烏の王と宵の花嫁

水川サキ

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一章

死にたくない

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 寝て起きればここを追い出される日が近くなる。自分はいつ売られるのだろうという恐怖に苛まれる。
 そんな思いにかられる中、兄の光汰が会いにきて、月夜はほんの少し安堵してしまった。

「お兄さま……」
「月夜、お前は売られるらしいな」

 光汰の冷たい声が響き、月夜は血の気が引く思いがして呆然と光汰を見つめた。彼は膝を折って屈むと、月夜の顔をうかがった。

「お前、遊郭がどういうところか知っているか?」

 光汰は月夜の髪を撫でながらにやりと笑った。

「男のために働くんだ。知らないだろうから俺が教えてやってもいいぞ」

 助けてくれるかもしれないと希望を抱いていた月夜の思いは、光汰の言葉で無残に打ち砕かれた。

「お前は人間じゃない。なぜなら、こんな美しい肌をした人間はいないからな。遊郭に行けば売れっ子になるぞ」

 光汰が月夜の腕を掴んで袖口をめくり上げる。その瞬間、月夜は小さな抵抗をした。


「お兄さま、やめて!」

 月夜は光汰の手を振り払う。ばしっと勢いのある音がして、光汰の手は赤く腫れた。

「ってぇな……お前、兄に向かって手を上げるとはどういうことだ?」

 光汰は急に怒りだし、月夜の髪を引っ掴むと前後に揺らした。

「やめて、お兄さま。頭が痛い。やめて。助けて!」

 誰も味方などいない。どれほど叫んでも、助けを求めても、月夜の声は誰にも届かない。

 死ぬことを選ぶのは楽だろう。二度と苦しむことがないのだから。
 けれど、なぜ自分が死ななければならないのだろう。


『お前のことを守ってくれる者がいる。信じて必ず生き延びなさい』

 祖母の言葉を思いだし、月夜は拳を握りしめ、兄を睨みながら歯を食いしばった。

「なんだよ、その挑発じみた目は? ははっ、面白れぇな」

 光汰は月夜を突き飛ばし、畳の上に転がせるとその上から覆いかぶさった。

「お前が悪いんだぞ。言うことを聞かないから」

 月夜の心に猛烈な反発心が生まれた。
 今までずっと家族の言うことを聞いてきたのに、誰も認めてくれなかった。受け入れてはくれなかった。ならば、言うことを聞く意味があるのだろうか。

 所詮、月夜の存在など彼らは認めてくれないのだ。


「月夜、お前は人間じゃないんだ。だから、俺が……」

 光汰の手が月夜の胸もとに伸びてきたときだ。
 月夜の身体の奥で体温が沸騰するような感覚があった。全力で抵抗するために、月夜は光汰の腕に思いきり噛みついた。

「うあああああっ!」

 光汰は悲鳴を上げながら暴れるが、月夜は決して放さない。解放すると彼はすぐに仕返しをしてくるだろう。
 月夜の歯が光汰の腕に食い込んでいくと同時にぎちぎちと不気味な音があたりに響いた。

 光汰はさらに悲鳴を上げる。
 月夜の胸中には死にたくないという感情が膨れ上がっている。死ぬくらいなら自分の中にあるすべての力を解放するつもりだった。

 生きるためには、自分の身は自分で守るしかない。


 暴れる光汰が腕を振りまわすと、べりっと剥がれた音がして、彼はごろごろと床に転がった。

「ぎゃああああっ! 俺の腕があああっ!」

 小さな灯り一つでは視界はあまりよくない。暗がりで、光汰はのたうっている。
 血まみれの腕を押さえながらよろよろと立ち上がる光汰を、月夜は冷たく見下ろした。月夜の口から光汰の血が滴り落ちる。


「この化け物め!」

 光汰は月夜を睨みつけ、そばにあった灯りを畳に叩きつけた。ちょうど文机の角に当たり、ガラス製の容器が粉々に割れた。中から油が洩れだして、炎が近くの布団に燃え移る。
 油の匂いとともに炎が徐々に広がっていく。

「くっそぉ、いってぇよ……いってえっ!」

 光汰は涙を流しながら逃げだした。そのあとに点々と血の痕が残っていく。
 月夜は開いたままの鉄格子の扉から出て、光汰のあとを追うように地上への階段を目指す。


「死にたくない!」

 月夜はぎりっと歯を食いしばりながら地下階段をのぼる。

「自由になるの……生きのびるの……生きて、助かる……!」

 地上に出ると勢いづいて廊下を走った。
 縁側の向こうはまばゆい景色が広がっている。それはまるで希望の光に見えて、月夜は笑みを浮かべながらそこへ飛び出そうとした。

 そして、直前で足を止める。
 庭一面に固く積もった雪が、太陽の光でぎらぎら輝いていた。見わたす限りの快晴で、青く澄んだ空に鳥が高く舞っている。


 月夜は空を見上げて愕然とした。

「……逃げられない」

 この身体では太陽の下で生きていけない。

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