愛だ恋だと変化を望まない公爵令嬢がその手を取るまで

永江寧々

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一緒にいたい理由


「久しぶりにこんなに笑った」
「私もです」

 ヴィンセルもアリスもあまり大きく笑うほうではなく、こうして誰かと一つの話題で笑い合うのは久しぶりだった。
 アリスは以前はティーナと笑い合っていたが、それもきっと笑っていたのは自分だけでティーナはただ付き合っていただけなのかもしれないと思うと少し寂しかった。

「君の話を聞かせてくれないか?」
「私の、ですか? 私はヴィンセル様に笑っていただくような話題は持っていなくて……」
「笑える話じゃなくていい。君のことを知りたいんだ」

 優しい微笑みと声にアリスの心臓が跳ねる。
 唇を噛みしめなければ変な声が漏れてしまいそうで、アリスは唇を内側に引っ込めて静かに深呼吸をする。

「えっと……何を話しましょうか?」
「君が好きなことは?」
「お菓子作りです。パンを焼くのも好きですし、休日は家族のランチを用意することもあります」
「珍しいな。令嬢はキッチンに立つなどしないと思っていたのだが」
「シェフが作ってくれるお菓子や料理ももちろん大好きです。真っ白な粉からあんなに美味しい物が出来上がるのを見ているのが好きだったんです。それからいつしか自分でも作れたらとシェフにお願いして困らせて今に至ります」

 貴族令嬢で趣味がお菓子作りという者は少ないだろう。自分で作らずとも専属のシェフがいるのだから自分で作る必要などない。
 アリスの家もそうだ。誰の舌をも唸らせる凄腕のシェフがいるのだから自ら手や顔を汚しながら作らずとも美味しい物は望めばいつでも味わえる。それでもそうしないのはアリスが自らの手で作り出すことを望んでいるから。
 何が必要なのか、どういう手順で出来上がるのかを知りたい。卵を割る音、かき混ぜる音、焼き上がる匂い──そこから始まって今やそれが趣味となっている。
 セシルは毎日ねだるほどアリスのお菓子に夢中。それは既にアリスの魔法にかけられたからではないかとヴィンセルは思った。

「私にとってお菓子作りは唯一本当の自分でいられる時間だったんです」
「本当の? じゃあ今は仮の姿というわけか」
「ふふっ、そうですね。……私はベンフィールド公爵の娘でありながら、父に誇ってもらえるような人間には成長できませんでした。兄は私とは正反対の努力家で自信があって人気者で……」

 人気者という言葉には思わず首を傾げたくなったヴィンセルだが、俯き気味に話す様子に今はその言葉を飲み込むことにした。

「隠れているつもりはなかったんです。でも思い返せば何かあるといつも兄に弱音を吐いて、その度に兄が庇って励ましてくれました。仕返しも……」
「ああ……」

 容易に想像がついてしまう幼少期のカイルにヴィンセルが苦笑する。

「だから私は何も言わずに済んだし、あまり辛い経験せずに済みました。でも気が付けば兄がいないと何かを言い返すのも不安で、いつしか自分一人では大きな決断ができないようになっていました」
「そうだろうか? 君はちゃんと立ち向かっていたじゃないか。ティーナ・ベルフォルンに対してもハッキリ言っていたように思ったが」
「あれは……そうしないといけないと思ったからです。私とティーナの問題だったし……。でも何か責任が伴うものについてはきっと一人では決められなくて兄を頼るんだと思います」

 カイルもまたそれを望んでいる。
 恋心こそないにしろ、カイルはいつまでも妹を手放したくないのだ。妹が生まれたその瞬間から兄としての自覚があったと豪語するカイルにとって妹は目に入れても痛くない存在として守ってきた。だから誰に過保護だと言われようと笑われようとカイルはそれをやめようとはしなかった。
 きっとカイル自身、こうなるよう計画的に日常生活の中で組み立ててきたのではないかとヴィンセルは思った。
 離れていかないように、一人では何も出来ないように、いつだって兄を頼るように──

