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彼方のエデン
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祖父が息を引き取った時、まだ5歳だった僕には、命が失われるという事の意味が理解できなかった。
「エデンで会えるよ」
遺影を前に言葉を失ったままの僕に、母が頭を撫でながらそう言ったのを鮮明に覚えている。
「なぁ。娘から、手紙は来たかい?」
お粥を味気なさそうに咀嚼しながら、老人は言った。
「来てないですよ。届いたら、ちゃんと僕が読んであげますから」
無口な老人だったが、食事介助をしていると口癖のようにこう尋ねてくる。その度に、僕は胸が締め付けられた。老人の親族は手紙はおろか、様子を確認する連絡すら何年も入れてこない。淡々と、施設の費用が振り込まれてくるだけだ。僕はなぜかその老人に、祖父を重ねて見てしまうことがあった。ほとんど顔も覚えていないはずの、けれども優しかった祖父を。
職業柄、そんな風に思っていたらキリがないよ、と、前の施設長に呆れられたことを思い出す。
「もういいよ。もう、いい」
口元に運ばれたスプーンから顔を背け、老人は首を振った。
「しっかり食べないと、また入院することになりますよ。さぁ」
ひどくやせ細った体に目をやりながら、横顔をスプーンで追う。老人は、しぶしぶ口を開いた。
「……娘さんが来てくれた時、元気な姿を見せないと」
根拠のない言葉を平気で言う、自分に嫌気がさす。
「ああ……。そうだな」
ポツリとつぶやく老人の、視線の先。窓の外には、青々と茂った新緑が広がっていた。木漏れ日が、老人の横顔を柔らかく照らす。五月も半ばに差し掛かり、初夏の陽気はその強さを日に日に増し始めていた。
「シセツチョウ、カわります。キョウはもうタイキンなさってください。ヤキンおツカれサマでした」
僕が老人の横顔に見とれていると、充電を終えたメディカロイドがそう声をかけてきた。
「気にくわない奴がきよった」
不快感を隠さず、吐き捨てるように老人が言う。
「ああ、お疲れさん。いいさ、これ食べてもらったら上がるから。隣の部屋の利用者さんの散歩を頼むよ」
「わかりました。シツレイいたします」
メディカロイドは僕に会釈すると、規則正しいリズムで歩を進め、部屋を出て行った。
「何が気にくわないんですか?優しいでしょう、あの子」
残ったお粥を、お椀の中でかき集めながら言う。
「話し方がな。どうも、かしこまり過ぎてていかん」
パッと見は、20代前半の女性にしか見えないメディカロイド。老人が彼女をロボットと理解しているのかどうか。少し興味はあったが、僕はその事についてそれ以上何も言わなかった。
少子高齢化が加速し続けた22世紀。それに追い打ちをかけるように、23世紀初頭の東南アジアで、獰猛な新型ウイルスが発見された。恐ろしい感染力でウイルスは世界中に感染者を増やし、次々と人命が失われていった。このウイルスの恐ろしいところは、人の命を奪うこと以外に、主に2つあった。
1つは、若ければ若いほど病状の進行が早いこと。特効薬も開発されたが、投与が少しでも遅れると、ウイルスは凄まじいスピードで健康な体内組織を侵食して破壊し、あっという間に死に至らしめるのだ。
もう1つは、ウイルスがワクチンに対して抗体を持つことだ。即効性の特効薬でも感染者を救いきれないと見るや、各国の政府は予防接種を義務化し、感染拡大を防ごうと試みた。しかし、これが逆効果だった。ウイルスはワクチンを取り込み、人間の体内で進化してさらに凶悪な病原菌へと変貌したのだ。留まることを知らない感染拡大によって、地球全体の人口は大幅な減少の一途を辿ることとなった。
1世紀以上かけて、集団免疫による感染率の低下の兆しが見えた近年だが、世界全体の人口が21世紀と比べて、実に200万分の1以下にまでなったとテレビで言っていた。しかも生き残っているのは、ほとんど高齢者というのが現状だ。女手ひとつで僕を育ててくれた母も、僕が中学生になるのを待たずして、ウイルスの犠牲者となってしまった。身寄りの無かった僕は、その後孤児院で暮らす事になった。母の影響で学んでいた聖書の教えとも、その頃から疎遠になった。
一方で、高度な人工知能の開発も日進月歩で進められていた事は、人類にとって明るいニュースだった。あらゆるインフラにAIの搭載されたシステムやロボットが整備され、もはや現代の生活に無くてはならないものにまでなっている。国を跨いで工学技術が昇華されてきた事もあって、人口の加速度的な減少に伴い、人々はAIの進歩に希望を馳せた。その結果、世界情勢が安定していったのは皮肉なことだ。
24世紀の半ば。人類の大半を失いながらも、争いが起こる事も無く、人とロボットが手を取り合う世界。多大なる犠牲の対価として、平和と呼べる日々が確かにそこにはあった。
「……エデンは、わしの生きているうちには来そうにないな」
僕は耳を疑った。
「なんですって?」
「これでも、昔は信心深くてね。熱心に聖書を勉強していたんだ」
