完璧であろうとする二人の光と闇

永江寧々

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崩壊5

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「殿下が許すと言っても頭を下げ続けるんだ」
「わかっています」

 朝一番、父親の見送りを受けて馬車に乗り込んだセレナは振り返りもせずに馬車を出させた。
 朝食は出てこなかった。罰を与えているつもりなのだろう。あれだけ娘を打っておきながらまだ罰が足りないと考える辺り、彼も完璧からは程遠い人間だと感じた。
 父親は完璧な人間だと思っていた。一切の隙を見せず、マナーから対応から気品から全てが完璧だと娘でさえ思った。しかし、彼もそう装っているだけで実際はそうじゃない。

「海に行って」
「え!? い、いや、しかし……!」
「行って」
「わ、私が怒られます!」
「海を見てから行きたいの。心を整理する時間が欲しいだけよ」

 昨日の事の顛末を知っているだけに御者は強く拒否できず、海へとは知らせる。

「今日は雨ですから、海を見ても落ち着かないのではありませんか?」
「だからいいの……」

 美しい青空も透き通る海も必要ない。これから城へ行って、エドモンドに会って、土下座する。隙があった自分が悪いのだと何度も何度も頭を下げる。眠れないまま一晩考え続けた。どの選択が正しいのかと。でも明確な答えは一つだって出なかった。結局はエドモンドの答え次第。
 停車した馬車から見える荒れた海。夜中には雷が鳴り響き、強い雨が窓を叩いていた。今は少し弱まりはしたが、雨が止む気配はない。

「あ、え、お嬢様!? 濡れてしまいます! お嬢様!? お待ちください! どちらへ行かれるのですか!?」
「エドモンド王子に手紙を書いたから、届けてくれる?」
「え!? わ、私だけでですか!?」
「遅れると書いておいたから」

 使用人は何があろうと許可なく雇い主一家に触れてはならない。一般市民が貴族に触れてはならないのと同じ。引き止めようにも触れられず、慌てるばかり。シートを見ると確かに手紙が置いてある。
 振り返らないセレナの意思は固く、困った顔をしながらも傘を取り出しセレナに差した。

「ありがとう」

 御者は数秒間、セレナを見つめたあと、馬車を城に向かわせた。
 傘を差しながら浜辺へと続く階段を降りる。砂がつくからと浜辺に降りたことは一度もない。今日はそれを止める人間はおらず、汚れたワンピースを見れば父親も母親も激怒するだろうが、セレナはもうどうでも良かった。
 足が僅かに沈み込む柔らかな浜辺へと降りていき、波の手前で座り込んだ。
 雨の音。風の音。波の音。普段は馬車の中にいて聞こえない音がセレナの世界を支配する。
 膝を抱え、海を見つめる。何を考えているわけではない。どんよりとした空気と景色に心を落ち着かせているだけ。雨の勢いが少し強くなり、傘がそれを受けるたびに振動が伝わる。こうして何かを持っていることすら今は面倒に思えると柄を見た瞬間、突風が吹いた。

「あ……」

 力を抜いた瞬間と突風が吹き抜けた瞬間が同じだったせいで傘が手を離れて宙を舞う。左右に揺れながら高度を下げる傘は荒れる海へと着水した。
 取りに行かなければ。立ち上がったセレナはまるで引き寄せられるように傘に向かって歩いていく。砂を蹴り、少し歩くと足が波で濡れる。冬の海は凍えるほど冷たいはずなのに、セレナは昨日から身体に熱がない感覚に陥っていた。冷え切った冬の海を冷たいと感じることもなく、傘を見つめたまま前へと進んでいく。
 波に押され、引き寄せられ、身体はあっという間に前へと進んでいく。しかし、傘との距離は縮まらない。セレナが進んでいくように、傘も進んでいく。
 腰まで海に浸かったとき、セレナは隣に人がいることに気付いた。