 カイル・ベンフィールドは賢い男だ。
 一緒に過ごした時間の中で彼が失敗する姿を見たことは一度だってない。いつだって完璧で、時にそれは自分が王子と呼ばれているのが恥ずかしく思えるほどだった。
 外見はもちろんのこと、王子である自分よりも多忙な日々を過ごしている。
 ヴィンセルはよく『王子としての公務もこなし』と言われるが、それは生徒会長の他に公子としての仕事をこなしているカイルも同じだとずっと思っていた。
 それなのにカイルは『疲れた』の一言も漏らさず、いつだって完璧な姿を見せ続ける。
 自分よりもカイルのほうが王子に相応しいのではないかと思うほどの処理能力は王子であるヴィンセルから見ても羨ましいほどで、それと同時に彼が友人である事が誇らしかった。

「俺達二人の共通点はカイルだな。あいつのせいでコンプレックスができた」
「ふふっ、兄が聞けば怒るでしょうね」
「お説教が始まるだろうな。お前は努力が足りないだけだ。甘えるな。アリスはそのままでいいからな。どんな状況でも兄様が守ってやるから、と言ってな」
「ヴィンセル様はお兄様をよくご存じですね」

 カイルはアリスの誇り。ヴィンセルにとってもカイルは誇り。カイルが繋いでくれた縁ではないが、二人は何か共通の話題があることが嬉しかった。
 アリスは友人から兄が慕われていることが、ヴィンセルは妹が兄の存在を疎ましく思っていないことが嬉しかった。

「……っと、またカイルの話になっているな。話題を変えよう」
「ヴィンセル様はいつから香りに敏感なのですか?」

 令嬢たちから逃げながらハンカチを手放さない王子は小説の中でも見たことがない。小説の中の王子はいつもスマートで爽やかで誰の心をも奪う完璧な男。でもアリスが知る実際の王子は匂いに敏感でハンカチが手放せない、令嬢も近付けないゲイ疑惑のある男だった。

「生まれたときからずっとだ」

 アリスは言葉に詰まった。自我が芽生えたときには既にハンカチが手放せなかったということだろう。
 アリスは子供の頃から大人しかった。外を走り回るわけでもなければ令嬢たちのお茶会に積極的に参加するというわけでもなかった。だがあくまでもそれはアリスが自分の意思で選択してきた結果であって自分の意思に関係なくそうせざるを得なかったわけではない。
 ヴィンセルは違う。幼い頃から今と変わらず匂いに苦しんできたのだ。

「王子でありながら婚約者がいないのはそのせいなんだ。一国の王子が匂いに敏感で女性と共にいられないなど恥でしかない。他国の王子は皆幼少期から、早ければ生まれたとき既に婚約者が決まっているというのに俺は、婚約者を探すことさえ難しいんだ」

 世継ぎを残さなければならないプレッシャーと戦う以前の問題。

「でもそれがヴィンセル様なのですから……えっと……」

 アリスは迷った。

『恥じることはない?』は上からのような気がする。
『ありのままで生きろ?』も上から。
『大丈夫』は適当な返しな気がする。
『自信を持て』は無責任。

 正しい言葉は? 何を言えば励ましになる? 頭の中でぐるぐると回り続ける言葉のどれも正解がない気がして目まで回っているような気がした。

「はははっ、そう気を遣わないでくれ。慣れたことだ」

 当たり前のように言う『慣れ』という言葉はそれだけアリスがしたような反応を見てきたということ。アリスは気の利いたこと一つ言えない自分が情けなかった。

「確かに辛かった。人の匂いはもちろん強い花の香り、強すぎるスパイスや茶葉の香りもダメで。香りは人の記憶を結びつけると言われているが、俺にとっては全てが嫌な記憶でしかない」

 だから城に入る前も入ってからも花の匂い一つしないのだと納得した。

「何が申し訳ないって、母上におしゃれをさせられなかったことだ。まだ若かった母上に香りを纏わせてやることができなかった。彼女が香水をつければ吐き戻し、熱を出し、泣きじゃくった」
「おしゃれは香りだけではありませんよ」
「わかっているさ。だが、香りは重要だ。夫が好きだった香りを纏えないことは母上にとって辛かっただろう」

