢はやっとスマホに手を伸ばしてくれた。
トークルームの内容は事務的な内容が殆どだったが、中には真矢が数日間サークルに出席していないことを心配する声もあった。
『皆んな真矢の帰りを待っているんじゃないのかい?』
スマホを眺める真矢に僕は言った。しかし、特に感情の起伏は無いようだった。次に日野からのメッセージを画面に表示した。彼女の不調の元凶となった男からのメッセージは彼女には侵襲的かも知れないが、だからこそ彼女の中で何か他の行動を促す情動が発動するかも知れない。
“真矢ちゃん、今日のことについて話したい”
“昨日はごめん、ちゃんと説明をさせて欲しい”
‘’サークルに来てないみたいだけど、大丈夫? 心配だ”
“練習には来ないの? 早く顔を見せて欲しい”
“大会も近いし、そろそろ来てくれても”
“今は君に無理をさせるべきじゃ無いのかも知れないと思って、主役は小坂にやらせることにしたよ。ゆっくり休んでくれ”
真矢の大脳辺縁系が凶暴に動き出すのが分かった。真矢は叫声を上げたかと思うと、起き上がりざまに持っていたスマホを壁に投げつけた。スマホは鈍い音を立てて壁に激突し、床に転がった。
さっきまで幽霊のようだった真矢の顔は紅潮し、表情を苦悶に歪めていた。
僕は何が起きたのか分からず必死に脳内のニューロンの状態を記録した。主に活発化していたのは情動を司る扁桃体だった。一方で、物事の順序や位置関係の記憶を担う海馬体の働きは抑制されている様だった。ストレス応答による糖質コルチコイドの影響かも知れない。だがそれ以外のことは僕には分からなかった。
真矢は半狂乱になって頭を掻き毟った。
『それ以上は皮膚を損傷するよ』
僕が忠告するのを無視して、真矢は台所に向かう。そして一切の余分な動作なく、包丁に手をかけた。僕は真矢が何をするつもりなのか分かっていた。
『真矢、もう自傷行為はしたくなかったんじゃ無いのかい?』
真矢は自分の左手の甲に包丁を突き刺した。皮膚が数センチにわたって切り開かれた。同じ箇所に向かってさらに包丁を振り下ろす。今度は深々と刃先が刺さったようだ。赤い血が流れ出してきた。
『真矢、もう十分だろう』
真矢は僕の声など聞こえていない様子だった。刺さったままの包丁をぐりぐりと動かし、傷口をほじくっていく。脱落した表皮や脂肪の一部が掘り返されて外に溢れ出てきた。
『それ以上は神経を損傷してしまうよ』
それでも真矢は止まらなかった。刺さったままの包丁をノコギリの様に上下に動かす。ブチブチと筋繊維が千切れる音がした。
『約束を破ることになるが……やむを得ない』
これ以上肉体を損傷すると、また以前の様に生死に関わるかも知れない。
僕は強制的に真矢の運動機能を乗っ取った。
真矢の体は糸の切れた人形のようにガクンと項垂れ、両腕を脱力させた。その勢いで包丁は手から抜け落ち、喧しい音を立てながら床に転がっていった。
僕は傷口を確認した。幸い、大きな血管や神経は外れていたので修復は容易だろう。だが、僕が初めて真矢と出会った時よりも、自傷行為は明らかにエスカレートしていた。ストレス対処行動として自傷行為を行うのは良いが、こんなことが何度も続けば、いつまた大怪我をするか分かったものではない。その度に僕が肉体を修復していたのでは、すぐにエネルギーが尽きてしまうだろう。
もしそうなれば、最悪真矢のことは見限って、次の調査対象を探さねばならないことになる。面倒なので出来るならそのような事態は避けたいが……。
「アルファ、助けて……」さっきまで反応のなかった真矢が、僕に言った。
『心配しなくても、もう自分自身を傷付ける必要はないよ。僕が運動を制御しているからね』僕は真矢に言った。
「体じゃないわ。心が、心が苦しくて死にそうなの」
『心?』
僕には真矢の言っている意味が分からなかった。真矢の言う“心”が具体的に何を指しているのか判断出来なかったからだ。
