クロノスタシス

七星満実

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クロノスタシス

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 数瞬の静寂。俺は身震いしながら大きく深呼吸をし、ギターと一心同体になった。
 この瞬間になるといつも、さぁ、自分が生きていることを証明してやるんだとばかりに、身体中にエナジーが漲っていくのがわかる。暗がりでスポットライトに照らされる中、集まった観客の視線を一身に受けた。
「それじゃあ、聞いてください。……冷たい月」
 何度かき鳴らしたろう。何度叩きつけたろう。有り余る情熱を。漠然とした不安を。あるかどうかもわからない、自分自身の可能性を。
 胸の高鳴りを落ち着けながら、滑らかに弦を弾いてゆく。
 ライブはいい。気ままに弾くのも好きだが、こうして全神経を集中して、適度な緊張感を持って、積み重ねてきたことを、培ってきたものを、魂の赴くままに解放してゆく感覚。それは、観客の前でしか得られるものじゃなかった。

「あの、すごく感動しました!」
 ライブが終わり、荷物をまとめてバックヤードから出ると、突然若い女が声をかけてきた。
「ああ、ありがとう。嬉しいです、そう言ってもらえると」
 ハーフアップにした黒髪のすぐ下で、大きな輪っかのピアスが光っている。
「私、色んなライブハウスに通ってるんですけど、初めてかもしれません。こんなに心に響いたの」
 女は目を輝かせながら、帰ろうとする俺の進路を遮った。
「本当ですか?はは、そんな事言ってもらえたの、俺も初めてだ」
 わざわざ話しかけてくれたぐらいだから、大げさに聞こえる言葉だとは言え、まんざら嘘でもないのかもしれない。
「ええ、もちろんです!感動のお礼に、一杯、奢らせてください」
 女性は大量のリキュールやウイスキー、ブランデー等が並ぶバーカウンターを一瞥して言った。
「いやいや、それは……」
「ぜひ!」
 有無を言わさぬ勢いに、気圧されてしまう。女の瞳はライブハウス「アシッドワークス」内の多彩な照明に反射し、万華鏡のようにキラキラとしていた。
「ええと、ではお言葉に甘えて」
「何になさいますか?」
「マリブミルクを、お願いします」
「マリブミルク?随分可愛らしいものを飲まれるんですね」
 女は屈託なく笑うと、駆けるようにカウンターへ向かった。俺はポリポリと頭をかきながら、それを追いかける。
「ハイネケンと、マリブミルクをください!」
「はい、少々お待ちを」オーダーを受けた長髪に髭面のマスターが、ウインクをかましてくる。「良かったな。こんな美人のファンがついて」
 俺はわかりやすく照れながら答えた。
「そんな、ファンだなんて」
「いえ、ファンです!」酔っているのか、女は俺の腕を組みながら宣言した。随分積極的な子だ。「セツナさんってアーティスト名、どういう由来なんですか?」
「由来って言うか、本名なんだ。下の名前が、セツナ。一瞬って意味の、あの漢字さ」
 俺はわずかな動揺を隠しながら言った。
「へえ、そうなんだ!かっこいい!」
 腕を組む力が強まり、体を押し付けてくる。
「ま、まぁ名前負けしてるけどね」
 マルボロに火をつけながら、俺はまんざらでもなく謙遜した。
「そんなことないですよ!あ、私はトモカって言います。月二つに、香りで朋香」
「……朋香ちゃんか。そっちも、いい名前じゃん」
 俺が軽口を叩いた時、マスターがトライバルのタトゥーが入った両腕で、ハイネケンとマリブミルクをカウンターに差し出した。
「お待ちどうさん」
「ありがとうございます!……じゃあ、乾杯しましょ」
 朋香がグラスを傾けてくる。
「何に?」
「出会いに!」
 チン、と鳴らすと、朋香はゴクリ、ゴクリと勢いよく喉を鳴らした。それを見届けると、俺も大口を開けてマリブミルクをあおる。トロリと甘ったるいアルコールが、渇いた喉にへばりつくように流れていった。