 子供を産んで母になったのだから、と言ってしまうのは簡単だ。
 独身時代のようにはいかない、子供がいなかったときのようにはいかない。
 母親なら子供のために我慢すべきだ、と周りは言うだろう。
 だが、愛しているのは子供だけではない。夫のことも愛しているのだ。
 愛する人が喜んでくれることをしたいと思うのは当然。だが、愛する夫が喜ぶことをすれば愛する我が子が苦しむ。
 一番苦しんだのは母親かもしれないとアリスは眉を下げる。

「だから両親は俺に婚約者を見つけるとも見つけろとも言わない。子供は養子を迎えればいいとさえ言ってくれている」
「それはよかっ──」
「だが」

 アリスの言葉を遮るヴィンセルの表情は見ているだけで胸が痛くなる。

「代々受け継いできた血を俺の代で止めてしまうことが申し訳ないんだ」

 アリスは長女だが、嫁ぐため世継ぎ世継ぎとは言われない。ベンフィールド家の跡継ぎはカイルの妻が産むだろうから。
 ヴィンセルは男だから子は産めない。一人で作って産めるならとっくに産んでいるだろうが、医療科学の進歩に奇跡でも起きない限りは不可能なこと。
 良い、仕方ないと受けとめてくれる両親の顔を見るたびにヴィンセルは辛くて仕方なかった。

「だが、君のような女性がいるとわかった」

 アリスは何も答えず笑顔を見せるだけ。

「傍にいてこんなにも落ち着く女性は初めてなんだ。君といるとすごく楽になれる。相性が良いというのはこういうときに使う言葉なのかもしれないな」 


 なんと答えればいいのかわからず、頭の中でぐるぐる回る答えを口にするかどうか迷っていた。
 あのヴィンセル・ブラックバーンに相性が良いとまで言ってもらえたのだから浮き足立って今すぐ舞い上がるままに踊ってしまいたいはずなのに、アリスはそうできなかった。

「いつかきっと、ヴィンセル様の運命の方が現れると思います。だから、恥だとか申し訳ないとか、そんな風に思う必要はないんですよ」

 彼の運命の相手は自分ではないとわかっている。いや、むしろ自分でなければいいとさえ思っていた。
 公爵令嬢と王子が結ばれるのは何もおかしな話ではない。むしろ最も王族に近しい爵位を持つのが公爵家なのだから、王子の婚約者になっても堂々としていられる。
 そこに問題があるとすれば身分ではなく、アリスの気持ち。
 アリスにとってヴィンセルは憧れの存在。
 イケメンで王子で爽やかで誰にでも優しい理想の男性。しかしアリスが知っているのはあくまでも外から見ただけのイメージであって、実際こうして話してみるとコンプレックスまみれの小説の中の王子様とは程遠い男性。それこそ自信だけで言えばヴィンセルよりもカイルのほうがあって、カイルが王子の服を着て一日過ごせば誰もがカイルを王子だと思うだろう。
 だからといって落胆したわけではない。むしろ嬉しかったぐらいだ。完璧に見える王子にも欠点やコンプレックスがたくさんあるんだとわかったから。
 でも、だからこそ自信のない、兄に頼りっぱなしの自分が彼を支えられるのかと考えたときに不可能だと思った。

「……君は……君以外に俺がこんなに落ち着く香りを持つ者がいると言うのか?」

 率直な問いかけにアリスは苦笑しながら頷く。

「王子が平気なのは私だけではなく兄のことも平気なのですから、他にもヴィンセル様が落ち着く香りを持った方はいると思います」

 ヴィンセルは一瞬言葉に詰まった。
 カイルが傍にいても気分が悪いのであればアリスしかいないと言えるが、カイルが傍にいても落ち着くのは落ち着く。ただ、アリスといるときほど爽快にはならない。
 それでもヴィンセルは首を振って真っ直ぐアリスを見つめる。