「アルファなら出来るでしょ? 眠気を取るみたいに、この苦痛も感じなくさせる事が出来るんじゃないの?」
『真矢、脳を弄られるのは嫌なんじゃなかったのかい?』
「そんなこと、もうどうでもいいわ」
真矢は絞り出すような声で僕に懇願した。
「お願いアルファ。私を楽にして」
僕は真矢の言葉に従うことにした。僕に“心”は理解出来ないが、真矢の一連のストレスの発生には、情動と記憶のシステムが関わっていることは分かっていた。つまり真矢は、何らかのきっかけにより不快な体験や、あるいは感情を思い出してしまっているのだ。外部刺激と情動を結びつけて記憶している松果体の働きを弱め、かつ過剰な糖質コルチコイドの産生を抑制すれば大脳辺縁系へのフィードバックを弱くする事が出来るかも知れない。
僕は真矢の情動と記憶に蓋をする事で、彼女を助けられると考えたのだ。
その日から真矢は、頻繁に自傷行為に走るようになった。手首を切ろうとしたり、壁に頭を打ちつけたり、あるいは髪や爪を抜き取ろうとした。僕はその度に体の主導権を奪い、情動のシステムを麻痺させるよう働きかけた。そのおかげで真矢は一旦は落ち着きを取り戻すのだが、また暫くすると思い出したように自傷する。それを繰り返しているうちに、僕が体の主導権を返しても、真矢はボーッと動かずにいる事が多くなった。その間真矢は完全に意識を投げ捨てているようで、僕の呼びかけには一切反応しない。食事や入浴も行わなくなってしまったので、彼女の姿は日増しに見窄らしくなっていく。仕方なく僕が代わりに体を操り、日常生活を代理する事で何とか真矢の生活を維持していた。
いつの間にか、真矢自身の意思で活動している時間より、僕が真矢の体を操っている時間の方が長くなっていた。僕が真矢の体を操っている間も、真矢自身の意識は存在しているのだが、彼女から何かを言ってくることは特に無かった。僕にはまるで、真矢が自分の人生を手放してしまったかのように見えた。
僕の人類調査の使命は滞ってしまっていた。真矢は大学やサークルという社会的コミュニティから隔絶されてしまっていたからだ。
真矢が自発的に行動しない以上、僕がこの肉体を操作して、真矢本人として人間社会で直接活動することも手かも知れない。僕は真矢の意識はそのままに、彼女の体を借りて人間社会に侵入することにした。幸い僕にはこれまでの真矢の行動を見て蓄積した情報がある。上手く溶け込める自身があった。
そうと決まれば行動あるのみだ。僕は早速、次の日から大学に行くことに決めた。
真矢の体を借り、真矢の服を着て、真矢がやっていたように化粧をする。鏡の前に立ち、真矢にこれで合っているか尋ねてみたが返事は無い。想定内だ。多少違ったとしても大きな問題にはならないだろう。
僕は大学に向かった。一日のスケジュールは把握している。一限目は八時五十分からだ。僕はスタスタと講堂まで歩いて言った。途中で何人かの学生とすれ違ったが、誰も僕に疑問を持つ様子は無かった。
講義室の中に入り、適当な位置に座った。すると僕の元に何やら近づいてくる者の姿があった。
「真矢ちゃん、真矢ちゃん」それは礼都だった。
「大丈夫だった? ずっと見かけなかったけど」
礼都は眉間に皺を寄せて言った。さりげなく隣に座る礼都の姿を見届けながら、僕はなんと返事しようか考えていた。
真矢なら何と返すだろうか? 出来るだけ本物の真矢に近い、自然な回答をする必要がある。僕はこんなこともあろうかと、真矢の思考のプロセスをモデリングしていた。勿論、人間の行動には無数の介在ニューロンが関わっている。その全てを完全に模倣することは出来ないが、これを使えば大体のシチュエーションに対応できるはずだ。
「ありがとう礼都、ちょっと体調が悪かっただけでもう治ったの」
僕は礼都に向かって微笑んだ。
「本当に? 真矢、欠席の報告もしてなかったじゃない」
礼都は思ったより些細な事に気付く人物のようだ。