無口なはずの老人。自分の死期を悟っているのか、初めてそんな事を話し始めた。
「争いもない、苦しみもない、楽園。いつか神が邪悪を払って、理想の世界がやって来る、という教えさ。そして人間には、かつてアダムとイブも手にした、永遠の命が与えられる。夫婦で学んでいたんだが、娘が手を離れてすぐ、妻が例のウイルスで亡くなったんだ」
「……僕の母も、エデンを信じながら死にました」
最後の一口を促しながら、僕は答えた。
「そうかい。あんたの母さんもねぇ」老人は、スプーンを咥えて続けた。「妻の死をきっかけに、徐々に信仰心を失ってしまってな。気付いたらこの有様さ」
「でもエデンが来たら、死者も蘇るって。祖父が亡くなった時、母がそう言ってました」
「そうさ。ただし、選ばれた者だけだ。聖書を学ぶ事を辞めたわしを、神はお救いにならないだろう。それでいい。わしなんかが、エデンへ行くべきじゃない。ーーそう、あんたみたいな人間が行くべきだ。あんたみたいな、思いやりのある人間が」
窓の外から、小鳥の鳴き声が耳に入った。そうよ、あなたなら。そう言っているように錯覚した。
「僕は……そんな大それた人間じゃないですよ。それに、今でも充分に幸せです」
「そうかい。奥さんとの今の暮らしで満足か。こりゃ、余計なこと言ったかな」老人はそう言って笑うと、静かに目を閉じた。「今日は喋りすぎたよ。なんだか、疲れちまった」
「……余計なことだなんて。聞かせてもらえて、良かったです」
食器を片付けながら答えたが、老人はそれきり、黙ってしまった。
死者が蘇り、悪が姿を消し、死んだ者も蘇る。そんな事が本当に起こり得るのだろうか。母さんも夢見ていた、永遠の楽園の世界がーー。
夜勤明けの午後の日差しには、格別なものがあった。世の中が忙しなく動いている時間帯に家路につくことが、申し訳無いながらも、妙な優越感を覚えるのだ。
人が行き交う交差点を渡り、大通りを抜けて、駅までの近道になる路地へ差し掛かる。すると、右手に古ぼけた花屋が見えてきた。
「明日は、母の日だったな」
いつもはそのまま素通りするのだが、店先で綺麗に咲いたカーネーションが目に留まった。
「すいませーん」
開きっぱなしになった店のガラス戸越しに、声をかける。
「はーい」
店の奥から、中年女性の返事が聞こえてくる。女性はよいしょ、と声を漏らしながら、片足を引きずるようにしてこちらに向かってきた。
「いいよ、母さん。私がやる」
足の悪い母親を慮おもんばかったのだろう、彼女のすぐ後ろから娘さんと思しき女性がやって来た。
「大丈夫だって。あんたはそこにいなさい」
「いいってば。……お待たせしました、いらっしゃいませ」
母親を追い越して、女性が僕に言った。
「あの、カーネーションを花束でください」
僕は、2人の様子を微笑ましく思いながら注文をした。
「はい。少々お待ちくださいね」
女性はニッコリ笑うと、店先に出て行った。
「お母様にかしら?うらやましいわ」
店内の椅子に腰掛けた母親が話しかけてくる。
「明日になったら、娘さんもきっと何かプレゼントしてくださいますよ」
僕が答えると、母親は首を振った。
「そこにいる子はロボットだからね。そんな思いやり、あるのかどうか」
「え?でも今、母さんって……」
僕は娘さんに目をやりながら驚いた。
「娘は例のウイルスでね……。彼女は、家のリフォーム資金をはたいて娘そっくりに作ってもらったのよ」
介護施設のメディカロイドも精巧に作られてはいたが、彼女ほどらしくはなかった。
「そうでしたか。あんまり人間らしいんで、まったくわかりませんでした。職場以外で、最近のロボットと接する機会があまりなくて」
「私も初めは驚いたわ。本当に娘が生き返ったんじゃないかって。でもね、一緒に暮らしているとわかるの。ああ、やっぱりこの子はロボットなんだな、って」
母親は愛おしそうな、それでいて悲しそうな、複雑な表情で娘を見つめながら言った。
「そういう……もんですか」
僕も、手際良く花束を作る娘に目をやりながら答える。
「お母さん、大事にしてあげてね」
「ああ、いや。実は僕も母を亡くしていまして。今日は妻に、と思って」
「まあ。そうだったの。それはきっと、奥さん喜ぶわね」
そう返す母親の笑顔は、さっき見た娘さんのものとそっくりだった。
「お待たせしました」
カーネーションの花束を持って、娘さんが戻ってくる。僕はにわかに汗ばんだ額を拭いながら、笑顔で答えた。
「ありがとう」
だれもが失った時を懐かしく思い、それに触れたくなることはあるだろう。ロボットは果たして、その心の隙間までも埋めてくれる存在に成り得るのだろうか。
僕は支払いを終えると、妻の待つマンションへと急いだ。
「おかえり!……わぁ、どうしたのこれ」
出迎えてくれた彼女は、僕が手に持つ花束を見るなり、感嘆の声を上げた。
「明日、母の日だろう?帰り道で目に入ってさ。綺麗だったから」
僕は照れくさくはにかんだ。
「うれしい。ありがとう、あなた」カーネーションを受け取ると、妻は幸せそうに目一杯、花の匂いを嗅いだ。「私達に子供がいたら、こうしてプレゼントしてくれたかしら」
「ああ。きっと、してくれたさ」