「あ!」
 その時、酒が並ぶ棚の上の古びた掛け時計を見て、朋香が叫んだ。
「ん?何?」
「クロノスタシス!今、時計の秒針が止まって見えた!」
「クロノ……スタシス?」
 彼女に倣って、俺も掛け時計に目をやる。
「目の錯覚ですよ。時々ありません?」
「秒針が止まって見える、か……。そう言えばあったかも」
「刹那さんの歌を聞いた時にも、感じたんです!一秒一秒が、長く。クロノスタシスは聴覚的にも起こる、って聞いたことあったんだけど。それを、初めて感じたんです!」
 朋香は興奮しながら言った。
「そうなんだ。聴覚的にも。それは、感じたことないな」
 そう答えながら二口目を喉に流し込むと、突然後ろから肩を叩かれた。
「よう!お疲れさん」
 振り返ると、夜のライブハウス内にも関わらず、サングラスをかけた中年の男が立っていた。
「あ、どうも」
 俺の順番の前に弾き語りをしていた男だ。確か演奏中もサングラスをかけたままだった。
「兄ちゃん、なかなかいい歌うたうねぇ。だけど、あんな綺麗に歌い上げるだけじゃまだまだだ。もっと情熱的に、心の奥から吐き出すようにやらなきゃ、人の心には響かねぇ」
「はぁ。そっすか」
 俺は、露骨に興味なさげな言い方で返した。
「若いんだからよ。全力でやんなきゃ。ま、頑張りな」
 男はもう一度肩を叩くと、鬱陶しい音色の口笛を吹きながら出口へと向かった。
「……なにあれ。やな感じ!」
 朋香が男の背中を睨みつける。
「いるんだよたまに、ああいうのが」マスターがビールを口にしながら言った。「上から目線でウダウダ言ってたが、なんにもわかっちゃいないのさ。音楽ってのは理屈じゃない。良いものは良いんだ。刹那の才能が本物だってことは、普通はすぐにわかる」
「なんですかマスター。珍しいっすね、そんなこと言うの」
 アシッドワークスでライブをするようになって一年が経つが、俺に才能があるだなんてマスターに言われた事は無かった。
「お嬢ちゃんの耳は確かだよ。売れるかどうかは別問題だが、これからも応援してやってよ」
「はい!もちろんですよ。刹那さんがライブする時は、必ず来ます!」
 朋香がそう答えた時、ポケットのスマホが震えるのがわかった。取り出すと、画面には世良の名前が表示されている。電話で口喧嘩してから連絡を無視していたが、かかってくるのは久しぶりだった。
「ちょっとごめん。……はい」
 電話を取ると、通話口から耳心地の悪い声が聞こえた。
「相棒、電話取れよ」
 俺はいつものその呼び方に、早速イラッとする。
「大して用事もない癖にかけてくるからだよ」
「お前付き合い悪いよな最近。……ん?今、外か?」
 電話を通して喧騒が伝わったらしい。
「ああ、アシッドワークスでライブだ」
「またかよ。飽きもせずによくやるなほんと」
「お前には関係ない」
「俺も久しぶりに顔出そうかな」
「バカか、出禁食らってるだろ」
 俺の言葉に驚いて、朋香がこちらを見た。
「冗談だよ。もう終わったんだろ?帰りにウチ寄ってけよ」
「何しにだよ」
「良い酒が手に入ったんだ。たまには付き合ってくれよ」
 最後に会ってから、2ヶ月ほどが経っていた。俺はため息をつきながら答えた。
「すぐ帰るぜ。もうちょっとだなんだって、ごねるなよ」
「わかったわかった。じゃ、待ってるぜ。マスターによろしくな」
 電話を切ると、掛け時計に目をやる。午後十時を回ろうとしていた。
「……世良か。あいつとつるむのはやめとけって言ったろう。最近ますます変なのとの付き合いも増えてるって聞いたぜ」
 マスターは煙たそうな顔をして言った。
「わかってますけど、あいつとは腐れ縁なんで」
 俺は残ったマリブミルクを飲み干すと、マルボロをもみ消して立ち上がった。
「行っちゃうんですか?」
 朋香がひどく残念そうな表情を見せる。
「ああ」
「あの、また会えますか」
「ライブがなくても、週末は大体ここにいるよ。ごちそうさま」
 俺は多少の名残惜しさを感じながらも、ギターを担いでライブハウスを出た。