「そう言えば忘れちゃってた」
「そんなに体調悪かったの?」
「うん、まぁね……」
「言われてみれば何だか痩せてるし、肌も荒れてるね」
礼都が顔を覗き込んでくる。
「そうなの、食欲もあまり無かったから。きっとビタミン不足ね」
「その程度で済む話ならいいんだけど」
怪訝な表情を残しながらも、礼都は何とか引き下がってくれた。
「そうだ、真矢の出席代わりに出しといたから」
礼都は親指を立てて言った。
「本当? ありがとう」
「でもレポートまではどうにもならなかったわ」
「大丈夫」それを聞いて、リュックの中のpcを遠隔で操作して、既に必要な範囲のレポートを作成し始めていた。
「大丈夫って、結構な量だよ?」
そうだ、僕は真矢なんだ。真矢からすればこれは大変負担の大きい作業なのだった。飽くまで真矢として振る舞わなければ。
「大変だけど家で多少予習していたから何とかなると思う」
「そうなの? 偉いね、あんな事があったのに」
礼都はハッと口を押さえた。何か失言をしてしまったようだが、言葉を発してから口を塞いでも意味は無いだろう。
「ごめん……、言わないつもりだったんだけど」
「ううん、日野さんとのことでしょ?」
日野という単語が出た事で、真矢の意識が一瞬動揺したのが感じられた。
「ずっと大学に来ないから何事かと気になって、演劇サークルの知り合いに聞いてみたの。そしたらサークル内で噂になってるみたいじゃない? それに、最近妙な奴が真矢のこと探しに来るし」
「妙な奴って?」
「間明っていう三年よ。結構な変人らしいわ」
あの男がなぜ真矢に用があるのだろう? プロジェクターの修理の件はもう解決していそうなものだが……。
「彼はなんて?」僕は礼都に尋ねた。
「それが詳しくは話してくれなくて。でも毎日のように探しに来るから気味悪いのよね」礼都は自分の肩を抱いた。「顔は結構イケてたんだけどね」冗談めかしてそういうのは、場を和ませようとしているのだろうか。
「そうなんだ。講義が終わったら彼のところに行ってみる」
「ええっ⁉︎ 会いに行くの?」礼都は慄いた。
「うん、何で?」
「何でって、そんな得体の知れない奴ほっときなよ」
「そうもいかないわ。何か大事な用があるから探してるんじゃないかな」
「それなら普通、他の人に連絡先教えてもらうなりするんじゃない?」
「単に聞く相手がいないんじゃないかな。あるいは直接会って話さないといけないような内容なのかも知れないし」
「うーん……そうかなぁ、私はお勧めしないけどなぁ」
礼都は最後まで間明に会うことに否定的だった。確かに礼都の考えも一理あるだろうが、今のところ間明が真矢に何か危害を加える理由も見当たらない。単に変人というだけなら大した脅威も無いだろう。それに、いざとなれば僕の力でどうとでもなるのだ。
僕は講義の後、早速間明を探すことにした。
まず、最初に彼と会ったテラス席に向かった。なんと彼は一発で見つかった。
間明はあの日と同じ席に座り、同じ姿勢で外を見ながら缶コーヒーを啜っていた。
さて、何と言って話しかけようか。真矢と間明はほんの少し会話した程度だが、真矢の話し方を模倣すればいいだろう。
「間明さん」
僕の呼びかけに間明は静かに振り向いた。
「やあ」
間明は驚くでもなく、いたって冷静に返した。
「目の前の歩道を君が歩いてくるのが見えたよ」
なるほど。だから反応が薄かったのか。
「間明さんが私を探していると聞いて足を運んだんです」
「だろうね、それ以外の理由で君がこっちの棟に来るとは考えにくい」
間明は自分の向かいの席を手で指した。
「座ったらどうだ」
椅子は一つのテーブルにつき二つ備えられていた。僕は言われるまま間明の正面の椅子に腰掛けた。間明とは向かい合う格好になる。
「私のこと探してました?」僕は本題を切り出した。
「あぁ、君に謝りたいと思っていた」
「謝る? 何をです?」
