痛みを感じない国王陛下の大いなる愛の執着

永江寧々

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結婚式

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 その日、フィオレンツの空は、雲ひとつない透き通るような青に染まっていた。
 大聖堂へと続く大通りには、夜明け前から詰めかけた民衆が幾重にも人垣を作り、今か今かと主役の登場を待ちわびている。
 街中に飾り立てられた国旗が春風にたなびき、祝祭の熱気が石畳の街を震わせていた。

 大聖堂の重厚な西扉の内側。

 エリンシアは、静謐な空気の中で自分の鼓動の音を聞いていた。
 高い天井から降り注ぐのは、色鮮やかなステンドグラスを透過した七色の光。それが、彼女が纏う“一年半の結晶”――あの手刺繍のドレスに落ち、銀糸の一本一本、真珠の一粒一粒を神々しく発光させている。

「綺麗ですよ、エリンシア様」

 傍らに控える侍女たちが、感極まったように声を震わせる。
 エリンシアは鏡を見るまでもなく、自分の肩にかかるドレスの重み、そして頭上に戴くあのインペリアルトパーズが輝くティアラの確かな重圧から、自分が今、この世で幸福な花嫁であることを自覚していた。

「陛下は中でお待ちです」
「ちゃんと待っていてくれて何より」
「説得するのに執事長が骨を折りました」

 まさか物理的にはないだろうなと侍女を見ると苦笑が向けられ、エリンシアも思わず苦笑を返す。
 朝からヴァレンは待ちきれず、何度も部屋に入ろうとした。

『妻の花嫁姿を見て何が悪い。本来なら僕だけが見ることを許される姿を何故お前たち使用人が先に見るのだ? おかしいだろう』

 ドレスに着替えている部屋の前で執事と兵士に向かって静かに文句を口にするヴァレンを怒らせないように必死に説得していた彼らには褒美を出すべきだと思った。
 
『僕が教会で倒れてもいいのか? 心構えをさせろと言っているのだ。何故お前たちが僕を止める? お前たちが対している相手が誰かわかっていないわけではないだろう』

 じりじりと地を這うような声を出し始めたことでエリンシアが口を開いた。

『陛下、どうか教会でお待ちください。ここで見られるより、教会で見られたほうが嬉しいのです』

 ヴァレンはすぐに返事をしなかった。エリンシアの願いと自分の欲望とを天秤にかけて戦っていたのだろう。

『僕は見たいのだ、エリンシア。僕が何年待ったと思っている?』
『それは承知しています。ですが、一生に一度の花嫁姿を正式な場所で見ていただきたいのです』
『僕よりも先に大勢の人間がお前の花嫁姿を見るのにか?』
『陛下はドレスの着せ方をご存じないではありませんか』

 できないことをできるとは言わないヴァレンの性格を把握しているエリンシアは彼を黙らせることに特化しつつあった。
 侍女たち全員が部屋の中で苦笑しているのも知らずに、ヴァレンはポツリと言葉をこぼした。

「僕だけが見れないのはおかしいだろう」

 だが、それ以上は言わなかった。
 執事が必死に言葉をかけながら部屋から遠ざけていくのを聞く慌ただしい朝ではあった。
 もっとスマートに、緊張感溢れる始まりになると思っていたエリンシアにとって、意外であり、思い出に深く残る朝となった。

 ゴーン、と都全体を揺らすような、重厚な鐘の音が響き渡った。
 あの日、戴冠式の日に聞いた鐘の音を思い出す。最高の日に最悪な思い出が蘇ることにクスッと笑ってしまう。

「ご入場です」

 それを合図に、巨大なオーク材の扉がゆっくりと、左右へ開かれていく。
 視界が開けた先、バージンロードの遥か先、祭壇の前に、彼がいた。
 
 ヴァレン・クローディア=メルヴェル。

 かつて戴冠式の日、冷徹な仮面を被ってこの場所に立っていた男は、今、純白の礼装に身を包み、一点の曇りもない眼差しでエリンシアを見つめていた。
 エリンシアが一歩、踏み出す。
 数千人の参列者が一斉に起立し、静寂の中に衣擦れの音と、驚嘆の吐息だけが漏れる。
 ドレスの重みが肩と腰にずしりとかかる。一歩進むたびに、七層のスカートが優雅に波打ち、床を這う絹の擦れる音が大聖堂に静かに響いた。銀糸と真珠が煌めき、まるで彼女の足元から花が咲き広がっていくかのような錯覚を人々に与える。
 一歩、また一歩。
 エリンシアを見つめるヴァレンの瞳が、僅かに揺れるのを彼女は見逃さなかった。
普段は一切の感情を表に出さない男が、今この瞬間だけは、己の心を隠せずにいる。唇がわずかに開き、喉が小さく動いた。言葉を飲み込んだのだ。
 あの日、強引に彼女を奪い、指輪を取り上げ、絶望の淵に突き落とした男。けれど、それと同じだけの熱量で、彼はこの一年半、エリンシアが望むものをすべて形にしてきた。
 荒れ果てた庭を耕し、彼女と花を植え、彼女が望む“対等な対話”を重ねてきた。
 支配という名の檻を、彼は自らの手で、二人が共に住まうための城へと作り変えたのだ。
 光を浴びる中で、そんなことを考えるエリンシアの微笑みをヴァレンはまるで形として切り取るように目に焼き付けて、彼の左手は、無意識に胸元を掴んでいた。