 秋の夜の涼しい空気が心地よく体に染み込む。
 都会のネオンを横目に、時間に関係なく流れる人波へ紛れ込むようにして、俺はアシッドワークスを後にした。



「来たか、相棒!」
 ボロアパートのインターホンを鳴らすと、酒臭く息巻いて世良がドアを開けた。
「その相棒っていうの、やめろよ」俺はうんざりしながら部屋に入った。「……寒っ!もう夏は終わったんだぜ。なんでクーラーつけてんだよ」
「まだ暑いよ。これぐらいの方が気持ち良いじゃねぇか」
 根っからの快楽主義者にふさわしい、世良らしい言葉だった。近所迷惑なくらいの爆音で、下品なラッパーのヒップホップが鳴り響いている。
 食器でいっぱいになったシンクを尻目に、3畳ほどの狭いキッチンを通る。タバコの臭いが充満したワンルームの部屋の中には、チューハイやビールの空き缶が雑多に転がっていた。テーブルの上を見ると、吸殻でいっぱいになったガラスの灰皿、コンビニ弁当の空き容器、読み直しているらしい昔の人気コミックが積み上げられている。世良はフラつきながら万年床に倒れこんだ。
「少しは掃除しろよ、よくこんな所で寝られるな」
 俺は散らかったゴミをかき分けて、テーブルの前に腰を下ろした。狭い部屋に似つかわしくなく鎮座している、未だ現役の巨大なCDコンポに手を伸ばして、音量を下げる。
「あっ!何すんだよ」
「そのうち追い出されるぞ、あんまり好き勝手なことしてたら」
「苦情なんて来たことねぇよ。俺が引っ越してきた翌々月に、隣の奴は引っ越していったみたいだけどな」
 俺は悪びれず放たれたその言葉にため息をついてから、言った。
「派遣の引っ越し業者は続けてるのか?」
「ああ、あそこは先輩だからって偉そうにしてやがった、年下の舐めたガキをのしたら首になった」
 頭が痛くなる。
「バカかお前は。26にもなって何やってんだ。アシッドワークスでの喧嘩も、マスターが取り持ってくれてなかったら、警察沙汰だったんだぞ」
「あれはあっちからふっかけてきたんだよ。……ほら」世良はそう言いながら、グラスに氷も無しに注がれたブランデーをよこしてきた。「ヘネシーだぜ。滅多に飲めるもんじゃない」
 俺はグラスを持つ手が震えた。
「ヘネシーって……仕事もろくにしてないお前が、なんでこんなもん……」
「最近ちょっと知り合いの頼まれごとを手伝い始めてよ。今日は臨時収入が入ったんだ」
 それを聞いてなんとなくそれを口にする気が起きず、俺はグラスを突っ返した。
「なんだよ頼まれごとって?」
 世良はそれを無視して、ラークに火をつけながら寝転がった。
「まぁいいじゃねぇかそんなこと。いいから飲めよ」
「よくねぇよ。金の出所のわからない酒なんか飲みたくない」
 俺がそう言うと、世良はフンと鼻を鳴らした。
「いい子ちゃんぶりやがって。昔はそんなじゃなかったのにな。一緒になって悪さして……あの頃のお前は良い奴だったよ、今と違って」
「始まったよ。何かって言うと、昔の話を持ち出しやがって」
「アシッドワークスを教えてやったのも俺なんだぞ。それなのに俺は嫌われ者の出禁、お前は辞めてた歌をまた始めて、人気者」
 その嫌味ったらしい口調に、カチンとくる。
「お前が子供のままなだけだろうが。俺は当たり前にやることちゃんとやってるだけだ」
「よく言うぜ。音楽辞めて働き出した時、いっつも仕事のグチいってたじゃねぇか。良い会社に就職できたのに、言い訳ばっかして、尻尾巻いて逃げ出したんだろう結局」
「なんだと?」
 胸の奥で、熱くてドス黒い感情が渦巻く。
「だから俺がアシッドワークスを紹介してやったんだよ。お前は歌をうたうのが似合ってると思って。ありがたく思ってるんだろうな?え?」
 世良はそう言うと、俺の顔に向かってフウとタバコの煙を吹きかけ、灰皿にラークを押し付けた。
「……来るんじゃなかったぜ。もう、連絡してくるな」
 俺は込み上げる怒りを押し殺して、立ち上がった。
「自分がしんどい時だけ友達ヅラして、俺が今こんなんだからって見下してるんだろう。都合の良い奴だ」
 世良が玄関に向かう俺に捨てゼリフを吐く。随分酔っているということはわかっていた。それでも、不愉快な思いを我慢できなかった。
 バタンッ!
 勢いよくアパートのドアを閉めると、俺は舌打ちをしてマルボロに火をつけた。
 冷房のせいで外の空気が生ぬるく感じる。それがまた、余計に不愉快に思えた。