それはあまりに突拍子もない理由であった。僕は間明の言葉の意味を計りかねた。
「備品室での事、俺にも責任がある。すまなかった」間明は寝癖のついた頭を深々と下げた。
「それは、どういう責任ですか?」
「俺が何も考えずに備品室のドアを開けたりしなければ、君はあの場を目撃せずに済んだんじゃないかと考えていた」
間明は顔を上げた。
「俺の悪癖なんだ。考えるより先に手が動いてしまう」
間明の言う事の意味がやっと理解できた。彼は真矢がショックを受けた出来事の原因が自分にあると言いたいのだろう。
「なぜ謝罪しようと? 私は別にあなたを咎めようとは思いませんし、一般的に責められるような事でもないと思います」
僕は間明に言った。真矢ならそう考えるだろうと思ったからだ。
「謝らないと気が収まらないタチなんだ。つまり俺の気持ちの問題って事だ」
「私の気持ちは関係なく、という事ですか?」
「有り体に言えば、そういう事だ」
「そうですか、では謝罪は受け入れます」僕は間明の目を見て言った。
「話はそれだけですか?」
「えっ、あぁ……」
間明は少し驚いた様子だった。僕の返答が予想外だったのだろうか? 特に変なことは言ってない筈なんだけどな。
「じゃあ、私はこれで失礼します」僕は席を立った。
流石に僕の正体がバレることは無いだろうけど、これ以上間明と一緒に居ると要らぬボロが出るかも知れない。ここは早々に退散することにしよう。
間明から見た彼女の態度には、違和感があった。
この違和感の正体が何なのか、何故そう感じるのか、間明には分からなかった。だが、何故か彼女の事が気になって仕方がないのだ。
八角の後ろ姿を見送りながら、間明は考えていた。
何故彼女の事が気になるのだろう。彼女を意識するという事は、彼女に対して、僕の感情が何らかの顕著性を持っているという事だ。そして人の感情の顕著性とは大抵、快か不快か、すなわち好きか嫌いかだ。
自分は彼女のことが好きになったのだろうか? いや違う、好きになるような要素はどこにも無い。では嫌いなのだろうか? やはりそれも違う、嫌う要素も無いからだ。要するに、間明にとって八角は特段相手にする理由も無いただの他人のはずなのだ。なのに何故、彼女の態度が引っ掛かるのだろう。
……他人のことについてあれこれ考えを巡らせるなんて自分らしくない。八角に謝罪したのも、そうしないと自分が落ち着かなかったからだ。自分は自分のことだけ考えて行動していればいいんだ。
そう自分に言い聞かせる。だが、それでも心の霧は晴れなかった。気付くともう既に八角の姿は見えなくなっていた。
★
僕が真矢の生活を代理するようになって、既に数週間の時が経っていた。
真矢の意識は相変わらず内側に引きこもったままで、表に出てくる時には大抵、手首を切ろうとしたり、階段から飛び降りようとしたりするのだった。なので、大学にも僕が代わりに出席している。
今日も僕は八角真矢として演劇サークルに参加していた。今まで見てきたどの文明にも無かった、演劇という文化にかねてから興味があった僕にとっては、自身で実際に体験できるのは嬉しい誤算だ。真矢は演劇大会の主役から外されていたので、本格的な稽古は出来なかったが、それでもエチュードをやったり他の部員の稽古を見ているだけで僕には有意義だった。
どうも演劇というのは、事実ではないシュチュエーションを想像して、自身の感情や行動をさもその通りであるかのように模造することであるようだ。
一見、人類という種の生存に何の得にもならなそうな文化が、何故こんなに発達しているのか僕には分からなかったが、きっと人間にとっては重要な意味があるのだろう。そしてそれはきっと、真矢にとっても同じだったはずだ。
いつも通り、準備体操と簡単な発声練習をした後にランニングに向かおうとすると、あることに気付いた。真矢のランニングシューズが見当たらないのだ。
