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水も滴る眠り姫
しおりを挟む「気分がいいですわ。こんなにも晴れ晴れした気分は四歳以来ですわね」
わざわざ自分からマリエットに絡む必要のない日々は充実したもので、最近のティファニーは清々しさに心満たされていた。
スキップでもしようかと出来ない行動を想像しながら歩いているとクスクスとどこからか笑い声が聞こえてきた。
「お茶会でもしていますの?」
空は黄昏に染まりつつあり、お茶会ならもう解散している時間帯のはず。
空が黄昏に染まっても話すのは下品といわれ、空が染まる前に帰るのが暗黙のルール。だが笑い声は確かに聞こえた。
「一体誰がまだ残っ……キャアッ!」
バシャッ
何が起こったのかわからなかった。
何故髪から水が滴るのか。
何故全身が濡れているのか。
笑い声は大きくなり、そして去っていく。
「マリエット……」
笑い声はマリエットのものではない。だが、誰がこんな事をしたのか、命じたのかは考えずともわかる。あの目が大人しく王子が戻ってくるのを待つ女の目であるはずがないのだ。
ここ数日、何のアクションもなかったため木を抜いていた。
「やられた」
そう思った時には既に遅く、頭から水をかぶる事となった。
「見世物ではありませんわよ!」
だが泣いたりはしない。
見ている者はいたが誰一人として『大丈夫?』の言葉はかけない。それぐらいティファニーは嫌われているのだ。ましてや、水をかけた相手を見ていたのであれば手を貸そうとも思わないだろう。
同情する者、ざまあみろと嘲笑う者とバラバラだが、そのどっちの者にもティファニーは言い放った。
いつだってそそくさと逃げていく弱い者達を友達にしようなどと思わない。あんな者達を友達にするぐらいなら一人でいる方がいいと下は向かず前を向いて歩き出した。
「水浴びには早いんじゃねぇの?」
「おいやめろって。噛みつかれるぞ」
「たかが伯爵令嬢に何が出来るってんだよ。お前も言ってやれ」
「まあいい気味だけどな」
耳障りな笑い声と言葉に傷ついたりはしない。相手が誰であろうと陳腐な言葉に傷付くような弱い生き方はしていない。いつだって嫌われる勇気と覚悟を持って生きてきた。その覚悟がなければ悪役令嬢を演じるのはムリだったから。そこだけは両親に感謝していた。
「……酷い顔……」
トイレに入って鏡を見れば自分でも呆れるほど酷い顔をしていた。
朝は完璧だった縦ロールは伸びたバネのように緩くなり、化粧は落ちて顔を汚している。落ちたマスカラが泣いた痕のようでそのまま水で顔を洗ってメイクを落とした。
「貧相な顔ですわね、あなた」
姉二人と違って何の特徴もない薄っぺらい顔。メイクをしなければとてもじゃないが悪役令嬢など出来ない。
自分が姉達のように美しければもっと違った人生だっただろうかと神に問いたくなった。
「公爵令嬢の悪役令嬢ならこんな目に遭わされなかったのに」
貴族の集まる学校で伯爵の地位は微妙なもので上には立てない。けして低い地位ではないが、それはあくまでも一般市民から見たものであって貴族の中では中途半端だった。だから威張り散らして歩いてみても怖がる者は少なく、さっきの男達のように嘲笑う者がほとんど。
「あなたは強いのよ、ティファニー。悪役令嬢に涙は似合いませんわ」
薄っぺらい顔を睨み付けながら暗示のように呟くと大きく息を吐き出して気合を入れれば外へと歩き出す。
「……なんて低レベルな……」
鞄を取りに教室に戻れば鞄の中身は外にぶちまけられ、代わりにお菓子のゴミが詰め込まれていた。
「バカバカしい」
あまりに低俗すぎるやり方にマリエットの指示ではないような気がしながらも実行犯はマリエット関係者である事に間違いないと確信する。
「これが王子を取られた仕返しですの? プライドもなにもあったもんじゃありませんわね」
もしマリエットであるなら公爵令嬢としてのプライドを持つべきだとティファニーは思う。こんな事をしたのがバレでもすればコンラッドはますますマリエットを嫌うだろう。それはティファニーとしても面白くない。