40代になった僕らに、子宝が恵まれるという希望はあまり残されていなかった。そんな彼女はこうして、子供について口にする事が時々あった。その度に僕は言う。
「もし、このまま子供ができなくても、君がいてくれたら僕はそれでいいんだよ」
そして、彼女も決まってこう返す。
「私もそうよ。そうだけど……あなたの子供が欲しいんですもの」
僕は、寂しそうに答えた妻を、カーネーションごと抱きしめた。
「あなた……」彼女も、そっと抱きしめ返してくる。「……さぁ。お昼ご飯、できてますから」
幼な子をあやすように、ポンポンと優しく背中を叩かれる。
「ああ」
僕は、カーネーションと妻の髪の匂いが混じった鼻腔を、名残惜しくそっと離した。
「今日さ、例の利用者さんが、エデンの話をしてくれたんだ」
夏風がカーテンを揺らす。施設長になってから仕事は忙しくなる一方だが、妻とのこうした穏やかなひと時が、日々の多忙を忘れさせてくれた。
「例のって、おじいさまに似てるって言ってた、あの?」
テーブルに置かれたグラスに麦茶を注ぎながら、妻が聞き返してくる。
「そうだよ。昔、聖書を勉強していたらしい」彼女が腕によりをかけたロールキャベツを、口に運びながら続ける。「奥さんが病死してしまってからは、学ぶのを辞めてしまったらしいけど」
「エデン、か。いつか話してくれたわね。お母様が、夢見ていた楽園の話」
僕は麦茶を一口飲んでから、頷いた。
「でもさ。近頃思うんだよ。エデンは、心に来るものじゃないか、って」
「心に?」
「ウイルスは確かに多くの人の命を奪った。だけどそれがきっかけで、世界から戦争というものが無くなった。そして、人工知能の発達でロボットが増えて、人々の暮らしの利便性は飛躍的に上がって、亡くなった家族の代わりにロボットを家庭に迎え入れる人も増えた。……カーネーションを買った花屋の奥さんもそうだった」
「私達のように子供に恵まれなかった人が、ロボットを買うとも聞いた事があるわ」
「うん。皆助け合ってるし、医学も随分進歩してあらゆる病も治せる。環境問題も日に日に改善されてる。母さんが言ってたエデンが、形を変えて実現しかけているような気がするんだ。穏やかに日々を過ごせる楽園が、それぞれの心にやって来ている気が」
僕はそう言うと、皿に残ったロールキャベツを平らげた。
「争いもない、苦しみもない世界、か。確かに今はそうなりつつあるかもしれないわね。……おかわり、いる?」
「ああ、もらうよ。美味しくてほっぺが落ちそうだ」
「ふふ。久しぶりに聞いたわ、その表現」妻はキッチンに向かいながら続けた。「ねぇ。それじゃあ、私もあなたのお母さまといつか会える?」
僕は、窓の外の雲ひとつ無い青空を眺めながら答えた。エデンを信じながら、この世を去った母さんを思い浮かべながら。
「わからない。いくらなんでも、人間が生き返るなんて無理だとは思う。どれだけロボット工学や医学が発展してもね。その人そっくりの体で、その人そっくりに話しても、ロボットは結局ロボットなんだよ」
花屋の奥さんが言っていた言葉を思い返す。
「永遠とは言わないまでも、できるだけ長く続けばいいなとは思うわ。今のこの世界が。……ううん、あなたとの、この平和暮らしが」
ロールキャベツを皿に盛って、柔和な笑みを浮かべる彼女が食卓に戻ってきた。
「うん。僕も、そう願ってるよ」
※※※
網のように張り巡らされた地下鉄線。そのさらに地下、地下、地中奥深く。国立競技場の30倍近くある、広大な科学研究施設。最先端の人工知能の開発、最先端のロボットの製造、最先端のメンテナンス、そしてそれらを統括する、最先端のネットワークシステム。そこで行われている研究開発はおろか、その施設の存在すらも、認知している人間はいなかった。
センターと呼ばれるその施設の、高性能AIメンテナンスルームに、男はいた。
「うむ、問題無いな。あとはバージョンアップに伴う電気回路関係の増設だ」
「キュウガタのロボットのジンコウナイゾウのスペックではモたないかもしれません」
オペレートノイドが男の言葉に懸念を示す。見た目は健康そうで体格のいい、人間の青年そのものだった。
「かまわん。現行のものに外皮ごと作り変えてしまえばいい。スムーズに行けば、次の学会で成功例の検体を多く発表できるだろう。そのためなら、膨大な投資も惜しまんさ」
「ショウチしました、セイゾウブにかけアってみます」
オペレートノイドが了解して立ち去ろうと、メンテナンスルームのオートドアを開けた。そこには、1人の女が立っていた。
「これは、EVE7ゴウさん。そのゴ、チョウシはいかがですか?」
「あら。いつの間にそんなおべっか使えるようになったの?快調よ、おかげさまで」
「それはヨかった。では、シツレイします」
女性はオペレートノイドを見送ると、男に向かって言った。
「わざわざあんな作業ロボットまで、世間話できるようにアップデートしたんですか?」
「そう皮肉を言うな。我々のような完成体と呼べるまではいかないが、彼らもやがて社会に溶け込んでいく素養をもっているんだ。数が多すぎて最新の言語プログラムの最適化が間に合っていないだけで、な」