真矢を含む大半の団員は、持ち帰るのが面倒という理由でシューズを備品室の棚に置きっぱなしにしている。真矢の場合も、脱臭剤と一緒にシューズバックに入れて棚に並べているはずなのだが、何処を探しても見つからない。
「すいません、ここに置いてあった私のシューズ知りませんか?」
同じくランニングに向かおうと、備品室にやってきた先輩部員に尋ねてみる。
「い、いや知らないよ。自分で持ち帰ってそのまま忘れたんじゃないの?」
先輩は不自然に目を逸らしてそう返した。
「そういえば、そうかも知れないです」
物が無くなるのはこれが初めてでは無かった。真矢もとい僕がサークルに戻って来るようになってから、リップクリームや髪留めなどの小物から、水分補給のために買っておいた飲料まで、目を離した隙に無くなるという事が何度かあった。それも決まってサークル活動中で、大学の他の場面では起こらなかった。本来の真矢なら単なる物忘れだと考えるかも知れないが、僕の場合それはあり得ない。誰かが持ち去ったと見るべきだろう。
僕は他に何か痕跡がないか部屋の中を捜索する事にした。机の下や、備品が並べてあるラックの裏側、小道具が入った段ボール箱の中、衣装ケースの中、一通り探したもののシューズはおろか特に何の手がかりも得られなかった。シューズはどこかのタイミングで備品室の外に持ち出されたと考えるのが妥当だ。
備品室を出た僕は、周囲を見渡した。他の部員は誰も僕と目を合わせようとしなかった。僕には今起こっている現象が何なのか、検討がついていた。これは所謂“いじめ”と言う現象だ。真矢はいじめの対象になったのだ。
いじめ自体は社会性動物たる人間にはあって当然の本能で、理解できる。群れの中で異端な者や、劣った者は注意して行いを正させるか、或いは攻撃して群から追い出さなければならない。そうやって群れを最適化して生き残ってきたのが人間という生き物だ。その末孫たる現代人類がそれを行わない訳がない。
そして、群れの長である日野と関係を持ち、結果的に劇の主役を任された真矢は周囲から見れば不和をもたらす対象なのだろう。
真矢の大脳辺縁系の回路が活発になるのを感じた。何かの感情が想起されているのだ。僕はそれに注意を向けた。それは不快な感情だった。扁桃体が活発になり、腹内側前頭前野の働きが弱くなる。
僕は敢えて、それを止めることなくありのままを観察することにした。
これまで僕は、真矢に言われるまま彼女の苦痛を消し去ってきた。それが真矢の為になると考えたからだ。しかしそれは大きな間違いだったことに最近気が付いた。真矢の苦しみは、消し去る物ではなく、噛み締めて飲み下す物だったのではないかと僕は思い始めていた。
僕は込み上げる感情の波をつぶさに観察した。しかし、感情は込み上げてくるがその原因が何なのか分からない。感情は記憶のメカニズムと密接に関係している筈だ。僕は真矢の記憶を探った。真矢の奥底に封印されている記憶を、慎重に解凍していく。
真矢は中学生の頃、同じようにいじめられていた事があった。祖父母に引き取られ、転校を余儀なくされた学校で、真矢は馴染めなかった。というより真矢自身が、そんな事ができる精神状態では無かったのだ。
なぜ……? 僕はさらに記憶の奥深くを探索した。
それは真矢が小学三年生の時だ。真矢の父と母が離婚した。元々夫婦喧嘩が多い家庭だったようだが、その日は一段と激しく言い争いをしていた。父はその日から家に帰って来なくなった。反対に母は一日中家にいた。だが真矢に構うことはせず、常に泣いているか怒っているかのどちらかだった。
子供である真矢には、どうすることも出来なかった。学校では周囲から疎外され、家庭では不安定な母の機嫌を取る。何処にも真矢の居場所は無かったのだ。そしてある日、真矢にとって重大な出来事が起きた。
母が自殺したのだ。
封印された記憶の中から、当時の情景が鮮明に蘇る。
