クアドロフォニアは突然に

七星満実

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第2章 「異変」

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 次の日。転校生が来る、との宮田先生からの報せに沸いた昨日のホームルームが嘘のように、何の変哲もなく火曜日が始まり、まったく何事もなく昼休みを迎えていた。普通は自分のクラスに転校生がやってきたら、生徒達の話題はその事で持ちきりになるんじゃないだろうか。こと青山くんに関しては、周囲から話しかけられるどころか、その風貌の不気味さや初日の異様な様子から、いきなりクラス全体から敬遠されるという、とても気の毒な状態にあった。授業中も休憩時間も常に机に突っ伏していて、クラスに馴染もうとする意欲を全く感じさせないようでは、無理もなかった。僕自身だって例外じゃなく、どうにも彼とコミュニケーションを取ることが憚られている。
 席が隣ということもあって、人当たりのいい来栖川が唯一、何度か声をかけていたようだった。だけど、青山くんの反応はというと、首を縦にふるか横にふるか、たったそれだけのレスポンス(と言えるのかすらあやしいが)しか見せることがなかったのだ。コミュ力の塊のような来栖川をもってしても、半ば拒絶のような態度を繰り返されてしまっている。他に誰が声をかけたとしても、結果は見えていると言わざるをえない。青山くんに会う前まで、転校生にはなるべく声をかけようと考えていた自分が、なんだか情けなく思えた。

「あいつって、オタク、ってやつなのかなぁ」
 教室の後ろにある木造りのロッカーに腰掛けて、足をブラブラと遊ばせながら、圭介が訝しげに言った。
「そういう問題か?」
 顔をしかめながら憲ちゃんが返す。
「都会にはオタクがいっぱいいるんだろ?東京から来るっていうから、どれだけ垢抜けた奴が来るのかと思ったら…。違う意味で、忍足には一人もいなかったタイプだよな」
 確かに圭介の言う通りだった。東京、というフレーズの印象から、皆ちょっとオシャレな感じの子を大なり小なり連想してしまっていたと思う。非常に勝手な話ではあるが、そういう想像とのギャップに驚いてしまった部分も、少なからずあったに違いない。
「オタクは根暗、なんていうステレオタイプなイメージは確かにあるけどな。あいつはそういうレベルじゃない異常さだぜ」
 憲ちゃんの言葉に、そこまで言うことないのに、とも思ったが、それを強く否定できない自分がいた。
「なんの話?」
 凛が、隣のクラスから秋浜を連れてやってきた。
「例の転校生さ。なんだってんだあいつは」
 苛立ったように圭介が吐き捨てる。
「そんな言い方しなくても。慣れてないだけなんじゃないの?」
 何も知らない秋浜が、昨日までの僕みたいなことを言う。彼女が相手とあっては、圭介も憎まれ口を返さない。
「千雪ちゃんからするとさ」圭介のそばでロッカーにもたれながら、凛が言う。「どういう風に見える?青山くん」
「え?どういう風って言われても……。うつ伏せに、なってるとしか……」
 秋浜はちょっと困った様子で、見たままを言った。凛と仲の良い秋浜は、こうして休み時間になると時々うちのクラスにやって来る。色白でほっそりしていて、端正な顔立ちの印象通り、穏やかで優しい女の子だ。誰かさんが好きになるのも無理はない。
「秋浜はさ、なんでよくこっちのクラスに来るの?」
 ここぞとばかりに圭介が話しかける。
「凛ちゃんが呼びに来てくれるから、かな。時々はうちのクラスでも話してるよ」
「案外、このクラスに好きな奴がいたりして」
 椅子にもたれながら両腕を後頭部で結びつつ、憲ちゃんがしたり顔で言う。
「え、そうなの!?」
 自分がからかわれていることに気付かず、圭介は驚きを隠さない。
「違うよ、そんなんじゃなってば」
 秋浜があっという間に顔を赤らめて否定する。
「千雪ちゃんは同級生に興味ないもんねー」
 横入りして、凛が茶化すように言った。
「そ、そうなの?」
 今度は落胆した様子で、圭介がさっきと同じセリフを言う。脇で憲ちゃんがニヤニヤとと笑っていた。
「もう、凛ちゃん!怒るよ?」
 どうやら、凛は秋浜の好きな人を知っているらしい。すでに卒業した先輩だったりするのだろうか。
キーンコーンカーンコーン……。
「あ、チャイム鳴っちゃった。戻るね!」
 あいさつもそこそこに、秋浜は教室の後ろの出入り口へ駆け出す。
キーンコーンカーンコーン……。
「また放課後ね!」
彼女の後ろ姿を見送りながら、大きな声で凛が言った。