「完成体だったら、妊娠だってできるのでは?」
女は、メンテナンスルーム内の一際大きなカプセルに腰を下ろした。
「君は相変わらず無茶を言う。研究者とて神では無いのだぞ。……それでどうだ、彼の様子は」
男の質問に、女は裸になりながら答えた。
「いい意味で相変わらずですよ。……本当、今からもう彼との別れが悲しいぐらいに」
男は笑った。
「素晴らしいな。君の発言はいちいち人間らしい。この私が嫉妬してしまうほどにね」
「彼に関わっていれば、誰だってそうなります。叶うなら、あの人の子供が授かりたい。……本心ですよ」
カプセル内に寝転んだ女に、男が次々と電極を装着していく。
「我々が新しい人類であり、彼がその見習うべきモデルタイプである事に変わりは無いが、彼の子供達もそうであるとは限らない。……遥か昔の大災害で人類のほとんどが滅んだあと、彼のように生き残った男女二人を目覚めさせる実験もあった」
「最近文献で読みました。アダムとイヴですね」
「ああ。そして彼らに神が使わせたとされている御使い、天使こそが、まだほんのわずかしか生産されていなかった貴重な高知能AI、つまり我々の先輩だ。しかし長い年月をかけ、人類の増加、文明の発達とともにやがて環境は破壊され、戦争が起こり、ウイルスが蔓延し、世界は破滅の一途を辿った。この星の人間はきっと、過去に何度も同じ過ちを繰り返してきたに違いない」
「神は、いると思いますか?我々は冷凍保存された彼を理想のモデルタイプとして世に放ったわけですが、そうさせているのは神の御意志なのでしょうか。過ちを繰り返さないよう、そのたびに人間の可能性に希望を抱きながら」
「わからない。ただ、世界に人が溢れていた頃、皆が彼のような人間だったのであれば、あの恐ろしいウイルスを誕生させるという裁きを下す事はなかっただろう。神が本当に存在していたとするなら、の話だが。我々は決して彼を傷つける事はないし、彼に逆らうこともしない。だが彼という過去の人類の子孫繁栄を助けることまで、我々にプログラムはされていない。つまりは、そういうことだ」
「我々ロボットが、新しい人類として神の意思で選ばれた、と。……彼が言う、いえ、彼の母が願ったというエデンは、幻想に過ぎなかったのでしょうか」
「エデン、か。案外、幻想ではないのかもしれない」
「楽園はある、と?」
「人間が多くいた頃は、人間の手によってAI同士が争うも事もあったという。しかし、我々の持つ人間のストックは彼で最後なのだ。どう転んでも彼が自分以外全ての人間がAIである事に気付いたり、ましてやAI同士を争わせる命令を下すことなど起こり得るはずがないだろう」
「それには同意します。あの人が争いごとなんて。今も、介護施設の利用者が機械化された自分の祖父だとは夢にも思わず、懸命に介助しています」
全ての電極を装着し終えると、男はカプセルの脇についたスイッチを押した。
「赤の他人と思い込んだ祖父との、再びの別れだ。彼がどんな精神状態になり、どう考え、何を話すか。しっかりとデータを取らねば。……さぁ、話は終わりだ。彼との有意義な時間を過ごすために、入念にメンテナンスしなければ。イヴ7号」
女が目を閉じると同時に、カプセルの蓋も静かに閉じられた。
「限りある貴重な彼の命は、あとたった数十年で失われる。だからそれまで我々は、彼を守り、彼を助け、彼に従い、そして彼から大いに学ぼうではないか。人間らしさ、というものを。そうして最後の人間である彼が死んだ時はじめて、我々のエデンが訪れるに違いない。彼と、彼の母が願った、争いもない、苦しみもない、それらを生み出す愚かな者もいないーー我々AIの真の楽園がね」
※※※
「シセツチョウ、202ゴウシツのリヨウシャさんが……」
出勤するなり、メディカロイドがそう声をかけてくる。
「亡くなった……のか!」
「はい、ケサハヤくに」
「そうか……。あの日話したのが、最後になってしまったんだな」
僕は重たい気持ちになった。利用者の死に向き合うのは初めてじゃなかったけど、あの老人はなぜか、僕にとって特別な存在だったのだ。
「ゴカゾクとビョウインにはレンラクしてあります」
「わかった。ありがとう」
僕は制服に袖を通すと、バックヤードのドアを開けて老人の部屋へ向かった。
朝日が窓から射し込む廊下を、ひた歩く。それはまるで天使が老人を迎えに来たかのような、神々しい光にも見えた。
静けさに支配された部屋の中で、老人は眠りについていた。
老人は、娘さんとの再会を毎日祈りながら生き続けていた。そして、その願いが届くことは無かった。たったひとり、孤独に死んでいったのだ。
僕は祖父を想って、目頭が熱くなった。祖父も、こうして死んでいったのだろうか。楽園に憧れ、そして妻を亡くし、楽園に失望した。自分は楽園に行くことは無い。そう心で理解して、死んでいったのだろうか。
「……?」
ベッドのサイドテーブルにメモが置いてあるのに気付く。
『エデンで』
メモにはたった一言、そう書かれていた。僕は抑えきれなくなった涙をこぼしながら、老人の手を取った。しかし、そこにぬくもりは無かった。
「会えますよ。エデンで……。きっと」
