溶け合った先に

永江寧々

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理解

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「泣いたのは久しぶり……」

喉が枯れるまで泣くなんて子供の時でもなかった。

泣き止んだ私をベッドまで運んだ彼は氷水が入ったボウルとタオルを用意して目を冷やしてくれている。

「申し訳ございません……」
「あなたは悪くないのよ。もう謝らないで」

姿は見えずともまた深く頭を下げているのはわかる。

「お嬢様に言われたことを守らず、出過ぎた真似をした私に全責任がございます。踏み込まれたくない物だと推測できたはずなのに……お許しください」
「あなたは今日一日で何度許しを請うつもり?」
「お許しいただけるまで何度でも」

バカねと小さく呟いて手を伸ばせばすぐに包み込んでくれる手の暖かさに安心する。

「許すわ」
「ありがとうございます」

彼が望んでいる言葉を口にすると手に吐息がかかった。きっと今、椅子に座っているのではなく床に膝をついて私の手を握っているのだろう。

他の話題を口にしたところで彼はきっと私が許すと明確な言葉にするまで何度だって許しを請い続けたはず。許してほしいと願う弱弱しい声が安堵の声に変わった瞬間、不思議と私も安堵する。

彼はこんなにも素晴らしい人間なのだ。

神に愛されているのはきっと彼。

神に見放されたのはきっと私。

「父はきっと……神に見放されたと思いたくなかったのよ……」
「……」
「だから神はいないと言った。神は万物を創りて見放す。創り上げた物を試すために。父にとって神は絶対で、その存在は自分を美しい世界へ導いてくれるはずだった」

実際、母に出会って確信したんだろう。こんなにも美しい女性を創り、自分の前に連れてきてくれたのは神だと。だからその存在を疑うことはなかった。

「神に愛された者は美しい。でも死んでしまった者はその美しさを失い、その存在、魂さえも失う。母を失ったのは神に見放されたからだと父は思いたくなかった。だから神はいないと否定した」

身勝手に相手を傷つけ、謝罪もできず、正しい主であるが如く許しを口にする人間に彼はもったいないほど出来た人間だった。身も心も美しい彼を失えば私も父と同じになるような気がする。

一人の美しい女性を失った苦しみは同じでも、父と私では愛し方が違ったのだ。それでも娘がいるのに、母を越えるとまで褒めてくれたのに父は私を見てくれなかった、だから父が壊れてしまったことは一生理解できないと思っていたのに、今この瞬間、ようやく、ほんの少し、わかった気がした。

「……お父様は……神に……」
「父が、なに?」
「あ、いえ……お父様は神を愛しておられたのですね」

彼の言葉に私は頷いた。彼は父を知らないが、それでも父がどれほど神という存在に意識を置いていたか伝わりはしただろう。

彼がどんな表情で父のことを言ったのか見ることはできなかったが、微笑んでくれているような気がした。

「お嬢様、少しお眠りください。お疲れになられたでしょう。その……私の、せいで……」
「許しは得たはずよ?」
「失礼いたしました。お目覚めになられましたらお呼びください。ホットミルクと軽食をお持ちいたします」

今日はとても疲れた。あの一瞬の感情の爆発。普段から感情豊かに怒りや哀しみを露にする人はどれほど体力があるのだろうかと不思議に思う。

枕元に置いてあるベルを二回鳴らすだけで彼は飛んできてくれる。今から眠れば目覚めるのは真夜中かもしれないのに、彼はそれでも飛んでくるのだろう。何度も様子を見に来ては眠っていることに安堵して、すぐにホットミルクを作れるようにキッチンを離れない。彼はきっと今日はもう眠らないつもりだろう。

彼という存在が当たり前になりすぎて感謝することさえ忘れていた。こういうことがなければ彼の存在に感謝もできない人間なのだ。

変わっていかなければならない。せめて感謝と謝罪は当たり前に言えるように、彼の主として恥ずかしくない人間になりたい。

「ありがとう。……今日は……」
「いいんです。私が全て悪いのですから」

彼に伝えようとした言葉は氷水のせいで冷え切った指先が唇に当てられたことで拒まれたが、彼は全て自分が悪いと背負ってくれた。

神はなんと罪深いのだろう。この腐った世の中にこんなにも優しく美しい男を放ったのだ。

私の柱となった男は一生という果たせぬ約束を口にする残酷な男だが、その残酷さも全て私のため。なぜだかわからない涙が溢れてはタオルが吸い取ってくれる。

鼻を隠すように布団を引っ張り上げれば大きな溜息を吐き出し「おやすみなさい」とだけ彼に伝えた。

聞こえてくる「おやすみなさいませ」の優しすぎる声を子守歌に私はゆっくりと眠りに落ちた。

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