 エリンシアが祭壇の階段に辿り着くとヴァレンが、自ら一歩踏み出し、彼女に手を差し伸べた。
 エリンシアがその手に指先を触れさせた瞬間、ヴァレンの指が、あの日と同じ強さで、けれど震えるような慈しみを持って彼女を握り締めた。

「僕の想像は妄想に過ぎなかった」
「え?」
「僕の想像などが勝てるはずがないのだ。本物はあまりにも美しい」

 ヴァレンの呟きにも似た囁きは、聖歌隊の歌声にかき消されそうなほど小さい物だったが、エリンシアには確かに聞こえていた。

「随分と長い時間、妄想させてしまいました」

 エリンシアが微かに微笑むと、ヴァレンは一瞬、眩しいものを見るように目を細めた。
 その笑顔はいつもどおりなのに、今日はいつもより輝いて見えるせいで、ヴァレンは返事をすることもできなかった。

 二人は大司教の前へと並び、跪く。
 冷たい大理石の感触が膝に伝わる。
 かつては拒絶の対象でしかなかった彼の体温が、今は右手の指先から、不思議なほど安らぎを持って流れ込んでくる。

「フィオレンツ国王、ヴァレン・クローディア=メルヴェル。汝は、エリンシア・アルヴェンヌを妻とし、終生変わらぬ愛を捧げることを誓いますか?」

 大司教の声が、高いドーム状の天井に反響する。
 ヴァレンは、一切の迷いなく答えた。

「誓う。彼女の喜びを僕の喜びとし、彼女の悲しみを僕の痛みとする。僕の命が尽きるその瞬間まで、僕は彼女を愛し続けよう」

 その宣言は、もはや「独占」ではなく「献身」の響きを帯びていた。
 続いて、大司教の視線がエリンシアへと向けられる。

「エリンシア・アルヴェンヌ。汝は、ヴァレン・クローディア=メルヴェルを夫とし、生涯彼に寄り添い、共に歩むことを誓いますか」

 エリンシアは、ヴァレンの横顔を見上げた。
 シャープな顎のライン、結ばれた薄い唇、熱を帯びた瞳。
 自分を裏切った世界から自分を連れ去り、強引に、けれど一途に愛し抜いた男性。
 彼なしの人生を、エリンシアは想像することはできなかった。

「……誓います。命尽きるその瞬間まで、いかなる瞬間も、彼に尽くし、支え、愛することを誓います」

 二人の声が重なり、大聖堂の空気が震える。
 ヴァレンがエリンシアのベールに手をかけ、ゆっくりと、宝物を扱うような手つきでそれを上げた。
 露わになったエリンシアの瞳。その瞳が反射する光を見たヴァレンが、感慨深さに一度目を閉じる。

「やはり、最高級のインペリアルトパーズであろうと、お前の瞳の美しさには勝てぬな」
「宝石を変えなくてよかったでしょう?」
「ああ。お前が正しい」

 囁き合う二人の声が聞こえているのは大司教だけ。
 彼はヴァレンの変化に驚きを隠せなかったが、目には慈しみが宿っていた。

「……愛している、エリンシア。僕のすべてをお前に捧げよう」

 そう囁くと、ヴァレンの手がエリンシアの頬に触れた。指先が震えている。彼女の肌に触れる直前、一瞬だけ躊躇うように宙で止まり、そして、まるで壊れ物に触れるように、そっと頬を包んだ。
 エリンシアは瞳を閉じる。睫毛が震え、小さく息を吸い込んだ。
 ヴァレンの唇が重なる。最初は触れるだけの優しさで、けれど次の瞬間、十数年分の想いを注ぎ込むように深く、深く。
 大聖堂の空気が静止したかのように感じられる。
 やがて唇が離れると、ヴァレンの目尻に、光るものが浮かんでいた。
 教会の窓から差し込む光が、重なり合う二人のシルエットを白く飛ばし、真珠の刺繍が爆ぜるような輝きを放つ。
 その瞬間、大聖堂の外で待機していた鐘楼の鐘が一斉に鳴り響き、都中に王妃の誕生を告げた。
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