feel like WATER

七星満実

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prologue

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「お世話になりました」
 いつか、劇団を去ることになるとは思っていた。ただ、こんな形でとは、予想もしていなかった。
「ああ。本当に残念だよ、これからって時に……。きっと、新しい何かが見つかるさ。皐月、お前ならな」
 座長は、そう言いながら僕の肩を叩いた。
「……はい。俺もそう信じて、自分を見つめ治したいと思います。……ありがとうございました」
 万感の思いというには余りにも心残りが大きい、退団だった。
「またいつか、な」
 ……またいつか。そんな日が本当に来るだろうか。座長の最後の言葉を悲観的に受け取りながら、僕は劇場を出た。
 外には、粉雪がチラついている。足を止め、冷えた空気を深呼吸で目一杯吸い込む。だからと言って何が変わるというわけでもなかったが、東京の匂いを味わえるのも今日が最後だから、という理由はあった。街は、まだ新年の賑わいの名残があるように映り、道行く人々が皆、幸せそうに見えた。自分だけが、世間から取り残されてしまったような……そんな錯覚を覚える。それは孤独とも違う、例えようのない虚無感だった。

「前向性……健忘?」
 聞いたことのない病名だった。
「ええ。事故に遭われた日を境に、症状が強く出ています。お気の毒ですが、今後新しい事を覚たりする事が、非常に困難になるでしょう」
 主治医の言葉に、僕は耳を疑った。
「こ、困難って、全く覚えられないってわけじゃないんでしょう?」
 苦節8年。ようやくチャンスを手にした、主演舞台。怪我が治ったら、すぐに稽古に復帰するつもりだった。「降板」の二文字が、頭をかすめる。
「ただ、命に別条はありません。そこは、不幸中の幸いだと言えるでしょう。体の方にも、重い障害が残る可能性だってあったんですよ」
「先生……役者の端くれの俺が台本もろく覚えられないんじゃ、引退しろって言われてるようなもんです」
「ご職業については私からはなんとも……。ただ、今まで普通に覚えられていた事が、例えば断片的になったり、ある一連の事がすっぽり抜け落ちるようにして、忘れてしまう場合があるでしょう」
 体からゆっくりと血の気が引いていく。
「治るんでしょう?リハビリとか、ちゃんやれば、治るんですよね?」
 僕はすがるように言った。
「もちろん、改善が見られる場合はあります。……ただ、脅かすわけじゃないですが、脳の病気ですので今後の経過は未知数な部分も多いです。皐月さんの場合は一時的なものではないので、逆行性健忘を併発する可能性もあります」
 さらに、聞いたことのない病名が告げられる。
「逆行性って……昔の事も忘れるって事ですか」
「今のところその症状は無いようですが、今後発症するかもしれません。仰られていたように、それこそリハビリなども気休めとまでは言いませんが、大きな効果を期待されない方がいいでしょう」眺めていたカルテをデスクに置いて、主治医がこちらに目をやる。「でもどうか、気を落とさないでください。特効薬が無い、という意味であって、決して治らないというわけではありません。何かのきっかけで、症状がほとんどなくなるという前例もあります。根気よく、治療を続けていかれるのがいいでしょう……」

 追いかけ続けた役者の夢。まだまだ食べていけるほどではなかったが、経験も積み、演技力も少しずつ評価され、満を持してようやく掴んだ主演舞台。それを降板するという事は、実質的な引退を意味していた。決断に時間がかかってしまったのは、何かしらの形で舞台に関わる方法が無いかと模索していたからだ。しかし、もっと時間をかけて考えたとしても、役者として舞台に上がれないのであれば、それに代わる自分の価値を見出す事はできないと思った。
 スクランブル交差点の雑踏に埋もれながら、ひとごとみたいな都会の喧騒をよそに、僕は自分が空っぽになっていくような感覚に、ひとり、囚われていった。



「落ち着いたな。メシ、先に食べときなよ」
 ランチタイムラッシュを終えた午後2時過ぎ。ちょうど仕込んだ分が全て出たドリアセットの空き皿を、キッチンへ下げに戻ったマドカに声をかける。
「うん、ありがと。今日のまかないは?」
 マドカは食器をシンクに置きながら、楽しみそうに聞いてきた。
「ミンチの余りで、ボロネーゼかな。チーズたっぷり」
 パスタを寸胴鍋に放り込みながら、僕は得意げに応える。
「やった!ナルのボロネーゼは、絶品だからね」
 窓から差す西日にキラキラと表情を照らされながら、マドカは子供みたいに笑った。
 カランカラン。
 純喫茶を謳う当店自慢の、昔ながらのドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー!」
 キッチンからカウンターに顔を出し、マドカが元気に言う。
「あら、久しぶり!……ナル、ソウタくんよ」
 ……ソウタ?火にかけようとしていたミンチ肉を戻すと、僕もマドカの陰から顔を出す。
「よう。今週は夜勤か、ギタリスト」
「うっすー。音楽でメシが食えてないバンドマンにピッタリなブレンドの、あつ~いコーヒーを淹れてくれるかい」
 ソウタは自分で皮肉りながらそう言った。
「まかしとけ、売れるように願掛けながら淹れてやる」
 僕の言葉に、マドカはクスリと笑いながらキッチンへ戻った。
「珍しいじゃないか、去年の夏以来だっけ?」
 コーヒーミールに豆を入れながら、僕はソウタが彼女を連れてきた真夏日の事を思い出していた。
「そうだな。美味いアイスコーヒーだった、って言ってたよ」
 彼女からのお世辞を伝えながら、ソウタが笑った。
「そいつはどうも。ウチは挽きたて使ってますからね」
 キリマンジャロとモカが、粉々になりながら混ざり合っていく。
「マサトから、昼間連絡きたろ?」
 ハイライトを口にくわえ、ジッポを取り出しながらソウタが言う。
「いや、スマホ二階に置き忘れてきちまって。電話あったのか?」
 今度はメシが食えてない役者の話になる。
「ああ」カシャン、と音を立ててタバコに火をつけるソウタ。「今夜遅く、こっちへ帰ってくるって」
 僕は不思議に思った。
「なんでだ、遅い正月休みか?」
 ゆっくりとドリップする。この匂いを嗅ぐたびに、喫茶店をやっていて良かったという気分になるのは、幸せなことだ。
「いや。そうじゃなくて、役者を辞めたって」
 ソウタの言葉に、僕は驚いて言った。
「嘘だろ?この前、主演舞台が決まったって息巻いてたのに」
 親友の晴れ舞台のために、店を休んで東京まで出向くつもりだった。
「稽古中に怪我したんだってよ。その影響で、降板しちまったらしい」
 ふう、と煙を吐き出しながら、ソウタは残念そうに言った。
「怪我って、どのくらいの?」
 コーヒーカップを差し出しながら聞く。
「そこまで詳しくは聞いてない。きっと連絡あるだろうから、直接聞いてみな」
 ソウタはそう言うと、熱々のコーヒーをありがたそうに啜った。



 ここは、一級河川の天戸川の下流、田舎でも無い都会でも無い、特筆する名産もない、だけど、美しい自然を残したある町。
 それぞれが自分の夢を描いて走り抜けた、20代。あるものは夢を叶え、あるものはまだ走り続け、そしてあるものは、夢破れた。滔々と流れる天戸川の流れのように、ある時は勢いを変え、ある時は行く先を変えながらも、人生はそうして続いていくものだと思っていた。
 これは、マサトの帰還をきっかけに動き出す、若き時代を終えようとしていた僕たちの、希望と、絶望と、そこからの未来を紡ぎだす物語。



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