十年間、自分の人生を犠牲にして尽くしてきたというのに自分から作ったわけではない王子との関係を疑われ罵倒され、父親にまで手を上げられたのでは黙っていられない。
今更過去の十年を取り戻す事は出来ないが、イイ気になっていたマリエットをどん底に落とすぐらいはやってやると決めた。だからコンラッドに嫌われている事がすぐにわかってはいけない。徐々に、徐々に……
「お母様に何て言えばいいのかしら……」
濡れたまま帰って見つかるのが母親だけならまだいい。姉や父に見つかれば何を言われるかわからない。姉はいつだって味方にはなってくれない。
ティファニーが地味なのは努力が足りないからだといつも口うるさく言う。そのくせ化粧をすれば『濃すぎる』と言い、縦ロールをすれば『ダサい』と言う。だからティファニーはいつしか姉達を避けるようになった。
「はあ……あんなに幼稚だったとは思ってもいませんでしたわ」
幼稚でなければヒロインを目指すなど考えつくはずもないし、それを十五になった今でも願い続けるはずがない。
背が高く美人であるが故に中身の事は忘れていたが、マリエットはもともと幼稚な人間だったと今思い出した。
「……最悪ですわ」
取り繕ってきたものが全て剥がれ落ちた気がして嫌だった。
鞄をゴミ箱の上で逆さにしてお菓子の袋を捨てれば床にばらまかれている教科書を拾って一冊ずつ埃を落としてから鞄にしまう。
黄昏に染まりかけていた空はすっかり黄昏に染まり、あっという間に黒を纏い始める。暗くなる前に帰らなければと思うが、意外にも精神にキているティファニーは立ち上がる事が出来なかった。
その場にしゃがみ込んだまま大きな溜息を吐き出して膝に顔を埋める。
泣かない。泣くのは弱虫の行為であって悪役令嬢には許されない。だが、本気で悪役令嬢になりたいわけではない。
いつまで悪役令嬢を続ければいいのか、また不安に襲われる。
コンラッドがマリエットを好きにならないのなら結婚は?
マリエットが次にターゲットとして選ぶ相手は?
王子と手を組むといってもどこまで許される?
卒業と同時に結婚したいマリエットにとってコンラッドは逃がせない相手。何がなんでも手に入れようと躍起になるだろう。それをどこまで相手に出来るか、答えのない疑問に自信が薄れていく。
「ここにいたのか」
聞き慣れた声に顔を上げると同時に肩が暖かいものに包まれる。
「濡れたままでは風邪をひくぞ。水遊びにはまだ早いだろ」
コンラッドが笑いかける。
「今日は暑かったものですから」
「誘ってくれれば俺も汗を流せたのに」
「次はお誘いしますわ」
何も聞いてこない事がありがたかった。
傍にしゃがんで筆箱を拾い、鞄の中に入れてカチッと音を立てて留め具を固定する。
「ティファニー?」
声を聞くだけで忌々しいと思う相手の影が床に見えるもティファニーは顔を上げなかった。
「どうしたの? ビショ濡れじゃない!」
「今から医務室へ連れて行く所だ」
「私が連れて行きます!」
白々しい驚き方に目を閉じるも急に身体が重力に逆らって地面から足が離れた事に目を見開くとコンラッドに抱えられていた。
慌てて手を伸ばすマリエットから守るように遠ざけると首を振った。
「俺が連れて行く」
「コンラッド様のお手を煩わせるわけにはいきません。私が着替えさせてそのまま送っていきますので」
「必要ない。お前は帰れ」
「ですがコンラッド様!」
煩わせるという物言いが気に入らなかったコンラッドは素っ気ない言い方で突き放した。ティファニーとしてはもう少し優しくしてやってほしいのだが、今は口を開かない事にして経緯を見守る。
「お前がずぶ濡れになった時は俺の手を煩わせずに済むようお前の取巻きに任せてやるから安心しろ」
コンラッドの言葉にはティファニーも目を見開いた。さすがに酷いのではないかと思い、視線を向ければマリエットは目を見開いたまま一点を見つめていた。ショックを受けているのだろう。
じわりと浮かぶ涙はきっと嘘ではなく本物。そのまま走り去っていくのを見れば少し可哀相に思えた。
「もういいですわ。下ろしてくださいませ」
「濡れたまま歩くと風邪をひく」