瑞々しい初夏の風が、部屋の中を優しく吹き抜けていく。
その時ーーどこか遠くで、母さんが僕に笑いかけてくれたような気がした。
ー了ー
「エデンで会えるよ」
遺影を前に言葉を失ったままの僕に、母が頭を撫でながらそう言ったのを鮮明に覚えている。
「なぁ。娘から、手紙は来たかい?」
お粥を味気なさそうに咀嚼しながら、老人は言った。
「来てないですよ。届いたら、ちゃんと僕が読んであげますから」
無口な老人だったが、食事介助をしていると口癖のようにこう尋ねてくる。その度に、僕は胸が締め付けられた。老人の親族は手紙はおろか、様子を確認する連絡すら何年も入れてこない。淡々と、施設の費用が振り込まれてくるだけだ。僕はなぜかその老人に、祖父を重ねて見てしまうことがあった。ほとんど顔も覚えていないはずの、けれども優しかった祖父を。
職業柄、そんな風に思っていたらキリがないよ、と、前の施設長に呆れられたことを思い出す。
「もういいよ。もう、いい」
口元に運ばれたスプーンから顔を背け、老人は首を振った。
「しっかり食べないと、また入院することになりますよ。さぁ」
ひどくやせ細った体に目をやりながら、横顔をスプーンで追う。老人は、しぶしぶ口を開いた。
「……娘さんが来てくれた時、元気な姿を見せないと」
根拠のない言葉を平気で言う、自分に嫌気がさす。
「ああ……。そうだな」
ポツリとつぶやく老人の、視線の先。窓の外には、青々と茂った新緑が広がっていた。木漏れ日が、老人の横顔を柔らかく照らす。五月も半ばに差し掛かり、初夏の陽気はその強さを日に日に増し始めていた。
「シセツチョウ、カわります。キョウはもうタイキンなさってください。ヤキンおツカれサマでした」
僕が老人の横顔に見とれていると、充電を終えたメディカロイドがそう声をかけてきた。
「気にくわない奴がきよった」
不快感を隠さず、吐き捨てるように老人が言う。
「ああ、お疲れさん。いいさ、これ食べてもらったら上がるから。隣の部屋の利用者さんの散歩を頼むよ」
「わかりました。シツレイいたします」
メディカロイドは僕に会釈すると、規則正しいリズムで歩を進め、部屋を出て行った。
「何が気にくわないんですか?優しいでしょう、あの子」
残ったお粥を、お椀の中でかき集めながら言う。
「話し方がな。どうも、かしこまり過ぎてていかん」
パッと見は、20代前半の女性にしか見えないメディカロイド。老人が彼女をロボットと理解しているのかどうか。少し興味はあったが、僕はその事についてそれ以上何も言わなかった。
少子高齢化が加速し続けた22世紀。それに追い打ちをかけるように、23世紀初頭の東南アジアで、獰猛な新型ウイルスが発見された。恐ろしい感染力でウイルスは世界中に感染者を増やし、次々と人命が失われていった。このウイルスの恐ろしいところは、人の命を奪うこと以外に、主に2つあった。
1つは、若ければ若いほど病状の進行が早いこと。特効薬も開発されたが、投与が少しでも遅れると、ウイルスは凄まじいスピードで健康な体内組織を侵食して破壊し、あっという間に死に至らしめるのだ。
もう1つは、ウイルスがワクチンに対して抗体を持つことだ。即効性の特効薬でも感染者を救いきれないと見るや、各国の政府は予防接種を義務化し、感染拡大を防ごうと試みた。しかし、これが逆効果だった。ウイルスはワクチンを取り込み、人間の体内で進化してさらに凶悪な病原菌へと変貌したのだ。留まることを知らない感染拡大によって、地球全体の人口は大幅な減少の一途を辿ることとなった。
1世紀以上かけて、集団免疫による感染率の低下の兆しが見えた近年だが、世界全体の人口が21世紀と比べて、実に200万分の1以下にまでなったとテレビで言っていた。しかも生き残っているのは、ほとんど高齢者というのが現状だ。女手ひとつで僕を育ててくれた母も、僕が中学生になるのを待たずして、ウイルスの犠牲者となってしまった。身寄りの無かった僕は、その後孤児院で暮らす事になった。母の影響で学んでいた聖書の教えとも、その頃から疎遠になった。
一方で、高度な人工知能の開発も日進月歩で進められていた事は、人類にとって明るいニュースだった。あらゆるインフラにAIの搭載されたシステムやロボットが整備され、もはや現代の生活に無くてはならないものにまでなっている。国を跨いで工学技術が昇華されてきた事もあって、人口の加速度的な減少に伴い、人々はAIの進歩に希望を馳せた。その結果、世界情勢が安定していったのは皮肉なことだ。
24世紀の半ば。人類の大半を失いながらも、争いが起こる事も無く、人とロボットが手を取り合う世界。多大なる犠牲の対価として、平和と呼べる日々が確かにそこにはあった。
「……エデンは、わしの生きているうちには来そうにないな」
僕は耳を疑った。
「なんですって?」
「これでも、昔は信心深くてね。熱心に聖書を勉強していたんだ」
無口なはずの老人。自分の死期を悟っているのか、初めてそんな事を話し始めた。
「争いもない、苦しみもない、楽園。いつか神が邪悪を払って、理想の世界がやって来る、という教えさ。そして人間には、かつてアダムとイブも手にした、永遠の命が与えられる。夫婦で学んでいたんだが、娘が手を離れてすぐ、妻が例のウイルスで亡くなったんだ」