「俺は君だと思っているんだ」

 困った顔をするアリスにヴィンセルが手を伸ばし、アリスの手首に巻かれた包帯にそっと手を添える。

「アリス、もし君の腕が治っても送迎を続けてさせてもらえないだろうか?」
「そんな……兄に怒られてしまいます」
「カイルのことは俺が説得する。もし説得できたら君を送迎してもいいか?」

 求められる度にアリスは胸が痛くなる。
 これが惹かれ合っているのならどんなに良かっただろう。自分よりもずっと大きなその骨ばった手を握りながら微笑んで頷いたはず。とびきりの笑顔で「お願いします」と言っただろう。
 言えないのはヴィンセルの心が伝わってこないから。
 アリスには、ヴィンセルの今の願いは欲しい玩具をねだる子供と同じように感じていた。

「君の傍にいたいんだ」

 憧れの王子様から告げられた愛の告白とも受け取れる言葉はロマンチックなはずなのにアリスは泣きたい気持ちになっていた。
 恋は切なく甘いものだと小説には書いてあったが、今のアリスはただ胸が痛かった。
 憧れの王子が自分ではない他の令嬢と親しくしているのを見て胸を痛めるのならわかるが、なぜこんなにも真っ直ぐ思いを伝えられているのに泣きたくなっているのか、アリスは唇を噛んだ。

「今日は君を知るためにこうして招かせてもらった。カイルのことは知っていても君のことはまだよく知らないから。それで、君ともっと親しくなりたいと──」

 アリスが首を振るとヴィンセルの言葉が止まる。
 不安になったヴィンセルに向けるアリスの表情は喜びとは正反対のものだった。

「……ヴィンセル様が私と一緒に居たいとおっしゃってくださるのはとても嬉しいです」

 安堵するヴィンセル。

「じゃあ──」
「でもそれは、ヴィンセル様が楽になれるからですか? それとも……私のことが、好き……だから、ですか?」
「それはもちろん君のことが──」

 言えなかった。
 今日、こうして食事会を開いたのは婚約者にしたいとアルフレッドとセシルに相談した際に知ることからと言われたから招待した。そして今日はヴィンセルが想像していた以上に楽しかった。
 好きな食事と楽しい会話。久しぶりに呆れることも匂いによる苦痛を感じることもなく穏やかな食事の時間となったから。
 アリス・ベンフィールドについて今日知ったことは“キッチンに立つのが好き”であること“自信がないこと”と“完璧な兄を尊敬すると共にコンプレックスとなっていること”だけ。
 それでアリスを好きになったかと聞かれたらノーと答えるしかない。 
 ここで王子である自分が後先考えず無責任に「好きだ」と言ってしまえばアリスの人生を変えてしまうことになる。いや、その前にきっと嘘だとバレてこの関係を崩すことになるかもしれない。
 大して話もしていないのに好きなどと言ってもアリスはきっと信じない。ヴィンセルも嘘を貫き通す覚悟はまだ持っていなかった。

「ヴィンセル様」
「ッ……!」

 下を向いて考え込んでいたヴィンセルが名を呼ばれて顔を上げるとアリスの笑顔が目に入る。
 傷付いているような今にも泣きだしそうにも見えるその笑顔にやってしまったんだと理解したが、謝れば余計に傷つけることになると拳を握るしかできなかった。

「今日はお誘いいただきありがとうございました。とても楽しかったです」
「アリス、あの……」
「捻挫に関しましては日常生活に支障が出ないまでに回復していますので、もう気になさらないでください。送迎も明日から自家用で参ります」
「俺が怪我をさせたのだから最後まで責任を果たさせてくれ」
「どうか、ご理解ください」

 その一言は拒絶なのだとわかったヴィンセルはそれ以上アリスにかける言葉は出てこなかった。
 今のアリスは泣いてしまわないよう必死で笑顔を作り上げている。困らせないように、恥をさらさないようにと必死。それがわかるからこそヴィンセルは口を開かなかった。

「家まで送っていただきありがとうございました」
「気を付けて」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 いつも通りの言葉にいつも通りのお辞儀。
 何も変わらないはずなのに、何かが、変わってしまったような気がした。
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