 間も無くして、黒板側の出入り口がガラリと開く。
「よーし、今日もやっていくか」
180cmはあろう長身を右に、左にくねらせ、ストレッチのような動きをしながら林先生が入ってくる。
「きりーつっ」
 今日の日直は凛らしい。ガタガタとそこかしこで椅子を引く音が響く。
「よろしくお願いしまーす」
 号令に合わせ、皆んなで立って挨拶をする。
「うん、よろしくな」
 少し日焼けした顔に真っ白な歯を光らせ、先生が笑顔で応える。
 林先生は忍足出身で、東京の大学で教員免許を取った後、勤め先にわざわざ忍足中学を希望してやってきたそうだ。年は20代後半、短めのツーブロックに精悍な顔つき、体育教師然としたなかなかに逞しい体つき。東京帰りで十分に垢抜けた大人な男性なうえに、若くてかっこよく、地元愛まである先生。怒らせると恐いが話も面白くて親しみやすく、女子生徒からの人気がすごいのも頷ける人だった。
「貴重な保険の授業だからな。マジメにやってくれよ。……えーと、転校生は、と」
 教室を見渡し、青山くんを探す。
「……お。いたな、青山。昨日の体育は元気なかったみたいだが、どうだい?まだ緊張してるのかな」
 青山くんは不自然に体をモジモジと揺らしながらゆっくりと首をかしげた後、ほんの小さくこっくりと頷いた。
「まぁ、卒業前のこんな時期に来たんじゃ、なかなか輪に入りづらいだろうからな。皆んな仲良くしてやってくれよ」
 そうしたいのはやまやまなんだけど……と思ったのは、僕だけじゃないはずだ。
「先生、右手どうしたの?」
 来栖川がそう聞いたので目をやると、右手の甲に湿布のようなサポーターのような、白い布が巻かれているのがわかった。
「ああ、昨日宿直室で料理してたら火傷しちゃってね。慣れないことはするもんじゃないな」
 先生は少年のようにいたずらっぽく笑って言った。今時宿直なんてあるのはうちの学校ぐらいじゃないだろうか。確か一週間交代だから、今週は林先生が担当らしい。
「そうなんだ、かわいそー。あたしが作りに行ってあげよっか?」
 来栖川の提案に、僕や周りのクラスメイトはクスクスと笑った。
「ははは、そうだな。成人式が終わったらぜひお願いするよ、来栖川」
 先生がスマートにかわしてそう言った時、突然、圭介が立ち上がって声を張り上げた。
「せ、先生!」ただごとではない様子だ。「こいつ、お、お漏らししてやがる!」
 圭介の言葉で教室内は一気にどよめき、圭介が指差す方向に注目が集まる。机の下に、大きなシミを作っていたのは……青山くんだった。
「大丈夫か、青山!……保健委員、青山を保健室に連れて行ってやってくれ」
 周囲からは悲鳴にも似た声がこれでもかと挙がり、林先生がすぐさま指示を出す。青山くんはうつむいて全身をブルブルと震わせながら、一段と顔を青白くさせていた。そうしている間にも床のシミは広がっていた。我慢していたのか、急に何かしら体調が悪くなったのか……。教室全体がざわめく中、圭介がさも気持ちが悪そうに言い放った。
「うえー、きったねぇ!とんでもねぇ転校生が来たもんだな」
「名取!」
 すぐさま林先生の怒号が飛ぶ。
「圭介!お前……」
 言い過ぎだぞ、と僕が続けて言おうとした時だった。
 パァンッ!
 大きな破裂音とともに、教室中が静まり返る。
「言い過ぎよ、名取」
 圭介に平手打ちを見舞ったのは、鋭い目つきをした来栖川だった。
「いってぇ…」
 殴られた方の頬を押さえながら、圭介が来栖川をにらみ返す。
「え、恵那ちゃん……」
 心底驚いた表情で、凛が呟いた。林先生ですらその迫力に言葉を失っていると、来栖川はすぐに走って廊下へ出て行き、窓に洗って干してあった2枚の雑巾を手にして戻ってきた。そのまま、青山くんの机のあたりの床を拭き始めたかと思うと、比較的綺麗な方の雑巾を青山くんに差し出して言った。
「大丈夫?使って、青山くん」
 椅子に座ったまま、青山くんの体はまだ震えていた。
「ご、ごめん……。ごめん……ぼ、ぼく……」
 ポタリ、ポタリ、とお漏らしじゃない雫が青山くんの机の上に落ちる。皆一様に言葉を失って、ただただ呆然とその様子を静観していた。
「く、来栖川、すまんな。さぁ、いこう青山。……保健委員!」
 青山くんの腕を取り、我を取り戻したかのように先生がもう一度呼びかけると、圭介が口を開いた。
「俺が行きます」言いながら、スタスタと青山くんに近付き、肩を貸す。「……悪かったよ、転校生」
 それを見ていた僕はというと、青山くんが受け取らなかった机の上の雑巾を手にし、無言で床を拭き続ける来栖川を急いで手伝った。
「俺、バケツ持ってくるわ」
 その姿を見て憲ちゃんも立ち上がり、手洗い場へと走って行く。
「新木くん、あたしも行く!」
 そばにいた凛が、憲ちゃんの後を追った。
「頼んだぞ、名取」
 子供のようにえぐえぐと泣きじゃくる青山くんに体を預けられながら、圭介はゆっくりと教室を出て行った。それを合図にするかのように、他のクラスメイト達もバタバタと雑巾を取りに行ったり、憲ちゃんと凛を手伝いに向かったりし始めた。
「有沢、ありがと」
 凛々しいくらいに真っ直ぐな瞳で僕を見て、来栖川が言った。僕は、首を横に振るのが精一杯だった。来栖川のあらゆる行動の早さに、萎縮したような気分になってしまったからだ。クラスメイト達が戻ってくる。先生も一緒に、床を拭き始めた。
「青山のこと……頼むな」
 誰に言うでもなく先生がそう言ったきり、それから口を開く者はいなかった。



