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41、もう怯えたりしないわ
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公爵家に戻ってから、私は穏やかな日々を過ごしていた。
ハルトマン家の方々はとても優しくしてくれたけれど、異国の地というのもあり、やはり生まれ育った故郷の空気は私を安心させてくれた。
神殿へ出向き、孤児院の子供たちの相手をし、ときには王宮へも呼び出される。
忙しい日々の合間にも、私は欠かさず右手の訓練を続けた。
医師の指導のもと、震える指に筆を握らせる。
「はぁ……どうにか握れるようになったけど、力加減ができないわ」
筆を握ったまま手を動かそうとすると、するりと筆が落ちてしまう。
私は動きの鈍い右手をそっとさすった。
線を引くことすらままならず、絵を描くにはほど遠い。
それでも、何もできなかった頃よりは確かに前に進んでいる。
諦めたくなかった。
ふいに扉がノックされ、私はそちらへ振り向いた。
「はい、どうぞ」
「レイラ、今日も訓練しているのか?」
エリオスの低く穏やかな声が響く。
私は慌てて立ち上がり、部屋へ入ってきた彼の手を取ってソファへと導いた。
「まだ握ることしかできないのだけど」
「すごいじゃないか。筆が握れるようになったんだな」
意外なほど明るい声音に、私は思わず瞬きをした。
でも、確かにそうだ。
あの日、右手が動かなくなったときは、もう二度と絵を描けないと思っていた。
今は筆を握れるのだ。それだけでも、奇跡みたいなことだ。
「あなたがそう言ってくれて、少し心が軽くなったわ。痛みがなくなってから、怪我のことを忘れてしまっていたの。どうして上手く動かせないのかと苛立ってばかりで……でも、これほどの傷を負ったんだもの。焦るほうがおかしいのよね」
自分の声が、少し震えていた。
焦りと喪失の狭間で、私はずっともがいていたのだと思う。
エリオスは小さく頷き、穏やかな口調で言った。
「君は努力家だ。前に進もうとする意欲が強い。だからこそ、少し肩の力を抜いてもいいと思う」
その声音には、慰めではなく信頼があった。
私は思わずため息をつく。
「いつまでもお世話になりっぱなしというのも気が引けて。早く自活できるようになりたいの」
言葉とともに、焦燥が滲む。
今後のことを考えたら、できる限り早く自立したほうがいい。
エリオスの年齢を考えたら、そろそろ彼には縁談話が来るはずだもの。
私がいるせいで彼の結婚を邪魔するわけにはいかない。
エリオスは少し沈黙したあと、やがて静かに告げた。
「そのことだが、俺はレイラにずっとこの家にいてほしいと思っている」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
それは、どういう意味なのだろう。
彼の手がそっと私の手に触れ、指先を確かめるようにそっと絡ませてくる。
その仕草にどきりとして、私の胸の奥が急激に熱を帯びた。
「エリオス……?」
彼の唇がわずかに動く。
「レイラ、俺は君のことが……」
その瞬間、扉が小さく叩かれた。
「エリオス様、来客でございます」
サイラスの声がこの場の空気を破った。
エリオスは無言のまま動かず、サイラスが怪訝そうに首を傾げる。
「あ、これは失礼いたしました。お邪魔でしたか?」
「え? そ、そんなことありません!」
私は慌てて立ち上がり、耳まで熱くなるのを感じた。
エリオスが小さくため息をつく。
「今日は来客の予定はなかったはずだが?」
「はい。事前連絡がなければお会いできない旨をお伝えしましたが、どうしてもと」
「一体、誰だ?」
「大変言いにくいのですが、レイラ様のお父上だと」
お父様……⁉
もしかしたら、セリスから私がここにいることを聞いたのかもしれない。
だけど、いきなり訪問するなんて――
胸がぎゅっと縮む。
血の気が引いて、視界が揺れた。
右手が小刻みに震える。
けれど、エリオスがそれを悟ったのか、ぎゅっと包み込むように握ってくれた。
「大丈夫だ。君はここにいればいい」
その手が離れようとした瞬間、私は思わず彼の腕を支えるように掴んだ。
立ち上がる彼の動作に合わせて、私もゆっくりと立ち上がる。
エリオスはまっすぐ前を向き、静かにサイラスへ告げる。
「ちょうどいい。俺が会って話をつけてやる」
その言葉に、胸がざわめいた。
彼にすべてを任せてしまえば、きっと何もかも穏便に済むだろう。
けれど、それでは、また私は守られているだけの存在だ。
「待って。私も行くわ」
甘えてはいけない。
逃げてばかりでは、あの家に縛られた私のままだ。
エリオスがわずかに眉を動かす。
「君は父親に酷い目に遭わされたのだろう? これ以上傷つく必要はない」
「ええ。だからこそ、もう怯えたくないの。あなたがそばにいてくれればきっと大丈夫」
エリオスは一瞬、言葉を失ったように黙り、そしてふっと口もとを緩めた。
「そうだな。これまでの鬱憤を思いきり晴らしてやればいい」