「抱かれて行っても同じですわ!」
「いいからジッとしてろ」
少し強めの言い方に黙るとそのまま静かに医務室まで運ばれた。
「制服のサイズは? Sか?」
「ええ」
「華奢だからな。もう少し食ったらどうだ?」
「少食ですの」
「ヒロインでもないのに気取る必要ないだろう」
気取っているつもりはない。食事を楽しいと思ったことがないためいつしか苦痛と感じ、食事に興味を持たなくなった。その結果、メリハリのない身体になった。
「着替え手伝おうか?」
「カーテンを開けたら目を潰しますわよ」
「濡れて脱ぎにくいだろ?」
「いいえ」
「脱がせるの上手いんだ」
「結構です」
さすが遊び人と嫌味の一つでも言いたくなるような言葉をサラッと言ってしまう相手に呆れながら断り続けると静かになった。
張り付く服の気持ち悪さに眉を寄せながら脱ぎ捨てると隙間から入ってきた服を受け取って着替える。
「下着も脱いだらどうだ?」
「デリカシーのない男は嫌いですの」
「親切心のつもりだ」
「大きなお世話ですわ」
正直下着も脱ぎ捨てたかったが、さすがに学校で下着を捨てていくわけにもいかず悩んでいた。
「脱がないと制服が濡れるぞ」
実際制服の上が濡れ始めているのを感じる。馬車の中では立っていられない。座ったらスカートが濡れてしまう。濡れた部分だけ掴んで歩くのもおかしい。家族に怪しまれるに決まっている。
「脱いだか?」
「お黙りあそばせ」
いちいち確認するなと冷たく言い放つと下着を外して思いきり絞って鞄に詰めた。
異常な違和感はあるが制服は濡れずに済む。
「それよりあなたも着替えられてはいかがです? わたくしを抱えて濡れてしまったのでは?」
「俺もカーテンの中で着替えたいね」
「わたくしの後でどうぞ」
「ここで脱いでもかまわないが」
「ぶっ飛ばしますわよ」
冗談だと笑うコンラッドがどこまで冗談で言っているのかわからずカーテンの向こうでティファニーは思いきり嫌そうな顔を向けていた。
「帰りますわ」
「少し休め」
「帰って休みますから大丈夫ですわ!」
「いいから」
カーテンを開けて帰ろうとするティファニーの腕を掴んで引き留めたコンラッドはそのまま腕を引いて強制的にベッドに座らせる。
化粧が落ちてしまっている事を忘れていたティファニーは今更ながら顔を隠そうとするもコンラッドは顎に指を当てて上げさせた。
「レディのこういう姿は男性は見るべきではありませんのよ」
地味すぎる顔を見られたくないと顔を背けようとするも許されず
「君は化粧なんかしない方がいい」
ティファニーはたまに「本当の自分を見てくれる人がいたら嬉しい」と思っていたが、素顔を褒められた今、嬉しい言葉とは思えなかった。
何故だろう? 自分に問いかけてもわからない。
「毎朝時間をかけて化粧をしているレディに向かって化粧が無駄という言い方は気に入りませんわね」
「それは悪い。だが事実だ。化粧しない方が君はキレイだ」
笑っていいのか泣いていいのかわからず変な笑いが出そうで一度目を閉じた。二~三回首を振って気持ちを整え目を開けるとかなりの距離にコンラッドの顔があった。
「キレイだ」
囁くコンラッドからティファニーは目を逸らさず、赤くなるか焦るかの想像をしていたコンラッドにとって意外な状況で、二人だけの静かな空間で見つめ合う男女ともなればキスしないわけにいかないと顔を近付け唇を重ねた。
三秒ほどで唇を離すとティファニーはそのままコンラッドの胸に顔を埋める。
「ははっ、照れてるのか?」
赤くなった顔でも見てやろうと笑いながら顔を覗き込むと笑顔のまま固まった。
「嘘だろ……」
照れる照れないの次元ではなく、ティファニーは目を閉じ寝息を立てていた。たぶん唇が重なった瞬間にはもう意識はなかったのだろう。
抵抗しない時点でおかしいと気付くべきだったと今回のキスにロマンを感じた自分を恥じた。
「……ったく。困った眠り姫だな」
こんな時でなければ大人しく抱きしめる事さえ許さない相手を抱きしめ、暫くしてからベッドに寝かせた。
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