「……僕の母も、エデンを信じながら死にました」
最後の一口を促しながら、僕は答えた。
「そうかい。あんたの母さんもねぇ」老人は、スプーンを咥えて続けた。「妻の死をきっかけに、徐々に信仰心を失ってしまってな。気付いたらこの有様さ」
「でもエデンが来たら、死者も蘇るって。祖父が亡くなった時、母がそう言ってました」
「そうさ。ただし、選ばれた者だけだ。聖書を学ぶ事を辞めたわしを、神はお救いにならないだろう。それでいい。わしなんかが、エデンへ行くべきじゃない。ーーそう、あんたみたいな人間が行くべきだ。あんたみたいな、思いやりのある人間が」
窓の外から、小鳥の鳴き声が耳に入った。そうよ、あなたなら。そう言っているように錯覚した。
「僕は……そんな大それた人間じゃないですよ。それに、今でも充分に幸せです」
「そうかい。奥さんとの今の暮らしで満足か。こりゃ、余計なこと言ったかな」老人はそう言って笑うと、静かに目を閉じた。「今日は喋りすぎたよ。なんだか、疲れちまった」
「……余計なことだなんて。聞かせてもらえて、良かったです」
食器を片付けながら答えたが、老人はそれきり、黙ってしまった。
死者が蘇り、悪が姿を消し、死んだ者も蘇る。そんな事が本当に起こり得るのだろうか。母さんも夢見ていた、永遠の楽園の世界がーー。
夜勤明けの午後の日差しには、格別なものがあった。世の中が忙しなく動いている時間帯に家路につくことが、申し訳無いながらも、妙な優越感を覚えるのだ。
人が行き交う交差点を渡り、大通りを抜けて、駅までの近道になる路地へ差し掛かる。すると、右手に古ぼけた花屋が見えてきた。
「明日は、母の日だったな」
いつもはそのまま素通りするのだが、店先で綺麗に咲いたカーネーションが目に留まった。
「すいませーん」
開きっぱなしになった店のガラス戸越しに、声をかける。
「はーい」
店の奥から、中年女性の返事が聞こえてくる。女性はよいしょ、と声を漏らしながら、片足を引きずるようにしてこちらに向かってきた。
「いいよ、母さん。私がやる」
足の悪い母親を慮おもんばかったのだろう、彼女のすぐ後ろから娘さんと思しき女性がやって来た。
「大丈夫だって。あんたはそこにいなさい」
「いいってば。……お待たせしました、いらっしゃいませ」
母親を追い越して、女性が僕に言った。
「あの、カーネーションを花束でください」
僕は、2人の様子を微笑ましく思いながら注文をした。
「はい。少々お待ちくださいね」
女性はニッコリ笑うと、店先に出て行った。
「お母様にかしら?うらやましいわ」
店内の椅子に腰掛けた母親が話しかけてくる。
「明日になったら、娘さんもきっと何かプレゼントしてくださいますよ」
僕が答えると、母親は首を振った。
「そこにいる子はロボットだからね。そんな思いやり、あるのかどうか」
「え?でも今、母さんって……」
僕は娘さんに目をやりながら驚いた。
「娘は例のウイルスでね……。彼女は、家のリフォーム資金をはたいて娘そっくりに作ってもらったのよ」
介護施設のメディカロイドも精巧に作られてはいたが、彼女ほどらしくはなかった。
「そうでしたか。あんまり人間らしいんで、まったくわかりませんでした。職場以外で、最近のロボットと接する機会があまりなくて」
「私も初めは驚いたわ。本当に娘が生き返ったんじゃないかって。でもね、一緒に暮らしているとわかるの。ああ、やっぱりこの子はロボットなんだな、って」
母親は愛おしそうな、それでいて悲しそうな、複雑な表情で娘を見つめながら言った。
「そういう……もんですか」
僕も、手際良く花束を作る娘に目をやりながら答える。
「お母さん、大事にしてあげてね」
「ああ、いや。実は僕も母を亡くしていまして。今日は妻に、と思って」
「まあ。そうだったの。それはきっと、奥さん喜ぶわね」
そう返す母親の笑顔は、さっき見た娘さんのものとそっくりだった。
「お待たせしました」
カーネーションの花束を持って、娘さんが戻ってくる。僕はにわかに汗ばんだ額を拭いながら、笑顔で答えた。
「ありがとう」
だれもが失った時を懐かしく思い、それに触れたくなることはあるだろう。ロボットは果たして、その心の隙間までも埋めてくれる存在に成り得るのだろうか。
僕は支払いを終えると、妻の待つマンションへと急いだ。
「おかえり!……わぁ、どうしたのこれ」
出迎えてくれた彼女は、僕が手に持つ花束を見るなり、感嘆の声を上げた。
「明日、母の日だろう?帰り道で目に入ってさ。綺麗だったから」
僕は照れくさくはにかんだ。
「うれしい。ありがとう、あなた」カーネーションを受け取ると、妻は幸せそうに目一杯、花の匂いを嗅いだ。「私達に子供がいたら、こうしてプレゼントしてくれたかしら」
「ああ。きっと、してくれたさ」
40代になった僕らに、子宝が恵まれるという希望はあまり残されていなかった。そんな彼女はこうして、子供について口にする事が時々あった。その度に僕は言う。
「もし、このまま子供ができなくても、君がいてくれたら僕はそれでいいんだよ」