その声音には、どこか優しい笑いが混じっていた。
私は自然と笑みがこぼれ、力強く頷いた。
もう、何も怖くないわ。
ハルトマン家の方々はとても優しくしてくれたけれど、異国の地というのもあり、やはり生まれ育った故郷の空気は私を安心させてくれた。
神殿へ出向き、孤児院の子供たちの相手をし、ときには王宮へも呼び出される。
忙しい日々の合間にも、私は欠かさず右手の訓練を続けた。
医師の指導のもと、震える指に筆を握らせる。
「はぁ……どうにか握れるようになったけど、力加減ができないわ」
筆を握ったまま手を動かそうとすると、するりと筆が落ちてしまう。
私は動きの鈍い右手をそっとさすった。
線を引くことすらままならず、絵を描くにはほど遠い。
それでも、何もできなかった頃よりは確かに前に進んでいる。
諦めたくなかった。
ふいに扉がノックされ、私はそちらへ振り向いた。
「はい、どうぞ」
「レイラ、今日も訓練しているのか?」
エリオスの低く穏やかな声が響く。
私は慌てて立ち上がり、部屋へ入ってきた彼の手を取ってソファへと導いた。
「まだ握ることしかできないのだけど」
「すごいじゃないか。筆が握れるようになったんだな」
意外なほど明るい声音に、私は思わず瞬きをした。
でも、確かにそうだ。
あの日、右手が動かなくなったときは、もう二度と絵を描けないと思っていた。
今は筆を握れるのだ。それだけでも、奇跡みたいなことだ。
「あなたがそう言ってくれて、少し心が軽くなったわ。痛みがなくなってから、怪我のことを忘れてしまっていたの。どうして上手く動かせないのかと苛立ってばかりで……でも、これほどの傷を負ったんだもの。焦るほうがおかしいのよね」
自分の声が、少し震えていた。
焦りと喪失の狭間で、私はずっともがいていたのだと思う。
エリオスは小さく頷き、穏やかな口調で言った。
「君は努力家だ。前に進もうとする意欲が強い。だからこそ、少し肩の力を抜いてもいいと思う」
その声音には、慰めではなく信頼があった。
私は思わずため息をつく。
「いつまでもお世話になりっぱなしというのも気が引けて。早く自活できるようになりたいの」
言葉とともに、焦燥が滲む。
今後のことを考えたら、できる限り早く自立したほうがいい。
エリオスの年齢を考えたら、そろそろ彼には縁談話が来るはずだもの。
私がいるせいで彼の結婚を邪魔するわけにはいかない。
エリオスは少し沈黙したあと、やがて静かに告げた。
「そのことだが、俺はレイラにずっとこの家にいてほしいと思っている」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
それは、どういう意味なのだろう。
彼の手がそっと私の手に触れ、指先を確かめるようにそっと絡ませてくる。
その仕草にどきりとして、私の胸の奥が急激に熱を帯びた。
「エリオス……?」
彼の唇がわずかに動く。
「レイラ、俺は君のことが……」
その瞬間、扉が小さく叩かれた。
「エリオス様、来客でございます」
サイラスの声がこの場の空気を破った。
エリオスは無言のまま動かず、サイラスが怪訝そうに首を傾げる。
「あ、これは失礼いたしました。お邪魔でしたか?」
「え? そ、そんなことありません!」
私は慌てて立ち上がり、耳まで熱くなるのを感じた。
エリオスが小さくため息をつく。
「今日は来客の予定はなかったはずだが?」
「はい。事前連絡がなければお会いできない旨をお伝えしましたが、どうしてもと」
「一体、誰だ?」
「大変言いにくいのですが、レイラ様のお父上だと」
お父様……⁉
もしかしたら、セリスから私がここにいることを聞いたのかもしれない。
だけど、いきなり訪問するなんて――
胸がぎゅっと縮む。
血の気が引いて、視界が揺れた。
右手が小刻みに震える。
けれど、エリオスがそれを悟ったのか、ぎゅっと包み込むように握ってくれた。
「大丈夫だ。君はここにいればいい」
その手が離れようとした瞬間、私は思わず彼の腕を支えるように掴んだ。
立ち上がる彼の動作に合わせて、私もゆっくりと立ち上がる。
エリオスはまっすぐ前を向き、静かにサイラスへ告げる。
「ちょうどいい。俺が会って話をつけてやる」
その言葉に、胸がざわめいた。
彼にすべてを任せてしまえば、きっと何もかも穏便に済むだろう。
けれど、それでは、また私は守られているだけの存在だ。
「待って。私も行くわ」
甘えてはいけない。
逃げてばかりでは、あの家に縛られた私のままだ。
エリオスがわずかに眉を動かす。
「君は父親に酷い目に遭わされたのだろう? これ以上傷つく必要はない」
「ええ。だからこそ、もう怯えたくないの。あなたがそばにいてくれればきっと大丈夫」
エリオスは一瞬、言葉を失ったように黙り、そしてふっと口もとを緩めた。
「そうだな。これまでの鬱憤を思いきり晴らしてやればいい」
その声音には、どこか優しい笑いが混じっていた。
私は自然と笑みがこぼれ、力強く頷いた。
もう、何も怖くないわ。
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