「よう。お待ちかねだぜ」
 そして、ちょうど一週間後。俺は再びアシッドワークスに足を運んでいた。店に入るなりマスターは、カウンターで突っ伏した女をあごで差して言った。
「ああ……先週の」
 女は、例の大きな輪っかのピアスをしていた。酔いつぶれた彼女の隣に腰を下ろしながらステージに目をやると、ハタチ前後の青年が弾き語っていた。お世辞にも、上手いとは言えない。だけどなぜか、真剣に歌手を目指していた、大学生の頃の自分を思い出した。
「ん~……。刹那、さん?」
 彼女が目を瞑ったまま、こちらに顔を向ける。
「本当に、また来たんだ。大丈夫かよ?」
「大丈夫……じゃないです」
 朋香の顔は真っ赤だった。
「結婚しようって言ってた彼氏に、嫁さんと子供が居たんだってさ。可哀相に」
 マスターがグラスを拭きながら、気の毒そうに言う。
「なんだって?そりゃあ、ひどいな」言いながら、マルボロに火をつける。
「私、いっつもこうなんです。浮気されたり、二股かけられたり」彼女は相変わらず目を瞑りながら、自嘲気味に笑った。「でもいいんです。こうして、刹那さんに出会ったから」
 俺は、呆れたように笑った。
「そんなことすぐに言うから、遊ばれちゃうんだよ」
「違います。こんなこと、初めてなんです。刹那さんの歌、忘れられなくて。だから、来たんです」
 その言葉に肩をすくめるマスターと、顔を見合わす。
「傷心だから、そう感じたのさ」
「……そうかもしれません。でも、本当なんです。待ちに待ってた、感覚だったんです。信じてくれないでしょうけど」
 朋香はそう言うとようやく目を開け、残ったハイネケンを手に取るなり、一気に喉へと流し込んだ。
「おいおい、もうやめとけって」
 彼女は空き瓶をタンッとテーブルに叩きつけると、こちらを真っ直ぐに見つめて言った。
「私は結婚したかったんじゃない。幸せに、なりたかったんです」
 俺は彼女から視線を逸らし、タバコをもみ消しながら呟いた。
「結婚できたからって、幸せになれるとは限らないさ」
「……はい。わかってます。でも、刹那さんの歌を聞いた私は、幸せな気持ちになりました」
 その言葉に、苦笑しながら首を振る。
「そんな、大げさな……」
「ずっと、歌っててくださいね。私、ずっと応援しますから」
 朋香はそう言い終えると、再びカウンターに頭を落とした。その言葉には、何か大きな力がこもっているようにも聞こえた。
「そう突っぱねてやるなよ。大勢にウケるのも大事だが、誰かにここまで言ってもらえる歌をうたえる奴なんて、そういないんだ。自信持ちな」
 マスターが、マリブミルクをカウンターに置きながら言う。
「……今更、音楽で飯食っていこうだなんて思ってませんから。こんな風に言ってもらえるのは、嬉しいっちゃ嬉しいですけどね」
 グラスを軽く傾けてそう言った時、ギターの音色が止まり、歓声と拍手が沸き上がる。
「ありがとうございました!」
 俺も周囲に倣って手を叩きながら、ステージの青年に目をやった。彼は、とても満足そうに、キラキラとした笑顔を見せていた。