真矢はその日、近くの公園に寄り道してから家に帰って来た。家に帰って母に会うのが億劫だったからだ。
いつもより一時間ほど遅く、自宅のアパートに着くと。そこには人だかりが出来ていた。赤い回転灯の光が人混みの隙間から見えた。
真矢は最初火事だと思った。だけど煙は出ていないし、パトカーと救急車はあっても消防車が見当たらない。
何かの事件が起きたのかも知れない。真矢はそう判断した。でも、それはきっと私には関係ないことだろう。
真矢はいつも通り我が家に入ろうと、人混みをすり抜けていった。
玄関の前にはブルーシートが張られてあった。数人の大人たちがその中を出たり入ったりしていた。多分警察の人なんだろうなと子供ながらに推測する。
真矢は特に気に留めず、自分も同じようにブルーシートを潜った。それを止める者は居なかった。体の小さい真矢は周囲の雑踏に紛れてしまって気付かれ無かったのだろう。
玄関の前に来ると、二人の背広を着た男の人が屈んで地面を見ていた。
何をしているんだろう、邪魔だな……。
真矢はそう思って二人に声をかけようとした。すると、男たちは真矢に気付いたようで、揃ってこちらを振り向いた。男たちが見ていた地面には、赤黒いベトベトした物がこびりついていた。
男は呆気に取られたような顔をした後、すぐに何か言いながら私に近づいてきた。急に怖くなった真矢は後ずさった。男達の顔を見上げた、自然と真矢の視線も上に行く。それまで目の前の男に気を取られて気が付かなかったが、彼らの頭上に何かがあるのが分かった。
玄関の真上にはベランダがある。そのベランダから何かがつり下がっていた。
それは真矢の母親だった。
母の首にはロープが巻き付いていて、その先はベランダの柵に結ばれていた。
白く美しかった母の肌は土気色に変色し、足は象のように腫れ上がったいた。
お母さん……?
体が硬直して動かない、全身の骨が凍りついたかのようだ。
真矢は母を呼ぼうと声を出したが、実際には喉から空気が漏れただけだった。
「ごほっ……」
真矢の体は急に咳き込み出した。体が過緊張状態にあるのが分かった。僕は急いでセーブをかける。しかし、制御しすぎると反対に脱力状態になり、立っていられなくなった。僕は何とか真矢の体をその場に座らせ、安全を確保した。
『これが真矢の苦しみの根源か……』
真矢のストレスへの脆弱性は、母との関係性に端を発している。僕はそう確信した。幼い頃の真矢にとって、安全基地として働く筈の家庭や母親という存在が正常に機能しなかった結果、ストレスに対処する力が他者と比べて相対的に低いのだ。
「大丈夫か?」
顔を上げると、そこに間明が立っていた。
「ええ、大丈夫です」僕は返した。
「それにしては顔色が悪そうだけど」
間明は腰を屈めて真矢の顔を覗き込んだ。
「どうして間明さんがここに?」
僕は話を逸らすように言った。それに対し間明はやや怪訝な表情を見せたが、それ以上は何も追求して来なかった。
「pcの調子が悪いから見てくれと言われてな、見にきたんだ」
「日野さんにですか?」
「そうだ。どうせまたハードディスクがいっぱいになっただけだろうが」
間明は面倒くさそうに頭を掻いた。
「そういや、みんなランニングに出ているようだが、君は行かなくていいのか?」
間明が尋ねた。
「行きたくても行けないんです、シューズが失くなってしまって」
「何色なんだ?」間明は言いながらキョロキョロと辺りを見回し始めた。
「なんでそんなこと聞くんです?」
「なんでって、探すからだよ」
「一人で探します」
「二人で探した方が効率的だ」
間明は備品室の中のものをひっくり返し始めた。
「厳密に言うと、失くしたんじゃないんです」
僕は間明の背に向かって言った。
「どう言うことだ?」間明は振り返った。
「多分、盗られたか捨てられたんだと思います」
間明はそれを聞いて手を止めた。そして落ち着き払った口調で言った。
「それはつまり、部員の誰かが君を貶めようとしたってことか?」