「……あなた……」
「ひでぇ顔だな、お嬢さん」

 ルカ・フィリバートがそこにいた。雨の中、傘もささずに同じように海に浸かっている。

「何してんだ?」
「傘、追いかけてるの」

 ルカが知るセレナはいつも淡々としているが、今日は少し違う。淡々と答える顔にも声にも気取った感じがない。

「ヴァレンタイン家のご令嬢の傘が黒?」
「御者の傘だから返さないと」
「買い与えてやれば?」
「そうだけど……あれは彼のだから、ないと困るわ」

 今にも消え入りそうな声を出すセレナを見て首を傾げる。

「パパに叱られたか?」

 前に進もうとするセレナの足が止まるも、波はセレナを深い場所まで連れて行こうとする。腕を掴んで引き留めるルカを見上げるセレナの瞳には覇気がない。怒りも悲しみも憎しみも、感情そのものが消えてしまったような目をしている。

「雨の日って……こんなに暗かった……?」
「雷鳴ってたからな。今日は特に暗いかもな」

 まだ朝だというのに時間が予想できない暗さの空を見上げるセレナに合わせてルカも空を見る。

「……死にたいって……思ったこと、ある?」

 波と風の音に掻き消されてしまいそうな声で問いかけられた内容にルカは目を細める。

「どうだろうな。あるような、ないような。お前は? あんの?」
「……わからない……」
「自分の心だろ。別に俺以外聞いてねぇんだし、ぶちまければ?」

 セレナは少し考えてみたが、本当にわからなかった。

「王家に息子が生まれた年、ヴァレンタイン家に娘が生まれたら結婚させるという約束が曽祖父の時代に交わされた。王家はヴァレンタイン家の完璧主義を気に入り、友好関係を続けるためにもヴァレンタイン家の長男は代々、完璧を求められてきた」
「でも今回、ヴァレンタイン家に男は生まれなかったから長女であるお前にその責が回ってきた、と」
「生まれてからずっと、制限の中で生きてきた。ヴァレンタイン家の長女なんだから、エドモンド王子の婚約者なんだからって、何かあればそればかり。テストは満点が当然。マナーも振る舞いも誰かに指摘させるようなことはあってはならない。婚約者以外に笑いかけるな。気のない相手に笑顔を見せるのは娼婦だけだ」

 予想以上の教育に、細めていた目を開いたルカは思わず口笛を吹いた。

「でも、私はそれを正しいと思ってた。ヴァレンタイン家の長女なんだから完璧でなければならない。長男である父親が完璧なんだから長女である娘の自分だって完璧でなければって……」
「自分を追い込んでたわけか。なるほどな。そりゃ考えたことねぇわけだ」

 誰だって自分の気持ちについて考えることがある。死にたいとか悔しいとか苦しいとか。セレナにもそういう感情はあっただろうが、そういう気持ちを抱くたびに責めるのは強制する周りではなく、できない自分。自我が芽生える前から作られてきた道。その道を歩くことは強制だったセレナにとって自我などないも同然だとルカにはわかった。

「自分の心と向かい合った気分はどうだ?」
「……完璧でいるほうがずっと楽だった……」

 ルカには意外な答えだった。驚きに目を瞬かせるも、やはり面白いとも思う。掴んでいた腕を引き寄せて抱きしめるも抵抗はない。そうする気力すら今のセレナにはなかった。
 濡れた髪に頬を乗せ、海の上を揺れながら遠ざかっていく黒い傘を見つめながら口を開いた。

「人の心を持たずに生まれた悪魔だと親は言った」

 突然の告白にセレナがみじろぐもルカは力を入れて離さない。

「思いついたことは片っ端から試していく子供だった。疑問は大人の言葉で納得するんじゃなく、自分の目と手で確かめないと気が済まなかった」

 自我が芽生えた頃には既にそういう性格だったことを思い出した。
 今でも鮮明に思い出せる、親が自分を悪魔と呼んだ日のこと。そして小さな手に感じた温もりと鮮明な赤。
 一生忘れることがないだろう記憶にルカはその思い出に浸るように目を閉じた。
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