「すいません。刹那さんといっぱいお話しようと思ってたのに、潰れちゃってて」
 半分体を預けながら、朋香が申し訳なさそうに言う。
「そんな日もあるさ。また、ゆっくり話そう」
 繁華街を抜けると、明かりは満月と街灯だけになっていた。駅を目指して、人気のない公園を通る。
「今年は紅葉、見に行けるかなぁ」
 おぼつかない足取りで、公園に生えた木を見上げながら彼女が言った。
「紅葉か。短い期間だから、なかなかね」
「……小さい頃、毎年ハイキングに連れて行ってもらったんです。山の中腹で休憩して、お母さんが作ってくれたお弁当を食べて。それが、すっごく美味しかったんですよ。……あ、ちょっと休憩しましょ」
 朋香はベンチを見つけると、そう言ってぶっきら棒に俺の手を引いた。
「俺も覚えがあるよ。確か、ちょうど秋だった。紅葉も見たよ」
 俺は導かれるまま、ベンチに腰を下ろした。
「子供の頃の時間の流れ方って、ゆっくりでしたよね」
 俺にもたれかかりながら、彼女が月を見上げて言う。
「うん。取り戻せない感覚だよ」
「……案外、そうでもないかもしれませんよ。刹那さんにもう一度会うまでのこの一週間、凄く長かったから」
 朋香の言葉に俺は笑った。
「そうか。それも例のクロノスタシスの一種かな?」
 彼女もそれを聞いて笑う。
「ええ。きっとそう。刹那さんと出会ってから、私の時間はゆっくり進みだしたのかも」
 ……子供の頃みたいに、時間がゆっくり、か。なんだか、羨ましいな。
 不思議と俺は、朋香の言葉でそんな風に感じた。
「……紅葉、予定が合えば見に行こうか」
「え?」
 もたれ掛けていた顔を上げ、耳を疑うように彼女が言った。
「いいかもしれない。たまには、そういうのも」
 深まる秋の気配がそうさせたのか。俺の歌に感動してくれたお礼のつもりなのか。単に、積極的な朋香に心を動かされたのか。自分でも、なぜそんなことを口にしたのかはわからなかった。
「……嬉しい」
 彼女はそう呟きながら、再び俺の肩にもたれかかった。
 
 歌手になんてなれない。どう頑張っても。そう思って、俺は一度歌を辞めた。そして社会に揉まれていくうち、このまま俺は終わっていくのかと怖くなった。心に穴が空いたような感覚を携えながら、俺は日々を生きた。どうにかなるわけじゃない。それでも、もう一度夢中になってみたかった。
 不思議な感覚だった。その俺の歌を聞いて、これほど評価してくれる人は初めてだった。俺の消えかけていた情熱を再び燃やしたことが、微かに、報われたような気になった。ずっと誰かに届いて欲しかった、俺の心の叫び。それは、意外にもあっけない形で、こうして実現したのかもしれない。