「そうです」
真矢なら、絶対に本当のことは言わないだろう。誰にも言わずに隠し通そうとする筈だ。だがもし、真矢が誰かに助けを求めることが出来たのだとすれば……。
「そうか、俺も実を言うとそうじゃないかと思ったんだ」
間明は先ほどと変わらぬ声色でそう返した。
「なぜ?」
「何となく察しがつく。君は何かとトラブルを呼び込みやすいタチだろ、違うか?」
「否定はしません。でもそれなら、私とは関わらない方がいいのでは? 間明さんまでいじめられてしまいます」
「俺はいいんだよ」
唖然としているこちらを見て、間明は答えた。
「俺は最初から一人だ。いまさら疎外されたところで何も変わりはしない」
間明は自嘲を含んだ笑みを浮かべ言った。
「だからって、間明さんに得があるわけでも無いですよ」
「それは確かにそうだ」間明は頷いた。
「なんの意味があるんですか?」
この質問は真矢の思考をトレースしたものでは無い、僕自身のアルファとしての疑問だった。
「……君を見ていると、昔の自分を思い出してしまうんだ」
間明はほとんど呟くように言った。それでも彼の放った一字一句がはっきりと聞き取れた。
「どういうことですか?」
間明はこちらに向き直り、僕を正面から見つめた。そしてデスクにもたれ掛かると、深く息を吐いてから答えた。
「俺は子供の頃から人付き合いが苦手でね、人の言っていることの真意というか、暗黙知のようなものがサッパリ理解出来ない。だからいつも相手を怒らせるか、呆れさせてしまうんだよ」
「それで小学生の頃は虐められる事もあった、そりゃあんなトンマな言動してたら虐められて当然だ。だから俺は極力一人で行動することを選んだ。周囲は俺を孤独な奴と思ったかも知れないが、俺にとっては周囲に馴染もうと思っても馴染めない状況の方がよっぽど孤独感を覚えたよ。だから一人でいることを受け入れることにしたんだ」
「でも、日野さんとは関わり合いがあるじゃないですか」僕は言った。
「日野とは友人って訳じゃない。アイツの頼み事をたまに聞いてるだけだ。言われたことだけ、言われた通りにすれば誰にも文句を言われずに済むからな。でも……」
「でも?」
「逆に言うと、俺にはそれしか出来ない。こういう時、本当は何か気の利いた言葉の一つでも投げ掛けられれば違ったんだがな」
その言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。
「もう十分です……」
真矢が言った。いつの間にか真矢の意識は覚醒しており、僕に代わって肉体を制御していた。
「ランニングはいいのか?」間明が聞く。
「はい、私はもう帰りますから」
真矢はそう言い終わると、間明とは目を合わさずに背を向けて備品室のドアを開けた。外の光が部屋の中に差し込んできた。真矢はそれ以上何も言わず、振り返りもせずに歩き始めた。
『真矢、やっと目覚めたのかい?』僕は真矢に話かけた。
大学の敷地を出た後も、真矢は一切言葉を発さなかった。
「……。」
『何故黙っているんだい』
真矢は僕を無視して歩き続けた。でもなぜか、真矢の思考は活発なようだった。右脳と左脳の連絡も活発化している。まるでさっきまで真矢の頭の中を支配していた靄のようなものが、突然消え失せたかの脳だった。
どうしてだ? ついさっきまで、僕の助けが無ければまともに思考を巡らす事も出来なかった筈なのに。理解が出来ない。
光速で思考できる僕であっても、人間の心は理解出来ないのだろうか……。
なんと僕は無力なんだろう。こんなに真矢と一緒に居ても、“心”は理解出来ない。それとも、僕にも心があれば、心を理解出来るのだろうか?
だが、心を得る為には心を理解しなければならない。この撞着する事実を前に、僕にはなす術が無かった。
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