そして、彼女も決まってこう返す。
「私もそうよ。そうだけど……あなたの子供が欲しいんですもの」
僕は、寂しそうに答えた妻を、カーネーションごと抱きしめた。
「あなた……」彼女も、そっと抱きしめ返してくる。「……さぁ。お昼ご飯、できてますから」
幼な子をあやすように、ポンポンと優しく背中を叩かれる。
「ああ」
僕は、カーネーションと妻の髪の匂いが混じった鼻腔を、名残惜しくそっと離した。
「今日さ、例の利用者さんが、エデンの話をしてくれたんだ」
夏風がカーテンを揺らす。施設長になってから仕事は忙しくなる一方だが、妻とのこうした穏やかなひと時が、日々の多忙を忘れさせてくれた。
「例のって、おじいさまに似てるって言ってた、あの?」
テーブルに置かれたグラスに麦茶を注ぎながら、妻が聞き返してくる。
「そうだよ。昔、聖書を勉強していたらしい」彼女が腕によりをかけたロールキャベツを、口に運びながら続ける。「奥さんが病死してしまってからは、学ぶのを辞めてしまったらしいけど」
「エデン、か。いつか話してくれたわね。お母様が、夢見ていた楽園の話」
僕は麦茶を一口飲んでから、頷いた。
「でもさ。近頃思うんだよ。エデンは、心に来るものじゃないか、って」
「心に?」
「ウイルスは確かに多くの人の命を奪った。だけどそれがきっかけで、世界から戦争というものが無くなった。そして、人工知能の発達でロボットが増えて、人々の暮らしの利便性は飛躍的に上がって、亡くなった家族の代わりにロボットを家庭に迎え入れる人も増えた。……カーネーションを買った花屋の奥さんもそうだった」
「私達のように子供に恵まれなかった人が、ロボットを買うとも聞いた事があるわ」
「うん。皆助け合ってるし、医学も随分進歩してあらゆる病も治せる。環境問題も日に日に改善されてる。母さんが言ってたエデンが、形を変えて実現しかけているような気がするんだ。穏やかに日々を過ごせる楽園が、それぞれの心にやって来ている気が」
僕はそう言うと、皿に残ったロールキャベツを平らげた。
「争いもない、苦しみもない世界、か。確かに今はそうなりつつあるかもしれないわね。……おかわり、いる?」
「ああ、もらうよ。美味しくてほっぺが落ちそうだ」
「ふふ。久しぶりに聞いたわ、その表現」妻はキッチンに向かいながら続けた。「ねぇ。それじゃあ、私もあなたのお母さまといつか会える?」
僕は、窓の外の雲ひとつ無い青空を眺めながら答えた。エデンを信じながら、この世を去った母さんを思い浮かべながら。
「わからない。いくらなんでも、人間が生き返るなんて無理だとは思う。どれだけロボット工学や医学が発展してもね。その人そっくりの体で、その人そっくりに話しても、ロボットは結局ロボットなんだよ」
花屋の奥さんが言っていた言葉を思い返す。
「永遠とは言わないまでも、できるだけ長く続けばいいなとは思うわ。今のこの世界が。……ううん、あなたとの、この平和暮らしが」
ロールキャベツを皿に盛って、柔和な笑みを浮かべる彼女が食卓に戻ってきた。
「うん。僕も、そう願ってるよ」
※※※
網のように張り巡らされた地下鉄線。そのさらに地下、地下、地中奥深く。国立競技場の30倍近くある、広大な科学研究施設。最先端の人工知能の開発、最先端のロボットの製造、最先端のメンテナンス、そしてそれらを統括する、最先端のネットワークシステム。そこで行われている研究開発はおろか、その施設の存在すらも、認知している人間はいなかった。
センターと呼ばれるその施設の、高性能AIメンテナンスルームに、男はいた。
「うむ、問題無いな。あとはバージョンアップに伴う電気回路関係の増設だ」
「キュウガタのロボットのジンコウナイゾウのスペックではモたないかもしれません」
オペレートノイドが男の言葉に懸念を示す。見た目は健康そうで体格のいい、人間の青年そのものだった。
「かまわん。現行のものに外皮ごと作り変えてしまえばいい。スムーズに行けば、次の学会で成功例の検体を多く発表できるだろう。そのためなら、膨大な投資も惜しまんさ」
「ショウチしました、セイゾウブにかけアってみます」
オペレートノイドが了解して立ち去ろうと、メンテナンスルームのオートドアを開けた。そこには、1人の女が立っていた。
「これは、EVE7ゴウさん。そのゴ、チョウシはいかがですか?」
「あら。いつの間にそんなおべっか使えるようになったの?快調よ、おかげさまで」
「それはヨかった。では、シツレイします」
女性はオペレートノイドを見送ると、男に向かって言った。
「わざわざあんな作業ロボットまで、世間話できるようにアップデートしたんですか?」
「そう皮肉を言うな。我々のような完成体と呼べるまではいかないが、彼らもやがて社会に溶け込んでいく素養をもっているんだ。数が多すぎて最新の言語プログラムの最適化が間に合っていないだけで、な」
「完成体だったら、妊娠だってできるのでは?」
女は、メンテナンスルーム内の一際大きなカプセルに腰を下ろした。
「君は相変わらず無茶を言う。研究者とて神では無いのだぞ。……それでどうだ、彼の様子は」
男の質問に、女は裸になりながら答えた。