 ポケットの中で、スマホが震える。
 ディスプレイには、世良の名前が表示されていた。
 俺はため息をひとつついて、スマホをポケットの中に納めた。
「……電話?いいの?」
 朋香が、心配そうに言う。
「ああ。いいんだ。どうせロクな用件じゃない」
「……もしかして、世良さんって人?」彼女は、怪訝そうな表情だった。「マスターに彼のこと、色々聞きました」
「そう……かい。ロクな話じゃなかったろう?」
「はい、正直。……みんな彼から離れていくけど、刹那さんはそうしない、って」
 俺はマルボロに火をつけると、深く煙を吸い込み、ゆっくりと宙空に吐き出した。
「……中学の時に、さ。お袋が倒れてね。突然だった。親父は、悲しみに暮れるまもなく、働き通しだった。夜遅くに親父が帰ってくるまで、俺は、いつも一人で待ってたんだ」
 彼女は、黙って聞いていた。
「辛かったよ。孤独だった。そんな時にさ、世良が声をかけてきたんだ。俺んちもお袋の帰りが遅いから、遊びに来いよ、って。あいつんとこは物心ついてすぐ、両親が離婚したらしいんだ。だから、それからは世良とよくつるむようになってさ。絵に描いたような悪ガキコンビになっちまって。学校でもしょっちゅう問題起こしたけど、親父はあまり怒らなかった。救われたんだよ俺、あいつに。それで、俺もあいつを見捨てないって決めたんだ」
「……そう、なんだ」
 金木犀の匂いを乗せて、夜風が優しく頬を撫でる。
「みんな、大人になるにつれて少しは変わっていくだろう?なのにあいつはいつまでたっても変わらないまま。それが、あいつらしくもあったんだけどさ。近頃は、会えば喧嘩ばっかで。いい加減、うんざりし始めちまってたところさ」
 ベンチのそばの街灯が、光を失う。が、少しして点滅を繰り返した後、再びぼんやりとした明かりを取り戻した。
「刹那さんが大人になっていくのが、寂しかったのかもね」
「……さぁ、どうだろう。なんか変な金の稼ぎ方し始めてるみたいだし、辞めろって言っても聞く奴じゃないからさ。……しばらく、ほっとこうと思う」
「うん……。それがいいと思います。時間が経てば、彼もわかるんじゃないかな」
「はは」俺はわかりやすく苦笑いした。「どうだか、ね」
 そう言いながら、俺は夜空の月を見上げた。
 その光は、さっき見た時よりも、闇の中で一層明るく輝いているように見えた。



 そうして彼女と別れた後も、いつも以上にしつこく世良からの着信があった。次の日も、その次の日も電話は鳴った。だけど、俺が電話を取ることはなかった。三日が経ち、諦めたのかとうとう電話はかかってこなくなった。

 世良の時間は、子供の頃のままゆっくり流れているのだろうか。だとしたら、それが一概にいいことだとも思えそうになかった。子供のままで大人になる。それは、俺がなりたかった大人の姿でもあった。だけど今は、そうやって生きていくことの難しさと、過酷さを、身をもって知ってしまっているのだ。



 そして、次の土曜日の夜。
 相変わらず俺はアシッドワークスにやって来ていた。今日は、ライブの日だ。
 バックヤードで精神統一を済ませると、ひょっこりとドアの隙間から顔を出す。見覚えのある客の顔がチラホラと確認できる。もちろん、朋香もその中にいた。今日の弾き語りが終われば、しばらくライブの予定はない。その間に、彼女とデートを重ねるというのも、いいかもしれない。そんな事を考えながら顔を引っ込めようとすると、珍しい来客を視界の隅に捉えた。
「……おい、笹野!」
 俺は、バックヤードのドアを開いて叫んだ。
「よーう!来たぜ。SNSでライブ予定だって目にしたからな」
 笹野とは中学を卒業した後もしばらくつるんでいたけど、ここ何年かはSNS上でのやりとりしかしていなかった。
「久しぶりだなぁ!わざわざ来てくれたのかよ!……初めてだよな?俺の歌聴くの」
 満面の笑みで、ガッチリと握手を交わして言う。
「ああ。楽しみだよ。……それでさ」笹野はそこで一旦言葉を切った。「聞いてるか?世良のこと」
 俺はその言葉に虚を突かれ、顔を強張らせた。
「……世良?何か、あったのか?」
「聞いてない、か。俺の実家、世良の実家の近所だったろ?だから、知らせが来たんだけどさ……」
 笹野が言い淀む。
「なんだよ、言えよ」
 嫌な予感が、拭えなかった。
「世良の、お袋さん。……亡くなったんだって。ちょうど、一週間前だよ」
 俺は耳を疑った。
「なんだって?」
「脳梗塞、だったらしい。見つかった時にはもう、亡くなってたそうだ」
 自分の鼓動が、急激に早くなるのがわかる。
 まさか。まさか、そんな!
 あの日から、世良が何度も電話して来たのは、お袋さんのことを俺に……。
「世良は、葬式に来なかったらしい。噂じゃやばいことに巻き込まれてて、実家もバレてるからしばらく近づいてなかったそうだ。離婚した親父さんも行方がわからなくて、代わりにお袋さんの親族が家族葬にしたんだってさ……」
 俺はそれを聞いて、笹野の両肩に掴みかかった。
「そ、それで!世良は?」
 笹野は、ゆっくりと首を横に振った。
「俺からは、連絡してない。知ってるだろ?昔、あいつともめて随分酷い目に合わされたの。俺だけじゃない。誰だって、あいつに連絡を取る奴なんていないさ。連絡が来たって、シカトするだろう。刹那。お前以外は、な」
 俺は、全身の血の気が引いていくのを感じながら、わなわなと体を震わせて立ちすくんだ。

