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10 初めての送り
しおりを挟む営業終了後。短い終礼を終えた後、キャスト達は更衣室に向かう者とロッカー室に向かう者に分かれる。衣装のレンタルをしているキャストは着替えなければならないし、自前の衣装で来た者はロッカーに入れた荷物を取るだけで帰れるからだ。更にその後は客とアフターをする為に店を出る者と、店の送迎車に乗る者とに分かれる。
蛍は送迎組なので更衣室に入り、他のキャスト達に混ざって着てきたリクルートスーツに着替えた。ざわざわとした中、着替え途中の蛍をチラ見しながらヒソヒソ話しているキャストが数人居るが、蛍は気づかない。普通なら雰囲気を察して居心地悪さを感じたりするのだろうが、蛍は見た目に反して物凄く神経が太かった。
着替えが終わると、衣装をクリーニング集荷用のスペースに掛けて更衣室から廊下に出る。隣のロッカー室に鞄を取りに行き、入れっぱなしにしていたスマホをチェックすると、母から数件のメッセージが入っていた。面接後に、『採用になったから早速初勤務してくる!』と入れておいた連絡に対する返信と、つい10分ほど前にも心配するメッセージが来ている。母も蛍の採用率の激低さは知っているから、まさか即採用になってそのまま勤務につくとは思ってもみなかったのだろう。
(途中で連絡を返せたら心配させずに済んだろうに、スマホは出して持っているべきだったかなあ)
と、蛍は少し後悔した。
(先に寝ててって言ったのに…。あ、でも今日はお土産あるから、起きててくれた方がいっか)
夜中だから実際食べるのは朝になるだろうが、量があるから2人でも明日の昼食まではいける。季節も秋で気温も低いし、冷蔵庫に入れておけば十分保つだろう。届いた時に少し見たら、蛍と母が好きな玉子や鮪や鰤、海老を多めにとして、トロやウニ、その他諸々の高そうなネタの寿司が宝石のように詰められていた。こんな寿司、何年振りに見るだろうか。パスタやピザでお腹がいっぱいになっている筈なのに、蛍はまたごくりと喉を鳴らしてしまったくらいだ。
『お母様、喜んでくれると良いね』
寿司折りを手渡してくれながら、そう言って優しく微笑んだ王子様の笑顔を、蛍は一生忘れないだろう。それにしても、これからも席に呼んでくれると言っていたけれど、本当だろうか。『指名確約!』なんて林店長はすごく喜んでくれたし、席に呼んで何でも好きに食べさせてくれるとの約束が実現するのなら、とっても嬉しいのだけれど。
(カッコよかったなあ、王子さま)
出入口に繋がる通路を歩きながら、今日起きた事をぼんやりと思い出す。
膝枕、硬かったけどあたたかかった。香水とは違う、なんだか良い匂いがした。夢うつつで父の声を聴いた気がしたけど、目を開けたら見た事も無いくらい綺麗な男の人だった。なるほどこれがアルファなんだ、と納得するくらい、完璧な王子さま。吹けば飛ぶよな中小企業の、更に下請け会社の工場勤務だった蛍の周りにはアルファなんて人種は見当たらなくて、同じオメガかも?と思うような人すら見た事が無い。この世の中、数ではベータが席巻しているから、特殊バースであるアルファやオメガが少ないのはわかっている。けれどこんなにも居ないものなのか、と思ってた。蛍が知るアルファは父、祖父、オメガは母だけだ。たまに街中で、アルファかなという匂いの主とすれ違う事はあったけれど、振り返ってまで確認しようなんて気は起きなかった。
そんな色気づいた事なんて、する余裕なんか無い日々だったから。
だから、あんな王子さまのようなアルファと接する日が来るなんて考えた事も無かった。蛍は恋を知らない。なので、自分の性指向が男女どちらに向いているのかなんてのもよくわからない。でも、王子さまは素敵だと思う。自分もこんな風に生まれてたらな、と思うくらいには、男として憧れる。でも、それだけだ。 カッコよくて強そうで優しくて、あんな風になれたらと思うけど、それだけだ。
店を出ると、表の通りに数台のバンが並んでいた。スタッフの1人が出てきた蛍の姿を見て、
「お疲れ様です。ほたる君は…B区ですね。では、後ろの白いバンに乗ってください」
と1台の車を指し示して言う。バンのドアは開いていて、乗り込もうとして中を見ると、既に助手席と最後部の座席に2人乗っている。なので蛍は真ん中の座席に乗って、ほうっと息を吐いた。指示を出したスタッフが手元のボードを見て、ペンでチェックを付けるような動きをした後、開いた助手席の窓から運転席のドライバーに向けて言った。
「B区方面、これで最後です。よろしく」
「はい」
ドライバーが返事をすると、間も無く車は発車。乗っているキャスト達は皆静かにスマホを弄っていたり、シートにもたれて寝ていたりして、車内に聞こえている音はエンジン音だけ。窓に流れる深夜の街の光の帯を、夜遊びなど知らない蛍は初めて見た。
(なんだか今日はドタバタだったなあ)
何もかもが初めてで、何もかもが物珍しかった。でも、何だか楽しかった。初めて覗いた、華やかな大人の世界。
これから何かが変わっていくような、そんな気がした。
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