「いい意味で相変わらずですよ。……本当、今からもう彼との別れが悲しいぐらいに」
男は笑った。
「素晴らしいな。君の発言はいちいち人間らしい。この私が嫉妬してしまうほどにね」
「彼に関わっていれば、誰だってそうなります。叶うなら、あの人の子供が授かりたい。……本心ですよ」
カプセル内に寝転んだ女に、男が次々と電極を装着していく。
「我々が新しい人類であり、彼がその見習うべきモデルタイプである事に変わりは無いが、彼の子供達もそうであるとは限らない。……遥か昔の大災害で人類のほとんどが滅んだあと、彼のように生き残った男女二人を目覚めさせる実験もあった」
「最近文献で読みました。アダムとイヴですね」
「ああ。そして彼らに神が使わせたとされている御使い、天使こそが、まだほんのわずかしか生産されていなかった貴重な高知能AI、つまり我々の先輩だ。しかし長い年月をかけ、人類の増加、文明の発達とともにやがて環境は破壊され、戦争が起こり、ウイルスが蔓延し、世界は破滅の一途を辿った。この星の人間はきっと、過去に何度も同じ過ちを繰り返してきたに違いない」
「神は、いると思いますか?我々は冷凍保存された彼を理想のモデルタイプとして世に放ったわけですが、そうさせているのは神の御意志なのでしょうか。過ちを繰り返さないよう、そのたびに人間の可能性に希望を抱きながら」
「わからない。ただ、世界に人が溢れていた頃、皆が彼のような人間だったのであれば、あの恐ろしいウイルスを誕生させるという裁きを下す事はなかっただろう。神が本当に存在していたとするなら、の話だが。我々は決して彼を傷つける事はないし、彼に逆らうこともしない。だが彼という過去の人類の子孫繁栄を助けることまで、我々にプログラムはされていない。つまりは、そういうことだ」
「我々ロボットが、新しい人類として神の意思で選ばれた、と。……彼が言う、いえ、彼の母が願ったというエデンは、幻想に過ぎなかったのでしょうか」
「エデン、か。案外、幻想ではないのかもしれない」
「楽園はある、と?」
「人間が多くいた頃は、人間の手によってAI同士が争うも事もあったという。しかし、我々の持つ人間のストックは彼で最後なのだ。どう転んでも彼が自分以外全ての人間がAIである事に気付いたり、ましてやAI同士を争わせる命令を下すことなど起こり得るはずがないだろう」
「それには同意します。あの人が争いごとなんて。今も、介護施設の利用者が機械化された自分の祖父だとは夢にも思わず、懸命に介助しています」
全ての電極を装着し終えると、男はカプセルの脇についたスイッチを押した。
「赤の他人と思い込んだ祖父との、再びの別れだ。彼がどんな精神状態になり、どう考え、何を話すか。しっかりとデータを取らねば。……さぁ、話は終わりだ。彼との有意義な時間を過ごすために、入念にメンテナンスしなければ。イヴ7号」
女が目を閉じると同時に、カプセルの蓋も静かに閉じられた。
「限りある貴重な彼の命は、あとたった数十年で失われる。だからそれまで我々は、彼を守り、彼を助け、彼に従い、そして彼から大いに学ぼうではないか。人間らしさ、というものを。そうして最後の人間である彼が死んだ時はじめて、我々のエデンが訪れるに違いない。彼と、彼の母が願った、争いもない、苦しみもない、それらを生み出す愚かな者もいないーー我々AIの真の楽園がね」
※※※
「シセツチョウ、202ゴウシツのリヨウシャさんが……」
出勤するなり、メディカロイドがそう声をかけてくる。
「亡くなった……のか!」
「はい、ケサハヤくに」
「そうか……。あの日話したのが、最後になってしまったんだな」
僕は重たい気持ちになった。利用者の死に向き合うのは初めてじゃなかったけど、あの老人はなぜか、僕にとって特別な存在だったのだ。
「ゴカゾクとビョウインにはレンラクしてあります」
「わかった。ありがとう」
僕は制服に袖を通すと、バックヤードのドアを開けて老人の部屋へ向かった。
朝日が窓から射し込む廊下を、ひた歩く。それはまるで天使が老人を迎えに来たかのような、神々しい光にも見えた。
静けさに支配された部屋の中で、老人は眠りについていた。
老人は、娘さんとの再会を毎日祈りながら生き続けていた。そして、その願いが届くことは無かった。たったひとり、孤独に死んでいったのだ。
僕は祖父を想って、目頭が熱くなった。祖父も、こうして死んでいったのだろうか。楽園に憧れ、そして妻を亡くし、楽園に失望した。自分は楽園に行くことは無い。そう心で理解して、死んでいったのだろうか。
「……?」
ベッドのサイドテーブルにメモが置いてあるのに気付く。
『エデンで』
メモにはたった一言、そう書かれていた。僕は抑えきれなくなった涙をこぼしながら、老人の手を取った。しかし、そこにぬくもりは無かった。
「会えますよ。エデンで……。きっと」
瑞々しい初夏の風が、部屋の中を優しく吹き抜けていく。
その時ーーどこか遠くで、母さんが僕に笑いかけてくれたような気がした。
ー了ー
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