(俺んちもお袋の帰りが遅いから、遊びに来いよ)

 母親が亡くなり、父親の帰りが遅くて寂しい思いをしていた俺に、世良から言われた言葉を思い出す。
「刹那さん、時間です」
 ちょうどその時、バックヤードから音響スタッフに声をかけられる。
「え、ええ。今行きます」
 激しい動揺を隠しきれぬまま、俺は不器用な手つきでギターを抱えた。
「……刹那、大丈夫か?」
 笹野がその様子を見て慮る。
「ライブが終わったら……世良の家に行くよ」
「そう……か。そうだよな。お前は、世良の唯一の友達だもんな」
 笹野の言葉に頷くと、俺は照明の落ちたライブハウス内を、ステージ目指してゆっくりと歩き出した。
 やばいことに巻き込まれてる?妙な連中を手伝って金を稼ぎ出したことと関係あるのか?いや、それより葬式にすら出られずに、あいつは今、どうしてるんだ?
 様々な疑問が胸に渦巻く。足取りが、重く感じる。すぐ目の前にあるステージへ向かう時間が、果てしなく長く思える。
 その時だった。
「お、おい!お前!」
 突然、マスターの怒号がアシッドワークスに響き渡った。
 なんだ?
 そう思って振り返ろうとした、次の瞬間。
 ドスッ!
 黒い塊が、俺の体に勢いよくぶつかってきた。
 ドスッ、ドス!ドス!
 その塊は計四度、俺の腹部めがけて力強く何かで突いてきた。
 店内が、にわかにどよめき始める。
「しょ、照明だ!照明つけろ!」
 腹が、熱い。焼けるように、熱い。
 なんだ?一体、何が起きたんだ?
 ゆっくりと天井のライトが点き、煌々と俺と黒い塊を照らし出した。
「キャアアアアアアアッ!」
 同時に、耳をつん裂くような朋香の叫び声が聞こえた。俺は、猛烈な腹部の痛みとともに、足の力を無くし、グラリと膝から崩れ落ちた。
 黒い塊……それは、世良だった。
 手に、切っ先が赤く染まった包丁のようなものを持っている。世良は、ブルブルと全身を震わせながら、青褪めた表情を見せ、肩で大きく息をしている。
 そこかしこから、悲鳴や絶叫が聞こえてくる。
 意識が、徐々に薄らいでいく。周りの声が、遠い世界のもののように感じられる。
「裏切りやがって……俺を、裏切りやがって!」
 興奮した世良の叫びが、空間で歪みながら、鼓膜の奥に届いた。
 血流溢れ出る腹を抱え、上半身の自由も失い、ゆっくりと床へ倒れ込む。

(死ぬ……のか。俺……)

 声にならない声が、頭に浮かぶ。
 視界が、漆黒の闇に包まれていく。

 今にも途切れそうな意識の中、最後に俺の目に映ったのは、壁に掛けられていた古時計だった。
 時計の秒針は、はっきりと止まって見えた。
 それは、あまりにも、あまりにも長い、まるで永遠にも似た……ほんの一瞬だけの、錯覚だった。





ー了ー
 
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