 ワシャワシャと泡立つ頭を両手で掻き毟りながら、僕は昼間のことをぼんやりと思い出していた。来栖川、すごかったなぁ……。出てくる言葉といえば、それしかなかった。   
 青山くんは林先生に声をかけられた時から体をよじらせていたから、我慢したまま、トイレに行きたいです、と先生に言えなかったのかもしれない。もしくは、急に体調が悪くなってああなることも、あるのかもしれない。極度の緊張がずっと続いていたのだとしたら……。青山くんの心境を思うと、深い同情を禁じ得なかった。僕らは彼を異常な奴だのなんだの言って気味悪がっていたが、青山くんはきっと、卒業を控えながら嫌々前の学校から転校してきたに違いない。止むに止まれぬ事情があってのことで、自分からすすんで転校を望んだわけじゃないはずだ。元々の性格的に、ひどく緊張するタイプだったとしたなら、彼の一連の一挙手一投足にも頷けなくはない。
 僕はそんな事を考えながら、複雑な心境のままお風呂を出た。
「祐樹!大変よ!」
 こちらの都合などお構いなしで、慌てた様子で急に母さんが脱衣所にやってきた。
「わっ!な、なんだよ母さん、いきなり……」
 思春期の息子が裸になっているところへ突っ込んでくるなんて、一体どういう了見なのだ。
「早く、ニュース!ニュース!」
 要領を得ない母さんだったが、ただ事でないことはわかった。僕は服を着るのもそこそこに急いでリビングへ向かうと、父さんがかぶりつくようにテレビに釘付けになっていた。
「……とのことです。また、警察の調べによると、被害者は友達に会うと言い残したまま帰宅しておらず、行方が分かっていませんでした。携帯電話も繋がらない状態だったため、昨晩家族からの捜索願いが出ており、深夜から本日未明まで捜索がつづけられていたとのこです」
 誰かが、行方不明になった?いや、それより画面に映っている景色は……僕のうちがやってるぶどう畑のすぐそばじゃないか!
「父さん、これって……」
 嫌な予感がする。僕は自分の心拍数が急激に上がり始めているのに気付いた。父さんに変わって、キャスターが続ける。
「なお、警察では殺人事件とみて捜索を続ける模様です。幼い少女の命が無残に奪われたこの事件、一刻も早く犯人が検挙されることを祈るばかりです。……では、次のニュースです」
 僕は目を見開き、耳を疑った。殺人事件?幼い少女?バクンバクンと、体験したことがないほどさらに鼓動が激しく脈打ち始める
「母さん、これ、忍足で事件があったってこと?」
「……どうもそうらしいのよ。私達も見ててびっくりしたんだから」
 青ざめた様子で母さんが答える。
「祐樹、二年生の芦間さんって女の子知ってるか?」
 父さんが振り返って、神妙な面持ちで聞いてくる。
「芦間って……圭介の、陸上部の後輩だよ!!」
 あまりの衝撃に、僕は大きく声を荒げた。
「名取くんの後輩ですって?……まぁ、なんてこと……」
 母さんはそう言った後、言葉を失った。……心臓が痛い。体の奥が、熱い。バクンバクン、ドクンドクン、と、規則正しく、激しく強く、心臓が血液を体中に巡らせる。
「落ち着くんだ、祐樹。落ち着け」
 父さんが立ち上がって背中をさする。何がなんだかわからなかった。この平和な忍足村で、殺人事件?しかも、直接じゃないにしろ、僕の知ってる後輩の女の子だなんて……。気が動転するとは、このことを言うのだろうか。僕はクラクラと立ちくらみを覚え、ソファに座り込んだ。
「……水飲め、祐樹」
 父さんがミネラルウォーターをコップに注ぎながら言った。何はともあれ、と僕はそれをグイと一口で飲み干し、息を切らした。落ち着かなきゃ。まずは、落ち着かなきゃ。僕は大きく深呼吸しながら、自分にそう言い聞かせることしかできなかった。

 この事件が、後のさらなる惨劇のほんの始まりに過ぎなかっただなんて……この時の僕に、想像できるはずもなかったんだ。



第2章 「異変」
ー了ー
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